くぼずきん.29




 出雲会が東条組に放っている間諜から、関谷が魔獣に関する機密を国外に持ち出そうとしているという情報が入ったのは、関谷達を乗せた船が港に着くよりも前のことだった。
 今まで国内で抗争を続けていた出雲会と東条組だが、今回の交渉が成功すれば東条組との力の均衡が崩れるに違いない。
 しかもどの国でも魔獣の量産が可能になれば、国家間で大きな戦争が起きる可能性があった。
 この機会に乗じて一国家の闇組織から、更に大きな組織へとのし上がろうとしているのかもしれないが、魔獣の情報を流すことに東条組全体が関わっているとは思えない。
 こんなことをすれば大きくなる前に、東条組がつぶされてしまう可能性があった。
 まだ国は東条組の動きに気づいていないようだが、間諜から情報が流れてきたように、やはりこういった情報は隠しているつもりでもどこからか漏れてしまうものである。
 現在、出雲会にいる松本はその情報を真田から聞いて、新聞に目を通しながらわずかに眉をひそめた。

 「…そう思いたくはないが、魔獣の輸出ができなくなるとこの国は傾く。もしこのことが知れれば、東条組はただではすまないだろうな」
 「東条組は…、だがね」
 「それはどういう意味だ?」
 「この件で動いているのは東条組ではないよ、松本君」
 「・・・・・・裏切りか?」
 「今回の件で糸を引いているのは、おそらく関谷と宗方だろう…」
 「関谷と宗方か…」

 新聞から顔を上げた松本が、関谷と宗方の名前を真田から聞いて表情を曇らせる。
 次第に出雲会にいることに馴染んできた松本だったが、やはり関谷の名前を聞くとどうしても思い出してしまうことがあった。それはやはり関谷と共に消えた橘のことで…。
 けれど自分の意思で行ってしまったからと、そう心の中で決着をつけようとしていた。
 しかし、今もやはり橘のことを忘れることができないでいる。
 松本が関谷の元に橘がいることを知っているように、橘の方でもおそらく松本が出雲会にいることを知っているはずだが、橘は松本に連絡を取って来ようとはしなかった。
 東条組で橘が何をしているのかはわからないが、嫌な予感だけは常にしている。
 その嫌な予感は真田からの話で更に強くなっていた。
 「このまま状況を見るつもりなのか?」
 松本が探るようにそう真田に向かって言うと、真田はふっと笑みを浮かべて二人がいる部屋にある窓から外を眺める。
 その口元にはアークロイヤルがくわえられていて、その煙が部屋の中に充満していた。
 「黙って国が沈むのを見るのも一興だが、私にもそれなりに野心というものがあるのでね」
 「野心家というわりには、なんの利益にもならないようなことばかりをしているように見えるが?」
 「ふっ、一生懸命な君に協力したくなったと言っても、やはり信じられないかね?」
 「あいにく俺は、それほど善良には出来てはいない」
 「では、善良ではない君は、なぜボランティアでカミサマ退治をしている?」
 「それは・・・・・・」
 「それは?」
 「限界への挑戦…」
 「限界とは君のかね?」

 「・・・・・人間としてのだ」

 そう言った松本は、東条組本部ビルで起こった大勢の人間が血痕のみを残して消えた事件の記事を眺める。始めはどうにかしてこれ以上、犠牲者が出ることを止めたかったのだが、肉塊を追いかけている内に松本の中で何かが変わり始めていた。
 誰のために肉塊を倒したいのか、何のためにこうして追いかけているのか…。
 その根本的な理由が変わったわけではないが、何を打ち込んでも何をしても倒せない肉塊を見ている内に、この不死の存在に疑問を持つようになっていた。
 すべてが生まれては消えて、造られては消えて行くはずなの神と呼ばれる肉塊だけは違っている。
 そんな存在がこの世にあることが、ひどく不自然に思えてならなかった。
 魔獣の森と人から生まれた人ならざる魔獣達。
 そしてその魔獣達を従えている宗方と、地上を汚染していく肉塊。
 それらがまるで人が支配していた世界を脅かしているような、そんな得たいの知れない危機感が松本の中に生まれ始めている。
 魔獣の森の近郊で調べた結果と、軍の施設で見た魔獣の胎児がしたくない嫌な想像をさせていた。
 松本が何かを考え込むかのように、それから黙ったままでいると、真田は吸っていたアークロイヤルを近くのテーブルに置いてあった灰皿で揉み消してから、佇んでいた窓からドアに向かって歩き出す。
 その様子を松本が見ていると、真田は松本の方を振り返って薄く笑った。
 「これから政府の役人と会うんだが、君も行くかね?」
 「役人に会うのは、関谷の情報を流すためにか?」
 「もしも、この国で最高の偽善者になるために会うのだと言ったら?」
 そうはっきりと言った真田の顔を、松本は鋭く睨みつける。
 だが真田はその視線に動じた様子はなく、部屋から廊下へと続くドアを開けた。
 松本は持っていた新聞を握りつぶすと、それをゴミ箱に投げてから部屋を出ようとしている真田の前に立つ。そして真田の襟元に手を伸ばして軽く掴み上げながら、その顔を覗き込んだ。
 「・・・・・・一体、本当の目的はなんだ? 魔獣の森に来た時は、最強の魔獣を使って東条組との抗争に勝つことだと思っていたが…」
 「確かに最初はそのつもりだったがね。魔獣はくぼずきん家の人間以外を主として認めないことがわかった今、そんな魔獣を得たところで何の意味もないだろう?」
 「しかしそれは魔獣の森のものだけだと思ったが?」
 「そう思うのはいいが、そんな保障がどこにあるのかね?」
 「・・・・・・まさか、宗方が魔獣を使って世界征服を企んでいるとでも言うつもりか?!」
 「世界ではなく人類を…、と言うべきだが」
 「何を根拠にそんなコトを言うっ」
 「現在は国が管理はしているが、君の住んでいた村のように魔獣の汚染が進んで人間から人間の子供が生まれなくなったらどうなるか、想像するのは簡単だろう?」
 「世界から人がいなくなるとでも…、言うつもりか? そんなことになったら…、世界は…」
 真田の言ったことが実際にあり得るのかどうか、まだ松本の頭の中で回答は出ていない。
 しかし肉塊を追っている内に感じ始めていた危機感が、真田の言葉によって現実味を帯びてきていた。それは違うと否定できない事実が、目の前に広げられている自分の調べた資料が物語っている。
 おそらく松本が調べた資料を提示して関谷の不穏な動きを伝えれば、今までまったく動かなかった国も危機感を感じて動くに違いなかった。
 そうすれば国は東条組をつぶすだけではなく、危険分子として魔獣と肉塊を一掃することを国は考えるだろう。
 もしかしたらこういう展開が、すでにあの魔獣の森で真田の頭の中に来上がっていたのかもしれなかった。

 「俺に魔獣のことを調べさせたのは、このためだったのかっ」

 松本がそう言って更にきつく真田の襟元を締めると、真田は口の端を軽く上げて口元に笑みをつくる。
 だがこうやって襟元をしめても、今から真田のすることを非難することができなかった。
 それは真田に言われるまでもなく、魔獣と肉塊、そして宗方の危険性を松本自身も感じていたからである。
 松本がゆっくりと締め上げていた襟元から手を離すと、真田はゆっくりと松本の唇に自分の唇を寄せた。

 「この国に、人類に恩を売るのも悪くないと思わないかね、松本君」

 真田に口付けられながら、松本は両手を指先が白くなるほど握りしめていた。
 この件は宗方や関谷が国内にいる内に、他国と手を組んで魔獣の情報を渡してしまう前にケリをつけなくてはならない。だが魔獣の危険性を国に申告するということは、魔獣をこの国から排除することになる可能性があった。
 それを考えた時に真っ先に思い浮かんだのは、同じように魔獣の森からこの町にやってきているくぼずきんと宗方に捕らえられている時任のことだったが…。
 しかし魔獣がこれから先の人類に危機を及ぼすとしたら、時任の存在もまた危険ということになる。
 松本は心の中で様々なことを思い浮かべ葛藤しながら、これからどうするべきかを嫌な笑みを浮かべながら抱きしめてくる真田の腕の中で考えていた。










 船から海に飛び込むと冷たい海水が全身を包み、その冷たさを感じているとこのまま海に沈んで戻れなくなってしまうような気がした。
 くぼずきんが青い青い海の中で閉じていた目をゆっくりと開けると、太陽の光がキラキラと上できらめいているのが見える。泳いできた魚の群れの鱗にその光が反射して、さらに海を幻想的なものにしていて…、それを見ていると地上が遥か遠い世界のように思えた。
 何事もなく穏やかで音もない海の中にいると、あの魔獣の森もカミサマも…、何もかもが遠く遠くなって…、空を写した海の青に吸い込まれていく。
 痛みを増していく腕も…、その感覚が麻痺していって感じられなくなってきていた。
 地上に戻るための空気がゴボッと口の中から吐き出されて、それと共に身体が重くなる。
 くぼずきんは海面に向かって手を伸ばすこともなく…、全身を包んでいる海のように静かに海底に向かって沈もうとしていた。
 だがまだしっかりと握られている手から、暖かな体温が…。
 冷たく青い海の中でも伝わってくる愛しい人の暖かさが…、空ろになっていたくぼずきんの意識を覚醒させた。
 力を振り絞って繋がれている手を引き寄せると、飛び込んだ時の衝撃で気を失ってしまっている時任がゆっくりとくぼずきんの腕の中に収まる。
 くぼずきんは時任の身体を抱きしめながら、遠くなっていく陽の光を見上げた。
 まだ握りしめられた手から、抱きしめた体から暖かさが感じられる限り…時任を抱きしめたままこの美しい海に沈んでしまうことはできない。
 だが、海中をほんのりと赤く染めていく血が、くぼずきんから力を奪っていた。
 関谷のナイフが突き刺さった傷は思ったよりも深くくぼずきんの肩を傷つけていて、時任を抱きしめている腕にも力が入らなくなってきている。
 開けられていた瞳がゆっくりとゆっくりと…、海面のきらめきの残像を残して閉じられていった。
 まるで疲れ果てた身体を休めるために眠りにつくように…。
 しかしそんなくぼずきんの耳に、また魔獣の森で聞いていた深く沈んだ記憶の淵からの声が聞こえてきた。
 
 『一人でなんか行きたくないっ、一緒に行くんだっ』

 そう言って繋がれた小さな手…。
 あの森にある屋敷で暮らしていた過去と共に…、忘れさられていた記憶。
 聞き覚えのあるような、聞き覚えのないような不思議な声は…、くぼずきんに記憶の底から何かを呼びかけている。その声は水面に浮かぶ陽光のように明るい場所からではなく、これから向かう先の海の深遠から聞こえていた。


 昔々…、一人きりでいることを寂しいと感じることもなく…、ただ過ぎて行く日々を屋敷の中で暮らしていたあの日…。


 くぼずきんは入ることを禁止されていた部屋で…、閉じられた地下へと続く扉から聞こえる声に気づいた。けれどその声を聞くことになったのは偶然で、その部屋に入ったのも気まぐれで…。
 聞こえてくるその声の持ち主を外に出したいと思ったのも、もしかしたら気まぐれだったのかもしれない。
 地下から聞こえてくる子供の声は、ここから出たいと言っていた。

 『なんでそんなトコにいるの?』
 『そんなの知らねぇよっ。眠ってる間に閉じ込められたんだっ』
 『出してあげてもけど、カギがかかってて開かない』
 『・・・・・・・そっか』
 『そんなに出たい?』
 『うん…』

 毎日、見つからないように部屋に入ってはその声と話をしながら、くぼずきんは地下を開けるカギを探していた。暗がりから自分に呼びかけてくる声に、見たこともない誰かのために…。
 この屋敷から…、冷たい暗がりから…、一緒に逃げ出すことを約束して…。
 しかし、その地下にいたのはその声の持ち主だけではなかった。
 どうやらその子はもう一人いる誰かに見つからないように扉に来ていたらしかったが…。
 ある日、くぼずきんと話している所をその何者かに発見されてしまった。

 『くそぉっ!! 離しやがれっ!!』
 
 その日を境にその子の声は聞こえなくなり…、代りに地下からかすかに呻き声が聞こえていた。
 くぼずきんは父親の机の引き出しにカギがあるのを発見すると、その横に置かれていた拳銃を一緒に手に握りしめる。中の状況はわからなかったが、その子の声が聞こえてこない以上、何かが起こっていることは間違いなかった。
 手に入れたカギを持って部屋へ行くと、今まで決して開かなかった地下への扉を開ける。
 そしてその中に入ったくぼずきんは、暗がりの中で持っていた拳銃の引き金を引いた。

 荒い息を吐いている獣に身体の自由を奪われている、その子のことを助けるために…。

 しかし、くぼずきんがその子の手を握りしめて屋敷を出て森を必死で走っても…、いくら逃げてもいくら銃弾を打ち込んでも獣は後を追ってきて…。
 一緒に逃げると約束したのに…、どうしてもその子の手を握っていることができなかった。
 どんなに一緒に行こうとその子が、ぎゅっと手を握りしめてくれていても…。
 その手をどうしても離してしまわなくてはならなかった。
   
 『後で行くから…、ごめんね…』

 どうしても一緒に行くと哀しい瞳で叫ぶその子から、そう言ってくぼずきんは手を放す。
 だが、その手を離した瞬間、その子は目の前で大人の大きな手に…、今までくぼずきんとつないでいた手を取られてしまった。
 その大きな手の持ち主は暴れるその子の首に無理やり首輪をつけると、獣に襲われているくぼずきんに向かって持っていた拳銃の銃口を向ける。
 拳銃を向けているのは、紛れもなくくぼずきんの父親だった。

 『お前はもう用済みだ』

 そう言いながら父親の冷たい銃口から放れた弾丸は、くぼずきんの頭をかすめる。
 その衝撃で倒れたくぼずきんに獣が襲いかかるのを見届けると、父親はその子の首輪についている鎖を引いて屋敷に戻っていく。
 だが、叫びながら必死にくぼずきんに手を伸ばしてくるその子の手を…、くぼずきんはもう握ってやることはできなかった。
 
 『うあぁぁぁーーーーっ!!!』

 森の中にその子の叫び声がこだまして、その声が哀しくくぼずきんの耳を打つ。
 獣に襲われながらも、くぼずきんは届かない手を伸ばし続けていた。
 一度だけつないだ手の暖かさをもう一度感じたくて…、まだその子の声を聞いていたくて…。
 届かないとわかっているのに…、連れ去られて行くその子の方に向かって…。
 かすめた弾丸の衝撃で頭が朦朧としていたが、くぼずきんは遠ざかって行くその子の声だけを聞いていた。
 まだ名前すら聞いていなかったことを思い出しながら…。
 そうしている間にも、獣はくぼずきんの喉笛を爪で掻ききろうとしている。
 だが、そうする前に獣は完全に息絶えてしまったのかピタリと動かなくなってしまった。
 くぼずきんも力尽きてその場で意識を失ってしまったが、死んだはずの獣を覆っていた皮膚だけがピクピクと別の生き物のように波打っている。始めは波打っているのはごく一部だったが、しばらくするとそれは少しずつ少しずつ全身へと広がっていった。
 やがてそのまま数時間が過ぎ、やっと意識を取り戻したくぼずきんが立ち上がったが、不気味な変化を見せている獣を見ることもなく軽く頭を振ると辺りを見回す。
 そして、屋敷ではなく森の外の方に向かって歩き始めた。
 実はくぼずきんは、頭に受けた弾丸の衝撃のために記憶障害を起こしてしまっていたのである。
 森を出る時に一度だけ、ふと何かを思い出したかのように右手を見つめていたが、やはりその手を握りしめていた子のことを思い出すことはなかった。

 まるで、その記憶を封印してしまったかのように…。

 それから朧気な記憶だけを抱えて各地を彷徨うった後、くぼずきんが屋敷に再び戻ってきた時には、醜悪な神を残して、魔獣の森の屋敷には誰もいなくなってしまっていた。


 ・・・・・・ごめんね。


 青く澄んだ海の中で時任を抱きしめながら、くぼずきんの唇がゆっくりと言葉を刻む。
 手のひらの暖かさをその記憶を思い出しても、もうその子の顔を思い出すことはもうできなかった。
 だが、今抱きしめている暖かな身体が…、心の中に染み渡って行く。伸ばしても伸ばしても届きなかった手が…、届かなかった声が…、記憶の底からよみがえってきた。
 きっと大切だった、忘れたくなかったはずの声と温もり。
 くぼずきんは、目を閉じたままの時任の冷たくなってしまった唇にそっと口付けた。
 目覚めてくれることを願いながら…。
 すると時任の瞳がすうっと開いて、その瞳にくぼずきんの顔をうつし出す。
 くほずきんが時任に向かって微笑みかけると、時任もふわっと優しく微笑んだ。
 微笑み合った二人が上を見上げると、少し遠くなった海面のきらめきが美しく目にうつる。

 そのきらめきがまるで生きることへの…、生きるための希望でもあるかのように…。

 くぼずきんは時任の身体を抱きしめたまま、傷の痛みに耐えながら海面へ上昇を始める。
 しかしすでに関谷の命令で二人を捜している東条組の組員達が、港の周辺を封鎖してしまっていた。



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