くぼずきん.59
血の匂いの漂う騒がしい夜が明け、静かな朝の空気が辺りを包み込む。
すると、明るくなってきた空の下に疲れきった町が現れた。
終わりの見えない戦いの中で今まではかろうじて真夜中の静寂は守られていたが、その暗黙のルールも消え去り…、もはや休息の時間すらない。荒磯部隊が何らかの理由で魔獣の側に寝返ったとされる元隊長の葛西と右腕的な存在だった相浦、そして部隊の中でも特出した戦闘能力を持っている松原と室田の処分に向かった後、二区で野営をしていた軍の部隊が襲撃された。
すぐに近くにいた部隊が応援に駆けつけたため全滅は免れた様子だが、死者、負傷者が多数出ている。その原因は魔獣達の凶暴化が更に進んだせいだと軍では見ていたが、それにしては魔獣の動きに乱れはなく統率されていた…。
襲撃された部隊の生き残りの隊員の中に、魔獣の中に人間がいたと証言する者もいる。しかし、事前に荒磯部隊の隊長と一部隊員が裏切ったという情報が流されていたため、それは葛西だったのだという無責任な噂が軍内で発生していた。
葛西の処分に失敗した隊員が魔獣に襲撃されたいう証言もそれに重なり、噂はより真実味を帯びて事実に変わろうとしている。もしも、すべてを知る者がいたとしたら、その噂の影に黒豹を率いて暗躍していた橘の姿を思い浮かべるかもしれないが、朝日が登り空が明るくなっても断片的なものしか見えず、すべてが誰の目にも明らかにはならなかった…。
「俺は俺の道を行く…」
そんな状況の中で、そう呟きながら魔獣対策本部の前に立っているのは元荒磯部隊隊員の室田…。しかし、室田もまた本部にいる人間と同様に何も知らない。
だが、それでも自らの意志でいつものロケットランチャーではなく、ここに来る途中の廃屋で見つけた日本刀を片手に本部の前に立ったのは…、
ただひたすら、ずっと背中を守り続けてきた松原のためだった。
昨夜のように共に戦った仲間との戦闘など、松原にはさせたくない…。
だが、このままだと葛西達は荒磯部隊に、そして軍に命を狙われ続ける。
それを止めるには、下された命令を真田に撤回させる必要があった。
しかし、おそらく撤回を要求すれば…、くぼずきんや時任を差し出せと言ってくるだろう。だから、その要求が呑めない以上は実力で止めるしかなかった。
魔獣対策本部を襲撃する目的はただ一つ…、軍を潰す事ではなく。
現在、本部長代理である真田を始末する事…。
その目的を果たす事ができれば、今置かれている状況が変わるはずだった。
『すまないが行かせてくれ、俺にはやらなくてはならない事がある…』
くぼずきんと時任がいる廃屋の周囲を警戒し守っていた鵠に、室田がそう言ったのは夜が明けるよりも前。廃屋の中からくぼずきんを求める時任の色を含んだ声が、漏れ聞こえ始めた頃…。
室田が辺りを見回って、魔獣も荒磯部隊も撤退したのを確認した後だった。
夜明けを待たずにそう言ったのは、襲撃される可能性が低いと踏んだせいもあるが、ここよりも離れた場所で戦闘が行われている気配を感じたからかもしれない。もしも、考えている事を決行するなら、今か疲れ切った所を狙った方が有利に違いなかった…。
すると、鵠はなぜか廃屋の方を見て妖しく微笑む。
そして、荒磯部隊を抜けてからの戦闘と逃走で疲れ切っている室田の顔を見た。
「貴方も少し休んだらどうですか? どこへ何をしに行こうとしているのか私にはわかりませんが、そのままでは目的を果たせるとは思えません」
「・・・・・・しかし」
「ふふふ、少し休むといっても彼らのようにとは言ってませんよ。ただ、医者として少し眠ってはどうかと提案しているだけです」
「そ、そんな事は言われなくとも…、わかっている」
廃屋の中に居る二人の事を鵠が言ったせいか、聞こえていた時任のあえぎ声が一際大きくなる。その声を聞いてやっと廃屋の中の状況を知った室田は、小さく咳払いをしながら真っ赤になって固まった。
戦いにおいては百戦錬磨だが色事においては奥手過ぎるほど奥手で、警察時代に同僚に炊きつけられて一応経験はあるものの、傍にいるだけで精一杯で想い人には指一本触れられない。そんな室田の事をわかっているのか、鵠は妖しく微笑んだまま近づくとゆっくりと手を伸ばして軽く頬に触れた。
「それとも誰も来る様子はありませんし、少しの間でも何もかも忘れて…、休みますか?」
「な、なにを…っ」
「さぁ、なんでしょうね?」
「俺は…、そのっ」
「医者の言う事は、聞くものですよ…」
そう言いながら鵠は自分の顔を、室田の顔に近づけてくる。
今まで松原以外に興味はないのでじっと見た事がなかったが、鵠の顔は見惚れるほど整っていて美しい。女物の服を着れば、化粧などしなくでも女で通りそうだった。
魅力的かと聞かれれば、魅力的だと答えるしかない…。
まるで金縛りにでも合ったかのように、室田は鵠の手を振り払う事ができなかった。
廃屋の中からは時任の声…、目の前には鵠の妖しい微笑み…。
疲れのせいか目眩がする。
室田は赤い顔で額に汗をかきながら、必死に言い訳を考えていた。
そもそも言い訳など何も必要ないのだが、目眩のせいか思考がまともに働かない。松原…っ、松原…っっと心の中で繰り返し呪文のように松原を呼びながら、室田は思わずぎゅっと目を閉じた。
すると、そんな室田を見た鵠は、らしくなくプッと吹き出してクスクスと笑い出す。そして、頬に触れていた手を離すと、代わりに反対側の手に持っていた錠剤を差し出した。
「どうやら、貴方に必要なのはこちらの栄養剤で眠り薬ではないようですね」
「じゃあ、さっきのは…っ」
「はい?」
「い、いやなんでもない」
「ふふふ…、そうですか?」
鵠にからかわれたのだと気づいた室田は更に真っ赤になりながら、穴があったら潜りたい新起用で栄養剤を受け取って俯く。けれど、からかわれる前よりも今の方が、さっきよりも肩が軽くなっているのは確かだった。
魔獣対策本部へは一人で行く…。
そのせいか、自分でも気づかない内に肩に力が入りすぎていたのかもしれない。肩が軽くなって初めてそれに気づいた室田は、俯いていた顔をあげると、手のひらの栄養剤を口の内に放り込んで噛み砕いた。
「礼を言う…。ありがとう、先生」
「いいえ、私は礼を言われるような事は何もしてませんよ」
「・・・・・・すまないが、後は頼みます」
「了解しました、どうかお気をつけて…」
どこに行くのか何をするのか、鵠は何も聞かない。
そして、室田も何も言わなかった。
それはたぶん鵠ではなく、室田がそれを望んでいたせいかもしれない。もしも自分が本部に行ったまま戻らない時は、その事をできるだけ松原の耳には入れたくないと室田は思っていた。
だが、覚悟はしているが死にに行くつもりはない…っ。
そう心の中で松原に告げながら室田が歩き出すと、背後から鵠の声がした。
「貴方には守らなくてはならない人が、心から大切に想う人がいるのですね?」
「います・・・・。廃屋の中の二人のような関係でなくとも、それでも俺にとっては…、何よりも守らなくてはならない大切な人が」
「そうですか・・・・・・・」
「俺はその人の事を愛している…、心から…」
ずっと心の奥に隠し続けてきた想いを始めて口にした室田は、苦笑しながら本部に向かって一人で歩み始める。しかし、その瞬間に再び目眩がして意識を失った…。
実は室田が鵠から受け取った薬は栄養剤ではなく、睡眠薬…。
それに気づいたのは夜明け近くまで、睡眠薬で眠ってしまった後だった。
目覚めると本部近くの古い雑貨店の片隅に寝かされていて、そこの店主が室田の前に武器を並べる。話を聞くとどうやら睡眠薬で眠った後、鵠に頼まれた店主によってここに連れて来られたらしかった。
この店では表向きは雑貨屋だが、武器を販売している。
つまりは…、そういう事だった…。
「図られたな…」
室田はそう呟いたが、口元は笑っている。たぶんあのまま本部に行っていたら、疲れのために集中力を欠いて無駄死にしていたかもしれなかった。
でも、少しでも眠った今は妙に頭がスッキリしていて身体も軽い。
室田は起き上がると店主が並べた武器を眺めて、そしてその中から拳銃や愛用しているロケットランチャーではなく…、日本刀を手に取った。
戦いではあまり使わないが良く松原の訓練に付き合っているため、日本刀は使いなれている。本部に潜入するには重くて大きいロケットランチャーよりも、軽くて持ち運びしやすい日本刀の方がいい…。
そう判断した室田は、日本刀を持って店を出た。
そして…、魔獣対策本部ビルの前に立つ今に至る…。
店主から聞いた情報によると、真田は昨日からこのビルの中にいるらしかった。
本部ビルの正面、少し離れた場所から周囲の様子を伺いながら、室田は決意を込めて日本刀を握りしめる。そして、昨日の襲撃のせいか警備が手薄になっているのを確認すると、足を一歩前へと踏み出した…。
「すまない…、松原…」
血の匂いの混じる風が頬を打ち、朝焼けの空が歩き出した室田を見守る。
けれど、そんな室田の行く手を…、同じ日本刀を持った人物が阻んだ。
相手は身体は小さいが、正面に立つだけで尋常ではない気迫が風のように吹き付けてきて勝てる気がしない。室田は握りしめた日本刀を抜かず昇り始めた朝日に目を細めながら…、立ち止まった…。
「なぜだ…、どうしてここに…っ」
立ち止まって室田がそう言うと、今度は正面に立つ相手の方が室田の方に向かって歩き始め…、目の前まで来ると立ち止まる。そして、持っている日本刀は抜かずに右手の拳を振り上げて室田の頬を思い切り殴りつけた。
バキィィィィーーッ!!!
殴りつけた音が辺りに響き、殴った人物は手で室田の襟を掴むと路地へと引き込む。そして…、ギリギリと襟をしめ上げながら鋭い視線で室田を睨みつけた。
「今、何をしようとしていた? ゲートにも来ないで、一人で本部の前で日本刀を握りしめて…っ、何をしようとしていたっ、答えろ室田っっ!!」
そう叫んだのは…、
もう会えないかもしれないと、室田が心のどこかで想っていた人物だった。
その手に持つ刀ごと愛している…、けれど想いが届くことはない…。
だが、それを一度も嘆き哀しんだ事はない。
愛刀の童子切安綱のように、曇りのない松原の瞳…。
それを守る事だけが、松原の背中を守り続ける事だけが室田の願いだった。
室田は睨みつけてくる松原の瞳を見つめ返すと、ぐっと刀を握りしめる。
そして、襟を掴む松原の手を払い除けた。
「俺はこれから真田を殺しに行く…。だから邪魔はするな…」
「室田っ!」
「これは俺が決めた事だ」
「・・・・・・・・」
「誰にも俺の邪魔はさせない…っ」
室田はそう言うと松原の横を、すり抜けようとする。
だが、松原はそれを許さなかった。
さっきは抜かなかった愛刀を抜くと、室田の喉元に突きつける。
しかし、室田はそれでも立ち止まろうとはしない。けれど、鋭く睨みつけてくる松原の瞳に…、曇りのない澄んだ瞳に涙が滲んでいるのを見た瞬間…、
室田はその涙に驚いて思わず足を止めた…。
どんな事があっても、何があっても松原の泣いた所を今まで一度も見た事がない。
なのに、今…、松原は泣いていた…。
「僕の背中はいつも室田が守ってきた。そして、室田の背中はいつも僕が守ってきた…。なのに、どうして僕を置いて行こうとするんです…」
「・・・・・・・」
「僕の背中は室田しか…、室田の背中を僕しか守れない。ずっとそう想ってきたのに、室田はそうじゃなかったんですか?」
「・・・・・松原」
「室田が行くなら僕も行きます…、どこまでもどこへでも…」
松原の室田への想いの詰まった熱い言葉…。
その言葉を聞いた室田は、再び伸びてきた松原の手を振り払う事はできなかった。
抱いている気持ちは完全に同じではないかもしれないけれど、お互いの背中を守り続けてきた想いは室田も松原も深く重い。そんな松原の想いを感じた室田は、伸ばされた松原の手を強く握りしめて深く頭を下げた…。
「俺は忘れていたのかもしれない…。俺が松原の背中を守ってきたように、松原も俺の背中を守ってきたのだという事を…」
「お互いの背中を守り続け…。だから、倒れる時は一緒です」
「ああ…、そうだな。だが、俺が絶対に松原を倒れさせない…」
「僕も室田を倒れさせたりしませんよ…、絶対に…っ」
そう言って室田と笑い合う松原の瞳に、もう涙はない。
けれど、あの涙は室田の胸に染み込んで離れなかった…。
今までも松原の背中を守ってきた…。
でもこれからはあの涙のために、自分を想い流してくれた涙のために戦いたい。
そんな想いに駆られながら、室田は朝焼けの消えかけた空をみる…。
すると背後から足音がして、二人の上に影が落ちた。
「上手くまとまった所で、一緒に来てもらおうか」
「か、葛西隊長…、それに相浦までなぜここにっ?!」
「あぁ、それはつまり行き着いた場所は、考えはお前ぇと同じってコトだ。もっとも俺は命が惜しいし、本部に突撃はしねぇがな」
「じゃあ…」
「ただ真田を消してもイミはねぇ、俺らに必要なのは魔獣と戦えるだけの戦力だ。だから、ココは魔獣対策本部の本部長様に活躍してもらおうぜ」
葛西は何を考えているのか、そう言うとゲートから一緒に連れてきた松本を見てニヤリと笑う。だが、松本はすでに本部長の座を追われているし、葛西も魔獣の側に寝返った裏切り者として命を狙われている現状は変わりなかった。
こんな窮状に追い込まれてしまったのは荒磯部隊を抜けた時、葛西を含めて誰もが状況がここまで早く動くとは思っていなかったせいである。軍も国も闇組織に犯されている事は誰もが知っている事実だが、真田が本部長代理として直接表に出てくるとは、さすがの葛西も思っていなかった。
だが、終わりの見えない戦闘の最前線に立ち続けていた事を考えれば、それも無理はないのかもしれない。もしも刑事時代の情報網を使って真田についてなんらかの情報を掴んだとしても…、考えるのは明日の戦闘と明日の命。魔獣との戦いの理由に疑問を感じながらも他の事を考えたり構っている余裕など、さすがの葛西もあまり持ち合わせていなかった。
・・・・・・・・・・ワイルド・キャットである時任とくぼずきんに出会うまでは。
葛西は室田と松原…、そして相浦と松本の顔を見回して…、
最後に少し離れた場所で様子を見守っている五十嵐と藤原を見る。
そして、何かを見極めようとするかのように本部ビルを見つめると…、荒磯部隊の隊長として最前線に立っていた時のように全員に号令をかけた。
「行くぜっ、野郎どもっ!!」
その声に従って全員が歩き出す。
けれど、同じ荒磯隊員に命を狙われ窮地に立っていながら、誰の顔も暗闇に沈んではいない。すべてを照らし出すように昇った朝日の中、葛西も相浦も…、
室田も松原も五十嵐も…、あの気弱な藤原も皆につられるように笑っていた…。
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