くぼずきん.14
魔獣の森はまるで何かに怯えているように、木々がザワザワと葉を揺らせている。この森を覆い尽くす程の凄まじい何かの気配は、次第に大きく広がってきていた。
こちらに向かってくるだろう何かに警戒するように時任が耳をピンと立てていると、何者かの足音がこちらに近づいてくるのが聞こえる。一瞬、また東条組の手の者か何かと思って時任が身構えると、くぼずきんがその肩にそっと手を置いた。
「くぼちゃん?」
「あれはたぶん、俺も時任も知ってるヒト」
くぼずきんの言う通り、二人の方に向かって歩いてきたのは重症で入院しているはずの橘と松本だった。
傷がかなり深かったので今動くのはかなり危険だと思われたが、それでも橘は松本に支えられて歩いている。おそらく気力だけで歩いているのだろう。
橘は汗の浮かんだ額を拭う余裕すらないというのに、くぼずきんと時任を見て傷のことなど感じさせないくらい優雅に微笑んで、
「お二人とも、無事で何よりです。もっとも、くぼずきん君が助けに行ったのですから、無事で当たり前なのだと思いますが」
と、二人に向かって言った。
すると時任は、握っていたくぼずきんの手を離して両手を腰に手を当てる。
どうやら、くぼずきんが来てくれたのはうれしかったが、成す術もなく捕まえられて連れ去られたことに、少々プライドが傷ついてしまっているらしかった。
「確かにくぼちゃんは強ぇけど、世界最強は俺様だってのっ!」
「ふふふ、確かに強そうですね」
「そんなの当たり前。俺様は強くてカッコイイに決まってんじゃんっ」
「その耳もシッポもステキですよ」
橘に褒められて気を良くしている時任の耳や尻尾を見ながら、くぼずきんはぼんやりした口調で、
「カワイイの間違いだと思うけどなぁ」
と、突っ込みを入れる。
だが、それを聞いていたのは橘に付き添っている松本だけだった。
「確かに可愛いと言えば可愛いが…」
「あげないよ?」
「…俺が欲しがるとでも思ってるのか?誠人」
「そういえば松本って受けだったよねぇ?」
「それとこれと何の関係があるんだっ!!」
「あると思うけどなぁ」
「・・・・・・一体、何の話だ」
橘と松本が合流したことでいったんその場の雰囲気は和んだが、やはり張り詰めていく空気に耐え切れず、時任は手を伸ばしてくぼずきんのコートの端を掴む。くぼずきんはそんな時任の頭を撫でてやりながら、怪我を押してまでやってきた橘の方を向いた。
「で、用件は?」
そうくぼずきんが言うと、橘は苦笑しながら自分の額にかかった髪を手で払う。
さすがに怪我が辛いのか、橘の顔がわずかに歪み始めていた。
「僕はここに来る前に、ある人物から屋敷のカギともう一本のカギを受け取りました。その人がなぜ僕にそんなものを渡したのかはわかりませんが…」
「ココに来た目的は、カギをもらったってだけじゃないよね?」
「確かに貴方のおっしゃる通り、僕の目的は屋敷ではありません。僕にカギを渡した人物に言われた言葉が本当かどうか確かめるために来ました」
橘はそこでいったん言葉を切ると、粗く息を吐く。
そして息を整えてから再び口を開いた。
「『神に会いたくはないか?』。僕にカギを渡した人物はそう言ったのです」
橘の口から意外な言葉が出て、松本は思わず橘の横顔を凝視する。
けれど時任は別に驚いた様子もなく、軽く肩をすくめた。
「カミサマって、そんなモンいねぇんじゃねぇの?」
「ん〜、そおねぇ」
やはり、くぼずきんも時任と同じく神に興味がないらしく、橘のセリフを聞いても何の反応も示さない。けれど橘はそんな二人に向かって、神についての話を始めた。
「ここに来たのは単なる好奇心でしたが、屋敷のあの地下室の入り口の前に立った瞬間、僕は何かがあの中にいることを確信しました。ですが、神がいるという言葉を鵜呑みにはしていなかったので、あの扉を開くよりも先に情報収集したのです。そうしたら、神がこの山にいたという古くからの言い伝えが残っていることがわかりました。しかし、現在裏組織がこの山に集結している理由は、最強の魔獣の情報を聞きつけて来たからです。神と魔獣。この二つにはまるで接点がないように思えますが、言い伝えを調べていくとまったく関係ないとも言えませんでした」
口の堅い村人から橘が執拗に尋ねて聞き出した話は、この山に神様が住んでいるという話だった。昔ではなく、今現在も…。その姿を見た者はいないようだが、皆一様にして神を崇めているのではなく、恐れているような様子なのである。
けれど、魔獣については恐れてるというよりも、忌み嫌っているという感じだった。
「不思議なことに最強の魔獣がいると言われている森の周辺では、そんな噂も言い伝えも聞いたことがないそうです。なのに、魔獣の情報が流れているのは明らかにおかしい。確証はありませんが、誰かが故意に噂を流して出雲会と東条組を動かした可能性があると考えるのが妥当でしょう」
橘がそこまで言うと、くぼずきんは感情の読めない退廃的な笑みを浮かべて、しまっていた拳銃を取り出す。そして、あと二発しか残っていないそれに弾を補充し始めた。
「カミサマだが魔獣サンだか知らないケド、あそこからお引越ししてもらわないとね」
「引越しって…、何をするつもりですか?」
くぼずきんの発言に橘が驚いてそう呟く。
するとくぼずきんはそれには答えずに、横にいる時任に優しく微笑みかけた。
「あの屋敷ってすいぶん古いからさ。掃除しなきゃ住めないみたいなんだけど?」
「掃除しなきゃダメならするしかねぇだろっ」
「手伝ってくれる?」
「仕方ねぇから、手伝ってやるよっ」
くぼずきんと時任は、まだ地下にいるのが何なのかわからない内から、その何かと戦う気でいるような様子である。その二人の様子に驚いた橘と松本は、お互いの顔を見合わせてから二人に戦うことをやめるように説得し始めた。
「神がいるにしてもいないにしても、おそらく戦うのは無理です」
「神だったとしても、魔獣だったとしてもどちらでも同じことだ。あまりにも危険すぎる」
だが、くぼずきんと時任はそんな二人の言葉を真剣に受け止めた様子はなかった。
時任は一歩前に出てくぼずきんの前に立つと、ビシッと人差し指を橘と松本に向かって突きつける。するとその後ろから、くぼずきんが片腕を首の辺りに回した。
「カミサマだろうとマジュウだろうと、そんなのは関係ねぇんだっつーのっ! あそこは俺らの家だから、関係者以外は立ち入り禁止っ!」
「下宿とかそういうの募集してないしねぇ?」
「そういうことっ」
二人の主張に、橘と松本は返す言葉を見つけられないでいる。神と聞いただけで、まるでその言葉の呪縛に捕らえられてしまっているかのように萎縮してしまう橘と松本と違って、くぼずきんと時任はその言葉に何も感じていないようだった。
「行くよ、時任」
「おうっ」
とにかく、今回の騒ぎの大元を叩かなくてはこの状態に終わりは来ない。
二人はまだ何か言いたそうにしている橘と松本に背を向けると、屋敷に向かって歩き出す。
だが、その前方から黒い人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「またなんとか組のヤツか?」
そう時任が尋ねると、くぼずきんはその人影を見て目を細める。
どうやらくぼずきんは、その人影に見覚えがあるらしかった。
「ん〜、組じゃなくて、なんとか会のヒトみたいよ?」
「似たようなモンじゃねぇかっ」
そんな風に話している内にその影は大きくなり、やがて誰の目にもその姿が判別できるようになった。こちらに向かってくる何者かは少しふらついているので、怪我か何かをしているらしいことがすぐにわかる。
黒いスーツにきっちりと撫で付けられた髪、その人物の唇には酷薄な笑みが浮かんでいた。
「やはり戻って来たかね?」
そう言って二人の前に立ったのは、屋敷の地下にあるカギを開けるために森に入ったはずの真田だった。真田は負傷してはいるものの軽症らしく少し足を引きずっている程度で、その表情にも余裕が見られる。
そんな真田を見た時任が爪を出して瞳をすうっと細めたが、くぼずきんはのほほんとした表情で真田を見た。すると真田は、くぼずきんの視線を受けてフッと笑った。
「君が望むならこんな場所ではなく、もっといい場所に屋敷を建ててもいいがどうかね?」
「遠慮しときます。家は一軒で十分なんで」
「ほう、君があの家を欲しがるとは意外だな」
「そんな意外でもないですけど?」
「君の飼い猫のためかね?」
「さあ?」
くぼずきんがあの家にこだわっている理由は、ワイルド・キャットである時任が、少しでも人目を気にせずに暮らせる場所が欲しかったからである。そんなくぼずきんの意外な一面を見た真田は、くぼずきんから時任に視線を移した。
「気色悪りぃから見んなっ! クソ野郎っ!」
「ほぉ、前に会った時より色気が出てきたようだ。くぼずきん君にずいぶん可愛がってもらっているようだね」
「ワケのわかんねぇこと言ってんじゃねぇよっ!」
「くぼずきん君と一緒に私のところに来ないかね? くぼずきん君以上に君のことを可愛がってあげよう」
「…やっぱてめぇは死ね」
そんな風に時任と真田が睨み合いをしていると、すうっとその横から橘が二人の間に割って入った。ハッとして時任が橘を見ると、同じように真田も橘を見る。
橘は松本が支えようとするのを断わって、自分の足で立っていた。
「貴方は、屋敷のカギを開けに行ったのではなかったのですか?」
そう橘が尋ねると、真田は苦笑して怪我をしているらしいわき腹を押さえる。
どうやら見た目よりは負傷しているらしかった。
「カギは開けたがね。不覚にも逃げられてしまったよ」
「…逃げたのは何です? 魔獣ですか?」
「・・・・・・・」
「それとも神ですか?」
村に伝わる、森に住むという神。
真田の見たものが神だったかと聞いた橘の言葉に虚をつかれたように、一瞬、真田の笑みが固まる。たがその次の瞬間、真田は低く声を立てて笑い始めた。
「もし、神という名が付いていたとしても。あの醜悪なモノを、果たして君は神と呼べるかね?」
真田の見たモノ。
それは神と呼ぶには程遠いほど醜悪で、魔獣と呼ぶにはあまりにも異様な存在だった。
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