くぼずきん.56




 くぼずきんの言った言葉が耳に響いてきた瞬間、脳裏に浮かんだのは一緒に走り抜けた地下水路の暗がり。そして途中で走れなくなって歩けなくなって抱きしめた、冷たくなっていく身体と血の匂い…。
 今すぐに引かれた手を振りほどいて大切なものを、絶対に失いたくないものを守らなくてはならないのに逆にその時の暗がりが、冷たさが時任を動けなくする。叫ぶことさえできなくて、時任は全身の血が凍り付いていくのを感じながら目を見開いた。
 すると、その瞬間にさっきまでうるさいくらいに鳴っていた鼓動が、激しく胸を上下させていた呼吸が止まる…。けれど、強く握りしめている自分を守ろうとしている、くぼずきんの手のぬくもりだけは…、その想いだけはハッキリと感じられた。

 ・・・・・・くぼ…、ちゃん…。

 声にならなくて、唇だけで呟いた大好きな人の名前。
 絶対に離したくない、あたたかい手…。
 止まりかけた鼓動で止まらない想いを刻みながら、時任がくぼずきんを呼ぶ。
 だが、それでも時は止まらずに流れ続け、くぼずきんを無数の弾丸が襲った。
 

 ガゥンッ、ガゥンガゥンーーーッ!!!!

 
 鳴り響く始まりではなく、終わりを告げる音。
 まだ始まったばかりなのに、まだ何も始まっていないのに終わっていく。
 哀しい音が鳴り響いて、その音が何もかもを奪っていく。
 誰よりも大切な人を、誰よりも好きな人を…、

 時任の手から・・・・、くぼずきんの手から…。
 
 けれど、黒服の男達の撃った銃弾はくほずきんに到達する前に、轟音と共に何かに弾かれて辺りへと飛び散る。その音を聞いた時任が目を見開いたまま反射的に振り返ると、そこには何か太い鉄柱のようなものが生えていた。
 それを利用して飛んできた銃弾を避けたくぼずきんは、腕に傷を負っているものの倒れてはいない。時任は信じられない思いで鉄柱で見つめた。
 いきなり目の前にあらわれた鉄柱は、実は良く見るとどこかで見覚えのあるロケットランチャー…。時任はそれを見つめて、やっと動き始めた心臓を左手で押さえた。
 鼓動が激しすぎて心臓が痛い…、でもこれは夢じゃない…。
 時任は胸の痛みに耐えるように目を細めると、くぼずきんを責めるように握りしめた手に力を込める。けれど、すぐに表情と力を緩めて…、ごめんねと告げながらも離れなかった手を優しく握り返した…。
 握りしめた手のひらの中にあるあたたかさが優しくて…、なぜか哀しい…。
 でも、今はそれをゆっくりと感じている暇はなかった。
 二人はどちらからともなく手を離すと、次に飛んできた銃弾を右と左に分かれて避ける。すると、そんな二人の間を大きな黒い影が走り抜けた。

 「うおぉぉぉぉっ!!!!」

 野太い声で叫びながら、黒い影は地面から生えていた重いロケットランチャーを引き抜くと軽々と片手で持つ。そして、自分に向かって撃ち放たれた弾丸をランチャーを振り回して弾き返した。
 せっかくランチャーを持っているのに撃たないのは、弾が入っていないから…。それでもランチャー持ち続け武器として使用しているのは、ただ手に馴染んでいて使いやすいというだけらしいが、こんな重いものを軽々と片手で持ち自在に操れる人物は時任と久保田が知る限りでは一人しかいない。
 ランチャーを投げてくぼずきんの危機を救ったのは、元荒磯部隊の室田だった。

 「遅くなってすまない。少し前に到着していたんだが、ある人物に手伝いを頼まれて遅くなった…」

 室田はそう言って人間離れした力と速度で撃たれた弾を防ぐと、すぐに時任達と一緒に後退を始める。それはいくらクマ殺しと呼ばれた室田でも、一時的にしか無数の銃弾を防ぎ切る事はできないからだった。
 くぼずきんは撃たれずに済んだが、このままだと三人とも蜂の巣になる。だが、室田はなぜか黒服の男達に攻撃をしかけるのではなく近くにあるビルの屋上を見上げながら、くぼずきんと時任に向かって叫んだ。
 「二人とも、今すぐ耳を塞いで伏せろっ!!!」
 「えっ!? な、なんで!!」
 「時任…」
 「わ、わぁったよっ!!」
 なぜ耳を塞ぐのか疑問に思っていたが、後ろから叫ぶ室田の迫力とくぼずきんの声に押されて時任が耳を塞ぎ走るのを止めて伏せる。すると、室田が同じように耳を塞いで伏せるのと同時に、くぼずきんも止まない銃弾から守るように時任の上に覆いかぶさった。
 すると、その瞬間に辺りに閃光が走り轟音が響く。
 そして、何も見えなくなるほどの砂煙が周囲に立ち込めた。

 「どうやら…、かろうじて間に合ったようですね」

 爆発の直前、室田が見上げたビルは次々と爆発で倒壊していく建物の中で、唯一壊れても倒れていない。そして、その屋上にたたずむチャイナ服を着た細身の男は、そう呟くと口元に柔らかい微笑を浮かべた。
 細身の男の眼下に広がる砂煙…。
 その中を室田が何かを想うように唇を噛みしめながら、ロケットランチャーを肩に担いで走り、決して離れ離れにならないようにくぼずきんが時任の手を握りしめて、時任がくぼずきんの手を握りしめて走る。だが、この混乱の中では誰も三人の姿を捉える事はできなかった。
 そして…、同じように砂煙の中に居る大塚の姿も…。
 けれど、すでに大塚は魔獣達に襲われ全身が血で赤く染まってしまっていた。
 煙が辺りを覆い尽くし何も見えなくなっていたが、すでに大塚の目には何も見えてはいない。額から流れてくる血を拭えば少しは見えるのかもしれないが、そんな体力も気力も大塚には残っていなかった。

 「・・・・・・助けてくれ」

 そんな言葉が大塚の口から漏れたが、誰もそれを聞く者はいない。
 どんなに血塗れになっても助けを呼んでも、誰も手を差し伸べてはくれない。
 大塚は誰かを呼んで助けを求めようとしたが、誰の名前も浮かばなかった。
 目の前にあるのは絶望だけで他には何もない。結局、自分じゃない誰かを踏みつけて踏みにじって、何が何でも掴もうとしていた富も権力も何も大塚を助けてはくれなかった。
 けれど、すぐにまた完全な暗闇がやってきて、今、感じている絶望さえも命と共に消えてなくなる。この廃墟の町でやがて朽ちて消えていくだけで、何も残らない…。
 だが、そんな大塚の手を引っ張って、絶望の淵から救い出そうとする人間がいた。
 「おいっ、お前はそっちを持てっ!」
 「ちょっ、ちょっと待てよっ。なんか身体に力入ってなくて、ふにゃふにゃしててかなり重いんだってっ!!」
 「けど、急がなきゃ逃げらんねぇだろっっ!」
 「そんなのは、言われなくてもわかってんだよっっ!!」
 聞こえてくる声には、聞き覚えがある…。
 大塚の耳に届いてきたのは、いつも近くで聞こえていた声だった。
 すぐに見捨てて自分を置いて逃げたはずなのに、あのまま逃げていれば簡単に逃げられたはずなのに…、近くに石橋と佐々原がいる。大塚は信じられない思いで重い手をやっとの思いで持ち上げると、目に入った血を袖で拭った。

 「お前ら…、俺を見捨てやがったクセに、なに今更戻ってきてんだ…。あのまま逃げてりゃよかったのに…、マジでバカじゃねぇのか…」

 心とは裏腹に、いつもの憎まれ口しか叩けない。
 そんな自分を、大塚は激しい痛みに顔を歪めながら自嘲した。
 こんな風に憎まれ口を叩くのではなく、もっと気の利いた言葉を言えたら、想いをそのまま言葉にできたら…、もっと違う人生が待っていたのかもしれない。けれど、それを言う事ができないのが、言えないのが大塚だった。
 そして、本当なら仲間であるはずの二人に見捨てられても逃げられても当然だと思えるくらいに、悪事や非道な事を重ねてきたのも大塚だった。
 犯した罪は深く濃く…、どんなに拭っても拭い切れない。
 けれど、そんな大塚に向かって二つの救いの手が伸ばされ、大塚もその手に向かって手を伸ばした。だが、犯した罪の重さを示すように大塚に向かって伸ばされた手は、大塚の手に触れる寸前、鈍い音とともに下に落ちて視界から消えた…。
 「さ、佐々原っ!! 石橋ぃぃぃっ!!!!」
 「虫唾が走るくらい麗しい友情ゴッコは、そこまでにしてくれるかしら?」
 「て、てめぇはオカマ…っっ!!」
 「そう言うアンタはゴミね。与えてやった任務には失敗するしガラスケースは奪われるし、今までアタシの役に立った試しもない」
 「・・・・・っ!!!」

 「だから、今からアタシの役に立つようにしてあげるわ…。ねぇ…、死んでもアタシの役に立てるなんて考えただけでゾクゾクするくらいステキでしょう?」

 倒れた佐々原と石橋の背中には、銀色のナイフが刺さっている。そして同じナイフを握りしめた手が、血の海に沈む大塚の心臓に向かって真っ直ぐに振り下ろされた。
 ・・・・・・・・・グサリ。
 鈍い嫌な音がして大塚の口から、憎しみと血が溢れ出す。
 しかし鼓動が止まる瞬間…、最後の鼓動がドクンと音を立てた瞬間…。なぜか聞き覚えのある誰かの声が聞こえた気がして、見覚えのある影が視界を過ぎった気がして大塚は目を見開いた。

 『ごめん…、ごめんなさい・・・・。私を許してくれなくてもいいから…、どうか貴方だけは死なないで…』

 今まで思い出せなかった…、胸の奥底に闇の中に葬っていた記憶。
 あの日、父親と母親と家族と何もかもを失った日…、魔獣を追ってきた相手は機密を知った者として、ここにいる全員を最初から殺して処分する気だった。だから、魔獣を差し出した所で誰も助かる見込みはなかった…。
 けれど、それでも大塚が助かったのは、誰かがそう言って泣きながら追っ手に壊された教会の瓦礫の片隅に大塚を隠したから…。
 でも、それは父親でも母親でもない。
 その時には、二人はすでに殺されていた。
 だから…、大塚を助けたのはその場に居たもう一人の人物。
 こうなる原因になった魔獣だった…。
 父親と一緒に憎んできた…、あの魔獣だった…。
 けれど、あの日の真実も事実も知ることなく…、
 そして魔獣の名前を、その涙のあたたかさを思い出すことも…、自分の瞳から零れ落ちてくる涙の意味も知ることなく、最後の一つの鼓動を打ち終えた大塚の心臓が停止する。だが、その鼓動を握ったナイフから感じた取った人物…、大塚に与えた任務の結果を見に現れた関谷は、少しずつ収まって薄くなり始めた砂煙の中で楽しそうに笑っていた。

 「あの腐った肉と一緒になる瞬間って、どんなカンジなのかしら? なんて聞いても、もうアンタには答えられなかったわね…、ふふふ…」

 息絶えた大塚に向けられた関谷の言葉に、近くにいた矢崎は額に汗をかきながら小さく唸る。それは肉塊が捕らえられてから、何度か肉塊に食われる人間の姿を見ていたせいだった。
 関谷は憎しみに駆られた魔獣達を軍と戦わせる一方で、死体や生きた人間を肉塊に食わせて太らせている。そんな事をして一体、何をしようとしているのかは、いつも付き従っている矢崎にもわからなかった。
 だが、おそらく関谷のしようとしている事に、矢崎と違って宗方は気づいている。けれど、それでも何も言わないし何もしないのには何か理由があるのか、それとも興味がないだけなのか…、
 橘に時任を連れてくるように命じた他に、宗方に動きはなかった。
 そして、チャイナ服を着た男よりも遠くのビルから、この様子を眺めていた男にも…。
 しかし状況は刻一刻と変化し、その度に憎しみと哀しみが生まれていく…。
 けれど、乾いた廃墟の風に逆らうように、くぼずきんと時任は立ち止まらずに前へと進み続けていた。
 



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