くぼずきん.26
向けられた拳銃は正確にくぼずきんの額に狙いを定めていた。
自分の知っていることを語りながらも拳銃を向けてくる橘からは、くぼずきんを殺すことへの迷いは微塵も感じられない。
けれどトリガーに指をかけながら揺れる瞳は、もっと別の何かを迷っているようにも見えた。
そんな橘から得た宗方と関谷が海外にいるという情報が、どれくらい信憑性があるものなのかはわからない。もしかしたら関谷に頼まれて嘘の情報を流している可能性もあった。
しかし情報屋でも関谷の居場所もわからず、何も情報がない今はその情報を信じるしかない。
くぼずきんは、拳銃を向けられているにも関わらず橘に背を向けた。
「僕は冗談で言ってるワケではありません」
「だろうね」
「それとも、時任君の所へ行くのをあきらめたんですか? ここで僕に殺されたら会えなくなるのに、背中を向けるのはそういう意味ですよね?」
「べつにどうとでも?」
「好きなんでしょう? 時任君のことを…」
自分のエゴのために撃ちたいなら、背中を向けているのだから撃ってしまえばいい。
だが、なぜか橘はくぼずきんと時任のことに妙にこだわっていて、会わせないと自分が言ったはずなのにくぼずきんが背中を向けると時任のことを聞いてきた。
まるで、時任のことをあきらめることが許せないとでもいうように…。
橘が何を考えているのかはわからないが、その矛盾した行動は不安定な心をそのまま表しているかのように見える。その不安定さは、いつも冷静沈着であまり動じることのない橘らしくなかった。
くぼずきんはトリガーに指をかけたまま引かない橘の気配を背後に感じながら、再び下に降ろしていた拳銃をゆっくりとあげる。
けれどそれを見た橘が、その動きに合わせてゆっくりとトリガーを引き絞り始めた。
不安定な自分の心を苦しく引き絞って行くように、ゆっくりとゆっくりと力を込めて…。
だが自分のエゴのために最後までトリガーを引き絞るはずだったその指は、くぼずきんの一言でピタリと止まった。
「もう一度、時任を抱きしめるまでは撃たれたくらいじゃ死ねない。だから、今の俺を殺すことは誰にもできない…、人間にも魔獣にも、そしてカミサマにもね…」
拳銃の弾に心臓を撃たれたら確実に死ぬし、肉塊に取り込まれてしまったら腐臭ただよう肉の一部になる。だがどんなことになっても…、血を流して這いつくばってでも行くしかない。
待ってくれているから、会いたいから…、そこまで自分の足で歩いて行くしかなかった。
まだ残っている手を握った時の感触も、一度だけしたキスの唇の温かさもまだ覚えているから…。
愛しさと恋しさが胸の中で熱く痛むから、ここではまだ立ち止まれなかった。
「さよなら…、くぼずきん君」
そう言いながら橘が止まっていた指が再び引き絞り始める。
だが、銃声が響くよりも早く、ドア壊す大きな破壊音が部屋の中に響き渡った。
閉じられていたドアを突き破って出てきたモノを、くぼずきんが素早く横に飛んで避ける。
そしてくぼずきんはドアを破ったモノと入れ代わるかのように、破られたドアから部屋の外へと走り出した。
しかしドアを破ったモノは勢いがありすぎたのか、そこでは止まらずに正面にいた橘に向かう。
反射的に拳銃の引き金を引きながら、自分に向かってきたモノが何なのかに気づいた橘は少し顔を引きつらせた。
頑丈に作られたドアを破って入ってきたのは、くぼずきんを追っている肉塊だったのである。
ドアは防弾のために分厚く作られていたため、ここまでは入って来ないだろうと橘は思っていたらしいが肉塊は簡単にドアを破ってしまった。
くぼずきんは肉塊に拳銃を撃ち込んでいる橘の方を振り返らずに、廊下を走ると下に向かって階段を降り始める。
すると階段には、肉塊が人間を襲撃した時についたと思われる血痕がたくさん残っていた。
そのおびただしい血痕の量と、壁に無数に残る銃弾の後から、かなり肉塊と激戦を繰り広げたことがわかる。だがその結果は、肉塊がくぼずきんのところでたどり着いたことを見れば明白だった。
肉塊の腐臭と血の匂いが立ち込める階段を降りると、くぼずきんは急いでビルから外へと出る。
そして一度だけチラリとビルを見上げると、複雑に入り組んでいる町の路地へと走り出した。
まだ肉塊がビルから出てくるまでには時間がかかるので、その間にできるだけ肉塊から離れなくてはならない。
いずれはまた見つかってしまうにしても、三日後の船の入港に備えて弾の補充や休息を取らなくてはならなかった。
船の甲板から空を眺めると、白いカモメが飛んでいるのが見える。
今日の朝から船の周囲にカモメが集まっているのは、陸地が近くなってきたせいに違いなかった。
嵐に遭うこともなく順調に航海を続けているこの船は、外国に輸出入を行っている巨大な貨物船だが内部の作りは特別なものになっている。
船倉部分に入れられている荷物が特殊なため、乗っている船員達の雰囲気も常に緊張感のようなものが漂っていた。
この船は東条組の持ち物だが、今、この船を利用している目的は東条組のためではない。
だがそのことを知っているのは、操舵室から出てある部屋に向かっている関谷ともう一人だけだった。
部下に命令して綺麗に掃除させた船の廊下を歩きながら、関谷は少し後ろを歩いている矢崎に右手を突き出す。すると矢崎は、その手に持っていた資料を乗せた。
「各国の反応は悪くないようですよ。ほとんどの国が交渉に応じると言って来てます」
「ふぅん、宗方はうまくやったみたいね」
「…ですが不気味ですよ、あの男」
「自分が神になるってほざいてるイカレた男だけど、利用価値がある分だけアンタよりマシよ」
「せ、関谷さん…」
「ふふっ、最後に笑うのは一体誰なのかしらね」
関谷がそう言って笑うと、矢崎は額に浮かんだ汗を手のひらで拭った。
今回の海外行きは、東条組代行である関谷ではなく宗方が決定したことである。
宗方が海外行きで各国の首脳部に交渉したことは、今、魔獣の貿易で成り立っている国や東条組を不利な状況に追い込むことになるようなことだった。
関谷が持っている資料はその計画の進み具合を示しているが、思った以上に各国の反応がいい。
それはやはり宗方が持ちかけた事が、かなり魅力的だったせいだった。
実は生まれてくる子供が百パーセント魔獣のため増やすことは簡単なのだが、魔獣は生まれる代を重ねるごとに何も考えることをしなくなり、その上、殺戮と血を好む傾向にある。そのため軍事用に育てようとしても、誰の言うことも聞かなってしまうのが常だった。
人間との混血を繰り返した魔獣は理性も思考力もなくなり、敵味方の判断すらできないので気分次第で誰でも殺してしまう。その魔獣を敵国に送り込んでしまうにしても、そんな魔獣を量産するのはかなり危険を伴うことだった。
宗方の交渉内容は現在あらゆる闇の部分で暗躍している魔獣に関するデータを流す代わりに、魔獣の研究を行う施設の建設と管理を東条組に任せるというものである。
すべてをまかせるということは、東条組に力を持たせてしまうという危険性なリスクはあった。
だが交渉を受けると今まで、輸入に頼っていた魔獣を自国で量産することが可能となる。
それに加えて一番重要な点は、こういった交渉が持ちかけられた時点で自分の国以外の国が魔獣の量産を始める可能性があるということだった。
その危険性を考えれば、東条組に対するリスクの方が低く見えてしまうのかもしれない。
交渉する意思のある国のサインの入った書類を持って、関谷はそれを見せるために矢崎を伴って宗方の部屋に向かった。
そして宗方の部屋の前に到着すると、関谷はドアの前に立ってノックしようとする。
だが中から漏れてくる声を聞いた瞬間、その手を叩く寸前で止めた。
「どうかしたんですか?」
その様子を不審に思った矢崎が関谷に聞いていたが、中からの声が耳に届くとそのまま黙り込む。
中からかすかに響いてくる声は、誰が聞いても中の様子がわかってしまう声だった。
休むことなく聞こえてくるその声には欲情の色が滲んでいて、聞いていると妙な気分になってくる。関谷は平然としていたが、矢崎は少し前かがみになってしまっていた。
「お取り込み中、ね」
「は、はぁ…」
「毎日あきもせずに良くやるわね。そんなにあのボウヤの味っていいのかしら?」
「さ、さあ…、それはわかりやせんが…」
関谷はバサッと音を立てて矢崎に書類を渡すと、宗方に会うのをあきらめて自室に戻るために元来た方へと歩き出す。
すると中から聞こえてくる声にぼーっとしてしまっていた矢崎も、それに続いて歩き出した。
だが関谷と矢崎が部屋の前から去っても、中からは止むことなく声が聞こえている。
その声の原因を作っているのは、この部屋の主である宗方だった。
「ひぅ…、あっ…うぅっ…」
「もっといい声で鳴いてごらん、ミノル…」
宗方は拉致して薬漬けにして抱いてから、宣言通りに身体がその感触を忘れる暇がないほど時任を抱き続けている。始めは宗方に感じることを嫌悪して拒絶し続けていた時任も、ずっと抱かれ続けている内に身体が与えられる快感に溺れてしまっていた。
隙を見て逃げ出そうとしては捕まって薬漬けにされて、鎖でベッドに繋がれる。
身体を揺すられるたびにチャリチャリと鳴る鎖は、時任の首につけられている首輪につれられてた。
まだその瞳には意思がやどっていたが、宗方の手に感じる部分に直接触れられて焦らされながら追い詰められる。
何度も何度もキスされて、身体に楔を打ち込まれて…。
絶対に忘れたくなかったのに…、その感触を覚えていたかったのに…、抱きしめられた腕の感触やキスした唇の感触が宗方に抱かれるたびに消えて行く気がして…。
それが悔しくて切なくて…、宗方に対する憎しみよりも深い哀しみが胸の奥に広がっていく…。
けれどそれに涙したくても、今はまだ泣く事はできなかった。
迎えに来てくれると約束したから、待ってると約束したから…。
連れ去られて始めて宗方に犯された日も、そして今もずっと泣かないで耐えて続けていた。
「うっ、うぁ…っ、あぁっ・・・・・」
「ほら、気持ちいいだろう? こんなに奥まで一杯だからね…」
「あっ、やっ…」
「…もうじき船が港に着く。そうしたらホテルでまた抱いてあげよう」
「・・・・・っ」
港に着くという宗方の言葉に、ピクッと時任が反応する。
国に戻ったということは、もしかしたら港のある町にくぼずきんがいるかもしれないと思ったからだった。
身体の中の宗方の存在を感じさせられながら、視界に繋がれている鎖を捕らえる。
くぼずきんがいるかもしれないと思ったら、すぐにでもこんな鎖を引きちぎってしまいたくなった。
だが魔獣専用に作られた首輪も鎖も、どんなに頑張っても外れない。
薬漬けにされてしまった身体のダメージは思ったよりも大きく、今も腕にあまり力が入らなかった。
あれから薬と宗方に蝕まれ、いつの間にか身体には情事の匂いと薬品臭が染み付いている。
くぼずきんを想いながらも、そんなになってしまった自分の身体に時任が唇を噛みしめると、その耳に囁きかけるように宗方が残酷なことを言った。
「僕に感じてよがってる所を、せっかくだから誠人にも見せたらどうかな?」
「なっ…」
「こんなに僕の匂いが染み付いたお前を見て、あれはなんと言うと思うかね?」
「こ、この…、ゲス野郎…」
「そんな口利けないように…、たっぷり受けきれないくらいの愛を注いであげるよ」
「うぁ、あっ、あぁ…っ!!」
長旅を終えた船の前方に、次第に到着予定の港が見えてくる。
もうじき船は港に着くことになっていたが、宗方は時任を放すことなく抱き続けていた。
時任は宗方に声をあげさせられながら、力のない手でしきりに首につけられている鎖を引っ張っている。だが、くぼずきんの元に帰りたい時任の願いを嘲笑うかのように、その鎖も首輪も外れる気配はなかった。
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