右手に拳銃。左手には君の涙を。
ACT.1 久保田誠人 /No.2
第二新東京市と新東京市との境界には、まるで国境のように高い壁がその間を分断している。その壁には監視カメラが設置されていて、侵入者を二十四時間監視していた。
二つの市を繋ぐゲートを通過するには通行証というものが必要なのだが、この通行証というのはバーコード式になっており、コードを読み取るとその人物のデータが表示される仕組みになっている。指紋や目の虹彩、アイコードでチェックが行われている時代にあまりにもレトロな代物というべきだが、実はそれにはちゃんと意図というものがあった。
第二新東京市の住人を強行排除しない理由と、この旧式のバーコードの理由は異なるようで同じ。
実は表面上、新東京市は第二新東京市を忌避しているように見えるが、この都市の闇の部分を最も必要としているのは、新東京市の首脳部なのである。
この高い壁はただの目くらまし。
新東京市首脳部は第二新東京市を隔離しているのではなく、保護していた。
つまり、ゲートは不審者を新東京市に入れないためではなく、見逃すに値する人間なのかどうかを審査する場所なのである。
だが、そういう意図が働いていたとしても、このゲートは簡単に通れはしない。
真っ当な理由ではないにしろ、やはり選ばれた人間のみなのだった。
久保田は長い壁を見ることもなく単調な歩行速度で街を通過すると、真っ直ぐゲートまで歩いていき、自分のポケットに手を突っ込んで一枚のカードを取り出す。
「スイマセン。ココ通りたいんですけど?」
そう言いながら通行証を面倒臭そうに差し出している久保田を見て、ゲートの通行者を審査する職員の男が少々訝しげな顔をした。
「理由は?」
簡潔にそう男が聞くと、久保田は軽く肩をすくめる。
「どう言ったらそれらしい感じします?」
ふざけた答えにムッとしつつ男がカードを機械に差し込むと、そこに出てくるはずの久保田のデータが出て来ない。その代わり、画面にはsecretの文字が赤く点滅していた。
思わず画面を覗き込むと、赤く点滅する文字の横にblackの文字がある。
普通ならば、秘密の重要度のレベルに応じて1〜10のsecret levelが表示されることになっていたが、久保田にはそのレベルすらなかった。つまり、この都市の首脳陣ですら知ることのできないレベルのものだったのである。
「通っていい?」
驚いて画面をじっと見つめている男に久保田がそう言うと、男は怯えたように身体をビクッと震わせた。
「急いでるんですけと゜」
「は、はい。ど、どうぞ通ってください…」
職員はどもりながらそう返事をすると、いそいそとゲートを開く。
ゆっくりと開いていくゲートを見ていると、やはりこのゲートは市と市を分けているのではなく、国と国を分けているように見えた。
「それじゃあ、遠慮なく」
久保田はスタスタとゲートを通過する。
そして通過し終えると、男に向かって手を差し出した。
「カード、返してもらえます? なければないでいいけど、あった方が便利なのは確かだし」
「す、すいませんっ」
慌ててカードを差し出した瞬間に、一瞬だったが、久保田と男の目が合う。
分厚い眼鏡の下から男に向けられた視線は、冷たくはなかったが暖かくもなかった。
まったく温度の感じられない無機質な瞳に、なぜか背筋を冷たい何かが走り抜ける。その感覚は恐怖と似ていた。
「どーもお役目ご苦労サマ」
久保田は単調な口調でそう言うと、ゲートを去っていく。
だが、男はその後姿すら見ることができなかった。
「おいっ、どうしたんだ?」
少したって、長年ここに勤めている同じゲートの職員が不審に思ってやってきたが、久保田の視線を交わした状態のまま動けないでいる男は、返事をすることができなかった。
身体中が不自然にガクガク震えるのを止めることができないからである。
その様子を見た職員は首を軽く左右に振った。
「久保田に会ったのか…」
思わず漏れたという感じのその呟きに、男がやっとの思いで視線を向ける。すると職員は深く息を吐きながら、
「あれはこの街で生まれ、この街で育った男だ」
と、言う。
その言葉を、その意味の深さを知るものはおそらく長生きはできない。
久保田の過去も未来も、闇に包まれていた。
そんな底知れぬ闇に纏ながら、久保田誠人は新東京市に足を踏み入れたのである。
くっきりとラインを引いたかのように整然とビルが並び、なんの個性もない家々がきっちりと等分された区画に治まっている。この街には新東京市庁を中心に網の目のように道が張り巡らされていた。
官公庁地区、商業地区、工業地区、居住区と、完全に分けられ管理された街は、まるで玩具の街のように陽光に照らし出されている。
殺伐とした、敗退的な感じさえする第二新東京市とどちらが良いかと尋ねられれば、おそらく意見は二分されてしまうに違いない。
「空気がマズイなぁ」
本当はハイブリッドカーしか走っていない新東京市の方が空気は清浄なのだが、久保田はそう言ってポケットからセッタを取り出して火を点けた。ライターはそこら辺に普通に売ってるプラスチックのライターである。そういう所にこだわりはないらしかった。
「う〜ん、自然科学研究所はドコだったっけ」
ポットから携帯電話を取り出した久保田は、その画面を眺める。
画面には新東京市の地図が映し出されていた。
「なるほどね」
自然科学研究所は、新東京市の中心部からかなり離れていた。
歩いて行くとしたら時間がかかるに違いない。
久保田は近くのビルまで歩いて行くと、そのビルの地下駐車場へと向かう。駐車場には当然のことながら、車が沢山駐車されていた。
コツコツと足音を響かせながら駐車場内を散策していた久保田は、ある一台の車の前で止まる。レトロなデザインの黒い車にはキーがつけられたままになっていた。
「いけないなぁ。カギ忘れたりしたら車取られちゃうよ?」
久保田はそう呟くと、その車に歩み寄ってドアを開けた。
「せっかくだから、おかりしまーす」
ふざけた口調でそう言うと、久保田は車に乗り込んでエンジンをかけた。つまり、この車で自然科学研究所まで行くつもりなのである。
車には盗難された時のために、衛星から車の居場所がわかるようになっていたが、持ち主が気づくまでに目的地に行って乗り捨ててしまえば問題ない。持ち主とて、自分の車が無事に戻ってくればそう騒ぎはしないだろう。
久保田はアクセルを踏むと、自然科学研究所に向かって走り出した。
これから行く自然科学研究所は、以前、別の仕事で前を通りかかったことがあったが、やたらと大きな白い建物で、なにやら厳重に警備されていたことを久保田は覚えている。
研究内容が何なのかはわからないが、その研究資料を持ち出そうとした男が殺されようとしているところを見ると、真っ当な研究所ではなさそうだった。
国家がこれほど貧窮していながらも、おそらくこの研究所には破格な予算が投入されているに違いない。だが、この事実を国民が知る頃には、すでに何もかもが遅くなってからだろう。
大概がいつもそうしたものだ。
久保田が運転する車は、商業地区から官公庁地区を通り更に東へと走る。
研究所は新東京市の東の外れにあった。
ビルや家々が密集している地帯を抜けると、途端に緑が多くなる。都市の中心部にはいくつか公園があったが、やはりここと比べると規模がかなり小さい。街路樹として植えられているのは南国系の植物で、植物のやたら大きな葉がユラユラと風に揺れていた。
しばらく研究所への道を走行していると、携帯の着メロが鳴る。大昔に人気だったというゲームの音楽が車内に鳴り響くと、久保田はポケットから携帯を取り出した。
発信者名はSという一文字のみ。
Sから送られてきた電子メールは、一人の男の写真だった。
男の名は柴田兼光。
白髪交じりの頭はぼさぼさで、顔には皺が深く刻まれているが、柴田の眼光は鋭い。その目は、何か強い意志を秘めた人間のする目だった。
この研究所で何が行われていたかに興味はなかったが、この目だけは珍しく少しだけ気にかかる。久保田は運転しながら、じっと携帯画面を見つめた。
「未来も希望も俺にはカンケイないからさ。悪いケド、お仕事させてもらうよ」
気にかかったのは事実だが、久保田に仕事を躊躇させるほどのものではない。
白い建物が見えてきた辺りで、久保田は路肩に車を乗り捨てた。
「さて、行きますか」
黒いコートを翻して、久保田が研究所に向かって歩いて行く。
次第に視界に大きくなっていく白い建物は、青い空に向かって高く伸びており、それはまるで墓標のようにも見えた。
久保田の仕事は柴田を消すこと。
この仕事にこの場所はふさわしすぎるくらいふさわしいような気がしたが、久保田はそんなことなど少しも気に留めていない。
久保田は研究所の通用門まで歩いて行くと、そこの警備員に呑気に声をかけた。
「すいません、柴田博士いますか? 会いたいんですけど?」
いきなりそんなことを言われた警備員は、一瞬あっけに取られたような顔をしたが、すぐに真顔に戻って、
「関係者以外立ち入り禁止になってます」
と、言った。
警備員はなぜか呑気な感じである。けれど、その視線がどことなく不自然に泳いでいるのを久保田は見逃さなかった。
前に来た時に厳重に警備されていた通用門には、警備員が一人もいない。
久保田は不審に思いつつも、警備員との話を続けた。
「俺、山田っていいますけど、博士の論文読んでからファンになっちゃいましてね。それで、ちょっとだけでも話してみたくて来たんですよ。電話でもいいですからお願いできません?」
「お願いされても無理なものは無理です」
「そこをなんとか。俺、博士の娘さんの知夏さんとも知り合いなんですよ」
「はぁ…」
博士に娘がいるかどうかも知らないし、もちろん娘の名前など知らない。
つまり、久保田はでまかせを言っている。
だが、警備員は娘の名前を出したことで、事実を確認しなくてはいけないと思ったらしく、そばにあった受話器に手を伸ばした。
「ぐっ!!」
その隙をついて、久保田が後頭部を殴りつける。
警備員は気を失って床に転がった。
「うわぁ、古典的」
たいした感慨も無さそうな声でそう言うと、久保田は通用門を通過した。
だが、それを呼び止める者はいない。
「まっ、いいけどね」
柔らかな陽射しが、綺麗に刈り取られた芝生の上に降り注いでいる。
その上をのんびりと歩きながら、久保田は携帯の電源を切った。
これから、この研究所の建物の中から一人の人間を捜し出して、仕事をすみやかに済ませなくてはならない。
タイムリミットはここに警察が到着するまで。
久保田はポケットに入っている拳銃の安全装置を外した。
戻 る 次 へ
|
|