くぼずきん.30




 港の排水溝の辺りから海面に顔を出すと、くぼずきんと時任を捜している東条組の組員達の声が聞こえてきた。
 くぼずきんは時任を抱きしめたまま海面から排水溝の影に隠れると、そこから港の様子を伺う。
 ある程度、時任を取り戻すために船に乗り込む前から予想していたことだったが、二人を捜索している組員の数は半端ではなく多かった。
 本当はこれほど人数が増える前に脱出をはかるつもりだったが、くぼずきんの腕の傷がそれを許さない。関谷のナイフにやられた傷は、次第に熱を持ち始めて身体全体を重くさせていた。
 「東条組ってヒマなのかも?」
 「なんかヒマ人集団ってカンジ」
 「さて…、とりあえず地下に潜ろっか?」
 「地下?」
 「地上は封鎖されてるから、地下の抜け道から町にね」
 「抜け道なんかあんの?」
 「・・・・・たぶん」
 くぼずきんはそう答えたが、東条組もおそらく地下から脱出を図ることを予想しているに違いない。抜け道は武器屋にもらった地図にあるが、その地図は武器屋に出回っているくらいなのでおそらく東条組も持っている。そのため、脱出経路をたどる途中が問題だった。
 関谷の命令ですでに地下にも東条組の連中が潜んでいる。
 そんな地下を傷を負った身体で、衰弱した時任を抱えて走り抜けるのは困難だった。
 しかしこのまま海にいても、体力を消耗していくだけでいずれ発見されてしまう。
 そのため、まだ体力がある内に無理でもなんでも、地下へと潜るしかなかった。
 くぼずきんは汚水を海に流し続けている排水溝に手をかけると、自分の腕の中にいる時任をそこの中へと押し上げる。
 そして時任を海から排水溝の中に上がらせてから、自分も同じようにその中へと入り込んだ。
 しかしくぼずきんが予想していたように、排水溝の中から二人を捜していると思われる男達の声が響いてくる。
 その声を聞いた時任が、大きな瞳で排水溝に上がってきた久保田の顔を見上げた。
 「くぼちゃん…」
 「うん、わかってるから…」
 少しだけ不安そうに揺れる時任の瞳は、海で身体を冷やしたからではなく、傷からの出血が酷かったために青白くなってしまっているくぼずきんの顔を見ている。
 けれど追ってが迫っている今は、そんなことにかまっているヒマはなかった。
 くぼずきんは腕を伸ばすと、海水に濡れて冷え切っている時任の身体を抱きしめる。
 すると時任もくぼずきんの背中に腕をまわして、熱っぽい身体にぎゅっと抱きついた。
 「きっとたくさん走ることになるけど、走れる?」
 「そんなの、走れるに決まってんだろ…」
 「うん」
 「一緒に…、一緒に行こう、くぼちゃん」
 そう言った時任の冷たい唇が、そっとくぼずきんの唇に押し当てられる。
 その幼くてつたないキスを受けながら、くぼずきんは前方を見つめながら少し目を伏せた。
 遠くから聞こえていた声は次第に二人の方へと近づいてきていて、足音もここまで響いてきている。どうやらもうそろそろ時間切れのようだった。
 時任の柔らかい唇が離れていくのを一度だけ引き止めて短くキスすると、くぼずきんは何かあった時のために再び手榴弾に詰めていた地図を取り出す。
 地図は手榴弾に入れていたおかげで濡れないで済んでいた。
 くぼずきんはその地図にざざっと目を通すと、現在地と逃げる経路を頭に入れる。
 そうしてから時任の手を取って暗い地下道を、足音を立てないように気をつけながら歩き始めた。
 地下道は音がかなり反響しているので、聞こえてくる東条組の足音も声もどこからのものなのか判断するのが難しい。
 くぼずきんと時任がしばらく地下道を歩いていると、前方から歩いてくる足音がした。

 「くぼちゃ…」
 「しっ…」

 袖を引っ張って誰か来たことを知らせた時任を自分の背中で庇うように立つと、くぼずきんは曲がり角の影でその声の主がやってくるのを待つ。
 明かりを持って近づいてくる影は、運のいいことに二つだけだった。
 くぼずきんは時任を少し後ろに下がらせようとしたが、時任はそれを聞かずにくぼずきんから離れない。宗方に犯されて薬漬けにされたせいで立っているのも苦しいはずなのに、時任は爪を出して戦う体制を取っていた。
 気づかれないようにしてはいたが、おそらく時任はくぼずきんの傷が見た目以上に酷いことを知っている。くぼずきんはゆっくりと目を閉じて少し微笑んでから再び目を開けると、時任と同じように戦闘態勢を取った。
 
 「地下を通って逃げてくるってホントなのか?」
 「さぁなぁ…、地下は迷路になってるしな」
 「どうせ袋の鼠。いや…、猫か?」
 「あの猫の喘ぎ声はいいぜ。聞いたことあるか、お前」
 「聞いたことあるけどよ、抱けねぇんなら意味ないだろ」
 「ちげぇねぇや」

 近づいてくる男達の笑い声に、時任がぐっと何かを耐えるかのように眉間に皺を寄せる。
 宗方に抱かれていたのは事実だったが、こんな会話をくぼずきんに聞かれたくないに違いなかった。それに気づいたくぼずきんは時任の頭に手を乗せると、落ち着かせるように軽く濡れた髪を撫でる。
 すると、時任の耳が気持ち良さそうにピクピクっと動いた。
 くぼずきんと時任は二人の男が門を曲がろうとした瞬間を狙って門から飛び出すと、驚いた二人が声を出す前に首筋に拳を叩き込む。
 そして、首筋を強打されて倒れかかった男達の腹を時任が爪で切り裂いた。
 「・・・・・っ!!」
 「・・・・・がはっ!!」
 男達は水音を立てて倒れると、それきり動かなくなる。
 くぼずきんは男のポケットから拳銃と弾を奪うと、自分のベルトに差した。
 拳銃は音が響くので使うのはさけなくてはならないが、そうも言ってはいられない。
 爪で男達を倒した時任は、壁に手をついて身体を支えながら荒い息を吐いていた。
 「時任…」
 「へーきだっつったろ…、ちゃんと走れっから…」
 そう言った時任は、くぼずきんに向かってニッと笑いかける。
 くぼずきんはその笑みに微笑み返しながら、男達の血に濡れた時任の手を取って下水の流れる地下道を走り始めた。走り始めたのは音が反響して気づかれる可能性が高くても、時間がたってすべての出口が塞がれてしまうことになったらまずいからである。
 地下にいるということは、行ける場所が限られているということでもあった。
 くほずきんは走りながら、時任に気づかれないように熱を持っている肩を軽く押さえる。
 その肩に刺さった関谷のナイフには、何か毒のようなものが塗られていた。
 そういう意味でも、タイムリミットが近かったのである。
 まだ動ける内に、どうにかして時任を連れて外まで出なければならなかった。

 「いたぞっ! こっちだっ!!」

 二人を発見した東条組の男の手にある合図の明かりが横に振られて、複数の足音が音を響かせて近づいてくる。くぼずきんは握っていた時任の手から手を離すと、ベルトに差していた拳銃を抜いて安全装置をはずした。
 ナイフの突き刺さった方の腕はすでに上がらなくなっていたので、反対側の利き手ではない方で拳銃のハンドグリップを握る。
 そして近づいてくる明かりに狙いを定めて、引き金を引いた。
 
 ガゥンッ、ガゥンッ、ガゥンッーー!!!

 銃声が地下道に反響し、続いて打たれた男の呻き声が当たりに響き渡る。
 その音を聞いた東条組の追っ手が、駆けつけてくる足音が無数に聞こえてきた。
 くぼずきんは苦しい表情をしている時任を気にしながら、狙いを定めて銃弾を打ち続ける。
 その弾に倒れて行く追っ手を見る余裕もなく、二人は地下道を出口に向かって走り出した。
 鳴り響く銃声と呻き声と…。
 そして近くから聞こえてくる時任の足音と苦しそうに荒くなっていく息…。
 そんな音を聞きながら、くぼずきんは高くなっていく熱に目眩を感じている。
 拳銃を構えて正確に狙いを定めても、目の前がぼやけて銃弾が時々外れてしまっていた。
 
 「くぼちゃんっ」
 「もう少し…、もう少しだから…」
 
 時任は隣りを走っているくぼずきんの様子がおかしいことに、早くから気づいていた。
 抱きしめた時の身体が…、キスした時の唇が冷たくなっているばすなのに熱かったことに…。
 だがそれをわかっていても、平気なフリをして走っているくぼずきんを止めることはできない。
 ここで立ち止まったら二人とも東条組にやられてしまうことがわかっていたから、立ち止まることが出来なかった。
 どんなにくぼずきんが傷ついていて、苦しんでいても…。
 くぼずきんは時任をかばうようにしながら…、次々と現れる東条組の追っ手に銃口を向ける。
 けれどその銃弾は、くぼずきんの限界を知らせるように次第に正確さを欠いていった。
 時任はくぼずきんの肩に手を伸ばしかけたが、それをやめてきつく手を握りしめる。
 一緒に行こうと約束して…、こうやって走っているはずなのに、くぼずきんを見ていると叫びたくなった。
 もう守らなくていいから…、もう拳銃を握らなくていいからと叫んで抱きしめたくなった。
 くぼずきんを守りたいと思っていても…、守ってくれているのはいつもくぼずきんで…。
 今も拳銃を握りしめて戦っているのも、やはりくぼずきんだった。
 一緒にいたいと想ったこと、そう願ったことを後悔なんかしていなくても…、傷ついているくぼずきんを見ていると胸の奥が痛く痛くなっていく。
 大好きだからずっとずっとそばにいたかったけれど、こんな風にくぼずきんを傷つけたくてそう願ったわけじゃなかった。
 ワイルド・キャットだからという理由で人間に追いまわされて、こんな風にさらわれて…。
 でもワイルド・キャットに生まれたことに苦しんだりしたことはなかったのに…。
 けれど今はそのことを苦しく感じてしまっている。
 くぼずきんがこんな風に戦っているのも、傷ついているのも…、それが理由だったから…。
 何も…、本当に何も後悔なんかしたくなかったのに…、二人に向かって飛んでくる銃弾が胸の奥の痛みがそれを感じさせていた。
 目の前に広がる暗い地下道は、どこまでもどこまでも続いていて…。
 下水の匂いと血の匂い…、そして響き渡る銃声に方向感覚を狂わされていく気がする。
 時任は苦しい息を吐きながら、必死に気力だけを振り絞って出口を目指して走り続けていた。
 
 「死にやがれっ!!」
 「…そういうワケにはいかないんでね」

 二人の前に飛び出してきた男が引き金を引く前に、くぼずきんの銃口が火を吹いた。
 すると何人もの男がそうだったように、その男も銃弾に撃たれて下水の中に倒れ込む。
 くぼずきんは素早く男のポケットをさぐると、補充の銃弾を手に入れていた。
 何か足音が聞こえた気がして振り返ってみたが、やはり前方と同じように後方も暗がりに包まれている。
 時任は少しだけ壁に手をついて呼吸を整えると、再びくぼずきんに続いて走り出した。
 けれどなぜかくぼずきんは走り出したはずなのに、時任の方を振り返っている。
 それを不思議に思ってた時任が、くぼずきんと同じように後ろを振り返ったが、その瞬間、地下道に一発の銃声が響き渡った。

 ガウゥゥーーーーンッ!!!

 その銃声を聞いても、時任には何が起こったのかわからなかった。
 ただ後ろにいたはずのくぼずきんが目の前にいて、その背中だけが見えている。
 時任は大きく目を見開いて、くぼずきんに向かって手を伸ばそうとした。
 だがそうする前に、くぼずきんの身体が揺らいでゆっくりと横に倒れて行く。
 まるで銃弾に撃たれたみたいに…。
 時任はくぼずきんの名を叫ぼうとしたが、その口から出たのは空気だけで声にはならなかった。
 目の前で倒れ込んだくぼずきんの身体を時任がしゃがみ込んで抱き起こすと、腹部の辺りに血が滲んでいるのが見える。
 くぼずきんに銃弾を撃ちこんだのは、さっき下水に倒れ込んだ男だった。

 「…ざまぁ…み…」

 ガゥンッ、ガゥンッ、ガゥンッッ!!!

 時任はくぼずきんの拳銃を握ると、死にかけている男に向かって無言で何発も銃弾を撃ち込む。
 その内の何発かが当たって、男はその内に動かなくなった。
 それでもやめずに男に向かって撃ち続けていると弾がなくなって…、カチカチと弾のなくなった引き金を引く音だけが地下道に響く。
 時任は片手で倒れているくぼずきんを抱きしめたまま、震える手でずっと引き金を引き続けていた。
 するとしばらくしてから、その手に温かい手が伸びてきてそっと上に添えられる。
 その手は、銃弾に撃たれて倒れたくぼずきんの手だった。

 「もういいから…、手離して…」
 「くぼちゃ…」

 カチャリと音を立てて拳銃を手から落すと、時任は両腕でくぼずきんを抱きしめる。
 呼吸もできないくらい息を詰めていた時任は、そうしながら激しく咳き込んだ。
 目の前の出来事を信じたくなくて…、止まってしまっていた思考が想いが動き出す。
 だがくぼずきんの腹部からは、肩の時とは比べものにならないくらいの血が流れ出していた。
 時任が爪でコートを引きちぎって傷口を押さえたが、少しも血は止まってくれない。
 そうしている間にも、二人に新たな追っ手が迫っていた。
 このままここにいたら見つかるのは時間の問題である。
 時任は唇を噛みしめると、痛くて苦しくてたまらないはずなのに静かに微笑んでいるくぼずきんに向かって笑いかけた。
 「ちょっと痛ぇかもしんねぇけどガマンしろよ、くぼちゃん。背負ってってやっから…」
 決意を込めてそう言うと、時任がくぼずきんを背負おうとする。
 だがすでに時任の体力も限界で、くぼずきんを背負って歩く余力は残っていなかった。
 いくら背負おうとしても…、くぼずきんの身体が重くてそうすることができない。
 それでもあきらめないで何度も時任がそうしようとしていると、くぼずきんの手が必死に唇を噛みしめ続けている時任の頬に触れた。
 「時任…、もういいよ…」
 「な、なに言って…」
 「ここから…、ずっと真っ直ぐ行ったら…。上に上るハシゴが見えるから…、そこまで走って…」
 「くぼちゃ…」
 「振り返らないで…、立ち止まらないで走って…、時任」
 「一緒に行くんだろ…、そこまで…」
 「ゴメンね…」
 「なにあやまってんだよ…、あやまるなよ…。なんであやまったりなんか…」
 頬に触れているくぼずきんの手に、時任の瞳から流れ落ちる涙が降りかかる。
 その涙を優しく拭いながら、くぼずきんは愛しそうに時任の顔をじっと眺めていた。
 まるで別れを告げるように…、静かな瞳で…。
 時任はそんなくぼずきんに向かって激しく首を横に振ると、頬に触れている手をぎゅっと握りしめる。
 すると絶対に放さないと誓った手から、温かさが伝わってきた。
 どんなことがあっても一緒にいたいと願ってて…。
 今度こそ放れないずっとずっと一緒にいられるはずだったのに…、そう想っていたのに…。
 くぼずきんは静かに…、時任から手を放そうとしている。
 けれどその手を…、いくらくぼずきんが放そうとしていても握っていたかった。
 離れないように握りしめたこの手を…、大好きな人の手を離したくなかった。
 「くぼちゃんが…、一緒じゃないと行かない」
 「時任…」
 「一緒にいるって言ったじゃんか…、なのに…、なのになんで手ぇ放そうとすんの…。くぼちゃんがいないなら…、何も意味ねぇじゃん…」
 「時任には生きてて欲しいから…、だから…」
 「嫌だ…」
 「今度はちゃんと…、助けたい…。たぶん時任はあの森に…、うぬぼれかもだけど俺に会いに来てくれた気がして…。だからもう同じことは繰り返したくないから…」
 「くぼちゃんに会いにって…、なんでそんなこと…」
 森に来るまでの記憶がなくなってしまっている時任には、くほずきんの言っている意味がわからない。けれど森で出会った瞬間にすぐに恋に落ちたように…、きっと知らない過去に会っていたとしてもくぼずきんに恋していたに違いなかった。
 たとえ記憶がなくても、その記憶を失ってしまっていたとしても…、くぼずきん以外に恋なんかしたくなかったから…。忘れてしまった過去も、知らない明日も…、すべてがなくなってしまったとしてもくぼずきんのそばにいたかった。
 時任は離れたくない気持ちを想いを離さないように、ぎゅっと手を握りしめたままくぼずきんの肩に顔をうずめる。するとくほずきんは、その想いに答えるように時任の髪に軽くキスをした。
 「過去を思い出せなくても…、俺がちゃんと覚えてるから…。振り向かないで走ってよ、時任」
 「一人でなんか走れない…」
 「お願いだから…、俺のために走って…」
 「くぼちゃんのためになんか走ってやらない…」
 「・・・・・時任」
 「せっかく会えたのに…、もう離れないでいられると想ったのに…。こんなにこんなに好きなのに…、どうしてこんなことになんだよ…。俺がワイルド・キャットだから…、なのかよっ」
 後悔なんてしたくないから、後悔なんてするつもりないから言うつもりのなかった言葉が、時任の口から悲痛な泣き声と共に吐き出される。
 人間の魔獣の違いなんて考えたこともないのに…、目の前にくぼずきんの作った赤い血溜があって…、その鮮やかな赤がワイルド・キャットとした生まれた時任の現実だった。
 出会わなければ良かったなんて想わなくても…、想いたくなくても…。
 くぼずきんは返り血と自らの血に濡れて…、動けなくなってしまっていた。

 「ゴメン…、くぼちゃ…」

 震える声でそう言った時任の涙が、くぼずきんの海水に濡れた肩を再び濡らしていく。
 こんな結果になることを望んでいたわけじゃなのに…、もう走ることも歩くことも出来ない。
 好きになったことが、一緒にいたいと想ったことが…、痛みにしかならなくてもくぼずきんに恋せずにはいられなかった。
 苦しそうにゴメンと言う時任の言葉を聞いたくぼずきんは、握ってない方の手を伸ばして時任の頭についているワイルド・キャットである印の耳をゆっくりと撫でる。
 そして時任と同じように目を閉じながら、くぼずきんは穏やかに微笑んでいた。
 「好きだよ…、時任。かわいい耳もしっぽも…、なにもかも…」
 「・・・・もう、好きになんかならなくていい」
 「人間でも猫でもなくて…、時任が好きだから…、だから好きでいさせてくれる?」
 「・・・・・・・・・・」
 「たぶん…、俺は時任にしか恋できないから…」
 「俺もくぼちゃんしか…、好きになんか…」
 「ありがと、ね…、俺のコト好きになってくれて…。一緒にいたいって言ってくれて…」
 「くぼちゃ…」
 
 「出会ってくれて…、ありがとね…、とき…と…」

 時任の耳を撫でていたくぼずきんの手が、かすれていく声が聞こえなくなると同時に力を失って下へと落ちる。
 しかし、時任はじっとくぼずきんの温かさを抱きしめるように、ぎゅっと手を握りしめ続けていた。
 小さな声で何度もくぼずきんを呼びながら、肩に顔をうずめたまま目を閉じて…。
 やがて一つの足音が二人に向かって近づいてきているのが聞こえ来たが、時任はそれに反応すらせずにくぼずきんを呼び続けていた。
 少しでもくぼずきんの声を体温を感じようとしているだけで、時任はもうそれ以外は何も考えていない。
 もう涙も出なくなった空ろな瞳で、時任はくぼずきんを抱きしめ続けていた。



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