くぼずきん.31
明るかった空が暗闇に沈み、海を輝かせていた太陽が水平線へと消えて行く。
関谷はそんな景色を見ても何も感じることなく、ただイライラとしながら一人で港に立っていた。
船から海へと飛び込んだくぼずきんと時任がどこに逃げるかは予想がついていたので、すぐに部下たちを地下道へと送り込んでいる。
しかし、いつまでたっても二人を始末したという連絡が入らなかった。
投げたナイフには毒が塗られていたし、時任もかなり消耗しているはずなのにどうやらまだ二人は逃げ続けているらしい。
関谷は、足元に落ちていた空き缶をガッと踏みつけると矢崎を呼んだ。
「…連絡は?」
「二人の姿を見つけたという報告はあったんですが、それから後は…」
「ふん、なかなかしぶといじゃないの」
「あの、関谷さん…」
「なによ?」
「宗方って野郎は二人を殺さずに捕らえろって言ってたみてぇですが、いんですか?」
「矢崎っ、ぐだらねぇこと言ってるヒマあったら、とっとと二人を捜しな!」
「は、は、はいっ!!」
「アタシは誰の下につくつもりもないわ、当然ね。だからそのためには、あの二人に死んでもらわなきゃならないのよ」
「それはどういう…?」
「カミサマはハリボテで十分…、ということよ」
関谷はそう言うと口元に手を当てて不気味な笑みを浮かべる。
すでに東条組を裏切り独自で行動し始めた関谷だが、おそらく魔獣の情報を売ろうとしたことについても、本部まで情報が伝わっているに違いなかった。
それを知ってしてもわざわざこの国に戻って来た目的は、宗方がそうしたいと言ったというのもあるが、魔獣の情報をもっている研究施設を破壊することにある。
そうすることで、関谷は魔獣の情報の独占を図ろうとしていた。
まだまだ魔獣について未知の部分はかなりあるが、それもあの肉塊を所有していたくぼずきん家の宗方が知っている。
今は情報を引き出すために放置していたが、用済みになれば宗方も消すつもりだった。
魔獣を操るという能力を持っているとはいえ、自分が神になると言ってみせる宗方はとても正気とは思えない。なぜか異常なほどに執着しているワイルド・キャットの時任と宗方の間に何があるのかはわからないが、宗方がしようとしていることには時任だけではなく、くぼずきんも必要のようだった。
自分の計画と思惑を胸に関谷が連絡が入る前に車で移動しようとすると、やっと命令を受けて地下に潜っていた部下が報告にやって来る。
だがその部下の顔を見た瞬間、関谷の顔が不快そうに歪んだ。
「ど、どうやらすでに地下道にはいない模様で、二人の内のどちらのかと思われる血痕だけが残っておりました」
「ふぅん、取り逃がしたというわけ?」
「申し訳ありませんっ! で、ですが、あの出血の量ではおそらく助からないかと…」
「死んだのを確認したわけじゃないわよね?」
「それは…」
「まったく、人間のクセに魔獣より使えないわ」
関谷に連絡をした部下は、最後までそれを伝えることはできずに冷たいコンクリートの上に倒れる。その胸には、関谷の投げたナイフが突き刺さっていた。
それはくぼずきんに投げた時のように毒は塗られていなかったが、おそらく助からないだろう。
矢崎は倒れた男を冷汗を浮かべながら見ていたが、関谷が車に乗り込んだので慌てて運転席に座った。しかし矢崎がブレーキを外してアクセルを踏む前に、車のドアが外から開けられる。
そこから車内へと乗り込んで来たのは、すでに港から出たと思われていた宗方だった。
「一緒に行かせてもらうがいいかね?」
「あら、アタシがどこに行くのか知ってる口ぶりね?」
「研究所だろう?」
「ふふっ、相変わらず食えない」
「それはお互い様だ」
「何のことかしら?」
まるですべてを知っているかのような口ぶりで宗方は話していたが、関谷はいつもと変わらない嫌な笑みを浮かべたままで矢崎に車を出すように言う。
走り出した車の中で、関谷と宗方はお互いの顔を見ることもなくシートに座っていた。
流れて行く景色を見ながらしばらく二人とも黙っていたが、何かを思い出したかのように自分の手を見ながら宗方が口を開く。
その言葉の温度がいつもよりも低いことを感じた関谷は、わずかに身を震わせた。
「私は殺すなと言ったはずだが、どうやら地下の連中に伝えられた命令は違っていたようだ」
「命令は間違えてないわ。けれど、同じ組員を殺されて勝手に暴走したようね」
「ほう、部下の行き過ぎた行動だと?」
「その通りよ」
「なるほど」
宗方はそう言いながらも、完全に関谷の嘘を見抜いている。
だが関谷は、声から感じる冷たさに耐えながら平静を装って座っていた。
ここで本当のことを認めてしまったら、おそらく宗方は簡単に関谷と手を切るだろう。
それはまだ魔獣の情報が不完全な今は、宗方に手を切られるのはまずかった。
手を切ると言っても簡単に切らせるつもりはなかったが、宗方は通常の人間とはどこかが違っていることを関谷は肌で感じている。
それは以前、列車でくぼずきんに感じたモノと同じ種類のものだった。
宗方は関谷が認めないことを知ると、ふっと薄く口元に笑みを浮かべる。
その笑みをフロントミラー越しに見てしまった矢崎は、冷汗をかいて固まってしまった。
そんな矢崎に気づいた関谷は、ガツッと矢崎の座っているシートを蹴り飛ばす。
すると車は、その衝撃で少しだけ右にぶれた。
「納得してくれたみたいでうれしいわ。お礼に死体を発見したと報告が入ったら、すぐに貴方に連絡してあげる」
「それはありがたいが、その必要ないだろう」
「あら、どうしてそんなことがわかるのかしら?」
「ミノルは生きている」
「それはカン?」
「いや、確信だ」
「じゃあ、くぼずきん君の方はどう?」
「死んだらその死体を、あの醜悪な神に食わせてやろう」
そう言って短く笑った宗方は、やはり自分の息子であるくぼずきんのことなど少しも気にかけてなどいない。それはくぼずきんの方も同じだったが、家の後継ぎとして認めず屋敷に閉じ込めてくぼずきんを育てた意味は未だ不明だった。
『お前は神を殺し、神に殺されるために生まれてきた』という宗方の言葉を関谷も聞いている。
しかし、くぼずきんがその昔殺したはずの神は、醜悪な姿をさらしながら生き長らえていた。
神と呼ばれる肉塊は、まるで仇のようにあの森からずっと執拗にくぼずきんを追っている。
それが殺されたことが理由だとしても、なぜか何かひっかかるような気がしてならなかった。
車に揺られながら関谷は様々なことを考えていたが、ゆるやかな速度で矢崎の運転する車はやがて無事に目的地に到着する。
だがその車の前に、一台の紺色の車が道を塞ぐように止まっているのが見えた。
その車のナンバーは、東条組に持ち物である車のナンバーである。
つまり同じ東条組の車なのだが、矢崎は車を手前で止めるとそのままその車の様子をうかがった。
魔獣の輸出という名目で国外にいたため、まだ東条組は関谷の裏切りに気づいていない様子だったが、その情報もやはり完全に信用できるものではない。
関谷と宗方はそのままだったが、矢崎が拳銃を取り出して、カチリと静かに安全装置をはずした。
車から現れるのは敵か味方かとそうやってじっと見守っていると、やがて車のドアが開いて一人の男が出てくる。
矢崎が銃口をフロントガラス越しに男に向けたが、その男は丸腰の様子で両手をあげて関谷達の車に向かって歩いて来た。
その様子を見守っていると、次第に近づいてくるにつれて男の妖艶な微笑みが見えてくる。
矢崎はその微笑みにぼーっと見惚れてしまっていたが、その妖艶さも美しさも並ではなかったので無理もなかった。
関谷は男に向かって同じように微笑んで見せると、車のドアを開けて外へと出る。
しっとりとした華やかな雰囲気の美人の男は、関谷の良く知っている人物だった。
「よっぽど悪運が強いようね」
「貴方ほどじゃありませんけど、それなりには強いようです」
「でも、せっかくだけど残念ね」
「僕を殺すつもりですか?」
「ふふふっ、役立たずを置いておくほどヒマじゃないわ」
そんな会話を交わしながらも妖艶に微笑み続ける橘に向かって、関谷がナイフを向ける。
しかし橘はそれに抵抗もせずに、じっと関谷の前に立っていた。
嫌な笑みを浮かべながら橘を眺めていた関谷は、ナイフを一本だけヒュンと音を立てて投げる。
そのナイフは、橘の頬をわずかに傷を残して後方へと飛んだ。
「やっぱりアタシの好みじゃないわね」
「意見が同じでうれしいですよ。僕は完全な攻めですから、貴方のお相手は金輪際ゴメンですし」
「完全な攻めなんて、アタシには不要品よ」
「そうかもしれませんが、僕が手に入れたモノが欲しいなら同じセリフは言えないでしょうね」
「手に入れたモノ?」
「魔獣の森からやってきた醜悪なる神…、ですよ」
橘はそう言いながら、来ているシャツの袖をめくって腕を見せる。
だがそこにはケガをしているのか、広い範囲にわたってきつく包帯が巻かれた。
丁寧に巻かれた包帯はケガを隠してはいたが、橘の腕の太さはなぜか少し細い。
実はその腕は東条組の本社ビルで肉塊に襲われた時に、肉を食われてしまったからだった。
自分の腕を犠牲にして肉塊から逃れた橘は、8階まで上がってきていることを利用して罠をはって醜悪なる神を捕らえたのである。捕らえた檻は最初は猛獣用のものだったが、破壊されそうになったので今は防弾ガラスを何重にも重ねてつくった特別製のものになっていた。
「少々、苦労はしましたがきちんと檻の中に閉じ込めてあります。人の手には負えない代物ですが、利用価値はあるんじゃないですか?」
「ふふふっ、カミサマを取り引き道具にするつもり?」
「くだる天罰があるなら、今すぐにでも受けてみせますよ」
捕らえた肉塊を取り引きに使おうとしている橘を見て、関谷がくくっと笑いを堪えている。
その声を少し眉をひそめて橘が不快そうに聞いていると、関谷の乗っていた車のドアが開いて男が一人降りてきた。橘は関谷からそちらの方に視線を移したが、眉はまだ不快そうにひそめたままである。
車から降りてきたのは、関谷と一緒に研究所に向かっていた宗方だった。
「あの肉塊を捕らえたそうだね?」
「ええ…」
「君の勇気には感服するよ」
「それはどうも恐れ入ります」
ポーカーフェイスを守るために妖艶な笑みを浮かべてそう橘が返事をすると、宗方は何も気にした様子もなくゆっくりとポケットから何かを取り出す。
その手に握られていたのは、武器にもならない短い鎖だった。
しかし、宗方は微笑みながらゆっくりと大事そうにその鎖を軽く撫でる。
その微笑みを見ていた橘の背中に、なぜかゾクッと冷たいモノが走った。
「ちょっと飼い猫が逃げてしまってね。それを捕まえるのにもその肉塊は使えそうだよ。 おそらく肉塊は、私の猫のいる場所まで案内してくれるだろう」
「それはやはり…、くぼずきん君が…」
橘がくぼずきんの名前を出すと、宗方はじっと橘の顔を覗き込んでニッと笑う。
その笑みに向かって橘は微笑み返そうとしていたが、やはり上手くいかずに表情がこわばる。
しかし宗方は、そんな橘を見てもやはり何も感じていない様子だった。
「くほずきんというのは誰のことかね?」
「あなたの息子の誠人君のことです」
「誠人などという息子を持った覚えはないが、肉塊を捕らえた君に面白いことを教えてあげよう」
「面白いこと?」
「本当はくぼずきん家など、どこにも存在しない。くぼずきんと言うのは、本来の名前が変化してしまった名だよ」
「くぼずきんが変化したって…、その理由は一体なんですか?」
「君は魔獣の森の話を知っているかね?」
「・・・・・・・・少しだけなら知っています」
何も知らないはずの橘が知っていると答えたのだが、宗方はそのまま話を続けた。
そうして宗方と橘が話している間、関谷は肉塊の交渉をするでもなく、じっと黙って二人の様子を伺いながら話を聞いている。
和美と始めの魔獣の森の話は、関谷が橘に話したものだった。
「その昔起こった魔獣の森の惨殺は知ってるだろう?」
「はい」
「それが解決して村人を惨殺した神が姿を消すと、やがて耳の生えた子供が村に生まれるようになった。そこで村では、それを祟りだと言って耳が見えないように子供の頭に頭巾をかぶせて魔獣の森へ、あの屋敷へ捨てたらしい」
「耳が生えているから呪いがかかってる…、というわけですか?」
「元々は子供にかぶせていた頭巾が、いつの間にかくぼずきんと呼ばれるようになっていたようだがね」
「・・・・・・では、くぼずきん家の元々の名前はなんと言うんです?」
「久保田」
「久保田…、それが本当の名前なのですか?」
「さあ? 君はどう思うかね?」
「・・・・・・・・わかりません」
そう聞かれて正直に橘が軽く首を横に振ったが、宗方は何も言わずに持っていた鎖をポケットにしまう。
どうやら橘に話をしたのは気まぐれらしく、宗方のくぼずきん家の話もこれまでのようだった。
宗方が背を向けて車に戻り始めると、それを見計らったかのように関谷が肉塊での取り引きに応じることを橘に伝える。
橘の交換条件は、やはり神様とくぼずきん家、そして魔獣の情報の共有だった。
「あはっ、あんたってホントに執念深いわね」
「…僕は魔獣の生まれた訳を知りたいだけなんです」
「やぁねぇ、魔獣のクセに人間のフリして深刻ぶっちゃって」
「・・・・・・・・」
「あははっ、くだらなすぎて反吐がでるわ」
橘はらしくない鋭い瞳で関谷を睨みつけながら、隠し持っている拳銃を手に取ろうとする。
だが、魔獣の生まれた訳を知るまでは関谷を殺す訳にはいかなかった。
たとえ今から肉塊を使って、くぼずきんと時任を追い詰めることになって…、二人の絆を断ち切ることになったとしても…。
すでに一度、拳銃を握った手を下ろすことはできなかった。
あんなに握りたくないと思っていたはずなのに、橘の引く引き金は引くたびに軽くなって…。
今では何の躊躇もせずに引けるくらいすでに軽くなってしまっている。
橘は服の上から拳銃の感触を確かめると、肉塊の元に関谷達を案内するために自分の車に向かおうしたが、すでに車に乗ったと思っていた宗方の声が聞こえてきた。
「神の意思はすべてに伝達していくのだよ。まるで呪いのように…」
その言葉に嫌なものを感じた橘は少しその場に立ち止まっていたが、早くしろというようにクラクションが鳴らされたので慌てて車に乗り込んだ。そうしながらこれからのことを考え始めたが、どうやら本格的に研究所の破壊と時任の捜索が行われることになりそうである。
だが、それからすぐに橘や関谷達は研究所の破壊をする必要がなくなったことを知ることになった。
真田が持ち込んだ資料を読んだ国の政府が人類にとって魔獣は危険だと判断を下して、即座に魔獣に関するすべての資料の破棄と魔獣の処分を決定したのである。
しかし国が軍事用に飼育していた魔獣やペット用に飼っていた魔獣の数は、すでに処分しきれないほどの数になってしまっていた。
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