右手に拳銃。左手には君の涙を。
ACT.1 久保田誠人 /No.1
今は春だというのに、そこら中で向日葵が狂い咲きをしていた。
気温は連日三十度を超え、テレビの天気予報で本格的な夏が来る頃には外気は余裕で四十度を超えるに違いないと報じていた。
けれど、そんなことはわざわざ言われなくても誰もが思っていることなのである。
季節というものが、その景色を楽しむことではなく、暑いか過ごしやすいかにしか分類されなくなってしまったのはいつからだっただろうか?
水の都ベネチアが海に沈んだのはもう随分と昔の話で、今も確実にすべての大陸が海に侵食され続けている。けれどそれはもうすでにわかっていたことで、騒ぐようなことではなのだが、人々は今更のように慌てていた。
各国では、水上都市。ジオフロントの建設が盛んに行われ、日本でも安全な場所に国家の中心を移すべく、新東京市が東京湾に誕生した。
だが、その建設に莫大な国家予算を投じてしまったがために、地方行政は貧窮を強いられ、各地で企業の倒産だけではなく、県や市の破綻まで招く結果となってしまった。
つまり、今まさに日本という国家そのものが破綻しかけているのである。
建設された新東京市は、少なすぎる予算で市を維持するために、市民権というものを発行した。海面上昇による侵食から守るかわりに、ジオフロントの維持費を徴収するというわけである。
その市民権を買える者だけが新東京市に住めるわけなのだ。
だがしかし、市の運営はすべて市の中心にあるコンピューターで行われているため、しばらくすると、コンピューターをハッキングして偽の登録をし、安価で市民権を売る売人があらわれた。
あまりに地価が高くて、当初に入居した人々が出て行く中、そんな偽の市民権を得た者達が、半ば廃墟となった街に住み着き始める。
市で取締りを警察に要請したりしたが、結局、あまりの人数の多さに対応しきれず、街はその存在を市の保護から外される代わりに、黙認という形で安定した。
警察も関与しない無法地帯、犯罪の闊歩する闇の都市、誰がつけた名前かはわからないが、その街は第二新東京市と呼ばれるようになったのである。
いつの年代のものかわからないような、古いエアコンがずっと嫌な音を立てている。
あまり性能が良いとは思えなかったが、一応、部屋の温度は一定に保たれていた。
部屋にある唯一の窓にはブラインドが下げられているため、日が昇っても室内に光が入ることはない。
薄暗い部屋には、平凡な椅子と、机。それに載せられたディスクトップ型のパソコン。様々なジャンルの本が並べられた本棚。あまりこれといって特徴のない部屋だったが、簡素といえば簡素すぎるような気もした。
最低限しかモノがない。
それもやはり特徴と言えるのかもしれなかった。
この部屋の住人は在室中だが、白いシーツの中で今だ眠りを貪っている。
ベッドの布団がわずかに上下していた。
起きる気配はない。
だが、枕元に置かれていた携帯電話が高らかにその存在をアピールすると、布団の中から手がすぅっと伸びてきてそれを掴んだ。
「…もしもし」
寝起きなのか少し声がかすれている。
部屋の住人である男が通話ボタンを押したと同時に、耳に寝起きにあまり聞きたくない声が流れてきた。
「おはよう、久保田君。まだ寝ていたのかね?」
久保田と呼ばれた男は軽く乱れた頭を掻きながら、近くにあったタバコを手に取った。
タバコの銘柄はセブンスター。
この銘柄は古くからあるもので、今でも愛煙家の間ではセブンスターを吸っている者は多い。タバコは銘柄が違えば、味もかなり違うのである。セブンスターは呼びづらいということで、略してセッタと呼ばれていた。
「仕事ですか?」
久保田が朝の挨拶を返さずにそう言うと、受話器の向こうから、嫌な感じの含み笑いが聞こえてくる。だが、馴れているからなのか、久保田の表情は少しも変わらなかった。
「相変わらずつれないな、君は」
「つれたくありませんから」
「結構、私は本気なんだがね」
「本気になられても、ねぇ?」
意味深な会話が交わされているが、久保田は面倒臭そうな様子でセッタを加えて火をつける。その手つきはかなり手馴れていた。
「で、話はなんなんです? 真田さん」
そう久保田が話を区切ると、真田はフッと笑って仕事の内容を話し始めた。
「新東京市にある自然科学研究所というのを知っているかね?」
「名前だけは」
「そこの現在の研究所長は柴田兼光というのだが、その柴田がどうやら今研究している研究資料を持って渡米しようとしているらしい」
「亡命ってやつっスね」
「そう、だからそれを君に止めてもらいたいんだがね」
「資料が渡る前にやれと?」
「そういうことだ」
「了解しました。写真はメールで送っておいてください」
久保田はそれ以上何も聞くことはせず、真田に写真だけを要求した。
ターゲットとなる相手の写真はもちろん重要だが、こういう施設の場合はセキュリティが厳しいので外出中に狙うことになる。そういう場合は、普通、相手のデータや行動スケジュールを見て対策を練るものなのだ。
だが、久保田はそうしようとはしていなかった。
「大丈夫かね?」
真田はそう言ったが、心配などしていないに違いない。
この真田という男は、部下をまるで物のように扱う冷酷な男として有名だった。そんな男なのだが、なぜか久保田には興味を抱いているらしく、こうやってわざわざ携帯に連絡を入れてくるのである。
真田はどんな理由でそうしているかは知らないが、こうして寝てる所を叩き起こされるため、久保田はそれを迷惑だなぁと思っていたのだった。
「期限は三日ってコトでいいっすか?」
「そんなに早くていいのかね?」
「まぁ、なんとかなると思いますケド」
「君がそう言うなら、なんとかなるのだろう。それではこの件は任せるよ、久保田君」
「はいはい、謹んでお受け致します」
あまり誠意の感じられない返事だったが、それでも真田は納得したらしく、
「それではまた…」
と、いう声がした後に通話が切れた。
久保田は携帯電話の通話ボタンを切ると、大きく伸びをする。
まだかなり眠そうな感じだった。
「昨日寝たの何時だったっけ?」
そう言って時計を見ると、時計は朝の八時半を指し示していた。
実は、久保田がやっと寝付いたのが朝の五時だったため、寝ていたのは三時間ということになる。別に仕事があったからとかそういった理由ではなく、ただ単に久保田が慢性の不眠症であるからに過ぎなかった。
久保田はベッドから起き上がると、椅子にかけてあった黒いズボンを履き、クローゼット下の引き出しから白いハイネックの薄手のセーターを取り出すとそれを着る。そして、その上にかけられている黒いコートを羽織ると、ベッドの方へと歩み寄った。
「商売道具がなくっちゃ、商売できないからねぇ」
パソコンが乗っている机の引き出しを久保田が開けると、そこには久保田の商売道具が横たわっていた。
あまり大きいタイプではないが、久保田が好んで使っているタイプ。
拳銃と呼ばれる、人を殺傷する能力のある武器が久保田の商売道具だった。
日本では拳銃の使用は禁止されているが、この第二新東京市では拳銃を所持している者が多い。それくらいの武器を持っていないと生活できない場所であることも、理由の一つであるが、やはり、そういうモノを必要とする生き方をしている人間が大勢いるせいなのだろう。
久保田は拳銃をズボンのベルトに刺し、携帯をポケットに入れた。
期限は三日に設定していたが、今から仕事に出かけるつもりなのである。
コンピューターネットワークの過度の普及により、情報の流通はかなり早い。こうして依頼があったということも、どこからか漏れていないという保障はどこにもなかった。
依頼は早く片付けるに越したことはない。
久保田は机の上のカギを取ると、部屋を出て玄関に向かった。
この部屋に久保田以外は誰もいないので、何も言う必要はない。
久保田は無言のままドアを開けると、そこから外へと出て行った。
まるで散歩にでも行くように。
実際、久保田の足取りは重くはなかった。
これからやろうとしていることも、その心に重くのしかかることはない。
仕事を始めてからまだ半年なのだが、その間にした仕事の数はベテランでもかなわないほどの数だった。沢山の数をこなせば、それに似合うだけの仕事が回ってくる。
そうすると、収入も増えるのだ。
だが、特にお金に執着しているわけではなかったし、仕事も成績を上げようなどとは微塵も思ってはいない。ただ、面倒なく仕事をすませようとした結果なのである。
久保田は面倒臭いことが嫌いな男だった。
久保田の住んでいるマンションから真っ直ぐ進むと、そこに四差路が現れる。久保田は四差路の前で少しだけ立ち止まった。
第二新東京市から新東京市に行くには、秘密裏に運行されている年代物の地下鉄に乗るか、排水溝をたどるという方法がある。だがしかし、久保田は新東京市へのゲートのある右に向かって歩き出す。
正面から堂々と新東京市に入るつもりらしかった。
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