幸せの定義.1
私立荒磯高等学校のチャイムが鳴り響き下校の放送が流れると、校内に残っていた生徒も教師の見回りが来る前に校舎から出なくてはならない。それは執行部も例外ではなく、生徒会室のドアを桂木が閉めると中にいた全員がぞろぞろとカバンを持って校舎を出た。
しかし相浦は用事があるからと早めに帰っていたのでいないし、松原と室田も少し前に帰ってしまっている。
つまり生徒会室に残っていたのは久保田と時任、そして桂木と補欠の藤原だけだった。
鍵を返すために職員室に向かった桂木がいなくなると、藤原はすすっと久保田の方に近寄っていく。すると、そんな藤原に時任の蹴りが襲ってきた。
「な、なにすんですかっ!! この野蛮人っ!!」
「久保ちゃんにさわんなっ!! ブサイクっ!!」
「久保田せんぱーいっ、時任先輩がヒドイんですぅぅっ!!!」
「いっつもしぶとすぎんだよっ、てめぇはっ!!」
「しぶといのはアンタだろっ!」
「なんだとぉっっ!」
いつものように久保田を挟んで二人のわめき合いになったが、それもやはり帰る道が違うので玄関までだった。
ごちゃごゃともめてる二人を置いて玄関で靴を履きかえた久保田が、時任の方だけを呼ぶ。
すると時任は言い争いを中断して慌てて靴を履きかえると、久保田の方に走って行った。
まるで、藤原を置き去りにするみたいに…。
「じゃあまたな、藤原っ!」
そんな風に声をかけてはくれたけど、やはりそれは時任だけで久保田の声はない。
いつものことなので別に落ち込む必要はないとは思うのだが、本当にいつも通りに踏んだり蹴ったりすぎて…。
なんとなく、少しだけため息が出た。
珍しく今日は天気が良かったので、夕焼けに染まる空が目の前に広がっている。
その空を見ていると明日も晴れる気がしたが、足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした藤原の心は少しも晴れなかった。
「・・・・・・一度だけでもいいんだけどな」
そんな風に呟いたが、実は二人きりの時に久保田に向かって言ったことがあった。
一度だけ、一日だけでいいからと…。
けれど久保田から返ってきた言葉はあまりに淡々としすぎていて、それ以上、何も言うことができなかった。
『そんなコトして、何かイミある?』
これから付き合うって訳でもないのに、一日だけ同情で付き合ってもらっても確かに久保田の言うように意味はないのかもしれない。
だがやはり少しでもいいから、時任にするように自分とも付き合って欲しかった。
楽しそうに二人並んで帰っている後ろ姿を見ていると、久保田の隣にいるのが時任じゃなくて自分だったらと想像して見る。自分に微笑みかけてくれている久保田の姿を…。
そして再び自分の足元にきた缶を、時任の後ろ姿目がけて思い切り蹴飛ばす。
するとその缶は、時任に向かって思った以上に勢い良く飛んだ。
「あ・・・・っ!!!」
まさかそんなに飛ぶと思っていなかった藤原が思わずそう叫んだが、飛んだ缶は時任に当たることなくアスファルトに落ちる。
その缶を防いだのは、時任ではなく横を歩いていた久保田だった。
久保田がさりげなく持っていたカバンを上げて缶を叩き落とすと、缶が大きな音を立てて転がる。するとその音に気づいた時任は、立ち止まって足元に転がった缶を見た。
「な、なんで缶が?」
「さぁねぇ…、世の中には不思議なことがたくさんあるってコトじゃないの?」
「なんだそりゃっ」
「行くよ、時任」
「あっ、ちょっと待てって…」
久保田の横に並んで、時任が再び何事もなかったかのように歩き出す。
しかしそんな二人の様子を見ていた藤原は、まるで凍りついたかのようにその場で固まってしまっていた。
それは時任を呼んだ瞬間に、チラリと久保田が藤原の方に視線を向けたからである。藤原に向けられた久保田の視線は、思わずビクリと身体が震えてしまうくらい冷たかった。
凍りついた藤原が復活する頃には、二人の姿は見えなくなってしまっていたが…。
胸の奥には久保田への恐怖よりも、ムカムカする時任への嫉妬の方が残っていた。
「くそっ…、なんかムカツク…っ!!」
藤原はそう夕焼けの空に向かって叫ぶと、二人が歩き去った方向とは別の方向に向かって歩き出す。それは藤原の住んでいる場所が、久保田と時任の住んでいるマンションとは反対の方向にあったからだった。
目の前にはもう缶がないので、胸の奥にあるムカムカをぶつけるモノがない。
そのことに更にムカムカしながら藤原が歩いていると、ちょうど路地裏から黒い猫が出てきたのが見えた。
その黒猫は野良のようで、警戒するような視線を藤原に向けている。そんな猫の様子を見ていると、なぜか藤原はムカムカの原因である時任のことを思い出してしまっていた。
猫のように気まぐれで、じっと見つめてくるキレイな瞳を…。
べつに小動物をいじめる気はないのだが、藤原は再び路地裏に逃げ込もうとしているその猫をなんとなく追いかけ始めた。
すると黒猫は慌てて走り出し、まるで迷路のような路地を奥へ奥へと走っていく。
その後ろ姿を追いかけながら、藤原は少し奇妙な感覚に捉えられていた。
まるで本物の迷路に迷い込んだような感覚に…。
ここはただの町の路地のはずなのに、少しずつ辺りが暗くなっていって…、黒猫の姿も次第に見えづらくなってくる。その暗さに不安を感じながらも、藤原はなぜか振り返ってはいけない気がしていた。
振り返れば、何か恐ろしいことが起こるようなそんな気がして…、前へ前へと走りながらもブルッと身震いをする。嫌な予感がずっとしていたが、しばらくすると目の前にポウッと明かりが見えてきたので、藤原はホッと安心したように息をついた。
だが明かりが見えたと同時に、まるで煙のように猫はいなくなってしまっている。
そのことがすごく気になったが、藤原は明かりの灯っている家の前で立ち止まった。
「なんの店だろ…、もしかして薬局??」
そんな風に藤原が呟いたのは、家の入り口に『薬店・東湖畔』と書かれていたからだった。
入り口の窓ガラスには薬の宣伝の張り紙がたくさんしてあって、あまり中を見ることができない。なんとなく妖しい入りづらい雰囲気の店だったが、辺りを見回して見るとあまりにも真っ暗だったので怖くなってきたので、藤原は薬店のガラス戸を開けて中に入った。
「こ、こんにちは…」
そう言いながら店内に入ると、中は意外とまともな感じでちゃんと薬が並んでいる。
しかしどれもこれも日本語ではなく、中国語で書かれているのでなんの薬なのかはわからなかった。
どうやら漢方関係を売っているらしいが、繁盛はしてないらしく店の中がホコリっぽい。
そのホコリを見ながら藤原が不安そうな顔をしていると、店の奥から人の声がした。
「いらっしゃいませ。何の薬をお探しですか?」
奥から聞こえてきたセリフは、普通の薬店らしくまともである。
だが藤原が声のした方を向くと、そこにはこの店に似合いすぎる男が立っていた。
男は妖しい中国服を身にまとっていて、長い髪を腰まで伸ばしている。
顔は女顔で優しい印象だったが、かけている丸い眼鏡が更に妖しさを倍増させていた。
本当は外が怖くて店に逃げ込んだだけだったが、藤原は客を装って男に話しかける。すると男はおどおどしている藤原に不審そうな目を向けることもなく、その話を聞いていた。
「く、薬って…、別になにを探してたわけじゃないんですが…。ちょっと近くまで来たから、寄って見ただけなんです…」
「それはそれは、お立ち寄りくださってありがとうございます。当店には、普通の風邪薬から手に入りづらい珍しい薬まで売ってますから、ゆっくり見て行ってくださいね」
「め、珍しい薬?」
「えぇ、自白剤や催淫剤、他にも色々ですが…」
「じ、自白…、さ、さい…」
「惚れ薬の類もありますよ」
他の薬にも興味を覚えなかったわけではなかったが、惚れ薬という言葉に藤原がピクッと反応する。惚れ薬と聞いた瞬間に藤原の脳裏に浮かんだのは、やはり憧れの先輩である久保田のことだった。
もし本当に惚れ薬が本物なら、確実に久保田をモノにできる。
藤原はにっこりと優しく微笑んでいる薬店の男の前で、この薬を使えば久保田先輩とラブラブに…という欲望と戦っていた。
薬を使うことに罪悪感はもちろんあったが、缶を蹴った時のことを思い出すとムカムカが再びよみがえってくる。そして一度も自分の方を振り返ってくれない久保田のことが、うらめしいという気持ちもあった。
「どうやら、惚れ薬に興味がおありのようですね?」
「・・・・高いですよね、やっぱり」
「遠い所を来てくださったみたいですし、今ならお安くしときますが?」
「い、いくらですか?」
「十袋入りで五万円です」
「・・・・・・・・一袋だけ」
「バラ売りはしてないのですが、特別サービスで一袋お売りしましょう」
「あ、ありがとうこざいます…」
「いえいえ、礼には及びませんよ。 お買い上げありがとうございます」
薬店の男は奥の棚から古びた薬箱を取り出すと、その中から粉薬の入った小さな袋を一つだけ藤原の前に差し出す。その薬の入った袋を受け取って代金をカウンターに藤原が置くと、男は笑みを浮かべたままでゆっくりと右の手のひらを出口の方に向けた。
すると、そこにはさっきまで追いかけていた黒猫がちょこんと座っている。
いつ入ってきたのかはわからなかったが、黒猫はじっと藤原の方を見つめていた。
「気をつけてお帰りください…。闇に惑わされないように…」
その声に藤原は黒猫から、再び男の方に視線を向けようとしたが…。
振り返った先にあったのは薬店ではなく、真っ赤な夕焼けだった。
「あ…、あれ…っ」
藤原は驚いて目を見開いていたが、やはりどんなに見ても見えるのは薬店の店内ではなく見慣れた学校からの帰り道と夕焼けだけである。
まるで夢でも見たような気分になりながら、藤原は握りしめた手のひらを開いて見た。
するとそこには、夢ではなかった証拠に薬店で買った粉薬がちゃんとある。
キツネではなく猫につままれたような気分になつて、薬店のようにパッと消えてしまわないかと、しばらく薬の白い袋を見つめていたが、やはりそれが消える様子はなかった。
「な、なんだったんだ…、一体」
そう呟きながらも、藤原は薬を捨てることなく…。
しっかりと手に握りしめたまま…、まるで夜が来るのを恐れるかのように、夕日に染まった家路を急いで歩き始めた。
妖しい薬店から、惚れ薬を買った翌日。
藤原は白い袋をポケットに入れて、公務のために生徒会室に向かう。
それはやはり、あの裏路地の薬店で手に入れた惚れ薬を使うためだった。
相手はもちろん久保田で、それ以外の誰でもない。
薬の使い方はいつの間にかポケットに入れられていた小さな紙に書かれていたが、それによると薬を飲ませ、好きにさせたい相手の顔を見せればいいとのことだった。
薬は即効性なので飲んだ後…、始めに見た人間を好きになる。
つまり久保田に薬を飲ませてから、すぐに自分の顔を見せればいいだけの話だった。
「これで、久保田先輩が僕のものにっ」
藤原は不気味な笑みを浮かべると、そう呟きながら生徒会室のドアを開ける。しかし開けた瞬間に見えたのは愛しい久保田ではなく、ブスッとふくれっ面をした時任の顔だった。
何があったのかはわからないが、ブスくれた時任の前には副会長の橘遥かいる。
時任の不機嫌の原因は久保田がいないせいもあるのかもしれないが、どうやら橘が原因らしかった。
「用がないなら、とっとと帰れっ」
「用があるから来てるんですよ、時任君」
「どうせ、ロクな用じゃねぇんだろ…」
「ロクな用かそうじゃないかは、聞いて見ないとわからないと思いますよ?」
「んなもんは聞かなくても、てめぇのカオみりゃわかるっつーのっ」
「これはまた、ずいぶんと嫌われてしまったものですね」
二人の話を聞いていると、あまり穏やかな感じではない。
だが藤原がいることを気にしていないのか、橘も時任も話を止める様子はなかった。
藤原は生徒会室に入ると室内を見回して見たが、二人以外に人影はない。
もしかしたら橘がいるのを見て、他の部員達は入って来なかったのかもしれなかった。
藤原も少し迷ったが、今から出ていくのも気まずかったので室内に残ることに決める。
そうしたのは実は気まずかっただけではなく、早く久保田に惚れ薬を飲ませたくてあせっていたということもあったのだった。
ポケットの中の薬を握りしめると、藤原は生徒会室にそなえつけられている電気ポットの前に立ってお茶を入れる準備をし始める。久保田がいつ来るのかはわからなかったが、とにかく計画を成功させるにはお茶を飲ませることが肝心だった。
しかし久保田に薬を飲ませる準備をしているのに、時任と橘が向かい合って話をしているのを見ると妙な考えが頭に浮かんでくる。
それはもしも時任が他の誰かを好きになったら、久保田がどうするかということだった。
藤原が時任にお茶を入れると、かなり不審がられるかもしれないが、今は運良く副会長の橘がいる。橘のついでに出したことにすれば、もしかしたら時任は何の疑問ももたずに出されたお茶を飲むかもしれなかった。
藤原はそんな自分の考えに、ゴクリと唾を飲み込みながら…。
急須にお茶の葉を入れて、その中にポットのお湯を入れ始める。
そして、二つの湯飲みにお茶を注ぐと、二つの内の片方だけに白い袋に入っていた粉薬をさーっと一気に入れた。
「好きなヤツが別にいたら…、久保田先輩だってきっと…」
そう言いながらも少しだけ胸の中がチクリと痛んだ気がしたが、藤原はお茶をお盆にのせると間違えないように気をつけて時任と橘の前に置く。粉を混ぜたお茶を時任の前に置いた時、藤原の手は少し震えていたが、時任は橘との話に集中していてそれを見てはいなかった。
「松本会長の頼みで、久保田君が動いているのは貴方も知ってるでしょう?」
「それが、どうかしたかよっ」
「そんな風に動いている分だけ、二人だけのヒミツもあるとは思いませんか?」
「・・・・・・・・・・」
「だから、僕らも二人のような関係を結べたらと思っただけですよ」
「誰が、てめぇなんかと…」
「僕はこれでも、貴方のことを認めています。だから、貴方の力が欲しいんです」
「認めてくれなんて、頼んだ覚えはねぇんだよっ!」
「ふふふっ、強情なところがまたいいですね。落としがいがありますよ」
そこまで話を終えると、橘は藤原の置いたお茶を手に取って少し飲む。
その様子を藤原が緊張しながら見守っていると、橘がお茶を飲んだのを見た時任がようやくお茶の存在に気づいたような顔をした。
どうするのかと藤原が思っていると、時任も橘と同じようにお茶を手に取る。
そして、ゆっくりと湯飲みを口元に近づけていった。
このお茶を飲んで目の前にいる橘を見れば、時任はあっという間に橘との恋に落ちる。
だが口元に当たった湯飲みがかたむけられる寸前で、生徒会室のドアが音を立てて開く。
悪いことをしているという自覚があるせいか、その音に思わず藤原はビクッと身体を振るわせた。
「ずいぶんと楽しそうに話してるみたいだけど、何の相談なのかなぁ?」
そんな風に言いながら生徒会室に入ってきたのは、用事があって本部に行っていた久保田だった。久保田は二人が話していた内容がわかっているのか、口元に薄く笑みを浮かべながら時任と橘の方に歩み寄る。
そして喉がかわいたと久保田が言うと、時任は飲もうとしていたお茶の入った湯飲みを久保田に渡した。
「楽しい話なら、俺も混ぜてくんない?」
「…んなワケねぇだろっ」
「あっそう」
「・・・・・・松本との話は終わったのか?」
「ま、一応ね」
久保田は時任の問いにそう返事しながら、手に持った湯飲みを口元に持っていく。
それを見た藤原は慌てたが、時すでに遅く…、久保田は中に入っていたお茶を飲んでしまっていた。
惚れ薬は、飲んで最初に見た相手に惚れる。
藤原は急いで久保田の前に飛び出そうとしたが、すでに習慣になってしまっているのか、反射的に時任の蹴りに行く手を阻まれた。
お茶を飲んだ久保田の視線は、藤原ではなく時任の方を向いている。
時任に蹴りを入れられて床に倒れながら、藤原は思わず叫んだ。
「ぼ、僕の方を見てくださいっ、久保田せんぱーいっっ!!」
だが、そんな風に言っても久保田が藤原の方を見たりはしなかった。
それどころか久保田は、逆にますます時任の方をじーっと見つめてしまっている。
そんな久保田を見た藤原は、滝のような涙を流しながら時任に踏みつけにされていた。
このままでは久保田に好きになってもらうという夢も野望も、チリになって消えうせてしまう。
しかし、この状況ではもはやどうすることもできなかった。
「ぎゃあぁぁっ、僕の久保田せんぱいがぁっ!!!」
「久保ちゃんは、てめぇのじゃねぇっ!!」
久保田は飲み終えた湯飲みを机に置くと、ゆっくりとその手を時任の方に向かって伸ばす。もしかしたら、薬は即効性だと書いてあったのですでに効いてきたのかもしれなかった。
そんな久保田の様子を見ながら、藤原は床に水溜りを作っている。
時任は涙を流し続けている藤原に、軽く肩をすくめて踏みつけるのをやめると…。
自分の方に手を伸ばそうとしている久保田の方を向いた。
「な、なに?」
「そのままでじっとしててよ…、時任」
「久保ちゃん…」
「ほら…、もうココがこんなになってる…」
「あっ…」
「俺がちゃんとしてあげるから…」
藤原と橘がいるにも関らず、久保田は時任の肩に手をかけてそんなセリフを言う。
自分のしたことを激しく後悔していたが、藤原は惚れ薬を飲んだ人間がどうすれば元に戻るのかを知らなかった。
もうこれで自分の恋も本当にお仕舞いなんだと、時任の足元で藤原が泣き濡れている。
しかしそんな藤原の耳に、のほほんとした久保田の声が聞こえてきた。
「ここだけじゃなくて、こっちのもほつれちゃってるねぇ」
「しょうがねぇだろっ。公務ん時に引っかけたんだよっ」
「うーん…、もう一着買っとく?」
「三年で制服買ったらもったいねぇだろっ」
「・・・って、何の話してんですかぁぁっ!!!」
藤原が思わず叫ぶと、久保田と時任がきょとんとした顔をする。
どうやら二人は、ただ公務の時に時任の制服の袖がほつれたので、その話をしていただけらしかった。
惚れ薬を飲んだ久保田の顔を藤原はじーっと見つめたが、のほほんとしているだけでいつも何も変わりがない。そんな久保田を見た藤原は深く長く息を吐くと、水溜りになった涙の上にぐしゃりとつぶれた。
「良かったぁぁぁっ、僕はてっきり久保田先輩が…」
「久保ちゃんがてっきりってなんだよっ!?」
「な、な、なんでもありませんっ」
「・・・あやしい」
「あやしくなんかありませんよっ、や、やだなぁ〜」
時任に問い詰められた藤原は、冷汗をかきながらそう言って誤魔化した。
もしも久保田に惚れ薬を飲ませたなんてことが時任にばれたら、このまま無事ですむはずがない。久保田がどうにかなったのなら話は別かもしれないが、何事もなかったのだから黙っておいた方がいいに決まっていた。
藤原が誤魔化し笑いをしていると、時任はまだ不審そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わない。どうやら二人の意識は藤原ではなく、時任に自分と組むことを勧めに来た橘の方に向いているようだった。
「恋人募集はよそでやってくんない?」
「恋人ではなく、学校の治安を守るための協力者なんですけどね?」
「協力者、ねぇ?」
「貴方だって、会長に協力してるでしょう?」
「いんや」
「ウソをつくつもりですか?」
「借りたモノはかえしましょうって…、それだけなんだけど?」
「ふふふっ、それでは会長は相当な高利貸しという訳ですね。利息の取りすぎは違法行為ですよ」
「借りたものは何でも、万倍返しって決めてるモンで…」
「・・・・・・・何でもですか?」
「そう、なんでもね」
久保田は橘との話をそれで切り上げると、机に置かれていたカバンを手に取るって入ってきたドアに向かって歩き出す。するとそんな久保田に従うように、時任もカバンを持ってドアに向かった。
公務はまだ終わっていなかったが、二人は非番なので生徒会室にいなくてはならないわけじゃない。藤原がおとなしく二人を見送ると、橘がその後ろ姿を見て小さく息を吐いた。
「少しは、見込みがありそうだったんですけどね…」
そんな橘の呟きを聞きながら、藤原も小さく息を吐く。惚れ薬が偽物だったことを残念だと思ってはいたが、なんとなく偽物だったことにホッとしていた。
思い余って時任にも飲ませようとしてしまったが、もしもそれがバレたらただではすまない。
久保田の万倍返しは、思い浮かべるだけで百万回死にそうだった。
時任を誘惑するという用事が済んで橘が本部に帰っていくと、藤原は桂木が来ない内に急いで鞄を持って生徒会室から出て…。
中身のない白い薬袋を持って、昨日の裏路地へと向かった。
しかし藤原がいくら探しても、あの暗がりの路地も黒猫も見つからない。
やっぱり夢だったのかとも思ったが、手の中にある薬袋は本物だった。
「うううっ…、ニセモノに金払って損した…」
そんな風に後悔しても、払った金は返ってこない。
藤原はがっくりと肩を落として薬袋を持ったまま家に帰ったが、まだこれですべてが終わったわけではなかったのだが…。この後に起こることになる騒ぎの原因に自分がなることにも、その時の藤原は気づいていなかった。
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