くぼずきん.21




 魔獣の森の主となったと言われる少女は、ただの言い伝えなどではなく実在の人物だったが、少女が生きていたのは百五十年以上も昔だった。
 そのため、その少女を見たことがある人間はすでにこの世にはいない。
 ただ和美という名前だけが言い伝えられていたが、なぜ少女が魔獣の森の主となったのか、詳しく事情を知る人間は近隣の村にもいなかった。
 
 くぼずきん家の人間をのぞいては…。

 だが、宗方がくぼずきんを時期当主にするつもりがなかったため、くぼずきんは当主として必要な知識を教えられてはいない。
 存在を無視され、この屋敷で過ごしていた日々は、おそらく楽しいものではなかったに違いないが、くぼずきんの記憶にはあまり残っていなかった。
 わずかに残っているのは冷たい拳銃の感触と、誰かの温かい手と声…。
 何もかも忘れていたと思っていたのに、今はそれだけは鮮明に思い出すことができた。
 
 「そろそろタイムリミットかもね…」

 くぼずきんがそう呟くと、屋敷の玄関の付近から激しく何かがぶつかる音が響いてくる。ハッとして松本が音のする方向を見たが、真田はタバコをくゆらせて目を細めただけだった。
 それは音の正体をわざわざ確かめに行かなくても、それが何かわかっていたからである。響いてくる音は、肉塊がドアを破って屋敷の中に入って来ようとしている音だった。
 ドアの前は厳重に封鎖していたが、鎧戸を閉めているとはいえ、窓から来られたらおそらく簡単に中に入られてしまう。松本は慌てて立ち上がると、くぼずきんの手にある本とテーブルにある本をまとめて小脇に抱えた。
 「とりあえず俺は上に行く…」
 松本はそう言うと、居間を出て橘の部屋を目指して走り出す。
 今、橘は自分の部屋で寝ているが、とても自分で動けるような状態ではなかった。
 「どうするかね?」
 真田はそうくぼずきんに問いかけたが、くぼずきんはわずかに視線を真田の方に向けただけで、松本に後に続いて居間を出る。すると真田もそれに続いた。
 くぼずきんが松本を追いかけたのは、松本だけでは橘を抱えて逃げるのは無理だと判断したからである。借りがあるとかそう言ったことではなく、くぼずきんは松本を手助けしようとしていた。
 だが、橘の部屋に行く間も腐臭を放つ肉塊がぶつかる音が屋敷内に鳴り響き、その場所も次第に移動してきている。このままでは窓を破られるのは時間の問題だった。
 閉じ込められていた場所にわざわざ戻ってくることはないだろうと考えていたのだが、やはりそう甘くはなかったらしい。
 「よほど君のことが好きらしいな」
 「迷惑だなぁ」
 真田がからかうように言うと、くぼずきんがとぼけた返事を返す。
 また肉塊が襲ってくるというのに、くぼずきんと真田にはまるで緊張感がなかった。
 しかし、緊張感はないが、くぼずきんの瞳にはらしくなく焦りの色がある。
 それは、松本や肉塊のこととは関係のないことだったが、今はどうしてもここを離れるわけにはいかなかった。
 『やっぱ、俺行くから』
 自分が危なくなると知っていても、自分からそう言った大切な人のためにここを放り出して行くことはできなかった。
 今、ここを放りだしてしまうと、後でくぼずきんではなく…。

 その人が苦しむことを知っていたから…。

 肉塊の気配を感じながら階段を上り終えると、くぼずきんと真田が橘の部屋へと急ぐ。
 松本が二人より先に部屋に到着していたためドアは開いていたが、松本は中には入らずに廊下に突っ立っていた。その表情から橘に何かあったことはすぐにわかったが、呆然としている松本から何があったかを聞くよりも自分の目で見た方が早い。
 くぼずきんはドアに近づくと、松本の前から部屋の中を見た。
 すると、そこにいるはずの橘の姿はどこにも見えない。
 関谷の仕業のようにも思えるが、関谷が橘をさらう理由はどこにも見当たらなかった。
 屋敷の地下室の扉は開かれ宗方が姿を現した今となっては、橘が知っている情報が必要だとは思えないし、人質として利用するならば、連れ去らずに橘にナイフを突きつけて、松本に本を渡すように要求するのが普通だろう。
 「一体、どこへ…」
 松本は低く唸ると、くぼずきんに続いて室内に入る。
 くぼずきんは橘の寝ていたシーツを軽くさわったが、いなくなってからまだそんなに時間がたっていない証拠にそこはまだ温かかった。窓の外にもどこにも姿が見えないとなると、自分一人では動けないため誰かの手を借りたか、誰かに連れ出されたかには違いない。
 屋敷内にはやはり関谷しかいなかったので関谷だと考えるのが順当だが、室内には暴れた形跡などはまったくなかった。
 くぼずきんが軽く室内を見回すと、ベッド脇にあるサイドテーブルが目に入る。
 そこには橘が飲んだと思われるマグカップが置かれていて、その下に一枚の小さな紙が置かれていた。
 くぼずきんがマグカップの下から紙を抜くと、そこには…、

 『すいません、どうしても行かなくてはならない所があるので行きます。 橘』

と、丁寧な橘らしい文字が書かれていた。
 筆跡を確認するためにくぼずきんが松本に見せると、松本は無言でうなづく。
 どうやら、橘は自分の意思でここを出て行ったのに間違いはなさそうだった。
 なぜ行かなくてはならなかったのか理由は良く分からないが、関谷の姿も見えないので、もしかしたら関谷と一緒にいるのかもしれない。
 松本は軽く頭を左右に振ると、軽くベッドを拳で叩いた。
 「なぜだ…、橘っ」
 橘が自分ではなく、関谷とどこかへ行ってしまったらしいことに、松本はショックを受けている。説明も何もなしに恋人にいなくなられたら誰でもショックに違いないが、一緒にいなくなった相手が相手なだけにショックも大きかった。
 だが、すでに橘はここにいないため、いくら問いかけても答えてくれる相手はいない。
 松本は唇を噛みしめると拳を硬く握った。
 「自分の意思で行ったのならば…、仕方ない…」
 「ほう、恋人をあきらめるのかね?」
 「・・・・・・・・何か理由があったのだろう」
 「あきらめがいいのは良い事だ」
 「…黙れ」
 真田がちょっかいをかけてくるのを、松本が睨みつける。
 そうしている間にも、肉塊はいつ屋敷内に侵入してくるかわからなかった。
 くぼずきんが窓から外を眺めると、そこにはまるでここにくぼずきんがいることを知っているかのように肉塊の醜悪な姿がある。
 それを見ながら薄く笑みを浮かべると、くぼずきんはベルトから拳銃を抜いた。
 「・・・・行くのか、誠人」
 「そろそろ限界だからさ、自分の身は自分で守ってくんない? 松本」
 「自分の身くらい自分で守る。そんなのは当たり前だろう」
 「さすがマツモト」
 「…棒読みで言われてもな」
 そんなやりとりをくぼずきんと松本が交わしていると、突然カチリという音が室内に響く。
 その音は、真田がくぼずきんに向かって拳銃を構えた音だった。
 しかし、くぼずきんは持っている拳銃を手で持ったまま構えてはいない。
 松本は厳しい表情で真田の方を見たが、くぼずきんの表情は少しも変わらなかった。
 「どうしても行くつもりかね?」
 「カミサマにも、肉塊にも興味ないんで」
 「もし、行かせないと言ったら?」
 「どうもしませんけど?」
 真田は嫌な笑みを浮かべていたが、くぼずきんはそれを平然と見返している。
 行かせないと言う真田の表情からは本気なのか冗談なのかはわからなかったが、本気だろうとそうでなかろうとくぼずきんはここに留まる気はない。それは怪我人である橘がいなくなったため、逃げる手助けをする必要がなくなったからだった。
 くぼずきんが手に持った拳銃を持ち上げると、真田の手に少し力が加わる。
 だが、くぼずきんは拳銃を構えるために持ち上げたのではなかった。
 「松本、パス」
 「えっ?」
 持っていた拳銃を松本に向かって投げると、くぼずきんはベランダへ向かって走り出す。
 そして、ベランダから勢い良く飛び降りた。
 「ここは三階だぞっ!!」
 松本がそう叫んだが、くぼずきんはすでに飛び降りてしまっている。慌てて松本がベランダに出て下を見ると、二階のベランダに着地しているくぼずきんが見えた。
 どうやら、最初から二階に飛び降りる気だったらしい。
 「あせって損したじゃないか…」
 松本が久保田に渡された拳銃を持ってベランダに立っていると、後ろから真田が歩いてくる気配がする。その気配を察知して、松本が真田に向かって拳銃を構えると、真田はそんな松本を見て口の端をわずかに吊り上げた。
 「私を撃つ…、か?」
 「抵抗するならばな」
 「私は君とやり合うつもりはないんだが?」
 「…やり合ったところで、意味がないというのは同意見だが?」
 「ならば、私と一緒に来ないかね?」
 思いもよらない真田の言葉に、松本は眉間に皺を寄せる。
 それはその言葉の意味を、いかがわしい内容と解釈したためだった。
 「そういう話なら他を当たってくれないか? 俺は男の慰み者になるシュミはない」
 松本が不機嫌そうにそう言うと、真田が低く声を立てて笑い出す。
 その笑い声でさらに不機嫌になった松本の顔を見ながら、短くなったタバコを壁で消すと真田はそのまま吸殻を床に落した。
 「そういう意味でも構わないが、もっと別な提案をしているつもりだよ」
 「別な提案?」
 「君は知りたくないかね? あの汚物の正体を…」
 「・・・・・・・」
 「調べた情報は、共有するという条件で手を組まないかね?」
 「つまりこの本を渡せということか?」
 「どちらにせよ、君一人ではどうにもならんよ。調べたところで、アレを倒すなどできるばすもない」
 「俺は、べつに倒すなどと言った覚えはない」
 「だが、倒したいのだろう?」
 「・・・・・・」

 「目的が同じなら、手を組むのが得策だと思わないかね?」

 松本は真意を探ろうとするかのように、じっと真田の顔を見つめている。
 だが、その表情からは何も読み取ることができなかった。
 関谷のように肉塊を捕らえるというなら話はわかるが、最強の魔獣を、神を道具にしようとしていた組織の幹部である真田が、なぜ肉塊を倒す手助けをしたいなどと言うのかがわからない。しかし真田の言う通り、松本一人では肉塊を倒すことは不可能に近かった。
 橘もそう言っていたように…。
 松本は橘が寝ていたベッドに目をやりながら、しばらくの間黙って考え込んでいた。







 外は昼間で明るいというのに部屋にはブラインドが下ろされ、まるでそこだけがまだ夜が明けていないかのように暗がりに包まれていた。
 その部屋には高そうな調度品が並び、床には分厚い絨毯が敷き詰められている。
 住人はさぞや金持ちだろうと思われたが、部屋にいるのは大きなダブルベッドの中で死んだように眠っている少年が一人いるだけだった。
 眠っている少年はよほど疲れているようで、昼をとっくに過ぎているというのに一向に目を覚ます様子はない。
 サイドテーブルに置かれた朝食には、まだ少しも手がつけられていなかった。

 「う…ん…」

 小さく寝返りを打ちながら、少年はもぐっていた毛布から頭を覗かせる。その頭にはネコのような耳が二つついていて、良く見れば手もネコのような作りになっていた。
 眠っている少年は人間ではなく、ワイルド・キャットという種類の魔獣だったのである。

 「・・・・・・くぼちゃ…」

 静かな寝息と寝言を紡ぎながらしばらく少年は眠っていたが、ガチャリとドアの開く音に反応して耳をピクッと動かす。そして、大きくて綺麗な瞳を暗がりの中でパッと開いた。
 警戒するようにベッドの中で身を構えたが、なぜか身体をうまく動かすことができない。
 震える手を握りしめながらなんとか体勢を整えると、少年は爪を出して侵入者が来るのを待った。

 「やっと目が覚めたようだね? ミノル」

 そう呼ばれた少年は侵入者の男を鋭く睨みつける。
 すると侵入者の男は誰かに似た印象的な目で、じっと少年を見つめてきた。
 
 侵入者の男、宗方と…、その宗方にさらわれてきた少年、時任稔。
 
 宗方の瞳は時任を愛しそうに見つめていたが、時任の瞳は明らかに宗方を憎んでいる。
 だが、身体から来る痛みのため、時任の瞳には苦痛の色が浮かんでいた。



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