くぼずきん.33




 鵠という男の部屋には外からの銃声が聞こえたりはしていたが、それは時任とくぼずきんを狙ったものではなく、魔獣と軍との衝突によって起こっているものだった。
 けれどその音が室内に響くたびに、時任の身体がピクッと反応する。
 自分が安全な場所に避難することができたのはなんとなくわかってはいたが、まだ時々あの地下道にいる気がして、こんな風に反応してしまっていた。
 それは目の前に広がる暗がりと冷たいコンクリートの上に広がる赤い血が…、くぼずきんが撃たれた時のあのイメージが、まだ時任の脳裏に焼き付いて離れないせいなのである。
 くぼずきんはその日から、一度も意識が戻らないまま時任の目の前で眠り続けていた。

 「くぼちゃ…」

 巻かれている包帯を替えている鵠にも聞こえないくらい小さな声でそう呟くと、時任はあの時していたようにぎゅっとくぼずきんの手を握りしめる。
 しかし、その手はいくら握り続けてもやっぱり時任の手を握り返さなかった。
 船の上から飛び込む時も…、地下道を走る時も…、くぼずきんは手を握りしめてくれていて、その温かさがいつも時任を救ってくれていたのに…。
 時任が手を握りしめ続けていても、くぼずきんを助けることはできない。
 できることと言えば、ただ無免許医だという奇妙な中国服という服を着た鵠が、治療してくれているのをただ眺めているだけだった。
 あの時もどんなことをしてもくぼずきんを助けたかったのに…、身体が少しも言うことをきいてくれなくて…、何度背負ってもまともに歩くことすらできなかった。
 だから、もし鵠が通りかからなかったら、おそらくくぼずきんは助かっていない。
 いつも自分のことを守ってくれて、助けてくれていたくぼずきんを、時任は守ることも助けることもできなかった。

 『ごめん…、くぼちゃん…』

 手を握りしめかながら何度も何度もそう胸の中で呟き続けて…。
 その鼓動を確かめるために、くぼずきんの胸の上にそっと頬を寄せて…。
 大きくて綺麗な瞳に哀しみを浮かべながら…、時任はじっとくぼずきんの瞳が開くのを待っている。けれどあの時のショックと胸の痛みのために…、時任の顔からは表情がなくなってしまっていた。
 目の前にこうしてくぼずきんはいて…、ちゃんと生きていてくれていたが、あのまま鵠が通りかからなかったら無事ではいられなかったに違いなくて…。
 一番、誰よりも守りたかった人なのに、どうしても助けたかったのに…、血が流れていくのを眺めているしかなかったことが…、その事実が時任の胸をズキズキと痛ませていた。
 
 「包帯の取替えは終わりました。くぼずきん君の傷は良くなってきていますよ。だから貴方も少しでも良くなるように何か食べてください。そうしないと、その人が起きた時に元気のない貴方を見たら心配するでしょう?」
 「・・・・・・・・・・・」
 「・・・・わかりました。点滴を打ちますから腕を出してください」
 「・・・・・・・・・」

 くぼずきんだけでなく時任も診てくれている鵠は、今日も時任が何も食べようとしないので、そう言って点滴の注射針を腕に打つ準備を始める。
 だが時任はやはり何を食べようとしても喉を通らないので、何を出されても食べられなかった。
 鵠の言うようにくぼずきんが目覚めた時に、時任が元気じゃないと心配するに違いなくても…。
 くぼずきんはきっと無事に助かって…、いつか目を開いてくれると信じてはいても…。
 胸の中が小石がいっぱい詰まってるように重くて、点滴の液が腕の血管の中に流れ込むのを見ているしかない。
 ポタッポタッと落ちていく点滴の速度は、くぼずきんの鼓動のリズムに似ていた。
 時任は鵠が部屋からいなくなると、握っていない方の手をくぼずきんの頬にそっと伸ばして触れてみる。すると、やはりその頬は少し冷たかった。
 時任は握っていた手を離して両手で冷たい頬を包み込むと、静かにその唇にキスを落とす。
 そうしてから、くぼずきんの頬に自分の頬をよせると、時任はかすれた声で名前を呼んだ。

 「くぼちゃん…、くぼちゃ…、起きて…。頼むから起きて…、くぼちゃん…」

 毎日、何度も何でもそう呼びかけながら…、唇に頬に…、額にキスして…。
 少しでもくぼずきんから何かを感じ取ろうとしてしている。
 けれど、そうしながらどんなに好きだ叫んでも、その想いを抱いていても…、胸の奥に降り積もっていくのは痛みと哀しみだけだった。
 二人で過ごした短い屋敷での時間は、あんなにも優しく過ぎて行ったのに…。
 今はこうして二人でいても…、過ぎていく時間が重く重くのしかかってくる。
 それは、このまま目覚めなければくぼずきんの命が危ないと、鵠が言っていたためだった。
 時任が目を閉じたままでくぼずきんの髪を撫でていると…、セッタではなく薬の匂いが匂ってくる。
 その匂いを嗅いでいると、くぼずきんを呼び続けていた時任の声は、何かに詰まったかのように出なくなった。

 『それじゃあさ。俺はお前のコト、くぼちゃんって呼ぶことにする。くぼずきんよか似合うし』
 『そう? じゃあ俺はお前のことなんて呼ぼうかなぁ。う〜ん、子猫ちゃん?』
 『猫って呼ぶなっ!』

 ここにいるようになってから、くぼずきんの手を握りしめながら思い出すことは、あの魔獣の森でのことばかりだった。けれど何もなくて穏やかだった短い日々も、楽しかったはずの想い出を思い出しても…、今は少しも暖かい気持ちにはなれない。
 やっと出会えてこうしてそばにいるのに…、痛みだけが胸の中に広がっていく…。
 くぼずきんがワイルド・キャットでも人間でもなく時任を好きだと言ってくれたように、時任もくぼずきんが魔獣だろうと人間だろうと好きだったが…。
 外では、人間による魔獣狩りが始まっていた。
 そのことは鵠がその話を時任にしたのだが、疑うまでもなく外から聞こえる銃声や叫び声からそれが本当だということがわかる。
 今の所は両者の力はお互い一歩も譲っていないようだが、これから先はわからなかった。
 そのため、鵠がかくまってくれていてもここも危なくなる可能性が高い。
 そうなったら、くぼずきんを巻き込まないためにも、今度こそ本当に別れなくてはならなかった。
 一緒にいたいだけで…、本当にそれだけ願ってきたけれど…。
 もうこれ以上、くぼずきんを自分のために傷つけたくなかった。
 だからほんの少しの間でも…、もう一度だけくぼずきんとあの魔獣の森に帰りたかったのに…、もうそれは叶わないかもしれない。
 時任はくぼずきんから離れて起き上がると、少し乱れてしまっていた毛布に手を伸ばして…。
 魔獣の森で二人で過ごした最後の日…、木陰で眠っていたくぼずきんにかけられなかった毛布をかけるように、そっと傷ついた身体の上にかけ直した。








 鵠が店主をしている東湖畔の付近でも、魔獣対人間の戦いは日増しに激しさを増している。
 どうやら魔獣側の方に有能な指揮官がいるらしく、どうしても武器や人海戦術に頼りがちな人間側の軍隊とは違い、攻めて来るポイントを抑えて少人数で襲撃しているようだった。
 魔獣側の武器は、軍隊から巻き上げたものがほとんどだが、中には人間の商人から買ったものもあるらしい。
 元々、闇組織が暗躍していた町のせいか、金さえ出せば魔獣にも武器を売る者がいたのだった。
 東湖畔でも武器はもちろん販売していたが、今回の魔獣狩りの関係者は人間だろうと魔獣だろうと武器を売らないことにしている。
 それは今回の件が、あまりにも急で様子がおかしかったからだった。
 鵠はこうなった原因について色々と考えをめぐらせたりしていたが、まだこれだと思われる答えには到達していない。
 しかし、誰かの手の上で踊らされているような嫌な予感がしてならなかった。
 
 「本当に嫌な時代になったものです…」

 鵠はそう言うと、いつものようにあまり人の来ない店のカウンターに座る。
 すると今日はめずらしく、すぐに客が店の中に入ってきた。
 しかしその人物は店内にある商品を見ることなく、すぐにカウンターまでやってくる。
 そして鵠の前に立つと、にっこりと妖艶に微笑んで軽く頭をさげた。
 「お久しぶりです…。僕のことを覚えてらっしゃいますか?」
 「ええ、もちろん覚えてますよ。確か…、橘さんでしたよね?」
 「本当にその節はお世話になりました…」
 「いえいえ、お元気そうでなによりです」
 鵠がそう言って返事を返したのは、以前、この町でさまよい歩いていた魔獣の橘だった。
 魔獣だった橘は今は人間の姿になっているが、それは実は鵠が手術をしたせいである。
 お世話になりましたと礼を言ったのは、ちゃんと意味があってその時の礼を言ったのだった。
 鵠は無免許医をしているが、やはり医者として見過ごせないのかたまに無料で治療を行うこともある。そして、その無料で手術した患者の中の一人が橘だった。
 「お久しぶりですね」
 「ええ、本当に…」
 そんな風に二人は話を始めたが、橘はあまり体調が優れないのか顔色が悪い。
 その姿は、まるで何かに耐えているようでもあった。
 鵠はそのことに気づいていたが、何事もないかのように振舞っている。
 しかし美人であることには変わりないが、やはり顔つきも目つきもどこかおかしかった。
 橘は一通り世間話を終えると鵠の出したお茶を飲みながら、落ち着きのないようすで視線を鵠からそらせる。
 するとその視線の先には、二階へと続く隠し階段があるあたりに注がれていた。
 実は手術の傷が回復するまでの間、橘はここの二階で暮していたのである。
 そのため橘は、二階があることを知っていた。

 「ちょっと、鵠さんに聞いてみたいことがあるのですが…」
 「はい、なんですか?」
 「ここの二階に、今、患者さんはいらっしゃいますか?」
 「さぁ、どうだったでしょう?」
 「正直に答えてもらえませんか…?」
 
 本当にどこかの具合悪いのか、橘は鵠と話しながらもますます顔色が悪くなっていく。
 それを見た鵠が橘に診察を申し出ようとすると、橘はふふっと笑ってそれを断った。
 手術の時はなんの支障もなかったが、もしかしたら今になって何か異変があったのかもしれない。
 しかしその異変を目の前にして、橘は冷汗をかぎながらも微笑をくずさなかった。
 
 「ココにくぼずきんという男と、時任という魔獣がいるはずだと思いますが?」

 そう言った橘の言葉は、なぜか自信というよりも確信に満ちている。
 その確信の源がなんなのかはわからないが、橘は一つの透明な小さなガラスケースを鵠の目の前に置いた。
 鵠がそのガラスケースをのぞきこんで見ると、その中には何かドス黒い不気味な色の物体がまるで生き物のように蠢いている。
 その不気味な物体から、ベチャリベチャリと音がガラスの中から聞こえてきそうだった。
 けれどだれもこの妙な物体が…、本当に生きているとは思わないだろう。
 じーっとガラスケースの中を鵠がのぞしていると、橘は再びそんな鵠に向かって妖艶に微笑みかけていた。
 「これは方位磁石なんですよ。もっとも、北じゃなくてある方向しか示しませんけれどね」
 「ほう…、北を示さない方位磁石ですか?」

 「そう、この磁石は…、自分を殺した相手を指し示すんですよ」

 橘の持っている不気味な方位磁石は、北ではなく二階の階段を指し示していた。

 


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