くぼずきん.36




 目の前で白い湯気を立てているおかゆを口に含むと少しだけ吐き気がしてきたが、時任はそれを無理やり飲み込む。久しぶりに口にした食べ物は味がしなくて、砂を噛むような感覚しかしなかった。しかし宗方と戦うことに決めた今は、体力を付けるためにも無理やり食べなくてはならない。
 未だ身体は宗方に捕らえられていた時のダメージが残っていたが、とにかく少しでも動けるようにすることが肝心だった。
 けれどそれは宗方への憎しみからではなく、くぼずきんと一緒に生きるために…。
 自分の大切なものを守るために始める戦いだった。
 無免許医の鵠は、そんな時任に一週間は体力の回復のためにここに留まるように言っていたが、そんな悠長にしていられる状況ではない。宗方のことを抜きにしても、魔獣と人間との戦いが日増しに激化しているので、鵠の店もいつ軍の魔獣狩りの調査が入るかわからなかった。
 
 『逃げればどこまでも追ってきますよ。くぼずきん君を貴方を…、宗方だけではなく憎しみが…』
 
 さっきまでここにいた橘は、苦しそうな表情でそう言うと時任に背を向けて帰って行った。
 しかし橘が強引に時任を捕らえずにそうしたのは、おそらく見た目以上に精神も身体も具合が悪いせいに違いない。いつも冷静な橘があんな風に取り乱すのは、かなり珍しいことだった。
 本人が言っていた通り、まるで血を吐くように叫んでいた橘は本当に憎しみに精神を蝕まれているように見える。そんな橘の様子を思い出した時任は、おかゆを胃に流し込みながら眉をしかめた。
 「魔獣だから憎まなきゃならないって…、そんなワケあるかよ」
 「本人の意思とは関係なく、何か別のモノの意思に操られているみたいですね、橘君は…」
 「・・・・べつのモノ?」
 「そこに落ちてる物体の本体…、かもしれません」
 そう言って鵠が指差したのは、橘が落とした不気味な方位磁石だった。
 方位磁石の中の不気味な物体は、ぐちゃりぐちゃりと波打ちながら蠢いている。
 その蠢きはベッドで眠っているくぼずきんに向かって、忍び寄ろうとしているようにも見えた。
 鵠は不気味な方位磁石を広い上げると、その中身を窓からの光にかざして見る。
 しかし、小さなガラスケースの中に入っている物体は、どう見ても何かの肉片のようにしか見えなかった。
 「私も現物を見るのは始めてですが、まさか本当にこんなものが存在しているとは思いませんでした」
 「・・・・なんか気味悪りぃよな、ソレ」
 「ええ…、確かにそうですね。死にながら生きているんですから…」
 「死にながら?」
 「これは殺しても殺しても死なない存在だと、聞いたことがあります」
 そう言いながら鵠は、少しだけ手に持っているガラスケースをくぼずきんの方に近づける。
 すると中に入っている肉片は、更に激しく蠢き始めた。
 橘は殺した相手を指し示すと言っていたが、その肉片がくぼずきんに反応するのは確かなようである。
 殺した相手という意味は鵠にも時任にもわからなかったが、この肉片があればどこに隠れていても、いずれはまたくぼずきんを発見されてしまうに違いなかった。
 そしてその肉片の本体は、おそらく宗方の元にある。
 時任はおかゆを食べ終えて器をトレーの上に置きながら、じっと肉片を睨みつけた。
 「マジで逃げ場はねぇってコトか…」
 「それが宗方の元にあるのなら…、貴方をくぼずきん君を狙っているのならそうかもしれません」
 そう言った鵠の口調が妙だったので時任が知り合いかと尋ねてみると、鵠はあっさりとそのことを認めた。だが、会ったのはずっと前で、知り合いと呼べるほどの仲ではないらしい。
 時任が不審そうかな顔をすると、鵠は少し苦笑してから手に持っていたガラスケースをトレーの置かれたテーブルの上に置いた。

 「最初に宗方に会ったのは閉鎖された軍の研究所なのですが…。私がそこにいた頃はまだ軍ではなく、一般の普通の研究所でした」
 
 時任に向かってそう言った鵠は、宗方に会った時のことを語り始めた。
 鵠はその当時は研究所の研究員として働いていたが、ある人物が国に試験管に入った物質を持ち込んでから何かが狂い始めたらしい。試験管に入っていた物質は何か生物の体液のようだったが、それが何であるのかは未だに不明だった。そして、その物質によって魔獣を作り出すことが可能だと国の首脳部の耳に囁いたのは、不可解な物質を国に持ち込んだ本人の宗方だったのである。鵠は研究所で魔獣の育成を担当することになり、宗方にも何度か会う機会があった。
 その時に宗方は、鵠に向かって魔獣の森にある死なない肉塊の話をしたのである。
 おそらく、そんな話を宗方が鵠にしたのは、ただの暇つぶしの気まぐれだったのかもしれなかった。

 『君は生と死を分けるのは、一体なんだと思うかね?』
 『心臓の鼓動が止まれば、誰しも人は死にますよ?』
 『なるほど、それはもっともな意見だ』
 『・・・・・ですが、貴方の意見は違うようですね?』
 『もしも、意思だけで死を越えられる存在があるとしたら…。その存在は人間という枠を越えたことになる。決して壊れることのない人間としての枠を…』
 『あの試験管の中身に、それに関係があるとおっしゃるのですか?』
 『試験管の中には、あの液体の中には物質だけではなく意思が宿っている』
 『意思?』
 『死をも越える神の意思が…』
 『・・・・・貴方は一体、何者なんです?』
 『神の意思を受けて人間に生まれるのも、魔獣の生まれるのも一つの可能性でしかない。意思を宿した物質で人間が魔獣として生まれるのは、人間が魔獣としての素質を持っていたからに過ぎないのだよ』
 『つまり、人間は魔獣として生まれるべき素質があると?』
 『神の手足となるべき素質が…、だがね』
 『そんな素質があるとしたら、すべての人間は…』

 『選ばれた者だけが手足を操れる神になれるのだとしたら、君は神になりたいかね?』

 その話を聞いた鵠は研究所を出て、この町に店を構えて前の名前から今の鵠という名前に変えた。それは自分のしていたことがどんなことなのかを、おぼろげながらも理解したからである。
 鵠は人類を脅かす研究から遠ざかったが、すでに魔獣の生産に踏み切っていた国は得体の知れない試験官に疑問を持ちながらも、現在のような事態に直面するまで放置し続けた。
 神となるべく宗方が本格的に動き始めるまで…。
 現在の状況をある程度予測していた鵠は、独自に魔獣の研究を続けてはいたが、やはり人間の獣化を防ぐことはできなかった。
 「結局、私は何もすることができませんでした。橘君を救うことさえも…」
 「じゃあ、橘が人間みたいなのはアンタがやったのか?」
 「ええ…。けれど、やはり変えられたのは外見だけで中身までは変えられなかったんです」
 「そっか…」
 魔獣として苦しんでいる橘を思い出したのか、鵠は少し俯いてゆっくりと目を閉じる。
 そんな鵠を見ていた時任は、眠っているくぼずきんに視線をうつしながら自分の獣の手を眺めた。
 自分がワイルド・キャットで魔獣である証拠を…。
 けれどその手も耳も尻尾も…、くぼずきんは好きだと言ってくれていた。
 魔獣でも人間でもなく、時任が好きだからと…。
 鵠は宗方のいる廃ビルには行かずに、外見だけでも人間に変えてくぼずきんを連れて逃げるように言ったが、やはり時任はハッキリと首を横に振った。
 「確かに外見変えたら、人間に狙われなくなるのかもしれないけど…。俺は今のままでいい」
 「ですが、その方が危険が少なくなるのですよ?」
 「・・・・・それはわかってっけど、好きだって言ってくれたんだ。耳もしっぽも好きだって…、くぼちゃんが…」
 「時任君」
 「だからさ、このままで生きてたいんだ。ワイルド・キャットのままで…」
 時任は鵠にそう言うと、くぼずきんの枕元に置かれていた拳銃を手に取った。
 その拳銃はあの地下道でくぼずきんが時任を守るために撃ち続けていた拳銃で…、まだその柄にはわずかに赤い血がこびりついている。
 出口を目指して二人で走り続けた地下道は、鵠に助けられて出られたはずだったが…。
 未だに目の前にはあの地下道が、あの暗がりが目の前に広がっていた。
 時任は拳銃を自分のベルトに差し込むと、眠っているくぼずきんの横に立つ。
 そして毛布からわずかに出ている手を、再び両手でゆっくりと握りしめた。
 「もう…、行くつもりなんですか?」
 じっとくぼずきんを見つめている時任の様子を見た鵠は、心配そうな表情でそう言う。
 だが、時任は哀しいくらい穏やかに微笑むと、握りしめたくぼずきんの手にそっと唇を寄せた。

 「行ってくるから、必ず帰ってくるから…。一緒に森に帰ろう…、久保ちゃん」

 そう言いながら時任の唇が優しく、胸の奥の想いを伝えるようにくぼずきんの手の甲に触れる。
 時任は口付けを送りながら、そっと涙を耐えるように綺麗な瞳を閉じた。
 だがその瞬間、ピクッとくぼずきんの手が何かに反応したかのように動いたのである。
 「・・・・・・くぼちゃ…」
 くぼずきんの手が反応したのを感じた時任は、閉じていた目をパッと開く。
 すると、今までずっと握りしめ続けてもなんの反応も示さなかった手が、ゆっくりと時任の手を握り返した。
 まるでそこに時任がいることを確認するかのように…。
 その手の動きを見ていた時任の頬には、こらえようとしてこらえ切れなかった涙が伝い始めていた。
 握り返されたくぼずきんの手に額をすりつけて、何度も何度もくぼずきんの名前を呼んでいても…、声がかすれてしまって声にならなくて…。
 胸の奥に何かが詰まって痛くて…、涙ばかりが流れ落ちていく。
 ベッドの上で眠りつづけるくぼずきんの胸に耳をつけて、動き続けている鼓動を確認しても…。
 もうくほずきんが目覚めない気がして…、不安で不安でたまらなくて…。
 少し冷たい唇にキスを重ねる度に、好きだと叫んでいたのに哀しみと痛みだけがそこに残った。
 けれど今感じている痛みは、恋しさと愛しさがたくさん詰まっていて…。
 くぼずきんの手を握りしめながら、流れ落ちていく涙のように暖かい痛みだった。
 
 「まだ目覚めてはいませんが、意識が戻ってきた証拠です。きっと、もうじき目覚めますよ」

 声もなく泣いている時任に向かって、鵠が励ますようにそう声をかける。
 すると時任はその言葉に軽くうなづきながら、握りしめていた手を片方離してくほずきんの頬に伸した。そっと優しくその輪郭をたどるように…。
 くぼずきんはまだ瞳を開かなかったが、時任は涙に濡れた瞳のままで微笑むとゆっくりとその唇に自分の唇を寄せる。するとそのキスは、眠っているくぼずきんとしたどのキスよりも涙の味がした。
 時任はしばらくそうしていたが、名残りを惜しむようにくぼずきんから唇を離すと、くぼずきんではなく鵠に向かって話をかける。
 その言葉を聞いた鵠は、驚いたように少し目を見開いた。
 「目が覚めたら、くぼちゃんが目を開いたら…、俺が嫌いって言ってたって言って欲しいんだ…、もう嫌いになったから一緒にいられないって…」
 「何を言うつもりですか、さっきと言っていることが違います。帰ってきて…、くぼずきん君と一緒に森に帰るんじゃなかったんですか?」
 「そうしたいって想ってる…、想ってるけどさ…。もう、くぼちゃんを傷つけたくねぇんだ…」
 「時任君…」
 「・・・・・くぼちゃんを頼む」
 時任はまだ乾かない涙を拭いながらそう言うと、握りしめたままになっていたくぼずきんの手を離す。
 するとくぼずきんの閉じられている目蓋が少し動いたが、時任は目覚めるのを待たずに一階へと続く階段に向かい始めた。
 その姿を目に焼き付けようとしてるかのように、じっとくぼずきんを見つめながら後ろ向きのままで…。鵠はそれを止めようとしたが、時任はベルトにさしていた拳銃を抜いた。
 「あんたにはすっげぇ感謝してる…、ありがと…な。くぼちゃんを助けてくれて…」
 「礼なんていいですから、銃をしまってください」

 「俺の大切なヒトを、大好きなヒトを助けてくれて…、ありがとう…」

 時任はそれだけ言い残すと、一階への階段を駆け下りて魔獣と人間とのいつ終わるともしれない戦いが繰り広げられている外へと飛び出していった。
 くぼずきんをあの部屋に残したまま一人きりで…、生まれた時からつけられている両腕を足を縛り続けている鎖を断ち切るために…。
 そんな時任を見送った鵠は眠り続けているくぼずきんを見つめた後、二階の窓から見えている灰色の空を眺めて静かに瞳を閉じながら大きく息を吐いた。








 次第に激化していく魔獣と人間の戦いは、あっという間に戦火を拡大していった。
 魔獣の暴走とも言える無謀な戦い方が目立つようになってからは、特にその度合いは酷くなっている。
 始めは一般市民にまではあまり危害が及ぶことはなかったが、今では魔獣は軍だろうと町の住人だろうと見境なしに牙を剥き始めていた。
 こうなると人間による魔獣狩りというよりも、魔獣による人間狩りのように見えなくもない。
 両者の力が均衡しているために、すでに死者はかなりの数に登っていた。
 魔獣の力を甘く見ていた軍は、人数不足を補うために警察にも協力を要請していてる。
 そのため、軍の中に違う制服の者がちらほらと見えていた。

 「あっ、いたいた! 葛西さ〜んっ!」
 「でっけぇ声で呼ぶなっ、バカやろうっ」

 実は軍に召集されることになった警察官の中でも、戦闘能力の高い精鋭を集めた特殊部隊が結成されていたが、その部隊を率いている隊長は少しクセのありそうな葛西という男だった。
 葛西は自分の方に向かって元気に走ってくる部下を見て、やれやれといった感じに小さく息を吐く。
 走ってきたのは、部隊の連絡係をしている相浦という男だった。
 連絡係をしてはいるが、相浦は戦略面においての才能に長けていたので特殊部隊に入ることになったのである。まだ警察に入りたての新人だが、すでにその頭角をあらわしかけていた。
 「三区は苦戦中で、そろそろヤバそうですよ」
 「まさか前線まで行って来たんじゃねぇだろうな?」
 「あはは、もしかしてバレてるっすか?」
 「戦闘はからっきしダメなクセしやがって、前線なんかに行くなといつも言ってるだろうが」
 「今日は松原と室田と一緒だったんで…」
 そう言った相浦の言葉を聞いた葛西は、軽く肩をすくめてから前線のある三区に向かって歩き始める。
 すると、歩き始めた葛西の後ろについて相浦も歩き出した。
 葛西率いる特殊部隊は同じ高校の出身者が多いことから、その高校の名前を取って荒磯部隊とも呼ばれている。荒磯部隊の中で一番腕の立つのは、銃ではなく刀剣で戦っている松原と魔獣相手でも肉弾戦ができる室田だった。
 軍の精鋭よりもよっぽど役に立つ荒磯部隊は、今回の戦闘ではとても重宝がられている。
 だがそのせいで隊員の疲労度が、かなりのものになっていることだけは確かだった。
 「そろそろ終わらさねぇとヤバイな」
 「確かに…、そろそろ体力限界ですよね」
 「・・・・・五十嵐のねーちゃんは、今日もなんか言ってたか?」
 「ケアしてもしきれないって…」
 「だろうな」
 相浦が五十嵐という救護班係の言葉を伝えると、葛西はポケットからタバコを取り出して火をつけた。
 五十嵐というのは女装はしているが実は男という人物なのだが、気さくな上に手当ても丁寧で腕も確かなので人気が高い。その五十嵐と荒磯部隊の隊員達は仲が良いので、怪我以外のケアも頼んでいたりするのだが、やはりここの所のハードな戦闘で疲れがケアしきれないくらい溜まりきっているようだった。
 今の状態は、全員が精神力だけで持っているようなものである。
 葛西は口からふーっと煙を噴出すと、肩にかけているライフルを構えた。

 「…ったく、人間だ魔獣だってのが、生きるのに何か関係あるのかよ。くだらねぇ…」
 
 そう呟くと最前線で猛攻を続けている松原と室田の二人を眺めながら、葛西は人間と魔獣の終わりの見えない戦いの渦の中に入って行った。



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