くぼずきん.51




 夜の町を振り返らずにひたすら走って、走り抜けて向かう先はヘブンズ・ゲート。
 しかし、そこに向かうのはゲートを、天国への扉を開けるためじゃない。くぼずきんと時任、そして葛西達もそれぞれの想いを胸に、死ぬためではなく生きるために走り続けていた。
 廃墟となっていたホテルで荒磯部隊の襲撃を受けて散り散りなって走り出したが、未だ荒磯部隊内でヘブンズ・ゲートと呼ばれている教会に到着したのは相浦と松原、そして補欠の藤原の三人のみ。他の五人は荒磯部隊の追撃をかわしながら、誰もいなくなり廃墟となった町の中にいた。
 
 「いつの間にか、はぐれてしまったか…」

 荒磯部隊に追われながら走っている内に、いつの間にか一人切りになってしまっていた松本は、そう呟く手立ち止まって辺りを見回す。だが、自分が立っている場所がどこなのか、どこへ向かって走ればいいのかさえもわからなかった。
 この町に来てからは常に真田と一緒に行動していたため、魔獣対策本部と出雲会の他は真田の利用するホテルなど、本当に限られた場所しか知らない。今、始めてその事に気づいた松本は、右目を片手で覆って低く短く笑った。
 魔獣対策本部、本部長の椅子に座りながら、所詮、くぼずきんの身代わりで捨て駒でしかなかった自分自身を嘲笑うかのように…。
 そして右目を覆った手を外すと、その何もできない無力な手をじっと見つめた。
 「利用されていないつもりが、利用されていた。そして何もかもわかっているつもりで、俺は何もわかってはいなかった…」
 松本はそう呟いたが、魔獣の事について調べた事実は間違ってはいない。
 今も魔獣の存在は、人類をおびやかし続けていた。
 けれど、魔獣対策本部、本部長の座を追われた今になって、自分のしてきた事を悔やんでいる。こうして町を歩いているとお互いを守るように寄り添っている久保田と時任を見ていた時よりも、もっと深くその想いは強くなり、とても自分のしてきた事が正しいとは思えなくなっていた。
 誰もいなくなり静まりかえった町の乾いた空気を感じながら、道に放置されたままになっている人間や魔獣の無残な遺体を見ると…、本部長の椅子に座って町ではなく机の上だけを見てきた自分自身に怒りを感じる。時任を守りながら戦うくぼずきんと、そしてそんなくぼずきんを守ろうとしている時任を見るまで、魔獣も想いを心を持っている事を知りながらも人間ではないという理由だけで考えもせずわかろうともしなかった。
 その結果、終わりの見えない戦いを生み…、目の前に広がる廃墟を作り…。
 そこには希望ではなく、絶望だけがある。松本は死臭の混じる乾いた風に吹かれながら、見つめていた無力な手を強く硬く握りしめた。
 「何が人間としての限界だっ、何が町の行く末を見届けるだ…っ。あんな椅子に座って思い上がって何様のつもりだったんだ…、俺は…っ」
 そう言って屈み込むと手を伸ばし、松本は苦しみと哀しみに歪んだ凄まじい表情を浮かべて息絶えている魔獣の目蓋をそっと閉じる。けれど、そんな事をした所でこの魔獣の苦しみと哀しみが消える事はない…。
 この戦いが続く限り苦しみが哀しみが、どこまでも広がっていく。松本は迫り来る荒磯部隊の気配を感じながらも逃げ出さずに机の上の紙切れではなく、目の前にある現実を見つめながら立ち尽くしていた。

 「あの時、お前はこうなる事を予知していたのか、だから俺の元から去って行ったのか…、橘…」

 自分に向かって近づいてくる足音を聞きながら、松本はここにはいないかつての恋人に向かってそう呟く。一枚の紙切れに書かれたメッセージだけを残して関谷と一緒に消えた恋人を、自分を裏切ったんだとそう想って忘れようとしてきたが…、
 今も何かを想い悩み…、そして呼びかける相手は橘しかいなかった。
 松本は返事が返って来ないと知りながら橘に呼びかけてしまった自分に苦笑したが、そんな松本の後ろから聞き覚えのある声がする。しかし、松本がその声にハッとして後ろを振り返ろうとした瞬間に激痛が走って、腹に打ち込まれた拳に強引に意識を奪われた。

 「いいえ、違いますよ…。貴方が鬼でも悪魔でも、そして人間でも僕は愛してますから…」

 気を失ってしまった松本の耳には、突然現れたかつての恋人の言葉は届かない。だが、崩れ落ちていく身体を抱き止めた腕の懐かしい感触に、薄れゆく意識の中で松本の唇は橘の名前を刻んでいた。
 ・・・・・・・橘。
 なぜ、こんな場所に橘がいるのか松本にはわからない。
 けれど、橘の方は松本がこの付近にいる事を知っていて来た様子だった。
 「そう…、僕は貴方を殺したいほど、憎みながら愛している…。ふふふ…、憎しみと愛しさで胸が張り裂けそうですよ…」
 そう言いながら気を失っている松本を抱き上げると、橘は冷たい唇で松本の唇に口付ける。そして、そんな橘の周りには人間よりも瞳孔の細い…、橘と同じ瞳をした魔獣達が集まっていた。
 集まっているのは大塚達を襲ったウィッチ・ドックではなくブラック・パンサー…、黒豹の群れ。魔獣達の呼び名は似ている動物の名前と研究者の付けたセンスの無い名前を合わせたものだが、黒豹に似ている魔獣に呼び名をつけた研究者は何も考えず見たままを名前にしたらしい。
 ブラック・パンサー達は橘の腕の中の松本を見ると唸り声をあげて、名前が同じ猫科であるせいかワイルド・キャットである時任と似た長い爪で襲いかかろうとする。だが、橘はその爪を避けて殺したいと言った松本を抱き上げたまま、素早く後方へと下がった。
 「これは僕の獲物、僕のものです。だから、誰にも触れさせないし殺させはしない…。この人を…、この人間を殺す時は僕の手で…」
 橘はそう言うと持っていたナイフの切っ先で、気を失っている松本の喉を軽く撫でながら妖艶に微笑む。しかし意外に細くしなやかな喉をわずかにナイフが傷つけ、その小さな傷に血が滲んだ瞬間、何かが橘に向かって勢い良く飛んできた。
 それに気づいた橘は、驚いた様子も無く飛んできた物体をナイフの柄で叩き落とす。けれど橘を攻撃して来た人物は攻撃をかわされても、周囲を取り囲んでいるブラック・パンサーを見てもひるまなかった。

 「そこの黒豹だろうとアンタだろうと、その子は殺させないわっ。このアタシがいる限りっ、そんな真似はさせないわよっ!!!」

 橘とブラック・パンサーの前に立ちはだかっているのは、荒磯部隊でも反逆者として追われている元隊員でもない。この場には不似合いな胸の開いた派手な服に短いスカート、そして赤いパンプスを履いた厚化粧の女が立っていた。
 厚化粧の女…、荒磯部隊の救護班に所属し今は葛西達と行動を共にしている五十嵐は、じーっと橘を見るとウィンクをして色っぽく微笑む。そして、さっき投げたものと同じ手に持っていた鉄パイプをぎゅっと強く握りしめた。
 「あら、良く見るとアンタっていい男じゃない〜。もしも、その子を渡してくれるなら、一回と言わず何回でもデートしてあげてもいいわよ?」
 「せっかく、誘って頂いたのに残念ですが、僕は女性には興味がないんです」
 「そう、それは残念ね」
 「それに、今は用事もあるので…」
 「用事って、この子を殺す事かしら?」
 「いいえ…、違いますよ」

 「・・・え?」

 廃屋となっていたホテルから走り出した後、この辺りをさまよっていた五十嵐は松本を捕らえた橘の姿を見て、その言葉を聞いて…、てっきり魔獣対策本部、本部長と知っていて狙ったのかと思っていた。だが、どうやら本当にその目的でここに来た訳ではないらしい。
 橘の周囲にいたブラック・パンサー達は荒磯部隊の足音が間近に迫ると、その方向に向かっていっせいに走り出した。
 すると、少しして荒磯部隊のものと思われる銃声と叫び声が辺りに響き始める。荒磯部隊は反逆者を始末する事が目的だったはずだが、なぜか魔獣達に襲われていた。
 「どういう事なの? 偶然、それとも…?」
 五十嵐がそう言うと橘は抱き上げていた松本をすぐそばの壁に座らせるように降ろしたが、質問には何も答えようとはしない。けれど、五十嵐がハッとして月の光が照らし出す橘の頭を見ると、そこには魔獣の証明である耳はついていなかった。
 魔獣の群れを率いた人間…。
 そんな人間が裏組織や軍の中にはいるが、今の状況で魔獣が人間に従うとは思えない。けれど、五十嵐がその疑問を口にしようとした瞬間に、橘が着ていた白いシャツの中から拳銃を取り出して構えた。
 「貴方は一体、何者なの? まさか…、かなり若すぎるっていうよりくぼずきん君と同い年くらいにしか見えないけど、貴方がくぼずきんの父親だっていう宗方…?」
 「いいえ、違いますよ」
 「じゃあ…、貴方は…」
 「すぐにサヨナラするのに、名乗る必要なんてないでしょう?」
 「えっ?」
 「僕の姿を見なければ死なずにすんだのに…、すいませんね」
 橘はそう言うと、五十嵐に銃口を向けたまま引き金にかけた指を引き絞ろうとする。だが、銃口から銃弾が飛び出すよりも早く、銃声と共に別の方向からした飛んできた銃弾が橘の手の甲をかすめて飛んだ。
 
 「当てるつもりで撃ったが、手をかすめただけか…。瞬間的に飛んできた弾を避けるなんざぁ、アンタ只者じゃねぇな」

 そう言いながら撃たれかけた五十嵐を救い薄く煙の上がる銃口を橘に向けているのは、荒磯部隊元隊長の葛西…。廃墟となったホテルから葛西はくぼずきんと時任の後を追っていたが、途中で見失ってこの周辺を探し回っていた。
 だが、そんな時に近くからたくさんの銃声が聞こえて、もしかしたらと思い駆けつけて来たのだが、居たのはくぼずきんと時任ではない。散り散りに分かれた時、五十嵐と松本と同じ方向に室田が走っていったと思っていたが、いない所を見ると違っていたようだった。
 「おいっ、室田はどうした?」
 「そういうアンタは、くぼずきん君や時任はどうしたのよっ!?」
 「・・・・・・見失った」
 「なんですってぇぇぇっ!!!あの子達は集合場所がどこにあるかなんて、アタシ達と違って知らないのよっ!?」
 「そんな事は言われなくても知ってる。だが、アイツらは集合場所に向かう気なんざ、最初からありゃしねぇ…。だから、俺を故意に巻きやがったんだよっ」
 五十嵐は葛西の言葉を聞くと、荒磯部隊に襲われる前にくぼずきんと時任が二人だけで廃ビル群に向かおうとしていた事を思い出す。すると同じ事を思い出しているのか、拳銃を握りしめている葛西の表情が険しくなった。

 「俺達に向かって手を振った時、アイツら笑ってやがった…」

 くほずきんと時任が戦おうとしている相手は言っていた事が本当だとするなら、たとえ負傷していなくても勝てる相手ではない。けれど、二人は傷つきお互いを支え合いながら、やっと立っている状態なのに笑っていた…。
 その時に見た二人の笑顔は何もかもあきらめてしまった…、そんな笑顔ではない。だが、身を寄せ合う二人の姿を笑顔を見ていると嫌な予感ばかりが胸をよぎった。
 今まで終わりの見えない戦場で、自分のカンを信じて戦い抜いてきた葛西のカンは、恐ろしいほど良く当たる。でも、その予感が決して外れていなかった事を葛西に知らせたのは、くぼずきんでも時任でもなく…、目の前に立っている橘だった。
 黙って葛西と五十嵐の会話を聞いていた橘はフッと微笑む。そして、今まで多くの魔獣を殺してきた葛西を微笑みを浮かべたままでじっと見つめた。
 「確か貴方は葛西隊長…、でしたよね?」
 「俺の事を知っているのか?」
 「えぇ、とても良く知っていますよ。貴方の名前は、僕らの間では有名ですから…」
 「・・・・・・てめぇは何者だ?」
 「さぁ?その質問に答える義務はありませんし、答えるつもりもありませんが…。どうやら貴方は、くぼずきん君を見失う事で命拾いをしたようですね」
 「それはどう意味だ…っ」
 「もうじき、時任君は主の手に落ちる。そうして、それを合図に再び神が地上に降臨するんですよ」
 「そいつはまさかっ!!!!」

 「そう…、憎しみの波動に導かれ扉は開かれる…。醜悪な神よりも醜悪な人間を、人類を滅ぼすために…」

 醜悪なる神…、腐臭漂う肉塊…。
 その存在を見た事はないが、それがどんな存在であるかは聞いていた。
 しかし、まだ殺しても殺しても死なないという肉塊を倒す方法を見つけてはいない。肉塊が町に放たれる事で魔獣達がどうなってしまうのか、汚染が拡大した町がどうなってしまうのかもわからなかった。
 それを防ぐためには早く見つけて二人を…、時任を守らなくてはならない。けれど、なぜか葛西は、目の前に立つ橘に向かって引き金を引かなかった。
 「どうして、銃口を向けながら僕に向かって引き金を引かないんです?」
 「それはこっちのセリフだぜ、キレーな兄ちゃん」
 「おっしゃっている意味が、僕にはわかりませんが?」
 「だったら、ちゃんとわかるように言ってやる。なんで魔獣なのに、人間であるソイツを荒磯部隊の追撃から助けた?」
 周囲から聞こえてきていた荒磯部隊の銃声も叫び声も、いつの間にか止んでいる。そして再び静寂を取り戻した廃墟と化した町の中で、松本は魔獣である橘の手で壁を背にして座らされていた。
 その様子を少し離れた場所から見ていた葛西がそう言うと、橘は人間のものとは少し違う目を細めながら浮かべていた微笑みを深くする。そして、葛西に向け続けていた銃口を下へと降ろした。
 「・・・・・・どうして、僕が魔獣だとわかったんです?」
 「なんとなく、そんな気がしたってだけだ」
 「カン…、ですか?」
 「ああ」
 「そうですか、やはり外見だけではダメのようですね…。こんな事がなくとも、ずっと隠し切れるはずなどなかった…。なのに、もう元には戻れないのに知られるのが怖くて、手が震えるなんて滑稽ですね…」
 「ずっとって、それは何の話だ?」
 「ただの昔話です」
 「昔話…?」

 「ふふふ…、僕の正体を見破ったご褒美に貴方にチャンスを上げますよ」

 橘はそう言うと、松本を追っていた荒磯部隊の隊員を倒して引き上げてきたブラック・パンサー達に手で合図を送る。そして、まだ銃口を向けたままでいる葛西に背を向けると、気を失っている松本の方を憎しみではなく哀しみに揺れた瞳でじっと見つめた…。
 「貴方の仲間は今、三人ほど教会に到着しているはずです。だから、この人を連れてすぐにそこに向かってください…」
 「三人到着しているって、なぜそんな事をお前が知っている?」
 「・・・・・」
 「まさか、アイツらの事も助けたのかっ?」
 「真田に加担したこの人を見捨てずに、助けてくれた礼です。ですが、この次に会った時は必ず殺します…、貴方もこの人も一人残らず…。だから、もうくほずきん君達には関わらず何もかも忘れて、この町を脱出して…」
 「お前は…、本当に何者なんだ?」

 「僕は何者でもなく貴方が数え切れないくらい撃ち殺してきた…、ただの魔獣ですよ」

 橘はそう言い残すと、ブラック・パンサー達と共に夜の闇の中に消えて行く。
 その後ろ姿は…、なぜか見つめていると哀しくて辛くて…、
 気を失った松本に駆け寄って無事を確認した五十嵐は、走り去ってい橘の影に同じ魔獣である時任の影を重ねて見ていた。

 「魔獣と人間の違いなんて…、耳があるかないか…。本当にそれだけの事なのかもしれないわね…」

 五十嵐はそう呟いたが、魔獣と人間の間にある憎しみも争いの火も消える事はない。そして、そんな燃えさかる憎しみの炎を高い場所から、まるで神のように見下ろしている宗方が何をしようとしているのか、何を考えているのか誰にもわからなかった。
 宗方は時任を…、そしてくぼずきんの命を狙っている。
 橘から醜悪な神が再び解き放たれようとしている事を知った葛西は、今すぐにでも二人を探しに向かいたかったが、五十嵐と松本をこのまま置いては行けない。五十嵐は一人でも大丈夫だと笑顔で言ったが、葛西は五十嵐が止めるのも聞かずに松本を背中に背負うとヘブンズ・ゲートに向かって歩き始めた。

 「頼む…、無事でいてくれ…」

 ヘブンズ・ゲートに到着しているのは三人…。
 そして、ヘブンズ・ゲートに向かっているのも三人…。
 だが、あとの三人の行方は…、誰にもわからなかった。




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