くぼずきん.34




 橘は目の前にいる鵠に方位磁石を見せながら、心の中で自嘲していた。
 それは、自分の手に持った方位磁石が、まさかかつて自分を助けてくれた恩人の元へと導いてくれるとは思ってはいなかったからである。
 この店はかつて魔獣として生まれたことに疑問を持ち、人間として生きられるように手術を施した場所だったが、こうしている今も橘は魔獣のままだった。
 どんなに姿形を取りつくろっても、身体の中には魔獣の血が潜んでいる。
 それを嫌というほど実感しながら、橘は自らが捕らえた醜悪なる神と共にあった。
 魔獣に生まれたという宿命は、逃れようとすればするほど橘を追い詰めてくる。
 橘はガラスケースを再び手に取ると、それを眺めながら独り言のように鵠に話しかけた。

 「今の僕は…、人間に見えますか? それとも魔獣に見えますか?」

 その質問を聞いた鵠は、それには答えずに橘と同じようにケースの中の不気味に蠢く肉片を見ている。普段の余裕の表情を少しだけ崩した橘は、そんな鵠をチラリと見た。
 けれど鵠はそれに気づいていないのか、肉片ばかりを眺めている。
 その姿はやはり武器屋の主人というよりは、医者か学者のようだった。
 「そんなにその方位磁石が気になりますか?」
 「ええ、珍しいですからね」
 「興味がおありなら、それを取り出した本体をお見せしましょうか?」
 「いえいえ、それは遠慮しておきますよ」
 「なぜです?」

 「うっかり喰われてはかないませんから…」
 
 鵠のその言葉に、さすがの橘もあらかさまに眉をひそめる。
 何も知らない町の無免許医だと思っていたが、肉塊のことを知っているとなると只者ではあり得なかった。あの時は橘も研究所を逃げ出してきたばかりで、何も不審には思っていなかったが、魔獣だった橘を形だけとはいえ人間に仕立てる技術をただの町の無免許医が持っていること自体が不審てある。
 橘は手に持った小さなガラスケースをギュッと握りしめると、冷汗を額に浮かべながらも鵠に向かって妖艶に微笑んで見せた。
 「おそらく…、閉鎖された軍の研究所の関係者、もしくは出雲会か東条組の人間…」
 「それはもしかして、私がですか?」
 「魔獣の情報ならともかく、この肉塊の情報を知ってる人間がいるとは思いませんでしたからね」
 「ほう、肉塊というのですか? それは…」
 「あくまでとぼけるおつもりですか? 先生」
 「私は無免許なので、先生と呼ばれる資格などありませんよ」
 「ですが、貴方は名医です」
 「どういう基準でそうおっしゃるのかは知りませんが、少なくとも私は違います」
 「ご謙遜していらっしゃるのですか?」
 そう橘がじっと鵠を見つめながら言うと鵠は座っていた椅子を立って、前から火にかけられていたシュンシュンと音を立てているヤカンの火を消した。
 熱そうなヤカンの取っ手を素手で持った鵠は、その中のお湯をそばにあった急須に注ぎ始めたが、急須も用意されていた茶碗も中国式のものなので小さい。注がれているお茶も、ジャスミン茶と呼ばれるものだった。
 だがその匂いが暖かく室内に広がっても、肉塊の入ったケースを握り緊めた橘の表情は穏やかなものにはならない。
 そんな橘を見て鵠はなんと思ったのか、入れたお茶をコトンと前に置いた。
 「おいしいんですよ、このお茶」
 「せっかくですが、僕はお茶を飲みに来たのではありませんので…」
 湯気の立った暖かいお茶を断った橘に、鵠はそれ以上、お茶を勧めようとはせずに再び椅子に座る。そして自分用に入れたお茶を手でもちながら、その湯気越しに橘の方を見つめてきた。
 なので、橘の方も様子を探るようにじっと見つめ返していると、鵠はお茶を一口だけ飲んでから口を開く。
 しかし口調はさっきとは変わらなかったが、少しだけ哀しみの色があった。
 「・・・・・やはり私は名医ではないようですよ?」
 「あくまでお認めにならないのには…、 何か理由でも?」
 「名医というのは、人を救えるから名医と呼ばれるのです。けれど私は誰も救えてなどいません」
 「なにを言われるんです? 多くの人が貴方には命を救われているはずですから…、そんなことはありませんよ」

 「けれど、そういう風におっしゃる貴方は…、少なくともかつて私の患者だった貴方は…、救われてなどいないでしょう?」

 そう静かに言った鵠の言葉に、橘は一瞬、心の中の何かが凍りついてしまったかのように動けなくなる。
 確かに鵠は魔獣として生きるしかなかった橘を救おうとしてくれたが、やはり人間として生きることは叶わず、今でもやはり魔獣としてしか生きられなかった。
 こうしている瞬間、何かに身体が侵食されていくように苦しくなっていくのも…。
 感情のコントロールが効かなくなって、目の前にいる鵠を憎み始めているのも…。
 そのすべてを橘の身体の中に流れている魔獣の血が引き起こしている。
 一見、魔獣と人間との戦いは、人間が魔獣を処分しようとしていることへの反攻のように見えるが、実は魔獣達はそういったこととは別の意思によって動かされていた。

 胸の中に沸き起こる身に覚えのない怒りや悲しみ…、そして憎しみ…。

 それらの感情が身体の中に芽生え始めたのは、橘が醜悪なる神を捕らえてから少したってのことだった。
 けれどそのことを橘が自覚した時には、すべてが遅かったのである。
 かつて人として生きようとしていた橘は、今は魔獣として人間と戦い血の海の中にいた。
 橘は握りしめていたガラスケースをポケットの中に収めると、机の上で少し震えてしまっている両手を組み合わせる。
 そして口元に笑みを刻みながら、橘は目の前に置かれた茶碗の湯気を眺めた。
 「・・・・・先生、…鵠さん」
 「はい?」
 「僕はもう、貴方にも誰にも救われる必要はなくなりました」
 「それは…、魔獣として生きることを決めたからですか?」

 「いいえ、この世から人間がいなくなるからですよ」

 橘はそう言うと。、カウンターを越えて隠し階段の紐を引いて二階へと駆け上がろうとする。
 だがそんな橘に向かって、鵠の手のひらから医療用に使っているメスが飛んだ。
 しかしそのメスは、橘の頬をかすめただけで上がろうとしている階段に突き刺さる。
 橘は目の前をメスが通り過ぎても動じることなく、
 「医療道具を凶器にするなんて、医者の風上にも置けませんよね?」
と、言い残すと階段を上がり始めた。
 同じ魔獣である時任と…、くぼずきんのいる部屋に向かって…。
 すると階段を一段ずつ登って行くに従って、鼓動が早くなってくる。
 だがそれは単なる心臓を打つ鼓動ではなく、憎しみの鼓動だった。
 胸の奥の暗闇から湧き上がってくるどす黒い憎しみは…、あまりにも深すぎてすべての者を憎み始める。
 橘はぐっと自分の心臓を服の上から押さえ込むと、最後の一段を上がり終えた。
 しかしその後を追ってくる鵠の足取りは、もう駄目だとあきらめているのか遅い。
 そのことを少しだけ気にしながら、橘はベッドで眠っているくぼずきんとその横でじっと祈るように目を閉じている時任の前に立った。

 「…お久しぶりです、時任君」

 橘はそう声をかけたが、時任はじっと身動きせずにくぼずきんの眠っているベッドの隣に座っている。そんな時任に橘はもう一度声かけてみたが、やはり反応はなかった。
 今の時任は、元気で明るくて生命力に溢れていた橘の知っている時任ではない。
 あの日、傷ついていた橘を助けるために宗方に捕らえられた時任は、憔悴した様子でくぼずきんの手をぎゅっと握りながら祈るように目を閉じていた。

 じっとくぼずきんだけを見つめて…、そっと静かにその胸の想いを紡いでいるかのように…。

 橘は懐にナイフと拳銃を持っていたが、それを出さずに時任に近づいた。
 すると時任はピクッと反応して、橘の方を鋭い目つきで睨みつける。
 だがその瞳は橘と認識しているのでなはく、ただくぼずきんを自分から奪おうとする何者かが現れたと思っているような瞳をしていた。
 そんな瞳に睨みつけられた橘は、自分が何をしに来たのかを忘れてその場に立ちすくむ。
 すると、その橘の横に階段を上がってきた鵠が立った。
 「時任君は…、ああやってずっと、くぼずきん君の目覚めるのを待ってるんですよ…」
 「・・・・・・怪我をしたとは聞いてましたが、貴方が助けてたのですね。どうりで見つからないはずです…」
 「いいえ、私は助けてなんかいません…。彼を助けたのは時任君ですから…」

 「・・・・・・それは、もしかしたらそうなのかもしれません」

 橘が何もしないと感じたのか、時任は睨みつけていた視線を外すと再びくほずきんを見つめ始める。その瞳は哀しみだけに満ちていたが、そのせいなのかいつもよりも更に美しく見えた。
 二人を捕らえるために来た橘は、そんな時任を見つめている内に自分の中にある憎しみが薄らいでいくのを感じている。
 しかし想い合う二人の姿と自分とかつて恋人だった松本姿が重なった瞬間、収まりかけていた憎しみが火のように胸を焼き始めた。

 「・・・・・・・くうっ!!!」
 「どうかしましたか? 胸が苦しいのですか?」

 激しい痛みと苦しみ…、泣き叫びたくなるような憎しみの咆哮が胸の奥から聞こえてくる。
 橘は自分を助けようとしてくれている鵠を強い力で押しのけると、懐から拳銃を取り出して眠っているくぼずきんに向かって構えた。

 「眠ってばかりではつまらないでしょう? 今、楽にしてあげますよ、くぼずきん君」

 そう言い終えると、橘は握っている拳銃のトリガーを引き絞り始めた。
 しかし、そんな橘の前にさっきまで虚ろな瞳で座っていた時任が立ちふさがる。
 そしてヨロヨロとよろめきながらも時任は真っ直ぐな瞳で橘を威嚇しながら、くぼずきんに向けられている銃口の前で腕を広げた。
 「今の貴方に何ができると言うんです? そんなに衰弱した身体で…」
 「・・・・・・・・・」
 「この際ですから、ハッキリ言ってあげますよ」
 「・・・・・・・・・」

 「くぼずきん君はもう目覚めない。…そして、それはすべて魔獣である貴方を愛していたせいです、時任君」

 時任に良く聞こえるようにゆっくりとそう言った橘は、薄く口元に笑みを浮かべる。
 すると、時任は橘の残酷な言葉にピクッと反応はしたが、やはり上げた手を降ろさなかった。
 自分が撃たれることなど初めから頭にないかのように、じっと銃口の前に立ったまま…。
 そんな時任を見た橘は憎しみを込めた瞳で見つめながら、拳銃を時任の額に当てた。
 「死にたくなかったら避けるんです。そうすれば貴方は死ななくて済む」
 「・・・・・・・」
 「言ったでしょう? くぼずきん君はもう目覚めることはないんです。 このままにして置くよりも早く楽にしてあげた方が彼のためですから…」
 「・・・・・・・・・・」
 「魔獣と人間は所詮、住む世界が違うんです」
 橘はそう言うと、時任の額に当てている拳銃のトリガーを引き絞る。
 だがカチャンと完全に引き金が引かれても、時任は身動き一つしなかった。

 真っ直ぐ向けた瞳を閉じたりせずに、顔色一つ変えずに…。

 しかし確かに間違いなく橘の手によって引かれた拳銃からは、故意に弾が込めなかったので銃声も硝煙もあがらない。
 橘は低く狂ったように声を立てて笑うと、時任の首に手を伸ばしてそのままくぼずきんが眠っているベッドに押し付けた。
 「貴方の中の憎しみは? 胸を焦がすような憎しみはどこにあるんですかっ! 魔獣である貴方が…、どうして人間を憎まないっ!!」
 「・・・・・・・・うぁっ!」
 「貴方も魔獣なら伝わってくるはずです…、一つの意思に連なる憎しみの波動が…っ! 戦えっ、殺ろせと叫んでいる叫びがっ!!」
 「・・・・・・・うっ…、はな…」
 「私と一緒に戦うんですっ、人間とっ!! 貴方を苦しめている人間と戦うんですっ!!」
 「・・・・・・・イヤだ」
 首をしめられた時任は、自分と戦えという橘に向かってハッキリとそう言った。
 今までろくに口すら効けないようだったが、その口からやっと言葉が漏れる。
 その言葉に橘が少し喉をしめつけている手を緩めると、時任は咳き込みながら首を横に振った。
 「魔獣だとか人間だとか…、そんなのは関係ねぇよ…。俺は俺として…、生きるんだ…」
 「そんな風に思っても、人間は貴方を殺そうとしますよ? 貴方は魔獣なんですからっ、そのことを忘れた訳じゃないでしょう?」
 「でも、それでも…、憎んだりなんかしない…。俺は生きるために戦うんだ…っ」
 「バカなことを…、憎まずに戦えるはずなんかないでしょう?」
 「…なに言ってんだ、バカなのはアンタの方だろ」
 「ふっ、何も出来ないクセに、戦えもしないクセに何を言うつもりです?」
 「戦うのは魔獣だからじゃなくて…、大事なモン守りたいからに決まってるじゃんか…」
 「・・・・・・そんなモノは…」

 「アンタにもあるだろ…。大事なモンが…、守りたい何かが…」

 その言葉を聞いた橘の手は、時任の首からゆっくりと離れる。
 しかし、橘の胸の中には未だ激しい憎しみの炎が燃えさかっていた。
 目の前にいる恋し合っている二人の姿が…、魔獣をペットとしてしか見なさなかった松本を思い出させて…、人間を憎む別の感情と混じり合っていく。
 胸の奥に侵食してくる憎しみの感情の強さは、橘の想像を遥かに越えていた。

 「ううっ…、うぁっ…!!」

 橘は自分の胸を抑えると、倒れるように床にしゃがみ込む。
 するとベチャリベチャリと蠢いている、特別製の方位磁石が橘の足元に落ちた。
 その中を見ると、それを作る元となった肉塊のようにくぼずきん目指し、小さな肉片は苦しんでいる橘の横で波打ち続けている。
 まるでくぼずきんに殺されても滅びなかった肉体のように…、その想いを紡ぎながら…。
 死ぬこともなく未だ肉塊は動き続けていた。



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