ラブパニック.9




 「こんにちはー、遠藤クン居ますか?」

 遠藤という紛い物の表札のかけられた、オオカミの家。
 そこはオオカミ家の別宅らしいが、やってきたのは子羊でも子猫でもなく…、なぜか黒い大型犬。しかも、のほほんとした顔でハシゴもないのにどうやって上がったのか、二階の窓を叩き割り、次の瞬間には土足で室内に侵入していたが、夜這いの時間にはまだ早い。
 オオカミは部屋のベッドに寝るのではなく、座っていた。
 ベッドに座りながら、入ってきた番犬に優雅に微笑みかけている。
 だが…、その微笑みには蛇の猛毒にも似た何かが含まれていた。
 しかし、迷子の子猫ではなく、逃走中の子猫を追ってきた犬は室内を見回すと、そんな蛇の猛毒の微笑みをものともせず飄々と…、
 「あー…、窓からとか気にしなくてもいいし、お茶とかも別にお構いなく」
 …っと言い放ち、軽く肩をすくめた。
 片方は優雅に、もう一方は飄々と違う人間と違う感情をお互いの間に挟んで対峙し、見つめ合う視線の先で空気が凍りつく。それでも今まで一度も凍りついた空気を壊した事がないのは本能的なものなのか、それとも、もっと違う別のものなのか…、
 天敵を目の前にしたオオカミ…、橘は浮かべた微笑みを布に毒を染みこませるかのごとく、ゆっくりと深くした。
 「・・・・・・・残念ながら、遠藤君は居ません」
 「アレ、ここって遠藤クンちじゃなかったっけ?」
 「いいえ、ここはオオカミの家ですよ」
 「ふーん、なら…、赤ずきんが来る前に狩っちゃおっかな」
 「猟師なら空気読んでくれませんか? 出番はもう少し後のはずですよ?」
 「そう言われても、早く着いちゃったモノはしょーがないし?」
 「それでは、お話になりませんよ。ですが、狩りを始める前にお茶でも飲みませんか? 慌てて走って来て喉が渇いてらっしゃるでしょうし、実はこの紅茶…」
 橘はそこで言葉を切ると、部屋に置かれていた紅茶セットの前に立つ。
 そして、用意されたカップを人差し指で軽く撫でた。

 「・・・・・睡眠薬入り、なんですよ」

 睡眠薬入りの紅茶と、これ見よがしに置かれたベッド。
 相手が橘なら警戒する状況も、クラスメイト相手では無防備になる。
 遠藤と偽装された表札から、橘のしようとしていた事を理解したのか…、いつもは細い番犬の目が不穏な空気を漂わせながら開いていく。しかし、橘は微笑みを浮かべたまま、開いていく番犬ではなく、狂犬の目を眺めていた。
 「そんな目をするクセに、キスもしていないなんて…、ふふ、顔に似合わず純情ですね。そうやって、とぼけたフリして純情ぶるのも結構ですが、貴方が牙と爪を隠している間に、子猫の大事なモノはすべてオオカミの餌になってるかもしれませんよ?」
 「なーんて言ってて、どうせ良くて子猫の爪に頬を引っかかれるって、そういう程度のオチだったり?」
 「オチを狙うなら出直して来てください。せっかく色々と準備したのに、貴方のせいでオチすら付きません」
 「そんなオチ、ついた所で笑いは取れないっしょ」
 「ふふふ、貴方なら笑ってくれそうだと思ってたのですが?」
 「イヤだなぁ…。そんなジョークで笑うほど、センス悪くないつもりだけど?」
 そう言いつつ狂犬は、口元に笑みを浮かべる。
 すると、それを見た橘の口元にも笑みが浮かんだ。 
 「貴方がすべてを執行部員から聞いていると仮定して話しますが、実は会長の許可が降りてるので…、冗談ではなく本気です。もしも、子猫がここにやって来たら、貴方が来るまでの時間、そのベッドの上で可愛く鳴いてもらうつもりで…、いまし・・・」
 狂犬を挑発するつもりで放たれた言葉が、途中で切れ止まる。
 そして、その瞬間に橘の身体は宙に浮き、背中から勢い良く、子猫が鳴く予定だったベッドへと落ち…。だが、それは正体不明の力によって起こった出来事ではなく、狂犬の右腕によって行われた事だった。
 父親が武道家である影響で小さな頃から身体を鍛え、時任の本気の拳を止めたこともある自分を、たった右腕一本。あまりの早さに抵抗するどころか、驚いて目を見開くのがやっとだった。
 狂犬は橘をベッドへと投げると、首を右手で押さえつけてくる。
 呼吸困難に陥った橘は、いつもの微笑みを顔から消し眉をしかめた。
 「ウチの子の居場所、知ってるなら教えて欲しいんだけど?」
 「・・・・・・・知ってても教え、ません」
 「心当たりあるんだ?」
 「・・・・・・・・っ」
 「ふーん、じゃ…、もうアンタは用無しってコトで」
 「まだ、何も言って…」
 「言わなくても、まるで目が恋する乙女みたいに語っちゃってるし。アンタの計画を先回りして、どうにかできる人間なんて限られてる…」
 「・・・・・・・っ」

 「趣向返しに、ソイツに鳴いてもらうのも悪くないかもね…。もちろんベッドで…」

 ベッドの上でぶつかり合う、視線と視線。
 二人の間に漂う空気は当たり前に恋人同士の甘いものではなく、嫉妬と殺意が入り混った凄まじい冷気。…だが、あくまで二人が想うのは別の人。
 争う理由は微塵も無い。
 重ねて言うなら、ベッドの上で見つめ合う必要も無い。
 しかし、何の因果がベッドで今から事に及ぼうとしているような姿勢で止まっていた二人を、銃声ではなくシャッター音が襲う。その音に気づいた二人がお互いに向けていた視線を窓に向けると、電柱に登った見知った人物が望遠付きのデジカメのシャッターを切っていた。

 「わははは…っっ、ざまぁみろっ!! これをアイツに見せれば、てめぇはお仕舞いだっ! 久保田ぁぁぁ〜〜〜っ!!!!」

 そう叫びつつ足を滑らせて落下したのは、どこかに沈められたはずの大塚。
 いつの間に復活していたのか、アスファルトの上に尻で着地すると、橘と久保田のあやしい画像を手に物凄い勢いで走り出す。すると、割れた窓ガラスから吹き込んだ風がヒュルリと間抜けな音を立てて、あやしい姿勢のままの二人の上を通り過ぎた。
 「・・・・・今の状態だと窓ガラスの反射も邪魔なカーテンも無く、さぞかし綺麗に撮れてるでしょうね」
 「…で、この状態だと俺が攻め?」
 「いえ、この状態だと誘い受けも捨てがたいですよ」
 「純情なのになぁ、俺」
 「・・・・・・そのセリフ、貴方が言うと冗談にしか聞こえませんが?」
 「そう?」

 「・・・・ってっ! 何二人で受け攻め談義やってんのよっ!!このヘタレ眼鏡ども…っっ!!!」

 ビシッ、バシィィィンッ!!!!
 恋するヘタレ眼鏡二人組の前で、ムチを振るうがごとくハリセンでドアを叩いたのは、心配になって様子を見に来た執行部の紅一点の桂木。すると、それを合図に久保田が入ってきた窓から飛び出し、それに続いて橘も同じ窓から飛び出した。
 だが、さすが子ウサギの心臓…、逃げ足だけは早いっ。
 地面に着地して後を追ったが、すでに後ろ姿すら見えなくなっていた。
 すると、オオカミ狩りをウサギ狩りに変更した狂犬。そして、標的を赤ずきんから子ウサギに変更したオオカミは、ある方向に向かっていっせいに走り出す。
 そんな世にも珍しい光景を見てしまった桂木は、深いため息を盛大についた。

 「ある意味、平和な光景よねぇ…、雪が降りそうだけど」

 狂犬とオオカミ…、最悪の組み合わせに追われる子ウサギは、死に物狂いでデジカメを片手に逃げ続ける。そして、その先にあるのは黒猫と狸ののどかな、お茶会。
 睡眠薬の入っていない紅茶を飲みつつ、甘いケーキを頬張る黒猫と狸は、子ウサギと共に迫る来る嵐に気づいてはいなかった。




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