くぼずきん.28
ベッドの上でぐったりとしている時任の耳がピクピクと動いて、かすかに聞こえてくるその声を捕らえた時、始めは絶対にそれは幻で聞こえるはずのない声だと思っていた。
いくら首についた鎖を引っ張っても外れなくて…、くぼずきんの元に戻りたくとても戻れなくて…。
だからこんな風に声が聞こえてしまってる気がしていたけれど…。
次第に大きくなっていくその声が、ちゃんと幻じゃないと知られてくれている。
時任は痛む身体に力を入れて上半身を起こすと、じっとその声に耳を済ませた。
『…とう…、時任ーーっ!!』
聞こえてくる声は時任のことを呼んでいる。
時任がずっと心の中で、会いたい人の名前を叫び続けていたように…。
ずっとずっと大好きだって…、そう想い続けていたように…。
時任はぎゅっとベッドのシーツを握りしめると、瞳を閉じて少し息を吸い込んで止めた。
呼んでいる声にすぐに答えたいのに、声が震えていて言葉にならなくて…、溜め込んでいた想いが胸の奥から湧き上がってきて苦しくてたまらない。
あの日から何年も会っていないわけないのに、もうずっと長い間、離れていた気がした。
いくら呼んでも叫んでも声は遠すぎて届かなくて…。
宗方に抱かれるたびに壊されていく、くぼずきんへの想いが心が痛くてたまらなかった。
いくら流れ落ちそうになる涙を堪えていても…、本当は壊されていく痛みを消せない想いを…。
好きだって、大好きだって…、ただ一人だけを想って泣き叫びたかった。
なぜこんなにも好きになってしまったかなんて知らない。
どうしてこんなに会いたくて、恋しくてたまらないかなんて…、そんなことはわからなくても…。
いつでもどんな時でも、そばにいたいのも抱きしめられたいのもただ一人だけだった。
時任は目を閉じたまま右手で喉を抑えると、はっきりと聞こえ始めた自分を呼ぶ声に向かって答えようとする。
けれど、その声は胸の痛みにかすれてしまっていた。
「くぼ…ちゃ…、くぼちゃん…っ、くぼちゃーんっ!!!」
叫びながら無理やり痛む身体を起こして、時任は外れない鎖を思い切り手で引きちぎろうとした。
けれどチャリチャリと音を立てるだけで、冷たい鎖は時任の手だけを傷つけていく。
皮が破れて血が滲み初めた手を横から伸びた手が止めようとしたが、時任はその手を睨みつけて叩き落すと再び鎖を引っ張り始めた。
「無駄なことはしない方がいい。声が聞こえた所で、ここまで来るとは限らないだろう?」
「・・・黙れっ」
「自分が抱かれている所を、本当に見られたいのならかまわないがね」
「てめぇなんかっ、ぶっ殺してやるっ!」
「相変わらず可愛いことを言う」
「鎖をはずせっ!!」
「…ダメだ」
そう言って宗方は、時任の鎖をぐいっと自分の方に引っ張る。
すると身体に力の入らない時任は、あっさりその鎖に引かれてバランスを崩して床に転んだ。
まるで自分の飼い猫だということを誇示するように、宗方は時任の鎖を握っている。
時任は鎖に身体の自由を奪われながらも、そんな宗方を鋭い目つきで睨みつけた。
「カミサマかなんかしらねぇけど、欲しいモンあるならくれてやるっ! だから鎖をはずしやがれっ!」
「僕はお前が欲しいんだよ、ミノル」
「俺はてめぇなんかいらねぇっ! 俺はくぼちゃんしか…、くぼちゃんしかいらないのに…、 なのになんで…、なんでなんだよ…、なんでこんなに会いたいのに会えねぇんだよっ!」
「誠人のことなど、すぐに忘れさせやると言っただろう?」
「・・・・そんな簡単に忘れるくらいなら、好きになんかならない。こんなにこんなに好きになんか、絶対に…。だから忘れたりなんかしない」
「なるほど、誠人の存在が消えてないということは、まだ抱かれ足りないということか?」
首の鎖がチャリチャリと鳴って、笑みを含んだ宗方の声が時任を呼ぶくぼずきんの声と混じる。
宗方の手が時任の肩に触れた瞬間、さっきまで穿たれていた熱の感覚がゾクッと身体によみがえってきた。だが時任はその感覚に耐えるように唇をかむと、宗方の手を長い爪で引っかく。
すると宗方の手に爪痕が付いて、そこから赤く血が滲んだ。
「てめぇなんかにくぼちゃんは消せない…、消させたりなんかしないっ。 消そうとしてもこんなに好きでいっぱいの気持ちは…、消えたりなんかしないから…」
時任はそこまで言うと、哀しそうな苦しそうな顔をして言葉を詰まらせる。
ドアの外から聞こえる銃声が、くぼずきんがすぐ近くまで来たことを知らせていた。
その気配を感じ取った時任の頬に、今まで流れなかった涙が一筋だけすぅっと流れ落ちる。
時任はぎゅっと両手を握りしめると、弱りきった身体の力を振り絞ってドアに向かって叫んだ。
「くぼちゃんっ、くぼちゃんっ、くぼちゃーーーんっ!!!」
宗方に抱かれて汚されて…、そんな自分の身体を見るたびに想いがぐちゃぐちゃに乱れて…。
けれど好きだったから…、どんなになっても大好きだったから、その想いが消えてなくならないからくぼずきんを呼ばずにはいられなかった。
迷っている余裕なんかなくて、ただひたすら会いたくて…、本当にただそれだけだった。
大好きな人に…、好きだと言いたいだけだった…。
時任が想いを込めて名前を叫び続けていると、外で鳴り響いていた銃声がピタリと鳴り止む。
するとしばらくして、時任の視界の中にあるドアがゆっくりと音を立てて開いた。
そのドアから入ってきた人物の姿を、誰よりも見たかったはずなのに…。
時任の視界はぼやけてしまっていて、良く見えなくなってしまっていた。
「ほう、ここまで来れるとはな」
「ウチの猫、返してくれます?」
時任を挟んで拳銃を構えたくぼずきんと宗方が向かい合ったが、くぼずきんの後ろには関谷と拳銃を構えた黒服の男達がいる。
宗方は口元に薄く笑みを浮かべると、時任の首の鎖をいきなりぐいっと自分の方に引いた。
するとその衝撃で、シーツのくるまっていた時任の鎖骨や胸の辺りが露になる。
時任はそれを隠そうとしていたが、すでにそれはくぼずきんの視線にさらされてしまっていた。
「ミノルが誰のモノなのか、この姿を見れば一目瞭然だろう?」
「・・・・・・・・」
「それともミノルが抱かれている所でも見たいかね? 私は別にそれでもかまわないが」
そう言った宗方にくぼずきんは返事をせず、凍りつくように冷たく、そして静かな底知れぬ怒りに満ちた瞳を宗方に向けたまま拳銃を構え続けている。
しかしその背後からは、黒服の男達の無数の銃口がくぼずきんを狙っていた。
いくら引き金を引く手が早くとも、正面と背後の敵を同時に倒すことは不可能である。
それにくぼずきんの引き金を引く右手は、ケガをしているのか血に塗れていた。
床に滴り落ちていくくぼずきんの血を見て、宗方は口元に笑みをさらに深くする。
そして宗方の目は、まるで上からくだらぬモノでも見るかのように細められた。
「ここで殺してやってもかまわんが、お前にはまだ役目がある。お前は神を殺し、神に殺されるために生まれてきたのだからな」
そう言いながら低く笑った宗方の手には、未だ時任の首につけられた鎖が握られている。
時任には宗方の言葉の意味はわからなかったが、シーツに隠れた痕を見てから一度もくぼずきんが視線を向けてくれないことに胸をズキズキと痛ませていた。
冷たく宗方を見つめる視線に、自分も拒まれているように気がして…。
身体中に残っている宗方に刻まれた痕が、胸と同じように痛んでくる。
会いたいとそれだけを願っていたはずなのに…、今は身体が震えて動けなくなっていた。
どうしても誰よりも会いかったその想いを叫びたくても、白いシーツに阻まれて何も言えない。
汚された身体をシーツに隠して…、好きだって、大好きだって伝えても…。
きっとシーツ越しにしか何も伝わらない。
くぼずきんに抱きしめて欲しかったけれど、それはシーツ越しに抱きしめられたかったワケじゃなかった。
相手を射殺すような視線を宗方に向けているくぼずきんを見つめながら、時任は身体を隠していたシーツに手をかけると、それを静かに肩から床へと落とす。
すると宗方に汚された身体を隠すものは何もなくなって、冷たい空気が肌を撫でてその感触に鳥肌が立った。
けれど時任は手で身体を隠すこともなく、そのままじっとくぼずきんを見つめている。
こんな身体を見られたら、もう好きだとも…、あの家に一緒に帰ろうとも言ってくれないかもしれなくても…、白いシーツに何もかも押し込めてしまいたくなかった。
白いシーツに隠してしまったら…、好きも大好きも言えなくなってしまう気がしたから…。
こんなに傷つけられても汚されても消えなかった想いを…、そのありのままの想いをくぼずきんに伝えたかった。
「くぼちゃん…」
時任が真っ直ぐくぼずきんを見つめながら、しっかりとした迷いのない声で名前を呼ぶ。
するとくぼずきんは拳銃を構えたまま、時任の方に視線を向けた。
けれどくぼずきんの瞳は宗方に向けていた時のまま、冷たく凍り付いてしまっている。
時任はその冷たい瞳を胸の痛みと決して消えない想いを込めてじっと見つめながら、静かに隠すことなく赤く痕の残る素肌をくぼずきんの前にさらし続けていた。
もう抱きしめてもらえないかもしれなくて…、もう名前を呼んでくれないかもしれなくて…。
それでも、くぼずきんを好きな気持ちは変わらない。
もしもその腕に拒まれてしまったとしても…、くぼずきんが大好きだった。
いくら宗方に犯されて傷つけられても流れることのなかった涙が…、再び頬を冷たく時任の濡らしていく。
時任がもう一度、名前を呼ぼうとすると、くぼずきんがその涙を見つめながら宗方に向けていた銃口を時任に向けた。
くぼずきんに銃口を向けられた時任は、撃たれることを恐れもせずにただくぼずきんだけを見つめている。宗方が慌てて時任の鎖を強く引いたが、時任はそばにあった柱に力を振り絞ってつかまって動かなかった。
ガウゥゥーーーーンッ!!!
たった一発の銃弾が銃口から放たれて、その音が室内に木霊する。
くぼずきんの拳銃の銃口からは、細く煙が上がっていた。
後ろにいた黒服達も関谷も、突然のことに驚いてその場から動いていない。
宗方も少し目を見開いて、煙の上がる銃口を見つめていた。
くぼずきんが打ち終わった拳銃を下に降ろすと、その手からするりと拳銃が床へと落ちる。
すると、拳銃はカシャンと音を立てて床へと転がった。
だが、転がった拳銃は役目を終えたように横たわったままになっている。
静まり返った室内で、くぼずきんは血に塗れた右手を時任の方へと伸ばした。
「おいで…、時任」
その声が室内に響くと切れた鎖を首にユラユラさせながら、時任がゆっくりと立ち上がる。
くぼずきんの撃った銃弾は、鎖を見事に撃ち抜いて壁に傷跡を残していた。
時任は両手で涙を軽く拭うと、くほずきんに向かって走り出す。
するとくぼずきんは時任に微笑みかけながら、両腕でしっかりその身体を抱き止めた。
「くぼちゃっ…、くぼちゃん…」
「遅くなって…、ゴメンね」
「ちゃんと来てくれるって思ってたから…、だから待ってられた。ずっとずっと…、くぼちゃんのそばに帰りたくて…」
「もう離さないから…、絶対に…」
「…もう、離れたくない」
そう言いながらくぼずきんが、時任に唇に自分の唇を寄せる。
くぼずきんはゆっくりと優しくキスをしながら、傷ついた時任の身体を着ているコートで包み込むようにして強く抱きしめていた。
時任は抱きしめてくれているくぼずきんの腕の温かさと、キスしてくる唇の感触を感じながら、そっとその背中に腕を回す。するとくぼずきんは深く角度を変えてキスしてきた。
「好きだよ…、時任」
「くぼちゃ…」
「あの時は伝えられなかったけど…。きっと…、もっとずっと前から好きだったから…」
「くぼちゃんだけが…、もっとずっと前から好き…」
「時任だけを想ってるから…」
「大好き…、くぼちゃん…」
二人のキスする濡れた音と想いを伝え合う声だけが、室内に響いている。
抱きしめて抱きしめられて…、キスして、キスしあって…。
会えなかった時間を埋めるように、言葉とキスを紡いでいく。
しかし、そんな二人に向かって冷たい無数の銃口が向けられた。
その銃口は向けているのは、正気に返った黒服の男達と、冷ややかな笑みを浮かべながら二人を眺めている宗方である。
関谷は黒服達の背後で、そんな室内の様子を矢崎と共に傍観していた。
くぼずきんは名残りを惜しむように時任の唇から自分の唇を離すと、自分の着ていたコートを脱いで時任の肩にかける。すると時任は、素早くそのコートに袖を通して着た。
宗方が構えた銃口をくぼずきんの心臓の上にあわせると、時任がその前に両手を広げて立つ。
時任は銃口からくぼずきんを守りながら、今にも襲いかりそうな鋭い視線を宗方に向けた。
容赦なく宗方と薬に犯されて立っているのもやっとのはずなのに、時任はそんな様子など少しも見せない。
そんな時任を愛しそうにそっと片腕で抱きしめながら、くぼずきんは再び宗方と向かい合った。
「感動の再会をしている所を悪いが、そこまでにしてもらうとしよう」
「人の恋路をジャマすると、馬に蹴られて死ぬよ?」
「死ぬのはお前の方だがね」
「ふーん、役目は果たさなくていいワケ?」
「死なない程度に殺してやろう」
「じゃ、そうなる前に退散しなきゃね」
「ほう、ここから逃げられるとでも?」
「何事もやってみなきゃわからないっしょ?」
くぼずきんはそう言うと、さっき時任にコートを渡す前に取り出しておいた物を手持つ。
それは武器を買った男からもらった手榴弾だった。
くぼずきんは手榴弾のピンを一気に抜き取ると、黒服の男でも宗方でもなく壁に向かって投げる。
そして時任を横抱きにして、そばにあったバスルームに飛び込んだ。
ドオォォォ〜〜ン!! ズウゥゥーーンッ!!!!
激しい爆音と振動が室内に響き渡ると、室内を爆風が襲い室内が煙に包まれる。
くぼずきんは爆発が終るとすぐに時任の手をしっかりと握りしめて、さっき手榴弾を投げた壁に向かって走り出した。
充満していた煙はその場所から吹いてきた風にかき混ぜられて、すぐに室内から消えていく。
くぼずきんと時任が向かった壁には、手榴弾で穴が大きく空いていた。
目の前に広がる青い空と青い海が視界一杯に広がって、その青さを見ているとその中に吸い込まれそうな気がする。
時任がくぼずきんについて迷わずに穴に向かって飛び込もうとすると、くぼずきんが時任の方に視線を向けて微笑んだ。
「コワくない?」
「二人一緒なら…、コワイことなんか何もないに決まってるだろっ」
「…うん、そうだね」
「行くぞっ、くぼちゃんっ!」
「行くよ、時任」
二人はしっかり手を握り合ったまま勢い良く穴から外に飛び出すと、数メートル下の海へと落下した。
しかし、この高さから飛び降りてとても無事で済むとは思えない。
特に、肩に傷を負っているくぼずきんが海に飛び込むことは危険だった。
高く上がった白い水しぶきが、不吉な音を辺りへと響かせる。
その音を聞いた東条組の組員達は、関谷の命令を受けて落ちた二人を捜し始めた。
「このまま逃げられると思うなよ、ミノル」
二人の捜索や死者の確認で慌しくなっている船内をよそに、宗方は時任の爪に付けられた傷を手当てもせず、ぽっかりと穴の空いた船室から口元に笑みを浮かべて海を冷たく睨んでいる。
だが飛び込んだ辺りには、いつまでたっても二人は浮かび上がって来なかった。
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