右手に拳銃。左手には君の涙を。
 ACT.2 時任 稔 /No.1



 薄暗い部屋、閉ざされた窓、決して開かないドア。
 時々、耳障りな音をさせて監視カメラが室内を見回している。
 そんな自由もプライバシーもない空間に置かれたベッドで、白いシーツにくるまった少年が小さく寝返りを打った。
 この閉ざされた空間には、一般的な病院に設置されているパイプベッドと同種のベットが一つが置かれている他は、横に置かれているサイドテーブルに水差しがあるだけである。
 それ以外の物は何も置かれておらず、本やテレビといった娯楽になるようなものはなにもない。おそらくここには、生活する最小限の物しか置かれていないに違いなかった。
 この部屋は簡素すぎて、生活臭がまったくしない。
 もし、ここで生活しろと言われたら、誰もが首を横に振るだろう。
 こんな冷たすぎる空間では発狂しても、決しておかしくはない。
 だが、この部屋の主である少年は、もうここで10年以上も生活していた。
 それは当然、その少年の意志ではなく、この研究所に実験体として連れて来られたためにこのような扱いを受けているのである。誰が見てもわかる通り、とても人道的な扱いとは言い難いが、人道的かどうかを論ずるまでもなく、これが明るみに出れば立派な刑事事件だということは紛れもない事実だった。
 この実験は自然科学研究所という施設で行われているが、実験内容は極秘とされており、今まで外部に漏れた形跡はない。この実験をこの研究所に持ちかけたのは、新東京市の首脳部の人間だとされているが、それが誰なのかはこの研究室においても知る者がいるかどうか不明だった。
 まるで悪性の腫瘍を切り離すように第二新東京市を切り離した新東京市だったが、病はすでに手術することも叶わないほど深く浸透していたらしい。
 人々の気づかぬ間も、確実に病は進行しつつあった。
 そんな薄汚れた空気からまるで隔離されているかのように、ちいさな箱檻の中で少年はじっと目を閉じてシーツに横たわっている。実験の時以外は少年はいつもこうしてベッドでじっとしていた。時々寝返りを打つので生きていることがわかるが、そうでなければまるで死体のように見えなくも無い。
 「あれは生きてるのかね?」
 監視カメラのモニターから室内を眺めながら高級そうなスーツを着た髪の毛の薄い中年の男がそう言うと、笑みを浮かべて同じようにモニターを見ている白衣の若い男が、
「もちろん、ちゃんと生きてますよ。時々、生きが良すぎて暴れますどね」
と、言った。
 たくさんモニターのついた暗い部屋で、二人の男がじっと寝ている少年を眺めている。ここは実験体である少年の監視と観察を兼ねて設置されている、監視カメラの映像を24時間管理している記録管理室だった。
 研究所内だがスーツを着ている方の男はここの人間には見えない。二人は服装だけではなく、年齢も背格好もバラバラで違っていた。
 「まるで籠の鳥だな」
 「いいえ、檻の猫ですよ。あれは」
 「…なるほど、見えなくもないな」
 少年のことを籠の鳥と称したスーツの男に対して、白衣の男は檻の猫だと反論する。
 けれどスーツの男は気分を害した様子もなく、監視画面に見入っていた。
 そうしていると、スーツの男の襟元にある何かに画面の光が反射する。
 それは国会の議員バッチだった。
 男は研究所の視察という名目で、国の予算を投じて行われているある実験の経過を聞きに来ているのである。
 国会で罵声を発することが仕事のような男だが、自尊心だけは十二分にあるらしく、いかにも自分が国を背負っているような顔をして神妙に少年を見ている。だが、実験の内容すらまともにわかっていないだろうことは、額から何度も拭われている汗から知ることができた
 実験の経過と言っても、もちろん牢獄のような場所に少年を閉じ込めることが実験の内容なのではなく、もっと別な実験がこの場所で秘密裏に行われている。
 何も知らない男がここに来ることになったのは、ある人物に頼まれたからだった。
 この実験に参加している気分にさせて、予算を承認させるための小細工に協力させるためだけに呼ばれた男。
 つまりこの男は、利用されているだけのただの小物に過ぎない。
 そんな小物と無駄な会話をしている白衣の若い男は、どこか奇妙に歪んだ感じ表情をする。その白衣に付けられているネームプレートには関谷と書かれていた。
 関谷は研究所で、この実験を指揮している柴田博士の助手をしている。
 優秀な助手として研究所でその名を馳せていたが、それを素直に認めたくない何かが関谷にはあった。
 「突然変異なのか、それとも元々そういう遺伝子を持っているのかは不明です。父母ともに発見されてませんから」
 「なるほど、それでここに連れて来たわけか?」
 「いえ、買ったんですよ」
 そう言った関谷はなぜか楽しそうに微笑んでいる。
 そんな関谷を見た男は、いやらしい笑みを浮かべた。
 「なるほど、いいルートをご存知というわけか」
 「教えて差し上げましようか?」
 「今度、食事でも一緒にどうかね?」
 「喜んでいかせていただきますよ」
 利用できるものは利用する。
 小物でも一応議員バッチを付けているので、それなりに利用価値があると踏んだのか、関谷は男の反応を冷ややかに眺めつつ、口の端を吊り上げた。
 「利用してもらえるだけ、ありがたいって思ってほしいわよね。このブタ」
 その呟きは男の耳には届かなかった。

 「今度はラボをご案内しますよ」

 そんなやりとりが行われている頃、ベッドで眠っている少年は、なんだか頭の中がざわざわとしてきたので薄っすらと目を開けた。
 誰かに見られているのが、その嫌な感じでわかる。
 「うるっせぇ…」
 始めから眠ってはいなかったが、何も見たくも聞きたくもなかったので、せめて出来る範囲で五感を自分から切り離そうとしようとしていただけだった。
 一人きりの空間。
 一人きりの世界。
 この心の底まで凍りつきそうな部屋の中で、少年は孤独というものを感じたりはしていなかった。だが、それは孤独を愛しているという訳ではなく、ただ実験や検査と称して身体をいじくられるよりも、こうして一人で部屋にいた方が身体も気分も楽だったからである。

 時任 稔。
 
 これがこの少年の名前だが、この名前が誰によってつけられた名前なのか、少年がどこでどのように生まれたかを知る者はいない。
 少年自身も自分の名前が時任稔であること以外、何も覚えてはいなかった。
 いくら過去のことを思い出そうとしても、浮かんでくるのは今いる部屋の光景だけで、他には何も思い出せない。いつ、どうやってここに来たのかすらわからなかった。
 ただ、わかることは自分が他人よりも少し違うということ。
 そのせいで自分がここに閉じ込められているということだけだった。
 「…黙れ」
 そう呟いても答える者はいない。
 だが、時任にとってはそれが当たり前であるため、そんなことなど少しも気になどしていなかった。孤独も寂しさも感じることのない時任は、この部屋に満ちている冷たさに感覚を侵食されて心を無くしているようにも思える。
 ほんの子供の時分から今まで、時任は誰かに優しく声をかけられたことも、抱きしめられたこともなかった。
 この研究所にいる誰もがなぜか時任を恐れている。
 小さな頃はわからなかったが、今はその理由もわかっていた。
 「…頭、いてぇ」
 誰もいない室内で時任が空中に向かってそう言う。
 必死で頭を抱え、一人で痛みに耐えている姿は更に孤独と寂しさを感じさせた。
 けれど、そんな時任のことをわかってくれる者はここにはいないのである。
 白い白い壁だけが視界に広がって行くのを、時任は痛みの中で見つめていた。
 助けを求めようと思っても、誰を呼べばいいのかわからない。
 けれど、それを哀しむことすらできない。
 どこまでも続く暗い深遠が、時任の目の前に横たわっていた。
 そうやってしばらく頭を抱えていると、ざわざわとしていたものがすぅっと消えていく。
 どうやら、監視カメラの前に誰もいなくなったらしい。
 時任はふー…と小さく息を吐くと、また再び目を閉じた。
 すると、昨日たくさん注射針で刺されたわき腹がじくじく痛むのを感じたが、また今日も同じようなことをされるに違いない。
 (今日こそぜってぇ、逃げてやる…)
 外がどんな所かは知らないが、ここよりはマシに違いないと時任は考えていた。
 助けてくれる人がいないなら、自分で助けるしかない。
 自分自身を…。
 生きることの意味とかそんなものなど考えたこともなかったが、時任はこんな暗がりにいてもすべてをあきらめてしまった訳ではなかった。
 それはたぶん、生きるという意志ではなく、生きるという本能だったのかもしれない。
 時任はいつも逃げ出す機会をうかがってはいたが、研究所の警備が厳しいのでなかなか上手くはいかなかった。
 逃げ出すと言っても、どこに逃げるのかはわからない。
 だが、このいつ終わるともしれない痛みから逃げ出さなくてはならなかった。
 「クソッ…」
 シーツの中で時任はギュッと拳を握り込む。
 政治的思惑も、研究者達の野心も、得体の知れない人物の目的も、時任はまったく知らないし気づいてもいない。
 だが、時任の意思とは関係なく、それらすべては時任を中心に渦巻いていた。
 


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