くぼずきん.40




 白いシーツと薬の匂いのする毛布、そして薄暗い部屋。
 一つだけ開いた窓からは夕日が差し込んでいて、その色に染められながら眠っている時任はやつれて疲れ切った顔をしている。
 そんな時任の額を優しく撫でてやりながら、くぼずきんは時任の右手を握りしめていた。
 静かに静かに暮れていく夕日は、戦いの爪跡を残した町を染め上げていっていたが、今日の日は終わっても戦いに終わりは見えない。
 二人でこんな風に手を握りしめあって、魔獣の森に帰ることだけを…。
 ただこんな風に一緒にいられればと願ってきたはずなのに、気づけば魔獣と人間との戦いに巻き込まれてしまっていた。
 荒磯部隊の葛西に何か知っている事があれば話を聞きたいと言われ、くぼずきんは時任を連れて軍の補給部隊のある場所に来ていたが、やはり見つかるとまずいので近くの廃屋の中にいる。疲れ切って眠っている時任の腕に刺された点滴の針は、五十嵐という軍の救護班に所属している人間が刺したものだった。
 命に別状はないが、時任の衰弱はかなりひどく一ヶ月は安静が必要らしい。
 その診断を下した五十嵐は、医者ではなかったが腕は良い上に信頼の置ける人物らしく、葛西が二人のいる廃屋まで連れてきたのだった。
 時任のこともあるので、葛西との話は明日ということになっている。
 話したからといって今の状況も戦いについても、何かが変わるとは思えないが、葛西は魔獣と戦いながらも戦う理由について疑問を持っていた。そしてそれは荒磯部隊に所属している松原と室田、相浦の三人も同じようである。
 他の人間はわからないが、少なくとも葛西を含む五人は政府の発表を聞いても魔獣に対して嫌悪感を抱いてはいないようだった。
 しかし戦いは日増しに激しくなり、魔獣も人間も死者が増え続けている。政府の末端である葛西達個人がどう思っていようとも、やはり今までのように戦っていくしかないように思えた。
 魔獣を操っている宗方誠治と、この混乱を利用して暗躍している関谷と真田。
 そして、いつの間にか敵対関係になってしまっている橘と松本と…、葛西率いる荒磯部隊。
 魔獣と人間が敵対関係になった発端は宗方に違いなかったが、鵠から聞いた橘の様子と魔獣の暴走の話を聞くと、あの腐臭漂う肉塊が原因のように思えてならない。
 しかし魔獣の森からくぼずきんを追っていた肉塊は、なぜか忽然と姿を消していた。
 死んだとは考えられない以上、宗方が捕らえていると考えた方が良さそうである。
 時任が逃げずに立ち向かおうとしたように…、繋いだ温かな手を放さないでいるためには、やはり宗方と決着をつけなくてはならなかった。

 「やっと時任の顔をちゃんと見れた気がするのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろうね…」

 くぼずきんはそう言いながら時任の額から頬に手をすべらせると、親指で柔らかい唇を撫でる。すると時任の身体が少しだけもぞもぞと動いた。
 その様子をくぼずきんが愛しそうに見つめていると何か哀しい夢でも見ているのか、時任の目尻から涙がゆっくりと頬を伝って白いシーツの上に落ちる。伝い落ちていく涙をくぼずきんが指先で優しくそれをぬぐってやると、握りしめている右手に時任が力を込めてきた。
 無意識にぐいっと引っ張ってくぼずきん手を抱き込むように両手で握りしめると、時任の小さな声が寝言を言っているのが聞こえる。
 何を言っているのか気になったくぼずきんは、起こさないように気をつけながら時任の口元に耳を近づけた。

 「いくな…、くぼちゃ・・・。 おいて逝かないで…」

 かすかに聞こえてきた時任の声は、まるでまだあの地下道をさまよっているように…、哀しく震えてしまっている。時任の心についてしまった傷は、宗方に身体を犯されてしまったことよりも、くぼずきんが目の前で銃弾に撃たれてしまったことの方が大きいのかもしれなかった。
 こんな風に哀しませるために、涙を流させるために一緒にいたいわけじゃないのに…。
 時任の笑顔よりも泣き顔ばかりが…、今はくぼずきんの胸の中にある。
 くぼずきんは眠っている時任の額と目蓋に軽く口付けると、柔らかい黒髪に頬を寄せた。

 「好きだよ、誰よりも…、時任だけが…」

 そう呟きながらくぼずきんが瞳を閉じると、抱きしめられている手の上にまた温かい涙が落ちる。けれどその涙の感触と温かさに痛みを感じていても、もうこの手を放したいとは想わなかった。
 このまま一人で魔獣の森に帰らせた方がいいのだが、きっとどんなことをしても時任はくぼずきんを追いかけてくる。
 そんな風に想う事が自分の思い上がりだったとしても、逝かないでと泣く時任を…。
 たとえ二人の行く先に明日がなかったとしても、ずっと抱きしめていたかった。
 静かだけれど、その内に激しい想いを秘めているのかような赤い夕日に染められながら…、くぼずきんが時任の頭を抱き寄せようとする。
 すると部屋のドアが開いて、新しい点滴の交換をするために五十嵐が入ってきた。
 くぼずきんはそれに気づくとゆっくりと時任から身を離して、手を握りしめたままでなくなりかけている点滴の方を向く。中に入っている黄色い液体はただの栄養剤だったが、それが時任の細い腕に入っていくのを見ていると苦しかった。
 五十嵐は時任を見つめ続けているくぼずきんを見ると、新しい点滴に取り替えながら、
 「ねぇ、この子からアタシに乗りかえてみない? サービスしちゃうわよぉ〜」
とウィンクしながら言う。
 くぼずきんがそれを見もしないで「遠慮しときます」と答えると、五十嵐は微笑みながら眠っている時任の顔を眺めた。
 「こんないい男を捕まえてるなんて、ホントにこのコがうらやましいわ。しかも性別も…、魔獣とか人間とかそういうのも恋が越えちゃったなんて…」
 そう言いながら五十嵐が時任の髪に触れようとすると、くぼずきんがそれを手でさりげなく防ぐ。触ることも許してもらえなかった五十嵐が、苦笑しながら防がれた手を窓からの夕日にかざすとその影が時任の顔の上に落ちた。
 「ちょっと聞いてみるけど、もしかして最初はペットとして飼うつもりだったとかそういうことなの? 途中で何か変わっちゃったとか…」
 「・・・・違うよ」
 「じゃあ一目ぼれ?」
 「いんや」
 「だったら、いつこのコのことが好きになったの?」
 自分の聞いたことをことごとく違うと言われた五十嵐がそう尋ねると、くぼずきんは窓から夕焼けに染まる空を眺めながら微笑む。
 そして遠い日に想いをはせるように、夕日のまぶしさに目を細めながら口を開いた。
 「いつからとか、どこがとか…、そんな風に恋はしなかったから答えられない。 ただ時任だけにしか恋はしないし…、時任だけしか好きにならないってことだけしかわからないから…」
 「・・・・・・すごく好きなのね、このコのこと」
 「どうしようもないくらいに…、ね」
 「あーあっ、ホントにアタシの入り込む余地ナシなのねぇ」
 本当に残念そうな顔をしてそう言った五十嵐は、かざいていた手を降ろすとくぼずきんの横に移動する。そして軽く腕組みをして、くぼずきんに着ている服を脱ぐように言った。
 だが、それはヘンな意味ではなく傷の手当てをしようとしただけである。
 しかしくぼずきんは自分が負っている怪我のことを、まだ誰にも話していなかった。
 「さっさと服を脱がないと、傷の手当てができないでしょ?」
 「ケガしてるなんて、俺言いましたっけ?」
 「聞いてないけどわかるのよっ、薬の匂いと微妙な仕草でね。だてに最前線の救護班なんかにいるワケじゃないわ」
 「・・・・・時任が目を覚ましても、ケガしてるって言わないでいてくれません?」
 「本当に貴方は…、このコのことばかりなのね…」
 「自分の命より大切なんてウソで、そんなのは信じられない言葉だけど…、時任以上に大切なモノって想い浮かばないから…」
 「・・・・・・・くぼずきん君」
 五十嵐はくぼずきんに腹部に巻かれている包帯を交換しながら、思っていた以上の深手の傷に眉をひそめる。その傷は銃弾によるものだったが、急所をかすめていた。
 貫通銃創ではないので、手術によって弾を取り出した跡が残っている。
 まだ傷口は抜糸が終わっていないどころか、未だふさがらずに熱を持っていた。
 こんな状態で顔色一つ変えずに平然としていたくぼずきんに、五十嵐は深く長く息を吐く。
 今のくぼずきんに必要なのは、包帯の交換ではなくきちんとした病院に入院して安静にすることだった。
 このままの状態で動き回れば傷口がふさがらずに悪化して、命をおびやかす危険性がある。しかし、くぼずきんは首を横に振って入院することを拒否した。
 「入院するより、まだやらなきゃならないことがあるんで」
 「けど、このままだと貴方は…」
 五十嵐は深手を負っているくぼずきんをなんとかして入院させたがっている。
 だが今のこの状況で、傷を癒すためにのんびり入院していることはできなかった。
 自分の身体が相当危険な状態にあることを知ってはいても、このまま時任を一人で宗方の元に行かせるわけにはいかない。
 そばにいながらさらわれるような真似は、もう二度と繰り返すわけにはいかなかった。
 くぼずきんは宗方を父親としてではなく、時任を傷つけた相手としか認識していない。
 他人よりも遠いかもしれない宗方に、くぼずきんは凍りつくような底知れぬ殺意だけを抱いていた。
 「もし時任に言ったら…、俺のジャマをする気ならアンタを殺すよ?」
 「えっ?」
 「・・・ホンキでね」
 そう言ってくぼずきんが五十嵐に釘を刺したが、これは単なる脅しではなかった。
 五十嵐もそのことを感じ取ったのか、少しの間瞳を閉じると小さく息を吐く。
 そして再び瞳を開けて眠っている時任を見ながら、自分の左腕を右手で軽く握りしめた。
 
 「そんな恋し方は…、哀しすぎるわ」

 自分を殺すというくぼずきんにおびえる事もなく五十嵐はそう呟いたが、くぼずきんは夕日を眺めながら黙っている。
 静かに静かに暮れていく夕暮れの空のように…、薄暗い部屋にも静けさが落ちた。
 部屋に差し込んでいた夕日はあっという間に小さくなって…、辺りは薄暗くなってきている。
 くぼずきんが握っていた時任の手を放して、毛布の中に入れてやろうとすると、時任は身じろぎをした。
 「う…ん…」
 時任が目を覚ましそうな気配を感じて、くぼずきんが五十嵐の方を見る。
 すると五十嵐は軽く肩をすくめて、
 「邪魔者は殺されない内に退散しなくちゃね。アタシはまだ自分の命が惜しいもの」
と、言いながら部屋を出て行こうとした。
 その背中に向かってくぼずきんが礼を言うと、五十嵐は少しだけ振り返って微笑むとそのまま廊下に出る。
 それを見送ってからくぼずきんが時任に視線を移すと、時任の目蓋がゆっくりと開いた。
 
 「くぼ…、ちゃん・・・・・・・」
 
 驚いたようなに見開かれた時任の瞳にうなづき返しながら、くぼずきんが両手で頬を包む。すると時任は点滴に繋がれた腕を上にあげて、同じように両手でくぼずきんの頬に触れた。
 その温かさと存在を確かめるようにゆっくりと…。
 たどたどしく頬をすべっていく指先は、噛みしめられた唇と同じようにかすかに震えていた。
 くぼずきんが頬に触れている右手に自分の手を重ねると、時任は微笑もうとしてそれに失敗したような顔になる。
 いつものように、真っ直ぐ自分を見つめてくれている瞳には涙が滲んでいた。
 「・・・時任」
 ゆっくりと時任の瞳を見つめ返しながらくぼずきんが名前を呼ぶと…、時任が叫び声をあげる。けれど、それは本当は叫び声ではなく泣き声だった。
 部屋に響き渡る時任の泣き声は、夕焼けの残る空を哀しみと痛みで染めていくように…、薬の匂いのする空間を満たしていく…。
 くぼずきんは苦しそうに目を細めると、腕を伸ばして時任の肩を抱きしめた。
 けれどこんなにそばにいるのに、たくさんのことがありすぎて…、抱き返してくれる時任の腕の温かさもその感触も夢のような気がしてくる。
 響き渡る悲痛な泣き声は…、どこまでも深く深く胸の奥に響いていた。
 
 「ずっと…、こうして抱きしめててあげるから…」

 降り止まない雨のように泣き続ける時任の涙を止めたかったが、今はその痛みと悲しみを抱きしめるように…、両腕でその身体を抱きしめていることしかできない。
 誰よりも守りたいと想っているのに、いつでもできることはこうして抱きしめることだけだった。首に回された時任の腕が、強く強く抱き返してくるのを感じながら…。
 せめて少しでも悲しみが痛みが…、その涙が止まるように願いながら、くぼずきんが背中を優しくそっと撫でる。すると少し視線を上げた涙に濡れた時任の瞳に、まだわずかに残っていた夕日がうつった。

 「空が…、すっげぇきれいだよ、な…」
 「…うん、そうだね」

 離れないように強く抱きしめ合って、町の遥か彼方に消えていく夕日を眺めながら…、くぼずきんと時任はどちらからともなく唇を寄せる。
 やがてまた戦いの中に巻き込まれていくのかもしれなくても、今だけは温かな想いを、その温もりを感じながら美しい夕暮れを静かに眺めていたかった。









 「おい、五十嵐のねぇちゃん。あいつらの様子はどうなんだ?」
 「たった今、時任って子の目が覚めたところよ」

 部屋の中から漏れてくる時任というワイルド・キャットの叫び声にも聞こえる泣き声に耳をすませながら、五十嵐は一人で廊下に立っていた。するとタバコをふかしながら歩いてきた男が、そんな五十嵐に声をかけてきたのだが、その男は荒磯部隊の隊長である葛西だったのである。
 五十嵐に様子を見るように言ってはいたが、やはりくぼずきんと時任のことが気になったらしかった。
 葛西は時任の泣き声に目を細めると、吸っていたタバコを右手で取ってフーッと煙を吐き出す。するとその煙はまるでため息のように、廊下の天井に上がっていった。
 「かなりワケありって感じだな、あいつら…」
 「時任って子は衰弱してるだけだけど、くぼずきん君の方は拳銃で撃たれた傷がかなりの重傷よ。立っていられるのが不思議なくらいにね。口止めはされてるけど、アンタにだけは念のために言っとくわ、葛西」
 「いつもすまねぇな、ねぇちゃん」
 「…すまないのは、いつも迷惑かけられてるからわかってるけど、アタシのことをねぇちゃんって呼ぶのは止めてくれないかしら?」
 「ああ? なんでだよ?」
 「アンタにねぇちゃん呼ばわりされると、おばさんって呼ばれた気分になんのよっ」
 「ははは…、そいつぁ自分でそう思ってっから聞こえんだろ?」
 「ぬぁんですってぇっ!!」
 五十嵐は葛西の言葉に腹を立てていたが、葛西は飄々とした様子でそれを受け流している。実は、五十嵐と葛西は荒磯部隊が結成される前からの知り合いだった。
 女装しているため自分が男だとばれない自信が五十嵐にはあったのだが、それを出会った瞬間に見抜いて見せたのが葛西である。
 五十嵐が刑事をしていた葛西に会ったのは、ある事件現場でだった。
 ただその場に居合わせただけだったが、その時、事件に巻き込まれて負傷した子どもの応急処置をして助けたのが五十嵐だったのである。葛西とはそれ以来の付き合いだが、恋愛対象としてでなく気さくな友人としての付き合いだった。
 その葛西からくぼずきんと時任の話を聞いた時には驚いたが、ドアの向こうから響いてくる胸を突くような泣き声を聞いていると…。
 魔獣と人間という壁はあったが、二人が恋人同士だという話を疑う気にはなれない。
 五十嵐がくぼずきんと時任のいる部屋のドアを眺めていると、葛西が再びタバコをくわえて壁に寄りかかった。
 「事情は明日聞くにしても…、やっかいなことになるのは間違いなさそうだぜ」
 「またどうせ刑事としてのカンって言うつもりなんでしょっ」
 「あったりめぇだ。今は部隊なんぞ率いちゃいるが、俺は刑事だからな」
 「・・・・・やっぱり刑事に戻りたいって思ってる?」
 「この戦いが終わったら、戻るに決まってんだろ」
 「そっかぁ…、そうよね…」
 次第に小さくなって消えていく泣き声にホッとしながら五十嵐がそう言うと、葛西は少しだけ考え込むように床を見つめる。なんとか荒磯部隊に死者は今の所は出ていなかったが、これから先は不透明で何もわからなかった。
 くぼずきんと時任に話を聞くことで少しでも何かがわかればと葛西は思っていたが…、更に危険な事態に巻き込まれるような予感がしていたのである。
 しかし葛西はそんな心の内を見せずに五十嵐にニッと笑ってみせると、片手を上げて廃屋の廊下を歩き出した。
 「見張りを置いてくから後は頼んだぜ、ねぇちゃん」
 「ねぇちゃんって呼ぶなって言ってんでしょっ!」
 「はははっ」
 「…ったくっ、もうっ!」
 低い葛西の笑い声が廊下に響いたが、その声に反して表情は真剣なものになっている。
 五十嵐に見えないように懐にしまってあった拳銃を取り出すと、葛西は玄関のドアを開けて廃屋の外に出る。そして足音を立てないように素早く裏手に回ると、そこに潜んでいる黒い影に向かって銃口を向けた。
 
 「そこにいるヤツっ! おとなしく出てきやがれっ!!」

 くぼずきんと時任のいる部屋の下に潜む影は葛西が廊下に立っている時に、さっと窓の前を横切った影である。
 それを目ざとく見ていた葛西は、その影を捉えるために拳銃を構えたのだった。
 葛西が鋭い視線を潜んでいる物陰に向けると、その影から三人の人物が現れる。
 しかし、その三人は葛西率いる荒磯部隊に所属していた。


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