くぼずきん.57
「あれから薬もあまり使わずに、今まで良く倒れずに持ったものです…。並みの人間でしたら、とっくに倒れるどころか命を失っていたかもしれません」
ここは宗方のいる、廃ビル群の入り口付近にある廃屋。
そして、そう言った髪の長い中国服を着た男の声を、苦しそうな荒い息を吐きながらくぼずきんは聞いている。一緒にいた時任と室田は、くぼずきんと男のいる部屋ではなく廊下で怪我の手当てが終るのを待っていた。
この男は爆薬を仕掛けるように室田に頼んだ人物だが、実は無免許医でもある。
しかも、くぼずきんも時任もこの男に会うのは初めてではなかった…。
男の名前は鵠…、東湖畔という店の店主。
鵠は宗方に捕らわれた時任を救い出した時に負傷したくぼずきんを助けた無免許医だが、その昔、研究所で魔獣の研究をしていたという過去を持っていた。
「一応、手当ては終りましたが、今動くのは危険です…」
くぼずきんの傷を消毒して新しい包帯を巻き終えると、鵠は少し低い声でそう言う。そして注射器を片手に、時任と室田が待っている廊下へと続くドアの方を見て静かに微笑んだ。
「ちゃんと、時任君を見つけたんですね…」
「そのために、鵠さんが俺を起こしてくれたんでしょ?」
「それはそうですが…。正直な所、本当に貴方が時任君のいる場所までたどり着けるとは思ってませんでした」
「ヒドイなぁ、這ってでも行くって言ったのに信じてくれなかったんだ?」
「そうですね…、信じてはいませんでしたけど…」
「けど?」
「祈ってはいましたよ…、貴方の腕が時任君を抱きしめられるようにと…」
そう言った鵠の言葉を聞いたくぼずきんの口元に、わずかに笑みが浮かぶ。けれど、この場に時任がいないせいか、その笑みにも地下水路で負った傷からの苦痛が滲んでいた。
元々、最初からくぼずきんは、立ち上がって歩けるような身体ではない。でも、それでも薬だけで持ちこたえる事が出来たのは、時任の傍に居たいという強い想いと…、代々続くくぼずきん家から受けついた血の影響もやはりあるのかもしれなかった。
患者を心配する医師としての想いと、魔獣を研究している研究者としての興味。
それが、くぼずきんを見つめる鵠の胸の奥で複雑に入り混じる。わざわざ東湖畔から危険な場所へと出向いてきたのは、医師としてなのか研究者としての自分なのか鵠自身にもわからなかった…。
けれど、そんな鵠の複雑な心情を感じ取っているのか、くぼずきんは暗い廃屋の中で灯されたロウソクの炎を頼りに鵠が射った注射針をじっと見つめる。そして、一瞬だけ注射器の中に赤く滲んだ自分の血を見て苦笑した。
「この血が、くぼずきんの血が今の俺を生かしてる…、でしょ?」
「確かにおっしゃる通り、貴方が通常の人間とは違う可能性は確かにあります。あの地下水路で貴方を見た時、すでに出血多量で手遅れでした…」
「だろうね、撃たれどころも良くなかったし」
「えぇ…。それに今も薬を使っているという事を除いても、正直な所、まだ意識があるどころか生きてる事さえ不思議なくらいです。ですが、私はくぼずきん君や君の父親が何者なのかを知りませんし、貴方がこうだと知っていて助けた訳でもありません。あの地下水路で時任君の瞳を見た瞬間に…、ただ、絶対に貴方を助けなればとそう感じたから助けただけです」
「・・・・・・そう」
「私は医師として目の前で二つも命が失われていくのを…、見過ごせなかった…とは言っても、無免許のヤブ医者ですが」
中に入っていた液体をくぼずきんの血管に注入し終えると、鵠はそう言いながら注射針を腕から引き抜く。だが、注入された薬の影響でくぼずきんの顔色は良くなるどころか悪くなり、額から汗が埃に塗れた廃屋の床に流れ落ちた。
手と足…、そして全員に震えが走り、鼓動と共に呼吸も異常に早くなる。さっきまで倒れずに座り込むだけで持ちこたえていたが、さすがに座っていられなくなったのか…、くぼずきんの身体が床へと崩れ落ちた。
「たとえ、貴方が普通の人間とは違っていても、傷の痛みが消える事も苦しみがなくなることもありません。それは私が言わなくても、貴方自身が良くご存知でしょう?」
「・・・・・・・」
「このまま無事でいられる保証はどこにもないんです…」
「そう…、かもね」
「このまま魔獣達の住む廃ビル群へ宗方の元へ行けば、おそらく今度こそ貴方の命は失われ二度と戻らない」
「仮定じゃなく、断定なんだ?」
「はい、残念ながら…。ですから、再び時任君の手を握りしめる事ができたのなら、その手を離さずにこの場から二人で逃げてください…。たとえ宗方が追ってきたとしても、せめて傷が治るまで…」
鵠が言った通り、このままではただ死ぬために行くようなものなのかもしれない。
だが、それがわかっていてもくぼずきんは首を縦には振らずにお断りします…とハッキリと答える。そして、少し息を整えて身を起こすとと、また壁に寄りかかるようにして座り込んだ。
「たとえ逃げたとしても、この傷か治るまでどれくらいかかる?」
「それは・・・・・」
「その間に俺をネタにされれば時任はまた…、俺の前からいなくなる。いなくなって、今度こそ二度と戻らないかもしれない…、俺の命のように…」
「ですが、残酷な事を言うようですが、行っても同じかもしれませんよ」
「・・・・・・・」
「それでも、このまま行くつもりですか?」
鵠の問いかけにくぼずきんはすぐには答えない。答えずにふーっと全身から力を抜くように細くながく息を吐くと、廊下へと続くドアを見つめた。
ドアの向こう側にいる時任を見つめるように…。
そして、額に滲んだ汗を拭ってポケットから出したセッタをくわえた。
「結果は同じにはならない…、同じにはさせない…」
そう言ったくぼずきんの口調は、それほど強くない…。
けれど、じっとドアを見つめる瞳は、何か揺るがない決意のようなものを感じさせた。
くぼずきんにとって…、重要なのは自分が生きるか死ぬかじゃない。
重要な事は、大切なものはもっと別な所にある…。
次第に薬が効いてきたのか、先ほどよりも緩やかな呼吸を繰り返しながら、くぼずきんはポケットの中から蠢く肉片の入った小さなガラスケースを取り出した。
「それに、そうさせないために鵠さんはまだ安全な地区にある東湖畔から、わざわざ俺らのいる危険な地区まで来てくれたんじゃないの? そう…、たとえばコレの事とか?」
「・・・・・」
「どう? 違ってる?」
「いいえ…。ですが、私の持ってきた情報は確かではありませんし、聞いた所で何の役にも立たないかもしれませんよ?」
「じゃ、この情報料は無料ってコトで…」
「実は、私は情報屋でもあります」
「なら、なおさら確かじゃない情報は売れない…、でしょ?」
「・・・・・・・まったく貴方には敵いませんね」
そう言って軽く肩をすくめて笑いながら、鵠が自分の手の上に取り出したのはくぼずきんが持っているものと同じガラスケース…。そして、それは時任を宗方の元へ連れ去るために、橘が東湖畔に来た時に落としていったものだった。
だが、くぼずきんの持っているものと違って、鵠の持っているガラスケースには何も入っていない。そこに入れられていたはずの醜悪な神は、どこかへ姿を消していた。
だが…、やはり小さな肉片と成り果てても死んだ訳ではない。
鵠はガラスケースではなく、それを持っている指を反対側の手で指し示した。
「貴方が東湖畔を出た後、私はこのガラスケースの中にある肉片について調べる事にしました。ですが、私が調べたのは肉片が何であるか…、という事ではなく…」
「どうすれば、肉片を死滅させることができるか…」
「その通りです。今、必要なのはこの肉片が何かという事ではなく、この肉塊をどうすればこの世から消し去る事ができるかという事…」
「・・・・で、結果は?」
憎しみに波打つ肉片の入ったガラスケースを眺めながら、そうくぼずきんが尋ねる。すると自分に襲いかかってくるかもしれない肉片を、ガラスケースから出すという危険まで侵して調べた結果を鵠は静かに話した。
醜悪なる神…、肉塊から切り取られたと思われる肉片をガラスケースから取り出した鵠は、まずどれくらいの大きさまで生存していられるのか…、生き続けていられるのかを試すために肉片を手術用のメスで細かく切り刻む。だが、どんなに細かく切り刻んでも肉片は蠢き続けていた…。
決して死ぬ事がない…、肉塊の欠片…。
まるで、その細胞の一つ一つにまで憎しみが詰まっているかのように、メスで切られるたびにぶるぶると震える。だが、細かく切り刻まれた肉片は、時間が経つにつれて小さく縮んで…、やがて動かなくなった。
しかし、鵠が肉片が動かなくなった事に安堵のため息をつきかけた時、切り刻んだ肉片の中で、まだ蠢き続け生存していた一つが手の内から逃げ出し、部屋の片隅に居たあるものの内部にスルリと入り込む。だが、肉片に侵入されたものは…、襲われた人間のように食われた様子はなかった。
鵠の手から逃れた肉片が入り込んだのは、ネズミの体内…。
だが、ネズミは肉片に侵入された後も侵食された様子はなく生存し続けていた。そして、同じように解剖してみた結果、同じ大きさに切り刻んだ肉片は動かなくなったが、内部の肉片も動き続けて生存し続けている。
まるで、侵食するのではなく寄生するようにネズミの体内で…、
そして、肉片に寄生されたネズミを外に放すと、まるで主の元に帰るように廃ビル群に向かって走り始めた。
「始めは貴方の元に向かっていると思ったのですが、ネズミは私のつけた縄を噛み切って廃ビル群に消えました…、肉塊のあるビル群の中に…」
鵠はそこでいったん話を切ると、何も入っていないガラスケースを埃の溜まった床に置く。そして、くぼずきんが持っている肉片の入っている方のガラスケースに手を伸ばして、軽く二本の指で触れた。
「突然、何かに操られるように憎しみに駆られ、人間を襲い始めた魔獣達は廃ビル群に集まっている。そして、肉塊から切り取られた肉片に寄生されたネズミも…、同じように廃ビル群に向かった。この二つ…、どこか似ているように思いませんか?」
「つまり、魔獣が肉塊に寄生されてるってコト?」
「今はまだ何とも言えない状況ですが、この可能性は低くはないでしょう。それから、わかった事がもう一点…、肉塊が生きるためには水分が必要だと言う事です。肉塊が動かなくなったのは切り刻まれて容量が減った分だけ内部の水分量が減少し、空気に触れた部分から蒸発した」
「そう言えば、前に火に弱いかもって橘が言ってたっけ…。けど、あの大きさの肉塊から水分を奪うためには、かなりの火力が必要かもね」
「火で燃やす…、それが現在でもっとも有効な手段かと思われますが、少しでも残せば再生する可能性もあります…」
「・・・・・・・魔獣の体内」
「そういう事です。本体が死滅すれば、連鎖的にすべてが死滅するのなら問題はありませんが…、この状況であまり楽観的な考えは持たない方がいいでしょうね」
肉片を調べた鵠の見解は、葛西達の見解とは異なる。それはやはりくぼずきんと同じように葛西達も寄生の事実を…、可能性を知らないせいだった。
肉塊による寄生…。
それが事実なら、それは獣化した子供が生まれるという事実とは違った意味で魔獣対策本部のしてきた魔獣狩りが間違っていない事を…、政府の判断が間違っていなかった事を示す。だが、それと同時に人間に憎しみを抱き襲い始めたのは、東湖畔に来た橘の様子を見てもわかるように、魔獣達自身の意志ではなかった事も同時に示していた…。
「肉塊の憎しみは…、魔獣に寄生する事で伝染するのだとしたら…。なぜ、この肉片は人間の命令を魔獣に伝えたり守ったりしたのか、それは私にもわかりませんが…」
鵠はそう言いながら触れていた二本の指で、くぼずきんの手の上にあったガラスケースを持ち上げて取る。そして、べちゃりぐちゃりと波打ち蠢く肉塊をオレンジ色に揺らめくロウソクの炎で照らした。
すると、その様子をぼんやりと眺めていたくぼずきんが口を開く。
そして、ぽつりと妙な事を言った…。
「この肉片の何パーセントが…、カミサマなんだろうねぇ?」
何パーセント…。
そう言ったくぼずきんの言葉に、鵠が驚いたようにわずかに目を見開く。だが、何かを言いかけた鵠の声は、くぼずきんの治療が終るのを待ちきれずに室内に入ってた時任の声に掻き消された。
心配そうな顔をして室内に入ってきた時任は、くぼずきんの傍に駆け寄るとしゃがみ込んで大丈夫かと尋ねる。すると、くぼずきんは微笑んで優しく頭を撫でながら、大丈夫と告げて額に安心させるように軽くキスを押した。
けれど、やはり時任の表情はいつものように明るくはならない。心配そうな顔のままでくぼずきんの袖をぎゅっと握りしめると、肩に額を押し付けて目を閉じた。
「俺の目の前から居なくなったら…、絶対に許さねぇかんな…」
時任はそう呟いたが、くぼずきんからの返事は返らない。その事に不安を感じた時任が肩から額を離して顔を上げると、くぼずきんは時任ではなくオレンジ色の炎に照らされた蠢く肉塊を見つめていた。
自分への憎しみが詰まった肉塊を…。
すると、鵠はそんなくぼずきんの視線から肉塊を隠すようにガラスケースを握りしめると廊下へと続くドアに向かって歩き出す。そして、ドアにたどり着いて足を止めるとロウソクの炎に照らされながら寄り添う二人の姿を眺めて…、さよならではなくおやすみを告げた。
「もう逃げろとは言いませんが、私が見張っていますからせめて夜が明けるまでココで休んで行ってください。それが貴方の主治医である私からの…、命令ではなくお願いです」
そんな鵠の言葉と同時にドアが閉められると、部屋にはくぼずきんと時任だけが残る。
廊下には室田がいたが、鵠に何か言われたのか中に入ってくる様子はなかった。
あの荒磯部隊の野営地の近くにある廃屋を出てから、こんな風に二人きりになる機会はなかったし…、そんな事を考えている時でもない。けれど、鵠がドアを閉めてからも二人はその場から動こうとはしなかった…。
せめて夜明けまで…、
そう鵠は言ったが、もう夜明けまでそんなに時間はない。
そして、こうしている間にもさっきのように襲撃を受けるかもしれない。だが、くぼずきんは腕を伸ばして時任の身体を抱き寄せると、今度は額ではなく柔らかい唇に自分の唇を押し付けて深く…、胸の奥の想いのように深く強く口付けた。
「ふぅ…っ、ん・・・・・っ」
「・・・時任」
「ふ…っ、あっ、くぼちゃ・・・・っ」
「また俺の前から…、消えたら絶対に許さない…」
「それは…、俺がさっき…っ」
「・・・・・・・・許さない」
許さない…、絶対に…。
そうキスの合間に…、強い口調で繰り返される言葉は…、
まるで好きだと愛してると告げているようで、聞いていると胸が苦しくて…、
時任は激しいキスの合間にくぼずきんを呼びながら…、その背中を抱きしめた。
深く何度も繰り返す二人のキスの音が、静かな室内に響き…、
二人の影と一緒にロウソクの炎もゆらゆらと揺れて…、
その明かりに照らし出された時任を見ると、くぼずきんが眩しそうに目を細める。
やがて来る朝を見つめるように…、
けれど、その朝がまた次の朝へと、明日へと繋がっているのか…、
これが最後の朝になるのかはわからない。
だが二人の影はやがて…、何かを繋ぐように…、
何かを繋ぎとめるように…、
ゆらゆらと揺れるロウソクの炎に、短い夜に想いを影を揺らされながら…、
お互いを求め合う手を…、身体を繋げていた。
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