くぼずきん.16
いつも真っ直ぐ前を向いていた時任の瞳が、ゆっくりと横に逸らされる。
その怯え方は、誰の目から見ても異常だった。
時任の頭の上に付いている耳までが小さく震えている。
そんな時任の様子を横目で見たくほずきんは、時任の顔をそっと覗き込んだ。
「どしたの?」
「べ、別に…なんでもねぇよ」
「そう?」
あきらかに時任の様子がおかしいのにも関わらず、くぼずきんはそのことについて追求しない。それどころか、まるで時任を見つめている男の存在を感知していないようにも見えた。
時任はくぼずきんの腕に頭を押し付けて、何かに耐えるような表情をしている。くぼずきんは片腕を伸ばして時任の身体を支えるように抱くと、もう片方の腕を懐に差し込んだ。
「ホント、今日は暑苦しいなぁ」
「くぼちゃん?」
くぼずきんの言葉に時任が首をかしげたのは、くぼずきんが言うほど今日は暑くなどなかったからである。けれど、懐から出された拳銃の銃口がある方向に定められた瞬間、時任以外の全員がその言葉の意味を知った。
真田と関谷がフッと笑い、橘と松本がじっとその様子を見守る中、くぼずきんは時任を見つめたまま標的を見もせずに拳銃を構えている。
拳銃の照準先にいる人物。
それは時任を怯えさせている男だった。
「こっちに来るんだ、ミノル」
くぼずきんが男の存在を感知していないように、男の方もくぼずきんの存在を無視して時任に呼びかける。その様子がとても自然だったため、見ているとかなり奇妙な感じがした。
くぼずきんも男も時任しか見ていない。
けれど二人からの視線に、時任は怯えたまま何も答える気配がないのである。
次第に空気が緊張の色を帯びていく中で、その緊張の糸を切ったのは重症を負っている橘だった。
橘が男の顔を見た瞬間、あっ、と小さな声を出したのを傍にいた松本が聞いている。
橘は怪我のせいで苦しく上がってくる息をどうにか押さえると、
「何をするためにここに? 貴方は一体何者なのですか?」
と、自分に屋敷のカギを渡した男に尋ねた。
すると男は冷たい微笑を浮かべて橘の方を向く。
その顔は真田も感じているように、どことなく橘の知っている誰かに似てた。
「僕にカギを渡し、出雲会と東条組まで動かして、貴方は何をするつもりなのです?」
橘が核心をつく問いかけをすると、男はくぼずきんと同じように拳銃を懐から出し標的を見もせずに拳銃を構えた。その銃口の先にはやはりくぼずきんがいる。
男は橘に感情の読めない笑みを浮かべて見せると、橘の質問にゆっくりと答えた。
「今は宗方と名乗っているが、そう名乗る以前、くぼずきんと呼ばれていたこともある。くぼずきんの名は不要だから捨てた名だ」
「…それではまさか貴方は」
男は宗方と名乗った、だが以前はくぼずきんと呼ばれていたと言う。
それがもし本当だとするならば、この男は屋敷を逃げ出したと言われているくぼずきん家の当主ということになる。
誰かに良く似た瞳を見ながら、橘はわずかに目を見開いた。
「なるほど、くぼずきん家の当主なら魔獣のことを知っていても当然というわけだな」
「あまり意外性はないわね」
真田と関谷は、宗方がくぼずきん家の当主と知っても驚いた様子はない。
二人は目的さえ果たせれば、それ以外のことは気にしないタイプである。
だが、真田は別のことで宗方に興味を覚えたようだった。
「なるほど、似ていると思ったのは錯覚ではなかったわけだな」
真田がそう言うと、宗方はここに来てから初めてくぼずきんに視線を向けた。
だが、その視線は冷たくも暖かくもない。
まるで道端に落ちている石でも見るような視線には、なんの感情もこもっていなかった。
「似ているかどうかは知らないが、記憶にないな」
「ほう、自分の息子を知らないと言い切るのかね?」
「そんなものを持った覚えはない」
「なるほど」
宗方はくぼずきんの存在を完全に否定していた。
だが、真田と宗方の会話を聞いてもくぼずきんは顔色一つ変えず、まるでくだらないモノでも見るかのような視線を宗方に向ける。
すると、二人の乾いた視線がお互いを捕らえた。
さすがに親子というだけあってどことなく容姿は似ていたが、持っている雰囲気が違っている。そんな状況の中、時任が何か言いたそうな瞳でくぼずきんの顔を見上げ、それに答えるようにくぼずきんも時任に視線を落した。
「…くぼちゃん」
「平気?」
「へーき、だけど…」
「あれって時任の知り合い?」
「たぶん…、知らないと思う。けど、くぼちゃん…、あれって…」
「俺も知らないから」
「・・・・・」
「父親の顔って記憶にないんだよね。だから、知らないモノはわかんないっしょ?」
「それはそうかもだけど」
「俺ってあの屋敷に住んでた時、いないって設定にされちゃってたんだよね。誰も話しかけないし、見ないし、完全空気状態。けど、そういうのはどーでもいいんだよねぇ。別に何もいらないから」
「くぼちゃん」
「なに?」
「俺のコトもいらないって、どうでもいいって思ったりすんのか?」
時任がそう言いながらじっとくぼずきんの瞳を見つめると、くぼずきんはその瞳を見つめ返して優しく微笑む。その瞳は宗方に向けられたものとは比べものにならないくらい優しかった。
「俺のそばにいて、俺の方を向いててよ、時任」
「くぼちゃんも俺のそばにいて、俺の方を向いてろっ!」
くぼずきんと時任が、お互いの気持ちを言葉で伝え合って確かめ合う。
そんな二人を見ている宗方は、暗い瞳をしていた。
「まさか、僕から逃げられるとでも思っているのか?」
宗方が時任に向けてそう言うと、時任は久保田の左手を右手でぎゅっと握りしめて宗方を鋭い瞳で睨みつける。さっきとは違って、その瞳にはもう怯えの色はなかった。
「さっきからうるせぇんだよっ! 誰がてめぇのモンだって!? 俺は俺のモンに決まってんだろっ、バーカ!」
「相変わらず生意気な口をきく」
「俺はてめぇなんか、知らねぇんだよ!!」
「知らないはずはないだろう? あんなに可愛がってやってたのに」
「なに言ってやがるっ!」
「忘れたなら思い出させてやろう。その身体の…」
宗方が時任に向かって言いかけた言葉が途中で途切れる。
言葉を途切れたのは、くぼずきんが宗方に向かって拳銃を発砲したからだった。
くぼずきんは急所である額を狙ったのだが、奇跡的に宗方が弾丸をさけたせいで頬にかすり傷程度に留まっている。
だが、宗方と同じようにくぼずきんの頬にも弾丸がかすった跡があった。
「ミノルから離れろ、誠人」
「俺の名前知ってるなんて、意外だなぁ」
呼ばれると思っていなかった名を宗方に呼ばれて、くぼずきんは別にうれしそうでもなくそう言う。
どちらかと言えば、呼ばれて不快そうだった。
「お前がくぼずきんを名乗っていたとしても、現当主は私だ」
「それが何?」
「権限は私の方が上だということだよ」
宗方はそう言うと、さっきくぼずきんがやったのと同じように森の魔獣に呼びかける。
すると魔獣はくぼずきん達がいる一帯を取り囲んだ。
魔獣はくぼずきん家の人間に従う。
だが、本当の意味で魔獣達が服従しているのはくぼずきん家の当主だった。
「ミノルを連れ戻すことが目的なのでね。後はそちらのいいようにしてくれればいい」
宗方は真田と関谷に向かってそう言うと、再び時任の方に視線を向ける。
時任は思い切り顔を顰めて、
「誰がてめぇんトコなんか行くかっ!!」
と、宗方に向かって怒鳴る。
だが、どう考えても時任の置かれている状況はかなり不利だった。
いくら時任とくぼずきんでも、橘と松本を守りつつ魔獣の群れと戦うのは難しい。
時任はきつく唇を噛みしめたが、くぼずきんは平然とした顔でさっきと同じように宗方に銃口を向けていた。
「無駄なことだ」
周囲から魔獣の呻き声が響く中、再びくぼずきんと宗方が対峙している。
宗方は無駄だと言ったが、くぼずきんは迷うことなく宗方に向かって引き金を引いた。
ガゥンッ…!!
だが、銃口から放たれた弾丸は宗方には当たらなかった。
弾丸は宗方をかばうように草むらから飛び出してきた魔獣に当たっていたからである。
宗方はフッと笑みを浮かべると時任に向かって手を伸ばした。
「おいで、ミノル」
「気安く名前呼ぶなっ!」
「状況はわかるだろう? ここにいる人間の命はお前にかかってるんだよ?」
「・・・・・・くっ!」
まるで宗方の意思を読み取ったかのように、魔獣が橘と松本に背後に迫ってくる。
それを感じた時任は、ぎゅっと拳を握り締めた。
だが、そんな時任を見たくぼずきんは橘と松本の方を向いて、
「運が悪かったと思って、あきらめてくんない?」
と、信じられないようなことを言う。
それを聞いた時任は、ぐっとくぼずきんの袖を引っ張った。
「くぼちゃん…」
「うん?」
「やっぱ、俺行くから」
「・・・・・・」
「だからさ、だから…」
時任はそこまで言うと、精一杯つま先立ちして背伸びをする
すると、時任とくぼずきんの背の差が縮まった。
息が触れるくらい近くで、時任の瞳がくぼずきんの瞳を見つめる。
その瞳には強い意志と、哀しい色が浮かんでいた。
「俺のコト迎えに来てくんない? 待ちきれなくて逃げ出すかもしんないケド、くぼちゃんが俺のコト見つけてくれんのちゃんと待ってるから…。ずっとずっと待ってるから」
「時任…」
「くぼちゃんだけが好き、大好き」
時任は涙で潤みそうになる瞳をそっと閉じると、くぼずきんの唇に自分の唇を押し付ける。
こらえ切れなかった涙が頬を伝って、時任が必死の思いでしたキスは涙の味がした。
くぼずきんは時任のキスを受け止めると、きつく時任を抱きしめようとする。
だが、時任はすぐに唇を離すと、くぼずきんの腕からするりと抜け出した。
「続きはつぎ会った時にすっから!」
始めてのキスは哀しい味がした。
時任がくぼずきんの方を振り返らずに走り出すと、宗方はくぼずきんに向かって冷たく微笑みかける。
するとくぼずきんは、殺意をかくすこともせずに真っ直ぐ宗方を睨みつけた。
「殺したければ殺しにくるがいい」
宗方はそう言うと、走ってきた時任の腕をグッと引っ張って自分の方に引き寄せる。
時任はギッと宗方を睨みつけたが抵抗はしなかった。
「いい子だ、ミノル」
「殺してやる…」
宗方は時任に気づかれないように懐から注射器を取り出すと、慣れた手つきでその腕に突き立てる。
注射器の中には麻酔薬が多量に入っていた。
「おやすみ」
「うっっ…」
即効性の睡眠薬のせいで時任が意識を失うと、宗方はその身体を大事そうに抱き上げた。おそらく、このまま時任を連れて山を降りる気なのだろう。
その様子を見ていた橘が小声で『すいません』と時任に詫び、松本がなぐさめるように橘の肩を抱いている。お互いに一人なら、時任に行くなと言えるのだが、橘は松本を、松本は橘を死なせるわけにはいかなかった。
そんな橘たちの事情とはまったく関係のない真田は、宗方に抱きかかえられた時任を見ていやらしい笑みを浮かべると痛む肩を手で撫でる。そこにはやはりまだ痛みが残っていた。
「まかせてもらうのは構わないが、一つ質問に答えてくれないかね?」
真田が宗方にそう尋ねると、宗方は時任から真田に視線を移す。
その瞳はやはり感情の読めない色を浮かべていた。
「質問とは?」
「あの肉の塊…。不気味なモノの正体は何だ?」
肉の塊という表現に、くぼずきん以外の全員が眉をひそめる。
しかし、その言葉を聞いた宗方はおかしくてたまらないという風に低く笑った。
「肉の塊とはいい表現だ。しかし、あれはただの肉の塊ではない。あれは魔獣の生まれる元と言ってもいい存在だ」
「あれから魔獣が生まれるとでも言うつもり?」
今度は真田に変わって関谷がそう言うと、宗方は関谷の方に視線を向ける。
関谷はいつもと変わらない表情をしていた。
「ここの土地はあの肉塊に汚染されている。魔獣の森だけでなくその周辺も」
「汚染されてるってどういうことなのかしら?」
「呪いとか祟りとかそういった類の猛毒に犯されているのだよ、この土地は。あれはただの肉塊じゃないと言っただろう?」
「肉塊って何よ?」
宗方が何を言おうとしているのかわからず、関谷がそう聞き返す。
すると宗方はまるで歌うように、
「あれは神の残骸だ」
と言って、気を失っている時任の額に唇を落した。
その不快な感触を感じたのか、時任がわずかに身じろぎする。
宗方はそう言い残すと、時任を抱きかかえたまま、木々がざわめき魔獣が吠える森の中へと消えていった。
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