くぼずきん.38
砂混じりの風が繁華街を吹きぬけると、そこに落ちていたバケツが派手な音を立てて転がっていくのが見える。その音に思わずそちらの方に視線を向けた時任の前では、荒れ果てた店々の周辺に散乱しているゴミらしいものも風にあおられていた。
少し前まではにぎやかに栄えていた町も、魔獣と人間との戦いが始まってしまったことによって荒れ果ててしまっている。それはやはり町に住む人々が、戦闘に巻き困れることを恐れて田舎へと逃げてしまったことも原因の一つだった。
この町にはまだ武器商人をしている者など、裏の領域に属している者は残ってはいるが、その人々も戦いが激しい地域からは遠ざかり、廃墟は急激に今も拡大し続けている。
しかし、今の時任にはそんな荒れ果てた町の様子を眺めている余裕はなかった。
「クソっ、チョロチョロしやがってっ!!」
「絶対に殺ろすなっ、生け捕りにしろよっ!」
「当たり前だっ、殺したら価値が下がんだろうがっ!」
叫び声を上げながら軍の人間らしい四人組が追って来る気配を感じながら、時任は追跡をかわすために路地の奥へと入り込む。
しかし、男達は大金がかかっているせいか、しつこく時任の後を追いかけて来ていた。
魔獣は処分命令が出ているが、それでもワイルド・キャットに付けられている値段は変わっていないらしい。軍人としての職務よりも己の欲望を選んだ四人の顔は、吐き気がするほど醜く時任の目にうつった。
「あんなヤツらに…、捕まってたまるかよっ」
時任は苦しい息を吐きながらそう言ったが、体の調子があまり良くないため、走る速度もいつもよりかなり遅くなっている。普段なら路地に入り込めば追跡をかわすことができたかもしれないが、今の時任ではそれは無理だった。
いくら歯を食いしばっても、次第に四人との距離が縮まっていく…。
こんなヤツらに捕まりたくないのに、身体が思うように動かなくて逃げ切れなかった。
けれどそれでも走り続けている時任の頬に、乾いた風が撫でると柔らかい黒い髪の毛が乱れて額にかかる。真っ直ぐ前だけを見詰め続ける瞳は、視界に先のない行き止まりを捕らえてもあきらめの色を浮かべることはなかった。
時任の瞳に浮かんでいるのは追いかけてくる男達への恐怖でも、自分がワイルド・キャットであることへの後悔でもない。ただ真っ直ぐ後ろを振り返らずにこの狭い路地を暗がりを走りぬけて、再び自分の想いのある場所へ、心を置いてきて場所まで行き着こうとする強い意思だった。
くぼずきんにさよならを告げたのは別れを言ったのではなく、自分の跡を追って来ないで欲しかったからで…、本当に嫌いになったからではない。
鵠に伝言を頼んだことも、一緒にいることをあきらめたからではなかった。
時任は行き止まりの前で立ち止まると、自分を捕らえようと追いかけてくる男達の前で立ち止まる。すると四人はニヤニヤと笑いながら、逃げられないように時任を取り囲んだ。
「おとなしく捕まれば、金持ちのいいご主人様のところに売り飛ばしてやるぜ。そうすりゃ、お前だっていい目が見られるだろ」
「まっ、金持ちのジジィはヘンタイって決まってるがなっ」
「誰かに見つからねぇ内に、さっさと捕まえちまおうぜ」
男達はそんな話をしながら、魔獣捕縛用の頑丈な鎖のついた手錠を手に待って時任に迫ってくる。だがその鎖は、本来逃げたペットを捕縛するのに使われていたものだった。
その捕縛用の手錠を持っていると言うことは、この四人はおそらく戦闘の合間に高値で売れそうなペットを物色していたに違いない。もともと軍の規律は魔獣狩りが始まる前から崩れていたので、こんな輩は軍には大勢いるのかもしれなかった。
時任は迫ってきた四人の隙をじっと伺いながらベルトにさしている拳銃を服の上から探ると、絶対絶命の状況にも関らずニッと笑う。その表情に思わずハッとさせられてしまった四人は、時任の次の行動を予測することができなかった。
四人対一人という不利な状況ではあるが、時任は捕まる覚悟をして立ち止まった訳ではない。
ただ完全に力尽きてしまう前に、全力で戦うことに決めただけだった。
「俺様の実力を身を持って教えてやるっ!! 覚悟しやがれっ!!」
時任はそう叫ぶとベルトから拳銃を抜いて、正面の一人に銃口を向ける。
銃口を向けられた男は、とっさに自分の持っていた拳銃を抜こうとしたが間に合わず、時任が放った弾丸に肩を打ち抜かれて転がった。そして休む間もなく時任は次の男にも引き金を引いたが、拳銃を撃ちなれていないせいで弾ははずれて後方にある家の壁に銃弾がめり込む。
やはり拳銃を持ってはいても、くぼずきんのようにうまくはいかなかった。
「魔獣のクセになめた真似しやがってっ!!」
仲間の一人が撃たれたことに興奮した男は叫びながら銃口を向けたが、その引き金が引かれる前に時任が自分の長い爪で男を切りつける。
すると男はうめきながら、握っていた拳銃を地面へと落とした。
「う、腕が…っ!!」
「おいっ、大丈夫かっ!?」
見た目が細身で可愛い姿をしているために、男達はワイルド・キャットのことを甘く見すぎていた。
そのことを時任は見抜いていたので、先制攻撃に打って出て短時間で倒してしまおうとしている。だが時任の鋭い動きとその早さを見た男達の顔つきは、一瞬にして厳しいものに変わってしまっていた。
長い軍生活で私欲に溺れてしまっているが、今回の戦闘でも生き残っている所をみるとこの四人はそれなりに腕が立つようである。
その証拠に再び爪で切り裂こうとした時任の攻撃が、すっと見事にかわされてしまっていた。
「今度はこっちから行くぜっ、猫っ!!」
「てめぇなんかに、猫呼ばわりされる覚えはねぇんだよっ!!」
倒れた二人に代わって、まだ傷を負っていない二人がうなづき合って同時に時任に攻撃をしかけてくる。
その内の一人は拳銃を使うことにしたようで、時任を狙った銃弾が頬を軽くかすめた。
時任は近くに置かれていたゴミバケツを拳銃を持った男に向かって蹴飛ばすと、その隙をついてもう一方の男に鋭く蹴りを放つ。
だが、やはり体調不良のためパワー不足で、蹴りは男の両腕に止められてしまった。
「くそっ…」
「仲間に痛い目見せてくれた礼を言わせてもらうぜっ!」
男は止めた蹴りを弾き飛ばすと、持っていた鎖を投げて時任の首に巻きつけた。
その締めつけから逃れようと時任が鎖に手を伸ばすと、ゴミバケツに倒れていた男が背後から襲ってくる。時任は身体をひねってそれを避けようとしたが、完全にはかわし切れずにわき腹に男の拳が叩き込まれた。
「・・・・・・・ぐっ!!!」
「はははっ、ざまぁねぇなっ!!」
「おい、鎖で引きずってやれよっ。そうすりゃ、自分の立場ってもんが少しはわかるだろうぜ」
「てめぇら…、全員ぶっ殺してやる…」
「できるもんならやってみろよ、猫」
鎖で喉をしめつけられながら、時任は鎖を握っている男をにらみ付ける。
しかし男は嫌な笑みを浮かべて、鎖に引かれて地面に転がった時任を見てせせら笑っていた。拳銃で撃たれた男はどこかへいなくなってしまっていたが、爪で腕を切りつけられた男は血を流しながらもこの場にまだ留まっている。
男は憎しみに満ちた目で時任を見ると、倒れている時任を激しく蹴りつけた。
「俺の腕を傷つけやがってっ、このバケモノ!!」
ギリギリと鎖にしめつけられて窒息させられそうになりながら、時任は男の蹴りから腕と足で急所をガードしている。だがさっきの戦闘で、すでにかなり息があがってしまっていた。
肺に酸素が不足していて呼吸したいのにできなくて、次第に時任の意識が朦朧としてくる。
蹴られている痛みにも気を失いそうになっていたが、時任はさっきから三人に気づかれないように身体を少しずつ上の方にずらしていっていた。
手放しそうになる意識を必死で引き止めながら、まるで命綱を手繰り寄せるように…。
視界が暗くなってきて、すべてが絶望の中に沈んでしまいそうだったが、時任はそれに耐えてギリギリと歯を噛みしめ続けている。
ここから厚い雲に覆われた空に向かって叫んでも、その声を届けたい人の所には届かないから…。
だからまだこんな所でこんな場所で…、何もしない内に倒れる訳にはいかなかった。
「負けるワケには…、いかねぇ…んだ…、ぜったいに…」
時任はかすれた声でそう呟くと、三人の隙をついて手が届く位置に近づいた鉄パイプを握りしめる。そして鎖を握っている男の足をそれで打ちつけると、首をしめつけている力が緩んで時任の身体が自由になった。
男達は起き上がった時任に攻撃を加えようとしたが、それよりも早く鉄パイプが振り下ろされる。すると辺りには、骨の折れる不気味な音と血の匂いに満ちていった。
「うぎゃぁぁっ…!!」
「がぁっ…!!」
狭い路地に男達の絶叫が木霊し、時任の頬に返り血が飛ぶ。
しかし鉄パイプを振り下ろす時任の手には、少しも迷いはなかった。
橘のように人間に対する憎しみがそこにあった訳でなかったが、その両手が血に染まっても…。生き抜くためには走って走って…、戦って前へと進み続けるしかない。
今までもそうしてきたように…、生きるためには立ち止まらずに走り続けるしかなかった。
赤く地面を濡らす血溜まりを踏み越えながら…。
時任は荒い息を吐きながら三人が動かなくなったことを確認すると、血に塗れた自分の手を少しだけ眺めたが、服の袖で顔についた返り血をぐいっと拭うと歩き始める。
足元は少しふらついていたが、橘の言っていた廃ビルまでなんとしても行きつかなくてはならなかった。自分を縛り続けていたすべてに決着をつけるために…。
暗くて狭い路地を抜けると、時任の目の前に宗方と魔獣達のいる黒い廃ビル群が見えた。
時任は灰色の空の下にあるその黒い影を見つめたが、その瞬間にさっきまで感じられなかった気配がすぐ近くに沸いて出る。
その気配に時任がハッとして持っていた鉄パイプを持って身構えると、鋭い声が辺りに響いた。
「荒磯流抜刀術っ! 雪花っ!!!」
時任は声と同時に襲いかかってくる刀を、反射的にパイプの柄で受ける。
すると刀で切りかかってきた相手は、時任に向かってニッと嬉しそうに笑った。
その笑みはさっきの男達のように不快なものではなかったが、時任はギリギリと音を立てている刀とパイプを挟んで相手を睨みつける。
不快だろうとそうではなかろうと、自分の行く手を阻む者は倒さなくてはならなかった。
「僕の名前は松原と言います。僕の剣を止めたのは、貴方で三人目です」
「だったら、俺で最後にしてやるぜっ!」
「ワイルド・キャット…、相手に不足はないっ! いざ、尋常に勝負っ!!」
「ぜったいに勝ってやるっ!」
そう言って二人は刀と鉄パイプで戦闘を開始したが、時任に襲いかかってきた松原は剣の腕は立つものの身長も低く小柄である。顔つきも可愛い部類に入るので、刀を振るう姿はどことなく不似合いのようにも思えた。
だが美しい軌跡を描いて振るわれる太刀筋を見ると、その剣技にただならぬ才能を感じる。
時任は素早く繰り出される剣を鉄パイプでかわしながら、松原に隙ができるのを待っていたが、体力の方も並ではないらしく隙らしい隙がなかった。
しかし間を置かずに切りかかってくる松原と違って、それを受け止めている時任の体力は限界に近づいている。勝つためには反撃にでなければならないのだが、さっきの男達の戦闘で力を使い果たしていた時任には、もうそんな余力は残っていなかった。
「・・・・・くぅっ!」
「まだまだ、貴方の実力はこれくらいではないはずですっ! 倒されたくなければ、本気で戦ってくださいっ!」
松原はそう言って更に激しく刀を打ち込んでくるが、時任の手はすでにしびれてパイプを握っているのがやっとの状態である。しかしこういう戦いでは弱みを見せたり一瞬の隙を作ってしまったりすると命取りになるため、それを悟られないように時任は強気な姿勢を崩さないまま戦い続けていた。
だが今戦っている松原を倒したとしても、この状況を手出しせずに見守っている三人がいる。
どうやら残りの三人も松原も軍関係者のようなので、戦闘は避けられないに違いなかった。
時任は自分の置かれている状況に苦笑しながら、体制を立て直すために数歩後ろに下がって松原から離れる。そして深く深呼吸をすると持っていた鉄パイプを中段に構えて、苦しいはずなのに強気な瞳で真っ直ぐに松原を見つめた。
「松原っつったっけ…、あんたが強いってのは認めてやるよっ。俺様の方が上だけどな」
「僕も貴方が強いのは認めます。もっとも僕の次にですが…」
「それじゃ、どっちが強いか次で決着つけようぜっ」
「望む所です」
時任が次の一太刀で決着をつけることを持ちかけると、松原はそれにうなづいて同意する。
けれど、そんな風に松原に言ったのは早く決着をつけたかったからだけではなく、時任の腕がもう松原の剣を受けるほどの力がなくなってしまっていたからだった。
パイプを握る手が震えないように力を、足がふらつかないように気力を振り絞って…、生きるために走って戦い続けて…。
目の前にいる松原にすら何も気づかせないままに、時任は限界を迎えようとしている。
まだ行きたい場所が、どうしてもたどり着きたい場所があったのに…、だからそんなものを感じたくはなかったのに…。
もう、ここから一歩もどこへも行けなくなった現実が目の前にあった。
でも、それでも時任の瞳には絶望の色は浮かんではいない…。
松原は申し出を受けて剣を構え直したが、時任はなぜかそれを見ないでゆっくりと瞳を閉じた。
すると、その行動を不審に思った松原が、
「なんのつもりですか!」
と、そう怒鳴ったのだが時任の瞳は閉じられままで開かれない。
そんな時任に愚弄するつもりかと再び松原が怒鳴りかけると、時任は今から生死をかけて戦おうとしてるとは思えないほど、優しい穏やかな笑みを顔に浮かべた。
『くぼちゃん…』
もう会えなくなるなくて…、そんな風に思ってなんていないのに…。
なぜか戦いの前に、ベッドで眠り続けているくぼずきんのことを時任は想い浮かべていた。
すると乾いた風の音も松原の声も聞こえなくなって…、森の木々のざわめきが聞こえてきて…。
けれど薬の匂いのする部屋ではなく、帰りたいあの森の中で…、穏やかな木漏れ日が降り注ぐ木の下で眠っていたくぼずきんが脳裏に浮かぶ。
それは時任の中で…、なによりも一番大切な記憶で…。
胸の中にずっと抱きしめていたい、大好きなヒトとの想い出だった。
『まだ大丈夫…、まだ走れる…。ちゃんとソコまで行けるから…』
時任はここにはいないくぼずきんに向かってそう言うと、すぅっと息を吐きながら閉じていた瞳をゆっくりと開けた。そして目の前にいる松原をその視界に捕らえると、戦う意思を表すかのように時任の持つパイプの先端が少しだけ揺れる。
するとその微妙な気配の揺れを合図に、松原が時任の向かって素早く剣を繰り出した。
「荒磯流抜刀術っ! 霧雨っ!!!」
松原の刀の切っ先が、掛け声と共に時任の前で美しい曲線を描く。
しかし鋭い剣が目の前に迫っても、時任の足も腕も少しも動かなかった。
まだ走れるはずだったのに、動けと何度も自分自身に言っているのに…、少しも動けなかった。
それでもあきらめたくなくて唇を噛みしめながら、松原の後ろに見える灰色の空を見ると、そこに一羽の白い鳥が飛んでいるのが見える。
その白い鳥と松原の剣の切っ先が重なった瞬間、空の彼方を見つめる時任の唇がくぼずきんの名前を刻んだ。
『走りたかったのにな…、くぼちゃんのいるトコまで…』
松原の剣が、時任の急所に向かって正確に鋭く振り下ろされる。
相手が無抵抗なことに松原は眉をひそめていたが、それでも剣を止めなかったのはやはり魔獣は処分するという命令が下っているためだった。
だが、松原の剣が時任を切り裂こうとした瞬間、キンッと鋭い音が走って何かがその剣をはじく。その音に驚いた松原が音のした方向を見ると、時任の手にあったはずの鉄パイプを握って剣を受けた人物が立っていた。
「な、何者っ!」
思わぬ事態に松原がそう言ってはじかれた剣を構え直すと、その人物は背後からワイルド・キャットを抱きしめながら…。不敵な笑みを浮かべて自分の名前を名乗った。
「正義の味方…、一人限定だけどね」
そのセリフを聞いた松原は再び攻撃しようとしたが、愛しそうにワイルド・キャットを抱きしめている男の視線を受けた瞬間に、自分の意思に逆らって身体が震え出していた。
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