くぼずきん.19




 神の残骸から逃げてたどりついた屋敷は、ひっそりと静まり返っていた。
 まるで何事もなく、平凡な日常がそこにあるように…。
 けれどそんな日常が、どこにも存在していないことはくぼずきんが一番良く知っていた。
 一緒に帰るはずだったのに、くぼずきんの隣にはいるべき者の姿がない。
 そばにいることを誰かに決められたわけではないが、いないことがとても不自然で心をユラユラと揺らめかせる。
 真田達が屋敷内を探索しているのを横目に、玄関に取り付けられている古い振り子時計が正確に音を刻んでいるのを聞きながら、くぼずきんは三階へと続く階段を上がった。
 一歩一歩…、何かを確かめるように…。
 ギシギシと小さく音を立てる階段の軋みが、まるで何かを歪ませていくような気がして、くぼずきんは階段の途中で立ち止まった。
 「…時任」
 絶対に聞こえるはずなどない時任の声が聞こえたような気がして、久保田が時任の名を呼ぶ。だが、その呼びかけは虚しく静寂の中に吸い込まれていくだけだった。
 再びくぼずきんが階段を上り、それから三階の廊下を歩くと、その先には時任と一緒に使っていた部屋がある。くぼずきんはその部屋へ入ると、後ろ手でドアを閉めて室内を見回した。
 部屋は時任がいた時と何も変わってはいないが、床にはまだブランケットがまだ落ちたままになっている。
 あの時、時任を取り戻すことだけを考えて、それだけを想って屋敷を出たが、やはり今も時任を取り戻せないままだった。
 「すぐに行くから…、絶対にそばにいくから…」
 自分自身に向かって言うようにそう言うと、くぼずきんはドアを開けて部屋を出た。





 橘に屋敷内のことを尋ねながら、神についての文献を探していた真田達は、一階の突き当たりにある部屋の地下室の前まで来ていた。
 橘は重傷なので、自分が使っていた部屋のベッドで休んでいる。
 地下室の探索に行くことになったのは、結局、松本と真田、そして関谷の三人だった。
 「ここからあれが出てきたのか?」
 そう松本が言うと、真田がアークロイヤルをポケットから出しながら、そうだと短く返事をする。真田以外はここから肉塊が出てくるのを見てはいないが、中をのぞいてみるとあまりの不気味さになぜかここにいたと納得してしまうものがあった。
 「あたしはここで待ってるわ。汚い所は嫌いだから」
 カンテラを持って松本と真田が地下室に入ろうとすると、関谷は二人に向かって軽く手を振って見せる。なにか企んでいるのかと思わないでもなかったが、屋敷内にくぼずきんがいることを思い出した松本は、関谷を軽く睨んでから地下室へと入って行った。
 躊躇することなく入っていく松本を見て軽く口元に笑みを浮かべると、真田もその後ろに続く。地下室の中は扉が開けられてしまったせいか、真田が入った時よりは空気が清浄になっていた。
 「この壁のシミは…」
 「私の部下のものも混じっているが、おそらく以前ここに入った人間のものだろう」
 「これほど壁一面に赤黒く残っているということは、相当な数の人間がここで死んだ…、ということになるのか…」
 「怖くなったのかね?」
 「…少し気になっただけだ」
 肉塊を見た時に松本は気分を悪くしていたが、それは生理的に拒絶していただけなので、別に怖がりというわけではない。平然と地下室の廊下を照らしながら、松本は暗く冷たく続く廊下の奥へと真田とともに進んで行った。
 どこかに空気穴が空いているのか、多少息苦しくはあるものの窒息するほどではなく、ねっとりとした湿気が辺りを包んでいる。肉塊が住んでいたせいで匂いはかなりきつかったが、肉塊本体に比べたら耐えられないほどではなかった。
 地下室は思った以上に広いらしく、二人の歩く足音が遠くから反響して聞こえている。
 その音が次第に近くなってくると、明かりが照らす廊下の先に何かが見えた。
 それが何か確認するために松本が足早に進んでいくと、長い廊下がやっと終わり、部屋らしき広い空間に出る。そこには机のようなものや、ベッドらしきものが置かれていた。
 だが、そんなものがあの肉塊に必要だったとはとても思えない。
 「まさか、こんな所に誰か住んでいるのか?」
 そう呟いてさらに部屋の奥を照らすと、松本は小さく声をあげて立ちすくむ。
 カンテラの明かりに照らし出されたのは、揺り椅子に座っている一人の少女だった。
 しかし、少女は松本と真田を前にしてもピクリとも動かない。
 真田はそんな少女に向かって手を伸ばすと、その額を弾くように軽く押した。
 「やめろっ!」
 松本が止めようとして叫んだが、すでに少女の頭は後ろへガクッと落ちて冷たい石の上にゴロゴロと転がっている。頭を失った少女の身体は、揺り椅子にユラユラと揺られていた。
 少女はすでに何年も前に死んでいたのである。身体はすでに白骨化し、着ている衣服と頭部に残っている頭髪が女の子だということを知らせていた。
 「死んでしまえばモノと変わらんよ」
 石の床の上に転がる少女の頭蓋骨を見つめながら真田がそう言うと、松本は鋭い目つきで真田を睨みつける。すると真田はフッと笑みを浮かべた。
 「何か言いたいことでもあるのかね?」
 「確かに死んでいるかもしれないが、かつて一人の人間だったことには変わりない。土に還るまではどんな形にせよ、やはりそこに存在はあるはずだ」
 「それはただの感傷、というものだろう?」
 「…話すだけムダのようだな」
 「その通りだ」
 真田と松本では性格も性質も違い過ぎる。
 冷静さと判断力という面で松本はかなり秀でているが、橘のような自分の感情を完全に仮面の中に押し隠すほどの器用さはなかった。それに正義感もかなり強い。
 そんな松本の性格を見抜いた真田は、口元に笑みを刻んでいる。何かを企んでいるような真田の視線を受けながら、少女の頭蓋骨を拾い上げて少女のひざの上に乗せてやると、松本は揺り椅子の後ろの壁を調べ始めた。
 それは、そこだけ血のシミがなく綺麗だったからである。
 すると松本が睨んだ通り、壁のちょうど真ん中の部分の石がゴトッと音を立てて外れた。
 その中には三冊の本のようなものが入っている。
 赤い表紙と茶色い表紙、そして、血と汚れに塗れた何色か判別すらできない表紙の本。
 松本は少し迷った後、色の判別できない本を手に取る。
 そして、ゆっくりとそのページをめくってみると、そこには沢山の文字が書かれていた。

 『助けて、助けて、助けて、助けて・・・・・・・』

 その文字を見た瞬間、松本は思わず本を閉じる。
 本の中には、泣き叫んで助けを求めていた何者かの悲鳴が閉じ込められていた。
 この悲鳴はおそらく、揺り椅子に座った少女のものなのだろう。
 松本は後の残りの本を取り出すと、真田とともに血の匂いと闇に満ちた地下室から地上へと戻って行った。






 くぼずきんが三階から一階へと降りると、そこには真田達と文献を探していたはずの関谷が立っている。その様子からして、なぜかくぼずきんを待っていたような感じだったが、くぼずきんはそれを無視して関谷の前を通りすぎようとした。
 しかし、そんなくぼずきんの背中に関谷が声をかける。
 その手にはやはりナイフが握られていた。
 「ねぇ、聞きたいことがあるんだけど」
 「・・・・・」
 「なんで宗方は、猫ちゃんだけを連れて逃げたのかしら?」
 関谷がそう言うと、地下室へと向かおうとしたくぼずきんの足が止まる。
 すると関谷は、ナイフを手で弄びながら話を続けた。
 「くぼずきん家の当主なんて言ってたけど、もうカミサマなんて必要ないみたいね?」
 「本人に聞いてみれば?」
 「つれないこと言うじゃない」
 「アンタの相手してるほど、ヒマじゃないんで」
 「ずいぶんなご挨拶だけど、あたしが猫ちゃんの居場所に心当たりあるって言ってもそんな態度でいられるかしら?」
 時任の居場所を知っている。
 関谷の言うことが本当かどうかはわからなかったが、可能性はあるかもしれない。
 時任をさらうように宗方から頼まれたのは関谷で、宗方を魔獣の森まで連れて来たのも関谷だった。それを考えると、その発言は無視できないものがある。
 くぼずきんは振り返って関谷の方を見た。
 「話を聞く気になったみたいね」
 振り返ったくぼずきんを見て、関谷は満足そうに笑みを浮かべる。
 しかし、くぼずきんは表情をまったく変えないまま、ジーパンにさしていた拳銃を抜いた。
 「まさか、それで脅しのつもり?」
 関谷は銃口を向けられても余裕の表情を見せている。
 だが、そんな関谷に向かって、
 「脅しとかいうんじゃなくて、ちょっと思い出しちゃったんだよねぇ」
と、くぼずきんはのんびりした口調で言って薄く笑った。
 その表情を見た関谷の顔が、なぜか少しずつ強張っていく。
 くぼずきんの凍りつくような冷たい瞳は、真っ直ぐに関谷を捕らえていた。
 あまりにも冷たく、まるでそこ知れぬ闇を見ているかのような恐怖にかられ、ナイフを持つ関谷の額に汗がにじみ始める。
 関谷はくぼずきんの雰囲気に圧倒されていたが、そんな素振りを見せようとはしなかった。
 「時任にしびれ薬打ったり、さらったりした借りってまだ返してなかったなぁって…」
 「そう言えばそうだったわね。けど、今はまずいんじゃない?」
 「う〜ん、けど弾あるしついでだから」
 そんなとぼけた返事をして、くぼずきんがトリガーに指をかけた。
 すると関谷は、トリガーを引かれる前に攻撃しようと身構える。
 次第に周囲の空気が緊張し始めたが、くぼずきんのトリガーは引かれず、関谷のナイフも投げられないままに終わった。

 「何をしているんだ」

 そう言いながら地下室から戻ってきた松本が、真田とともに二人に方へと歩いてきたからである。くぼずきんの視線も、関谷の視線も、松本が持っている三冊の本に注がれていた。



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