くぼずきん.48




 「なんかさっきから…、遠くで泣いてる声がする…」

 廃墟となったホテルの一階の窓から外を眺めていた時任は、葛西と話をしているくぼずきんの袖を握りしめながらそう呟くと、頭の上についている耳をぴくぴくと動かす。けれど、その泣き声は時任の耳にしか聞こえていないようで、近くにいた室田と相浦はお互いの顔を見合わせて首を横に振った。
 さっきから室田と相浦は時任をじっと観察するように眺めていたが、難しい顔をして剣の手入れをしている松原もやはり同じである。そんな三人の胸には、魔獣と闘うことに疑問を持っていたとしても戦った数だけ複雑な想いがあるに違いなかった。
 時任の方は別に何も思っていなかったとしても、やはり今まで魔獣と闘ってきた室田や松原、そして相浦には違和感がある。その違和感は魔獣である時任が自分たちと…、人間と少しも変わらないことを今更のように感じているせいだった。
 この町に住んでいる人間が、魔獣を知らないということはあり得ない。だが、逆にこの町に住んでいるからこそ、魔獣は人間とは違うものだという意識が普段の生活の中で自分の知らない内に潜在的に刷り込まれてしまっていた。
 しかし自分の耳で聞き自分の目で見、そして自らの頭で心で考え想い…、三人は軍を出て魔獣である時任と共にいる。その理由はそれぞれ違うかも知れないが、ここにいるのは意思間違いなく自分自身の意思だった。
 松原は室田の方を向いたまま何かに満足したかのように晴れやかな表情でうなづくと、また剣の手入れをしながらくぼずきんの話に耳を傾ける。すると室田もそれにうなづき返して、松原と同じように話に耳を傾けながら愛用のロケットランチャーを磨き始めた。
 そんな二人を見ていた相浦は、視線を松原達からくぼずきんの所に行きたがって暴れている藤原を押さえつけている五十嵐に移す。すると、五十嵐は相浦に向かってウィンクをしたが、相浦は固まったまま顔を引きつらせてウィンクを返したりはしなかった。
 固まったまま助けを求めるように相浦は葛西を見たが、葛西は考え込むような表情をしていてそれに気づかない。葛西のそんな様子からもわかる通り、くぼずきんがした話はすぐに信じられるような内容の話ではなかった。

 魔獣の森と宗方…、そして醜悪な神…。

 そのどれもが突拍子もない話で、特に死なない存在がこの世に存在することはさすがに信じがたった。くぼずきんの話が嘘だとは思わないが、生があれば死があるというのが誰もが知っている自然の理である。
 くぼずきんの他に松本もその異様な姿を目撃していたが、あんなものは存在しなかったと信じたがっているかのように、話を聞きながら軽く左右に頭を振った。

 「あれが本当に神だとしたら、誰も救いを求めて祈ったりはしないだろうな…」

 松本はそう呟いたが、血の匂いの漂うこの町には空にも人の心にも…、初めから祈るべき神などどこにもいないのかもしれない。だが、神と呼ばれる不死の肉塊が町に現われてからまもなくして、魔獣達の凶暴化が始まったことだけは見逃すことのできない事実だった。
 肉塊は腐臭を漂わせながらくぼずきんの後を追っている、自分を殺した相手を…。
 しかしあれほど執拗に追いかけて来ていたはずなのに、今はその姿はどこにも見えなくなっていた。

 「ま、実際に、自分の手で引き金ひかなきゃ信じられないだろうけどね」

 くぼずきんがそう言うとガリガリと頭を掻きながら少しうなっていたが、話の内容を頭の中で整理すると、魔獣が凶暴化する引き金になったのは軍による魔獣狩りではなく、神とよばれるまるで生き物のように動く肉塊が関係しているらしいこと…、そしてその肉塊が宗方のいる廃ビルにいるらしいことが葛西にもわかる。つまりそれは、その肉塊を倒せばこの状況に何か変化を生むことができるかもしれないということだった。
 魔獣の凶暴化が収まれば、一時休戦するための話し合いもできるかもしれない。だが、くぼずきんのもたらした情報は、暗闇に覆われた戦場に一筋の光を見出したように思えたが最終的な所で問題が生じてしまっていた。
 もしも肉塊が不死身だという話が本当ならば、元荒磯部隊の精鋭が集まっていたとしても死なないものを殺すことなどできるはずがない…。つまり凶暴化の原因がわかっても、魔獣の凶暴化が進んでいる現状は変わらないということだった。
 そこまで考えると、葛西は頭を掻くのをやめて胸の前で両腕を組む。そしてくぼずきんのそばで窓から外を眺めている時任を見て軽く息を吐くと、それからまたくぼずきんの方へと視線を戻した。
 「…で、これから二人で宗方ってヤツのいる廃ビルに向かうってことは、不死身のカミサマってやつを殺す方法が何かあるのか? 誠人」
 「あったら、逃げてないと思うけど?」
 「ま、そりゃそうだ。だが、そうするとお前ぇは死ぬまでヤツに追われる…」
 「たぶんね」
 「それなりに覚悟はしてるってことか…」
 「覚悟ってなんの?」
 「なんのって、お前…」
 本気で言っている様子だったので思わずそう言いかけたが、くぼずきんの手が袖を握りしめている時任の手を包み込むように握りしめたのを見て、葛西は口元に笑みを浮かべて言いかけた言葉を胸の中に収める。そして、そんな二人から視線をそらせると、時任が見ている暗闇しか見えない窓を同じように眺めた。

 「相手が肉塊だろうとカミサマだろうと、二人でいるなら覚悟はいらねぇか…」

 葛西がそう言うと、時任の手を握るくほずきんの手に力がこもる。すると、時任は下からじっとくぼずきんの顔を見た。
 けれど、それは握りしめてきた手の強さに気づいたのではなく、少し汗が滲んでいたことに気づいたせいで…、
 時任は哀しそうな顔をして自分の手を包み込んでいる手をまたその上から握りしめると、手を引いて近くにあった椅子にくぼずきんを座らせる。そして椅子の後ろに回って腕を伸ばして、くぼずきんの肩をゆっくりと優しく抱きしめた。
 すると暖かな腕から時任の想いが流れ込んでくるような気がして、くぼずきんは握られていない方の手で時任の頭を撫でながら目を閉じる。けれどお互いのぬくもりだけを感じながらその暖かさの中でまどろむことを、目の前にある現実が許さなかった。
 怪我を負った自分の身体が、どこまで持ってくれるのかわからない。時任の頭を撫でる手がわずかに震えているのは傷からくる熱と痛みがひどくなってきたからだったが…、くぼずきんはまるで陽だまりの中にいるような暖かい優しい微笑みを浮かべていた。
 「もしも、この世にカミサマってのがいたとしても願い事なんてしない…。でも、それは信じてるとか信じてないとかそんなのじゃなくて…」

 もう…、望むものなんてなにもないから…。

 くぼずきんの言葉は途中で途切れたが、この廃墟となったホテルにいる全員が、聞こえないはずの声を聞いた気がしていた。
 くぼずきんは平気な顔をしているが、血の匂いの漂う戦場で戦い抜いてきた相浦達の目は誤魔化せない。そして、一緒に暮したことのある松本もくぼずきんの様子がおかしいことに気づき始めていた。
 藤原のぞいた全員がくぼずきんの怪我に気づいていたが、軍に追われている今の状況ではどうすることもできない。そして、ここに時任を置いて廃ビルに向かわずに逃げろと言っても無駄だということを…、決して時任から離れないということを…、穏やかすぎるくぼずきんの微笑みを見ながら誰もが感じていた。
 負っている傷は動き回るたびにひどくなっているはずなのに、時任を見つめながら微笑むくぼずきんの表情は前よりも今が…、今よりも次の瞬間の方が…、なぜかもっと穏やかになっていくような気がする。そしてその微笑みの中にはどこか哀しみに似た色があって、それが時任を見る瞳を微笑みを透き通らせて哀しいくらい優しく見せていた。
 けれど、その微笑みを見ているのがつらくて哀しくて、この二人をなんとかして助けてやりたいと思っても…、その方法は見つかっていない。
 
 東条組と出雲会…、そして不死身の肉塊と宗方…。
 
 すべては未だ混沌としたままで、いくら手を伸ばしても行く先を示す光は見えなかった。
 だが、肉塊を倒す方法も魔獣の凶暴化を止める方法も見つからなくても、葛西の意思はすでに決まっている。傷ついた二人を放ってはおけないということもあったが、より真実に近づくためには宗方に会う必要があった。
 しかし、ここから先へ勝ち目がないかもしれない戦いの中に、相浦達を連れていくことはためらわれる。誰一人として迷うことなく廃ビルに向かうことがわかってるからこそ、そのためらいは強かった…。
 葛西はこれから時任達とともに廃ビルに行くことを、皆に伝えるべきかどうかを迷っている。すると、イスから立ち上がったくぼずきんは時任の肩を抱いて、ホテルから出るためにドアに向かって歩き始めた。
 時任の方もそうするつもりだったらしく、肩を抱かれたまま葛西の方を見る。そして自分を助けてくれた皆に向かって、元気良くバイバイと手を振った…。
 
 「関係ねぇのに巻き込んじまってゴメン…。けど…、マジでありがとな…」

 たった二人で、しかも傷ついた身体のままで廃ビルに行ったらどうなるか、そんなことはわかりきっている…。だが、ここにいる全員で行っても帰って来れないかもしれない…。
 だから、もしかしたらくぼずきんは着いて来させないために、葛西の要求に応じてありのままを話したのかもしれなかった。
 けれど肉塊の話を聞いたからと言って、ここで時任の手に手を振り返すつもりはない。葛西が二人に続いて歩き出そうとすると、それに習って全員がドアに向かおうとした。
 しかし、そんな葛西達の気配を感じたくぼずきんは立ち止まると、ベルトに挟んでいた拳銃を抜いて構える。くぼずきんの構えた拳銃の銃口は、葛西の額を狙っていた。
 「そんな震える手で撃っても当たらねぇぜ…」
 「なら、もう一発撃つだけだけど?」
 「人数がいた方が有利だとガキでもわかるってのに、それでも本気で二人で行くってのか?」
 「何事もやってみなきゃわからないっしょ」
 「な、なにをバカなことを言ってやがるっ!」

 「バカでもなんでも…、二人で帰らなきゃならないから…」
 
 くぼずきんはそう言うと、時任の肩を抱きしめている手に少し力を込める。それに答えるように時任はくぼずきんの名前を呼ぼうとしたが、その瞬間に耳がカチャッという金属音を捕らえてピクッと動いた。
 けれど、時任の捕らえた金属音は室内からではなく外からである。しかも、その音は時任だけではなく、この場にいる全員に聞き覚えのある音だった。

 「みんな伏せろーーーっっ!!!!」

 時任が久保田と床に倒れ込みながら叫ぶと、五十嵐は藤原をガツッと思い切り蹴飛ばし、室田は松原をかばうようにして床に伏せる。そして、葛西は一番近くにいた相浦を抱えてテーブルの影に隠れた。
 すると今まで静かだった暗闇に沈む町に、無数の銃声がいっせいに轟く。
 人間を殺すために鳴り響くその音は、聞いているだけで心臓が凍りつかせようとしているかのように鳴り響き続け、先ほどまでの静寂を窓ガラスと一緒に無残に破壊していった。
 雲の隙間からのぞいた月光の照らされたガラスが、きらきらと輝きながら葛西達の上に落ちる。すると、その破片の一つが勢い良く飛んで、伏せているくほずきんの指をわずかに切った。
 そこから滲み出した赤い血が握りしめている時任の手に落ちると、くほずきんは手を離そうとしたが…、ぎゅっと強く握りしめて時任はそうすることを許さない。冷たく鳴り響く銃声を聞きながら時任は流れた血を舌でなめ取ると、握りしめ合ったままの手に頬を寄せた。

 「二人で帰らなきゃダメだって言ったばっかじゃん…。なのに…、なのにこれっくらいで簡単に手ぇ離してんじゃねぇよ…、バカ…」

 時任が哀しそうな瞳でそう言ったが、銃声がひどくて久保田の耳までその言葉は届かない。だが、くぼずきんは握りしめてくる手と頬のぬくもりを感じながら手をぎゅっと握り返した。
 二度と離れることがないように…。
 しかし、まるで二人を引き裂こうとするかのように弾丸が久保田の頬をかすめると、町中に響くような銃声が止む。すると、弾丸によってすべてガラスを割られた窓から、外からの乾いた風が部屋の中へといっせいに流れ込んできた。
 割られた窓からは、宗方のいる黒い廃ビル群が見える。そしてそんな暗闇に満ちた廃墟の中にニヤニヤと楽しそうな…、けれど悪意に満ちた笑みを浮かべた三人組が立っていた。
 その中でも特に得体の知れない笑みを浮かべている男は、室内を見回して相浦、そして葛西を見ると次にくぼずきんを見る。そしてそれから、くぼずきんと手を繋ぎ合っている時任に向かって持っていたライフルを構えた。

 「かくれんぼはつまんねぇからこれっくらいで止めにして、これから俺達とここで別なことして楽しく遊ぼうぜ? 子猫ちゃん」

 挑発するような言葉に時任がその男を睨みつけると、近くにいた男達もいっせいに再び拳銃を構え始める。男達は武器の少ないこのご時世だというのに、きちんと一丁ずつ拳銃を装備していた。
 弾も十分に持っているらしく、あれほど撃ったのに弾切れはしていないようである。けれど、彼らの姿を見た松原も室田も戦闘体勢を取ろうとはしなかった。
 その男達の顔を見た相浦は、驚きのあまり目を見開きながら彼らの名前を呼ぶ。
 すると…、横にいた葛西が立ち上がって床に落ちていたガラスをチリリと踏んだ。

 「・・・・・・クソッたれっっ!!!!」

 人間である葛西達に向かって拳銃を構えているのは、この七区で魔獣と戦う予定だった荒磯部隊…。そして、その荒磯部隊に指示を出しているのは、一度も戦場に出たことがない不良隊員の大塚だった。




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