くぼずきん.17




 宗方が森から離れていくにしたがって、魔獣達のざわめきが小さくなっていく。
 それは、この森から時任が遠くへ連れて行かれつつあるということでもある。
 くぼずきんの手が届かないくらい遠くへと…。
 だが、時任の暖かなぬくもりを感じていた自分の手のひらを見たくぼずきんは、静か過ぎる色を瞳に浮かべていた。
 連れ去った宗方へ怒りを感じているのか、それとも、時任を連れて行かせてしまった自分へ怒りを感じているのか、それはここにいる誰にも、もしかしたらくぼずきん自身にもわからないのかもしれない。
 はっきりしていることは、時任を迎えに行かなくてはならないということ。
 今、くぼずきんの頭の中にはそれしかなかった。
 『くぼちゃんだけが好き、大好き』
 そう言った時任の顔が鮮明に思い出されて、くぼずきんはすぅっと目を細める。
 …好き、大好き。
 そう時任に言われた瞬間、何かが心の中ではっきりと形になった。傍にいたい、放したくないと思っている自分の気持ちが何なのか、それが今なら理解できる。
 くぼずきんは時任に恋していた。
 出合った日から、その瞬間から、あの強い瞳にひかれていた。
 だから、追いかけることに、抱きしめることに理由などいらなかったのである。
 「…時任」
 「すまない、誠人」
 くぼずきんが時任の名を呟くと、松本がくぼずきんに向かって頭をさげた。
 だが、くぼずきんは松本と橘のことを責めるつもりはない。
 宗方の元へ行くことを決めたのは、時任自身だった。
 時任自身の決めたことだから、松本と橘が責任を感じる必要は無い。くぼずきんは松本に向かって微笑んで見せると、宗方の消えた方向へ歩き出そうとした。
 だが、くぼずきんが歩き出そうとした瞬間、橘の喉にナイフ、松本の眉間に銃口が向けられる。真田と関谷はくぼずきんをこの場に留めるため、宗方と同じように二人を人質に取っていた。
 「こんな所に、わざわざ人質になりに来るなんて物好きね」
 宗方や自分に利用されている橘を嘲笑いながら関谷がそう言うと、橘は苦しそうな息を吐きながらも優雅に微笑んで見せる。その微笑みからは、怪我に耐えている様子は微塵も感じられなかった。
 「利用されているのは貴方も同じでしょう?宗方さんがなぜ地下室の扉を開けさせたのか、その理由をお考えにはならないのですか?」
 「理由を考えるなんてくだらないわ」
 「なぜです?」
 「アタシは欲しいモノが手に入ればそれでいいのよ」
 「…それは、浅はかな考えです」
 「自分の立場を忘れてないでほしいわね」
 喉にナイフを突きつけられているというのに、橘はいつもと同じ穏やかな声で関谷と話している。
 関谷はふふっと笑うと、ナイフで橘の喉に軽く引っ掻き傷をつけた。
 「そこに突っ立ってるのあなたのカレシ?」
 「・・・・・」
 「ふぅん、結構カワイイわね。あなたよりアタシ好みだわ」
 「年下が好みなのですか?」
 「腰の細い男が好みなのよ」
 松本に視線を這わせている関谷に、橘の顔色が変わる。
 関谷に舐めるように見られている松本は、額に汗を浮かべていた。
 「ねぇ、出雲会の支部長サン。アタシの人質とそっちの人質交換してくれないかしら?」
 関谷が真田に人質交換を持ちかけると、真田はふっと笑みを浮かべて橘を見る。
 橘をしばらく見つめた後、真田は小さく肩をすくめた。
 「私はクセのあるのが好きなのでね。そちらの方が好みだ」
 「あら、話せるわね」
 「この件に限ってだがな」
 「それはアタシも同じよ」
 橘と松本の意思を無視して、真田と関谷の間で交渉が成立する。どうやら人質として利用するだけではなく、他の用途でも橘と松本を使おうとしているらしい。
 橘は唇を噛みしめると懐に手を伸ばす。
 だがその手は、関谷によって止められてしまった。
 「ムダなことはしない方がいいわよ。カレシの命が惜しいならね」
 「あの人に何かしたら殺します」
 「あははっ、いいわねそういうの。反吐が出るほど嫌いだわ」
 関谷は橘の頭を数回殴りつけると、真田の方に向かって背中を強く押す。
 すると眉間に銃を突きつけたまま関谷の方へ行くように松本に言うと、真田は倒れてきた橘の身体を抱きとめた。
 「橘っ!!」
 「撃たれたくなければ早く行きたまえ」
 真田の銃口は、今度は松本ではなく橘に向けられている。この状況ではどうすることもできず、松本は拳をぎゅっと握りしめると関谷の方へ歩いて行った。
 「こちらへいらっしゃい。おとなしくしてたら、優しくしてあげるわ」
 「…貴様に優しくされたくなどない」
 「あらそう?」
 松本が関谷の元に行くと、関谷は松本の顎に手を伸ばす。
 そして、睨みつけている松本の視線に自分の視線を絡ませると、関谷はニヤリといやらしく笑った。
 関谷の不快な視線は、松本を性的対象として捕らえていた。
 「ゲス野郎」
 「そう言ってられるのも今の内だけよ」
 「貴様に抱かれるくらいなら、死んでやる」
 「せっかく助けてもらった命なのに、そんなことできないわよね。あはっ、かわいそうに」
 「…覚悟はしている」
 「そんなに死にたいなら、バケモノの捕獲がすんでからアタシが殺してあげるわ。死ぬほど犯してね」
 松本は関谷に、橘は真田の手に落ちている。
 くぼずきんは獣の気配が近くから消えるのを感じながら、じっと宗方の消えた方向を見続けていた。
 今すぐにでも時任を追いかけて行きたかったが、時任の気持ちを考えると追えない。
 もしここで跡を追ったら、きっと時任が苦しむ。
 それがわかっているから、どうしても追えなかった。
 くぼずきんは深く息を吸い込んで長く息を吐くと、関谷の部下から奪っておいた銃弾を拳銃に込め始める。その様子を見た真田は、何か様子がおかしいことに気づいて久保田の方を見た。
 するとくぼずきんは弾を充填し終わった拳銃の銃口を真田でも、関谷でもない、まったく別の方向に向ける。
 そこには静かな森が広がっているだけだった。
 「どうかしたのかね? くぼずきん君」
 そう真田が尋ねると、くぼずきんは真田の方を見ずにポケットからセッタを取り出して火をつける。
 ずっと戦闘を続けていたので、ポケットに入っていたセッタは少しだけ曲がっていた。
 「実はちよっと思い出したことあるですよねぇ」
 「思い出したこととはなにかね?」
 「昔のコトなんで記憶薄いんですけど、もしかしたら俺って屋敷の地下に入ったことあるかも…」
 「ありえない話ではないが、なぜ今ごろ?」
 「さぁ?」
 なぜ、今になってくぼずきんが屋敷のことを思い出したのか?
 それはくぼずきん自身にも良く分からないが、時任が宗方に捕らえられて森へと消える瞬間、何かがくぼずきんの脳裏で閃いた。
 その瞬間、くぼずきんは以前似たようなことがあったような気がしたのである。
 太陽の光など届かない暗がりで、誰かが何者かに捕らえられているシュチュエーション。
 それに向かって伸ばされた今よりずいぶん小さな自分の手に握られた拳銃。
 くぼずきんはくわえたセッタの灰を地面に落すと、森を見つめたまますぅっと目を細める。
 真田達が見守る中、森がざわざわと再びざわめき始めた。
 このざわめきは、普通のざわめきではない。
 何かに怯えたように、森が魔獣たちが悲鳴を上げているようなそんな気配がする。
 「皆さんお待ちかねの神サマが来たみたいよ?」
 くぼずきんがそう言うと、ザザザッと音を立てて近づいてくる何かが見えた。
 その何かは尋常ではない速さでくぼずきん達のいる場所に近づいてくる。
 真っ直ぐ確実にこちらを目指して…。
 そのよどみのない動きは、まるで本当にここを目指して動いているようだった。
 ここにいるくぼずきんを含めた五人が見守る中、その何かは森の中からくぼずきん目がけて飛び出してくる。 それはやはり、真田の見た赤黒い不気味な、吐き気がするほど醜悪な肉塊だった。
 「うわぁぁっ!!」
 あまりの気持ち悪さに松本が叫び声を上げる。
 しかしくぼずきんは肉塊を見ても眉一つ動かさず、飛び出してきた肉塊に向かって銃弾を打ち込んだ。

 ガゥンッ!ガゥンッ!ガウン・・・・・!!

 銃声が森に鳴り響き、くほずきんに続いて真田も肉塊に向かって発砲する。
 たが、肉塊は銃弾を受けても少しもダメージを受けていないようで、ベタリとした肉片を散らしただけだった。
 腐臭があたりに立ち込め、くぼずきん以外の全員が手で口と鼻を押さえている。
 太陽の光に照らされた肉塊は生き物のように動いていたが、完全に腐り切っていた。
 肉塊から所々ボコボコと出ているのは、真田の部下達か何かの残骸だろう。
 「死なないってところが魅力的だわ。醜いモノは嫌いだけど」
 関谷がそう言うと、真田がふっと笑みを浮かべる。
 真田と関谷は、この姿を見てもまだ肉塊を利用することを考えているようだった。
 松本は肉塊を正視することができず、下を向いて必死で吐き気をこらえている。橘は真田の胸に抱きとめられたままの状態で、苦しそうに息を吐きながら肉塊を見ていた。
 真田達の思惑はどうあれ、この肉塊を捕らえることは容易ではない。肉塊は真田が見た時よりも大きくなってる上に、ダメージを与えて弱らせることも不可能だった。
 だが、実はそれよりももっと不可解なことがある。
 それは肉塊が攻撃を加えようとしているのは、真田でも関谷でもなければ、橘でも松本でもなく、ただ一人、くぼずきんだけに向かって攻撃をしてきていることだった。
 まるで何か恨みでもあるかのように…。
 肉塊はまるでくぼずきんを殺すために、あの暗がりから出てきたかように見えた。
 「これはどういうことなのかね?」
 襲い掛かってくる肉塊を避けながら銃弾を打ち込み続けるくぼずきんに向かって真田がそう尋ねると、くぼずきんは口の端を吊り上げて口元に笑みを刻む。
 くぼずきんは肉塊と戦いながら、感情のない乾いた笑みを浮かべていた。
 「むかーし、むかし、そのむかし。カミサマ殺したのって俺だったみたいなんですけど?」
 そう言ったくぼずきんに、その場にいた全員がいっせいに視線を向ける。
 その視線を受けたくぼずきんは、見る者を冷たく拒むような笑みを浮かべたまま神の残骸にひたすら銃弾を打ち込み続けていた。



                        戻 る            次 へ