くぼずきん.32




 魔獣の処分が国内に伝えられたのは、政府がそれを決定してからすぐのことだった。
 だが伝えられた内容は大きな混乱を防ぐために、魔獣が人体に害を及ぼすということを簡単に説明しただけに留まっている。人体への影響とは関係ないが、実際ここ数週間の内に魔獣が飼い主に襲いかかるという事件が多発していたことは事実だった。
 それが魔獣の森から肉塊がやってきたことが、影響しているのかどうかはわからない。
 松本が調べたことでわかったことは多くあったが、魔獣についてまだわからないことが多すぎた。
 国も魔獣についての研究はしているが、それは魔獣を軍事用として飼育することに重点を置いていたのでその実態を解析するまでにはいたっていないのである。
 松本が持ち込んだ資料に書かれたことを鵜呑みにしてしまった政府を見てわかるように、この国はすでに裏組織と手を組んで利益を貪っている内に衰退しきってしまっていた。
 そのためすでに政府としての機能は破綻をきたし、首脳部は操られるだけの存在になり果てている。
 そんな実態を真田によって見せられた松本は、この国のトップに座っている人々の慌てふためく様を静かに見つめていた。

 「これがこの国の現状だよ、松本君。だからこそ、我々が付け入る隙があるというものだ」

 急きょ設置された魔獣対策本部で松本が魔獣の処分状況報告を眺めていると、真田は本部の設置されているビルから見える夕日に照らされた町の光景を眺めながらそう言った。
 本部長の椅子には真田が座るものと思っていたが、真田はその席に松本を座られせている。
 なぜかと尋ねた松本に真田は、暗闇で長く生きていると明るい場所が苦手になると口元に笑みを浮かべながら言った。
 そんな真田の言いなりになるつもりはなかったが、結局、松本はこうして本部長の椅子に座ってしまっている。それはこうやって窓から町を眺めている内に、これからこの町がどうなって行くのかその行く末を見届けたくなったからだった。

 「肉塊によると思われる事件はここの所、パッタリと止んでしまっているが、その代わりに魔獣による事件が多発してる。魔獣の処分に回っている者の中にも怪我人や死人が増えてるな…」 

 松本は真田の言葉には答えず、資料を見ながらそう呟きながら小さく息を吐く。
 そして椅子に座ったまま少し身体を前に倒すと、前にある机に両肘をついて両手を組み合わせた。
 突然、座ることになった本部長の椅子だが、単なるお飾りで座っているわけではない。
 松本の今の仕事は魔獣を駆除し、この町を守ることだった。
 その中には肉塊を倒すことも含まれていたが、なぜかここ最近は資料が示している通り肉塊によると思われる事件はなくなってしまっている。
 死んだということがとても考えられないだけに、何かが起こるような嫌な予感した。
 松本は肉塊のことも考えていたが、それに追われているくぼずきんのこともやはり考えている。
 魔獣の処分に奔走している部下達にくぼずきんの特徴を伝え、見つけ次第に連絡するように命令してはいたが、肉塊と同じようにくぼずきんの行方も未だつかめていなかった。
 「肉塊が出なくなったのと同じ時期に、港で東条組が何者かの襲撃を受けたという情報が入ってきている。しかも相手はたった一人…」
 「それがくぼずきん君だったと?」
 「おそらく、時任を助けに行ったんだろう」
 「つまりあの猫を助けに行ってから、それ以後は行方不明になっているというワケかね?」
 「誠人のことだから無事でいるとは思うが…、静か過ぎるのが気にかかる」
 「だが無事でいたとして、捜して出してどうする?」
 「どうするとは?」
 「忘れたのかね? 君の座っている椅子の意味を…」
 「・・・・・・・べつに忘れたワケじゃない」
 松本はくぼずきんとは短い間だが一緒の家で暮らしたりはしていたのだが、時任との面識は薄いし、話したこともあまりなかった。
 しかしだからと言って、時任のことをどうでもいいとは考えていない。
 それはくぼずきんが時任のことを大切に思っているからというのもあったが、やはりそう思う理由の一つは魔獣の森での事件が一番大きかった。時任は魔獣の森でケガを負っていた橘と松本を助けるために、自分から宗方の手に落ちたのである。
 だが、その日のことをいくら思い出しても、時任が魔獣だと言うことに変わりはなかった。
 それにもしも行方不明になっているくぼずきんの身に何かあったのなら、おそらく時任は暴走し始めている魔獣達と同じようになっていないとも限らない。
 松本は軽く組んでいた手をゆっくりとはずすと、座っていた椅子から立ち上がった。
 「この椅子に座った以上、与えられた仕事はまっとうする…」
 「ほう、それでこそ君にこの仕事を任せたかいがあるというものだよ」
 「・・・・俺は政府に頼まれたつもりだ」
 「あの、贅肉ばかりのついた醜い役立たずの連中にかね?」
 「そうだっ」
 松本がそう返事をして本部を出て行こうとすると、真田は上げられていた窓のブラインドを下ろす。
 すると夕焼けに照らされて赤く染まっていた室内が、一瞬にして暗闇に包まれた。
 さっきまで綺麗に見えていた町の風景は、真田の手によって消されてしまっている。
 松本は暗がりの中で窓の方へと振り返ると、この部屋に暗闇をもたらした真田を鋭く睨みつけた。
 しかし真田はその視線を受けても動じた様子はなく、じっと窓辺に立っていた。
 「もし、くぼずきん君が生きていたら、私の元に連れて来たまえ」
 「何をするつもりだ?」
 「宗方が魔獣に影響力を持っているように、くぼずきん君も同じ力を持っている。その力を使えば魔獣をおびき出すことも探し出すことも簡単だろう?」
 「・・・・・本来なら、この椅子に座っていたのは俺ではなく誠人のはずだった訳か?」
 「何が起ころうとも結果がすべてだよ、松本君」
 「俺は命令されるのが嫌いだが、その俺よりも誠人はもっと命令されるのを嫌っている。貴様と手を組むなどあり得ない」
 「何事もやってみなければわからんよ。私のことを嫌っていた君が、こうして私のそばにいるように…」
 くぼずきんのことに自分を引き合いに出されて、松本の顔が不快そうに歪む。
 だが、真田が言っていることは事実なので何も言うことができなかった。
 こうして今あんなに嫌っていた真田のそばにいて、そう望んでいなくても真田の思惑通りに動くはめになってしまっているのが現実だったからである。
 真田が始めからすべてを予想していたとは思えないが、やはり得たいの知れない不気味な男であることに変わりはなかった。

 「今夜は一緒に食事でもどうかね、松本君」

 嫌な笑みを浮かべながら真田がそう言ったが、松本は以前のように怒鳴ったりはしない。
 それはべつに真田を好きになったとか、そんな理由ではなかった。
 しかしゆっくりと窓辺から歩み寄ってくる真田が来るのを、じっとその場で立って待っている。
 そうしているのは。もしかしたら魔獣の森で別れた橘のことを真田に身を預けることによって忘れようとしていたからかもしれなかった。
 東条組の情報は今も入っては来るものの、関谷や宗方の情報は掴みにくくなってきている。
 そしてそれは、その二人と一緒にいると思われる橘についても同様だった。
 研究所を閉鎖して処分する前に飼われていた魔獣が多量に逃げ出すという事件があったが、それを逃がしたのは確かな情報ではないが東条組だという噂がある。
 その噂では、その中に恐ろしく妖艶な美貌の男がいたという話だった。
 噂が本当なのか嘘なのかはわからないが、もう橘の考えていることも思っていることも、何もかもが松本にはわからない。
 そうしていつの間にか、橘と二人で過ごした日々もまるで幻のように胸の中で霧に包まれてしまっていた。








 突然、町で始まった魔獣狩りは、本来はこの国を守護するためにある軍によって行われている。
 政府は何かよほど慌てているらしく、狩りの状況は日増しに酷くなっていた。
 しかし魔獣達も簡単に狩られたりせずに、町のあちこちに潜んでいて軍隊を攻撃する。
 魔獣は町に住んでいたペットが多いかと思われがちだが、実は軍事施設から逃げ出した者達がその大半を占めていた。
 人を殺すために訓練し調教された魔獣達は戦うことに慣れているので、いくら軍でも簡単にすべてを狩ることは不可能に違いない。
 そのため町のあちこちで、軍と魔獣が衝突し死闘が繰り広げられていた。
 町の住人たちは家に閉じこもってその様子を見守っていたが、まだこの戦いに終わりは見えない。
 突然始まった人間と魔獣との戦いに、町は死んだようにひっそりと静まり返り、血の匂いだけがそこら中に漂っていた。

 「ホントに大変なことになったもんだ…」
 「まったくっ、儲かるのはここの店みたいに裏で武器屋やってるトコだけだぜっ」

 そんな会話が町の一角に雑貨屋を営む店の前でされていたが、やはりその前にも店のある道筋にもその他にの人影はない。二人が話しているようにこの店は表向きは雑貨屋だったが、実は裏家業で密輸品や武器なども扱っていた。
 店の主人は髪の長い中国服と呼ばれる奇妙な服を来た男で、優しげな細面の顔にいつも丸い眼鏡をかけている。その主人の名は、とても珍しい名前で鵠といった。
 鵠は朝の用事を済ませてから、医療用の道具や薬の入った鞄を持つと紐を引いて隠してある階段から二階へと上がる。この二階の部屋は以前から鵠のもう一つの仕事のために使っていて、置くの部屋にはちゃんと手術台まで完備されていた。
 表家業と裏家業の両方を一人でこなしていたが、実はそれだけではなく他にも様々な商売を扱っている。その中でも取り分けて重宝がられているのが、無免許でしている医療行為だった。
 鵠は無免許ではあるが、医師としての腕はそこらヘンの藪医者よりも勝っている。
 そんな鵠が主治医をしている患者は、ここに連れて来た時から目覚めることなく昏々と生死をさまよいながら眠り続けていた。

 「薬だけでは限界があります。医者として弱って行く貴方を見過ごすわけにはいきませんから、お願いですから何か食べてくれませんか?」

 二階の部屋に上がると鵠はそんな風に言ったが、それはベッドで眠っている患者ではなく、その横でじっと目覚めない患者を見つめている魔獣だった。
 その頭には魔獣である証拠の耳が、時々、何かを捕らえようとしているかのようにピクピクと揺れている。しかしその耳はかわいそうなくらい垂れてしまっていているし、ついている長いしっぽもピクリとも動かなかった。
 魔獣はとても珍しいワイルド・キャットという種類で、その姿は魔獣の中でもっとも美しいと言われている言葉通りにその魔獣は魅力的で綺麗だった。しかし潤んだ大きな黒い瞳は哀しそうにベッドだけを見つめ続けていて、そうして座ったままの状態がもう三週間も続いている。
 名前だけはなんとか聞き出すことに成功していたが、それ以上のことはまだ何もわかっていなかった。

 「…時任君?」

 鵠は優しくワイルド・キャットの名前を呼んだが、やはりそれでも反応がない。
 いつもこの時任というワイルド・キャットのために、鵠は小粥などの病人食を用意していたが、やはり食欲がないのか今日も手付かずのままになっていた。
 鵠は小さく息を吐いて朝食の乗ったトレーをさげると、ゆっくりとその頭に向かって手を伸ばす。
 だがその瞬間、時任はピクッと鵠の動きに反応して身構えた。
 まるで敵でも見るかのように時任派きつい瞳で鵠の方を睨みつけてきたが、自分に向かって手を伸ばしているのが鵠だと知ると再び自分の殻に閉じこもるようにベッドへと視線を戻す。
 時任は食事だけではなくあまり眠ってもいないようで、まるで瞬きすると目の前にいる人物がいなくなるとでも思っているかのように、ひたすら見つめながら眠っている男のそばにいた。
 その姿はペットとして飼い主を心配しているのではなく、恋する人を想って心配しているように見える。
 まるで心の中でその男のことを呼んでいるかのように、時任の両手はぎゅっとベッドから出ている男の右手を握りしめていた。

 「本当に貴方は…、その人のことがとても大事なんですね」

 そんな風に鵠が最初に呟いたのは、下水の流れる地下道の暗がりの中だった。
 鵠がなぜそんな場所にいたかというと、輸入が禁止されている爆発物の受け渡しが迷路になっている地下道の中で行われたからである。
 政府の規制が厳しくないので、こんな場所で取り引きをする必要はないように思われるが、大っぴらに売られているために誰が何を購入したかという情報も流れ安かった。
 そこでその情報が流れるのを防ぐために、受け渡し場所が地下道になることが実は多い。
 そのため鵠は地下道のすべてを頭の中に記憶してしまっていて、迷うことなく自由に地下道を行き来することが出来た。
 時任に出会ったその日も、ちょうどそんな取り引きの帰り道だったのである。
 何か地下道が騒がしいと気づいてはいたが、まさかこんな狭い地下道で銃撃戦が行われているとはさすがの鵠も予想していなかった。だから自分に危険が及ぶ前に地下道から脱出しようとしていたのだが、ハシゴから地上にへと上ろうとした時、そう遠くない場所から聞こえる激しい銃声が鵠の耳を打つ。
 その銃声は、本当に銃弾を標的に向かって撃ち込んだ感じの激しい音だった。
 銃声の音はこの町にいればいつでも聞けるが、その激しい音の後に訪れた静寂が鵠の足を止めさせる。突然訪れたその静寂は、なぜか妙にどこか引っかかる感じがした。
 
 「野次馬って言うんでしょうね…、こういうのは…」

 珍しく気まぐれを起こしている自分に苦笑しながら、そう呟いた鵠は銃声のした方向に向かって歩き出す。すると、血生臭いことには関わらない方が良いに決まっているが、あまりにも静か過ぎてそれがなぜか妙に気にかかった。
 鵠は足音が響かないように注意しながら、ゆっくりと暗い地下道を歩いていたが、しばらくすると目の前に一つの人影が見えてくる。その人影は最初一つかと思っていたが、近づいて行くとそこにいるのが三人だということに気づいた。
 腹部を撃たれて倒れている男と、それをぎゅっと抱きしめている魔獣が一匹と、そしてもう一人下水に男がいたが、その男はすでに完全に息絶えている。
 おそらく死んでいる男は、倒れている男か魔獣によって倒されたに違いなかった。

 「くぼ…ちゃ…」

 倒れた男を抱きしめている魔獣は時々何かを呟いていたが、その声は小さすぎてよく聞こえない。
 だが倒れた男のことを必死で守るように抱きしめ続けている姿は、見ているだけでズキズキと胸を刺すような痛みを覚えた。
 男は拳銃で撃たれたらしいがその出血の量も尋常ではなく、医者として見た限りでは撃たれた場所も急所は外れているものの悪すぎる。
 まだ息があるかどうかは定かじゃなかったが、息があったとしても死ぬのは時間の問題だった。
 男を抱きしめている魔獣の手は赤く血に染まっていて…、その赤が鮮やかすぎるくらい鮮やかに鵠の瞳にうつる。
 その赤はたぶん憎しみでも怒りでもなく…、哀しみの色だった。
 魔獣の細い肩も背中も…、必死で抱きしめている男を想って声も無く泣いていた。

 「おいっ、そっちにいたかっ!?」
 「さっきこっちで銃声しただろ!?」

 しばらくじっと鵠は魔獣と男を眺めていたが、その声にハッと我に返って辺りを見回す。
 すると、こちらに向かってくる無数の足音が聞こえてきた。
 これは予想にしか過ぎないが、おそらくこの魔獣と男は何者かに追われている。
 しかもこんな地下道で銃撃戦をするくらいだから、何かよっぽどの事情があったに違いなかった。
 鵠はじっと冷たいコンクリートの上で男を抱きしめている魔獣に近づくと、声をかけてそっとその肩を叩こうとする。
 だが、魔獣は手が触れる瞬間に鋭い爪で鵠の手を攻撃した。
 「・・・・っ!」
 鵠は声をあげなかったが、その手の甲は魔獣の爪で引っかかれてしまっている。
 魔獣は軍事用とペット用があるが、この魔獣の種類であるワイルド・キャットはその両方の特徴を備えていた。
 男が撃たれたことで興奮状態になあるワイルド・キャットに触るのは危険だったが、それに構わず鵠はワイルド・キャットを男から引き離そうとする。
 するとワイルド・キャットの爪が、今度は鵠の左の頬をかすめた。
 
 「その人はもう助かりませんから、私と一緒に地上に出ましょう。そうしないと貴方まで死ぬことになります。貴方が死ぬことをその人も望んでないでしょう?」
 「・・・・・・・・いやだっ!!!」
 
 ワイルド・キャットは一言だけそう叫ぶと、男を抱きしめたまま俯いていた顔を上げて鵠の方を見る。
 鵠はその真っ直ぐな黒い瞳に見られた瞬間、自分の鼓動が止まるのを感じた。
 それは頬を流れ落ちた落ちた一粒の涙が、真っ直ぐに見つめてくる瞳が…、男から離れたくないと必死に訴えてきたからだった。
 ワイルド・キャットは迫ってくる追っ手の足音にやっと気づくと、体力がかなり消耗している様子なのに男の身体をそっと横たえるとフラフラしながらも立ち上がる。そんなワイルド・キャットの様子に鵠は逃げることにしたのかと思って手を差し伸べたが、ワイルド・キャットはそれを無視して男の身体に腕を伸ばした。

 「まさか連れて行くつもりなんですか…、その人のことを…」
 
 鵠はゆっくりとそう呟いたが、ワイルド・キャットは何も答えずに男の腕を持ち上げて自分の肩にかけさせる。そして自分よりも背の高い男の身体を、その背中に背負おうとした。
 しかし、フラフラした身体で男を背負うのは無茶すぎる。
 ワイルド・キャットは三歩も歩かない内に、冷たいコンクリートの上に倒れた。
 けれどすぐに歯を食いしばりながら起き上がって、再び男を背負い始める。
 コンクリートの上には、歩いた距離だけ男の血痕がついていた。
 けれど本当にもうさっきの三歩が限界だったらしく、ワイルド・キャットは男の背中を壁につけて座らせると愛しそうに大事そうにその身体を抱きしめる。
 そして動かない手に自分の手を重ねると、指をからませてしっかりと握り込んだ。

 「気持ちはわかりますが、ここに置いていくしかないんです…」

 追っ手の足音を聞きながらそう鵠が言うと、ワイルド・キャットははっきりと首を横に振る。
 それは、もうここから逃げるつもりがないことを示していた。
 ワイルド・キャットは男に向かって手を握っている反対側の手を伸ばすと、静かに男の頭をその腕の中に抱き込む。
 そうしてから男の髪に頬を寄せて…、ゆっくりと眠るように瞳を閉じた。
 
 「もう…、このままでいい…。二人でどこにもいけないなら…、ここにいる…」
 「死ぬつもりですか?」
 「死ぬつもりは…ねぇけど…。一緒にいたいから…」
 「一緒にいても、死んだらなにもなりません」
 「違う、そうじゃなくて…、死んだらとか生きたらとかそう言うんじゃなくて…、ずっと一緒に…」
 「どうしてそこまで飼い主のことを…」
 「俺がワイルド・キャットだからそう言うのかもしんねぇけど…、くぼちゃんはそんなんじゃ…」
 「じゃあ貴方にとって、この人は何なんです?」
 「好きで一緒にいたいだけ…」
 「好きなだけ?」
 「それだけで…、好きなだけで…、もう胸がいっぱいで苦しいんだ…」
 「・・・・・・」

 「すごくすごく…、胸が痛てぇんだよ…」

 ワイルド・キャットは震えた声で詰まりながらそう答えると、最後にどこの誰かは知らないけど、もうほっといてくれ…と言うとそれきり何もしゃべらなくなった。
 近づいてくる追っ手の足音が地下道に響き渡っていたが、鵠にはワイルド・キャットと男の周りだけが静かで空気もすんでいるように見えた。
 どんなに抱きしめても抱きしめても…、抱き返してくれない男を抱きしめて…。
 握りしめた手を離れないように握りしめて…、ワイルド・キャットは愛しさと恋しさを苦しい胸の中で…、その痛みを叫び続けている。

 こんな光も届かない場所でただ一人…、好きな気持ちをその想いを綴りながら…。

 「本当に貴方は…、その人のことがとても大事なんですね」
 鵠はそんなワイルド・キャットにそう言って背を向けると、出口のあるハシゴのある場所に向かって走り出す。間に合うかどうかはわからなかったが、この二人をここから地上に連れ出すための応援を呼ぶために…。
 間に合わない可能性の方が高かったが、走らずにはいられなかった。
 
 「あの二人を死なせたら…、私はもう医者ではいられなくなる気がしますよ…」

 地下道を走りながら鵠が呟いたその言葉は、本気で言った言葉だった。
 そして間に合うことを祈って走り続けた結果、この後、鵠は同じ武器の売人に応援を頼んで地下道から二人を救出することに成功する。
 それは本当に奇跡的なことだったが、神様のおかげなどではなく…。
 ただ一人だけを想い続けて…、その想いを抱き続けていた時任の起こした奇跡なのかもしれなかった。
 そしてその奇跡のおかげで、今も昏々と眠り続けるくぼずきんと呼ばれる男はかろうじて命をつなぎとめている。けれどその命は、衰弱していく時任の命を吸い取ってながらえているようにも見えた。
 
 「こんなに苦しんでまでどうして恋をするのか…、私にはとても不思議です」

 眠っているくぼずきんの胸に頬を押し付けて、その鼓動を聞いている時任を見つめながら…。
 鵠はそう言って、くぼずきんに巻かれている包帯を取り替えるためにベッドへと歩み寄った。



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