ラブパニック.3
キーンコーン、カーンコーン…、 キーンコーン、カーンコーン・・・・・・。
放課後を知らせるチャイムが校内に鳴り響くと、部活や委員会や自宅など、自分の目的地へと向かう生徒達がいっせいに動き出す。そして、そんな生徒達と同じく本部に向かうために動き出した松本は、短時間の間に校内に広がってしまっている噂を耳にして、はぁ〜っと盛大にため息をついた。
噂はあくまで噂で信じる気にもならないが、また橘が久保田に何かを仕掛けた結果だと考えると、ため息の一つもつきたくなる。いつもは何があろうと余裕で冷静なくせに、相手が久保田となると話は別らしく、事あるごとに突っかかるのをやめようとはしなかった。
ライバル意識なのか、はたまた同属嫌悪的なものなのか…、
どちらにしろ、大概の場合、それは時任を挟んだり利用して行われるため、あのお祭り好きな執行部を巻き込み、必要以上に騒ぎが大きくなる事は必死である。そして、そんな騒ぎの尻拭いをするのは、いつも会長である松本なのだった。
「・・・・・・何事も起こらなければ良いが」
そんな呟きを二度目のため息と一緒に漏らし、なぜか時任の代わりに橘の餌食になってしまってる相浦を気の毒に思いながら、松本は本部に向かって廊下を歩き出す。普段なら、ここで橘が松本の一歩後ろを歩き始めるはずだが、今日はなぜか来なかった。
・・・・・・嫌な予感がするな。
何か用事があるのかもしれないが、嫌なタイミングだ。
松本はかすかに頭痛を感じて、人差し指で軽くこめかみを押さえる。すると、まるで嫌な予感が当たった事を知らせるかのように、近づいてきた本部のドアの前から、どんより淀んだ暗い空気が流れてきた。
で、できれば見たくない…っ。
松本はそう思ったが、視線がどんよりとした空気に吸い寄せられる。
見たら後悔するに違いないが、どうしても見ずにはいられなかった。
なぜなら、どんよりと淀んだ暗い空気の発生源が、発生している人物が…っ、
本部のドアの前に座り込んでいたからだった。
なぜだ…、なぜ時任がこんな所に…っ!
目の前を黒猫が横切った勢いで、不吉な何かを感じる。いや、もしかしたら目の前で淀んだ空気を発生している時任は、黒猫の何倍も不吉なのかもしれない。
時任が落ち込んだり暗い空気を発生する時は、必ずと言っていいほど、執行部の相方で同居人の久保田が原因だった。
「まさか、あんな噂を信じた訳でもあるまいに…、一体、何事だ」
そう呟き、らしくなく顔を引きつらせた松本は、立ち止まり苦悩する。
ドアを開けて中に入るには、時任に避けてもらわなくてはならないが、そうすると必然的に時任に声をかける事になるが…、できる事なら関わりたくない。しかし、こんな場所に座り込んでいるとなると、なぜかはわからないが自分か橘に用がある可能性が高かった。
こうなったら仕方ない、誠人を呼んで回収させるか…。
松本はクルリと時任に背を向けると、迷い込んだ黒猫をよからぬ事が起こる前に飼い主に返そうとポケットに入れていたケータイを取り出す。だが、ボタンを押そうとした瞬間、何かに制服の裾をぐいーっと引っ張られた。
「う…っ! ぐぅう・・・・っっ!!!!」
とっさに口を押さえて情けなく叫ぶ事だけは回避したが、心臓がうるさくバクバクと鳴っている。正直、驚きのあまり心臓が口からはみ出しそうだった。
な、何なんだ…っっ!と心の中で叫びながら、松本は引かれた方へ視線を向ける。
すると、いつの間に近づいていたのか、裾を握りしめた時任が下から松本を捨てられた子猫のような瞳で見上げていた。
「ど…っ、どうかしたのか? 時任」
ニャーンとか、ニャー…とか鳴きそうな瞳で見上げられ、思わずそう口走ってしまった松本は、しまった…っ!!!と片手で片目を覆う。会長としての任務と目的を果たすためなら男だろうと女だろうと容赦がなく、久保田には狸と称される松本だったが、子供と小動物と恋人にはすこぶる弱かった。
時任に裾を握りしめられ、固まっている松本と…、
そんな松本を見上げ、ニャー…とか鳴き出しそうな時任…。
何か新たな伝説…ではなく、噂が流れそうな状況に自分が置かれている事に気づいた松本はハッとして周囲を見回す。だが、黒猫の手を冷たく振り払う事ができず、小さく息を吐くと黒猫をくっつけたまま本部のドアへと向かった。
「まぁ、なんだ…、とりあえず中に入れ。話はそれからだ」
「あ、うん…、サンキュー、松本」
どうやら、本当に時任は松本に話があって、本部の前で待っていたらしい。
なぜ俺なんだ…と心の中で呟きつつ中に入ると、松本は置かれている応接セットのソファーに座るよう時任に勧める。すると、時任はやっと松本の裾から手を離し、ポスッと埋まるようにしてソファに腰を下ろした。
少し落ち着かない様子で、どんよりとした空気を背負ったままで…。
そんな時任を横目で観察しながら、松本は会長のイスではなくソファーに、時任の正面に座った。
「で、何があったんだと聞く前に、少し尋ねてみたいんだが…、なぜ執行部ではなく本部の前に? たとえ用事があったとしても、本部に一人で来るのは初めてだろう?」
「ま、まぁ…、そうだけど」
「もしも、何か相談事があるなら、私よりも桂木辺りが妥当だと思うが」
「・・・・・・」
用件を聞く前に松本がそう尋ねたのは、実は遠まわしに自分ではなく桂木に相談しろと言っているだけである。こんな風に、直接、言わずに遠まわしに告げたり、そうなるように仕組んだりする事が多い事が、松本が久保田に狸と呼ばれてしまう所以なのだが…、
それがわかっているのかいないのか、時任はどんよりとしたまま黙り込み何かを迷っている様子だった。
用件が何なのかは知らないが、心当たりがあると言えば流れている噂くらい。だが、相浦と久保田がどうこうなるとは松本には思えないし、それを一番良く知っているのは松本ではなく時任のはずだ。
だから、何を悩んでいるのか、何を言い出すのか予想がつかない。今日はまだ会っていないので未確認で何とも言えないが、久保田の頬に殴られた跡があったというし…、執行部では言えない重大な事件でも発生したのだろうかと松本は考え小さく唸る。
久保田を殴れる人間は松本が知る限り、そう多くはない。
可能性があるのは橘と…、あと、度胸と根性で桂木辺りも殴れてしまうだろうか…。
自分はとてもじゃないが無理としても、知らない分を合わせても片手の指で足りる。だが、殴って無事でいられる人間となると、もっと少なくなるに違いなかった。
久保田を殴って、無事でいられる人間…。
橘は、まず無理だ。
…だとすると、残るは桂木。
しかし、桂木よりも無事でいられそうな人間が、殴るどころか蹴飛ばしても無事で済みそうな人物が一人だけいる。松本はそこまで考えてソファーから立ち上がると、いつもは主に橘が使っている簡易キッチンで二人分のお茶を入れ、時任と自分の前に置いた。
「なぜ、誠人を殴ったりしたんだ?」
「うえぇえぇーーっ、な、なんで知ってっっ!!!!」
松本の唐突な質問に、時任が素っ頓狂な声を上げる。そして、次に手に取ろうとした湯飲みを落としかけて、大声でぎゃーっと叫んだ。
自分の前でジタバタと暴れる時任を見た松本は、小さく息を吐き茶を口に含む。
だが、松本は含んだお茶を飲み込もうとした瞬間、なぜか飲み込まずに噴出した。
「ココで悪徳生徒会長に、ウチの子が襲われてるって聞いて来たんだけど」
ぶうぅぅぅぅーーーーーっ!!!!
「うわぁぁ…っっ!!!きったねぇなっ!飲んだ茶吹くなよっ!!!」
吹いた茶を浴びかけた時任が、手をブンブン振り回しながら抗議する。だが、今の松本の視線はバーンとドアを開けて入ってきた飼い主…ではなく、狂犬に釘付けになっていた。
ヒューッと、なぜか室内に吹き荒ぶ風は氷点下。
そして、注がれる冷やかな視線は、フリーズな凝固点。
松本は最悪の状況に直面し、やはり目の前を横切ってはいなかったが、黒猫は無視するか追い返すかするべきだったと後悔する。だが、後悔は先に立たず…、更に最悪の状況に拍車をかけるように、久保田の姿を認めた時任は、なぜか松本の後ろに隠れた。
「と、時任っ! なぜ俺の後ろに隠れるっ!!?」
「俺だって別に隠れたくねぇけどっ、今はちょっちヤバいんだよっ!!」
「ヤバいって何がだっ!! ヤバイのはお前じゃなくて、思いっきり俺だっっ!!」
「違ぇよっっ、ヤバいのは俺に決まってんだろっ!!」
「違うっ、俺だっ!!」
「ちがーうっ、俺だぁぁぁっ!!!」
松本と時任は、冷やかな空気を漂わせている久保田の前で違うっ、違うと言い合う。すると、久保田の冷やかな空気が更に冷たく凍りつき、地獄の底から響いてくるような低い声が、言い合う二人の耳に届いた。
「へぇ…、二人ってそんなに仲良かったんだ…。知らなかったなぁ…」
『ーーーーっ!!!』
地獄の底からの声に、松本と時任は同時に声にならない悲鳴を上げる。
口調だけはのほほんとしているが、目と声が凄まじく恐ろしかった。
たぶん地獄の番犬と呼ばれるケルベロスは、こんなのに違いないっ。
現実を逃避するがごとく、松本がそんな事を考えていると、時任は松本から離れドアではなく窓へと走った。
「じゃっ、そーいうコトで後は任せたからなっ、松本!」
「ま、任せたってっ、おいっ」
「後はヨロシク」
「ちょっと待て、ここは三階…っ!!!」
ガラリと窓を開け、窓枠を乗り越えた時任に向かって松本がそう叫ぶ。
しかし、時任はそのまま下へと落下して行き、驚いた松本が窓へと走り下を覗き込むと、二階の窓枠に器用に捕まり、中へと入っていく時任の姿が見えた。
「・・・・・・・なんだ。時任は猫ではなく、猿だったのか」
時任が聞いたら怒りそうなセリフを、松本が呆然と外を眺めながら呟く。
すると、そんな松本の背後に黒い影が…、地獄の番犬の影が忍び寄る。その気配を感じ取った松本は肩をわずかに震わせたが、恐怖のあまり振り返れなかった。
今の久保田には、言い訳も冗談も通じない。
よって、笑って誤魔化す事も不可能だ。
とにかく・・・・・、とりあえず逃げよう。
別に何もしていないのに、そんな事を考えるのは混乱しているせいだろうと、松本は冷静なのか、そうではないのかわからない頭で考える。しかし、背後で目ではなく眼鏡を光らせているかもしれない番犬は、逃げ出す隙をうかがっている松本の耳に地の底を這うような声で…、松本の名を呼んだ…。
「ねぇ、松本…。さっき、ウチの子の悲鳴が2回聞こえたんだけど?」
「誠人…、お前、誰かに襲われてると聞いて来たんじゃなかったのか?」
「アレ、そんなコト言ったっけ? 覚えてないなぁ…」
「それはどうでもいいが、あらぬ疑いを俺にかけるのはやめてもらおうか」
「ふぅん、密室で二人きりな上に悲鳴が2回…。それで、あらぬ疑いなんだ?」
「だったら、お前と橘と相浦の噂はどう説明する。身に覚えのない噂なんだろう?」
あらぬ疑いには、身に覚えのない噂を…、
目には目を歯には歯を…と言う訳ではないが、松本は平静を装いながら、久保田は冷気を漂わせながら対峙する。しかし、どんなに言葉を重ねた所で、目を合わせられない松本の方が圧倒的に不利に違いない。
松本は額に汗を浮かべながら、やはり今度から黒猫を見たら前進せずに3歩下がろうと心に誓う。だが、時はすでに遅く…、時任の残した一言によって松本の肩に狂犬の前足がかかった。
「噂なんかよりさ…。そーいうコトって、どういうコトなのか説明してくれないかなぁ?」
「せ、説明と言われても、まだ何も聞いてないんだがっ」
「相変わらず狸さんだねぇ、松本は…」
「嘘じゃない、本当の事だ」
「こういうのって、日頃の行いがモノを言うよねぇ? 生徒会長サン」
「そういうお前こそ、日頃の行いの結果が頬の跡なんじゃないのか? 俺に疑いをかける前に、自分の胸に聞いてみろ」
松本がそう言うと、狂犬は胸を手に当てずに口元に笑みを浮かべる。
そして、手で掴んでいた肩を強引に引き、自分の方へ振り向かせると、反対側の手で松本の顎をぐっと強く掴んだ。
「そう言えば、ウチの子の代わりに、松本が俺とヨロシクしてくれるんだったよね?」
「なっ、何をするつもりだ…っ」
「ナニって…、そんなの決まってるじゃない?」
「ちょっと待てっ、早まるなっ! こんな場面を誰かに見られたらっ!!!」
そう叫んだ瞬間、松本は気づくべきだった。
実は生徒会室のドアが、開けっぱなしだった事に…、
そして、いつからなのか、そこに良く知る人物が立っていた事に…っ!
久保田じゃない別の人間から発生する冷気を感じた松本が、視線を久保田から久保田の背後へと移すと…、すでに時遅く。そこには、まるでキスしようとしているよう見える二人を、嫉妬に狂った瞳で見つめる恋人が立っていた。
「こんな場面を誰かに見られたら…、なんです? ぜひ、続きを聞かせてもらいたいものですね…」
うわぁあぁっっ、でたぁぁーーっ!!!!!
黒猫に呪われ、番犬に恨まれた松本は、訪れた不運に心の中で絶叫する。
このままでは、どうにかしなければ…っ、俺は橘にっ!!!
橘が実は久保田並に嫉妬深い事を知っている松本は、火に油を注ぐ事になるとも知らず、慌てて助けを求めるように久保田の方を見る。だが、そんな松本の肩を励ますように軽くポンポンと叩いた久保田は、時任と同じように窓から身を躍らせた。
「じゃ、後はヨロシク」
同じセリフを残して行くのは、やはり相方だからなのか…、
それとも、復讐や仕返しを終えたからか…、
二人にヨロシクされてしまった松本は、嫉妬の炎を燃やしながら迫ってくる恋人を見て後ずさりし、壁に追い詰められながら…、
何となく、時任が久保田を殴った原因を考えてみた。
するとやはり…、犬の食わないようなケンカか何かに違いなくて…、
松本は、はぁ〜…と盛大にため息をつきながら、襲ってくる恋人に向かって拳ではなく両手を差し出した。
「・・・・・・・・好きだ、橘」
「か、会長…」
「俺が誰よりもお前の事を好きなのは、お前が一番良く知っているはずだろう?」
「・・・・っ!」
橘を両腕で抱きしめ顔を赤くしながら松本がそう言うと、シューっと音がしそうなほど、急速に橘の嫉妬の炎が鎮火する。未だ片思いの時任と久保田が使えない必殺技を使った松本は、これから、まだまだ広がりそうな二人の被害に頭を抱えた。
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