くぼずきん.13




 軍事用に育てられた魔獣の爪や牙が血に染めていくのを、関谷はいつも凍りつくような微笑を浮かべて見ていた。関谷にとって魔獣とは、自らの野望のために利用するただの道具にしかすぎなかったからである。
 東条組に在籍はしているが、ただの幹部で終わるつもりはなかった。
 誰よりも上に、誰よりも高い位置に立つことが関谷の望みなのである。
 東条組と出雲会は縄張りをめぐって小競り合いを続けていたが、裏ルートから軍事用に飼われていた魔獣が流れ込んできたため、争いの様相はずいぶんと変化していた。
 より強い魔獣を手に入れた方が闇の支配者になれる。
 いつの間にか、誰もがそんな風に囁くようになっていた。
 くぼずきん家に住まう魔獣。
 関谷がくぼずきんの屋敷から逃げた魔獣の話を聞かされたのは、久保田誠人がマーケットを一つ潰した時の騒ぎが、やっと完全に収まった頃だった。
 「君は、最強の魔獣の話を聞いたことはあるかい?」
 そんな風に魔獣を売買しているマーケットで関谷に話しかけてきたのは、ひと目で只者ではないとわかるほど、異様な雰囲気を纏った男で、関谷はその男を見て警戒しつつ眉をひそめる。だが男は感情の読めないまるでポーカーフェイスのような笑みを浮かべると、一枚の写真を関谷の前に差し出した。
 その写真には見ただけで引き込まれてしまうような強い瞳が印象的な一人の少年が写っていたが、その少年はあきらかに人間ではない。関谷が写真を眺めていると、男は関谷の耳元でこう囁いた。
 「この猫を探し出すことができたら、君に魔獣の居場所を教えてあげよう」
 この怪しい男を信じたわけではなかったが、くぼずきん家から魔獣が逃げ出したという噂があるのは事実である。関谷は不審に思いながらも、この宗方と名乗る男のいう通り写真に写っている猫を届けようとしたのだった。
 不確かな情報でも、ないよりあるほうがマシだというのもあるが、この宗方という男から発生する引力のようなものに引かれたのかもしれない。
 関谷はくぼずきんと時任にまんまと逃げられた後、仕方なく取引相手である宗方のの待つ駅で下車した。
 だが、時任を連れていないので当然取引などできるはずはない。
 しかし関谷は慌てることなく、余裕の表情で宗方の前に立った。
 「猫の捕獲に失敗したと聞いたが?」
 宗方が時任を逃がしたことを言うと、関谷は少しも動じずに、
 「部下に後を追わせてるけど、どうやら行き先は魔獣の森らしいわね」
と、軽く肩をすくめて言う。
 すると宗方も取り逃がしたことを追求せず、ふっと笑みを浮かべた。
 「なるほど。やはり、故郷というのは恋しいものらしい」
 「そう言う貴方はどう? 故郷が恋しくなることがあるのかしら?」
 「今、自分の立っている場所が故郷だ。恋しくなどなりはしない」
 「ふふふ。貴方は一体何者なの?」
 「知りたければ調べろと言ったはずだが?」
 宗方は正体だけではなく、何もかもがつかめない男だった。
 だが、どうやら魔獣の森、もしくはくぼずきん家と関係のある人物らしい。
 なぜ時任を捜しているのかは不明だが、何かしらやはり理由があるのだろう。
 ワイルドキャットとしての時任ではなく、宗方は時任自身に執着しているようにも見えた。
 「一緒に来るでしょう? 魔獣の森へ」
 「そのために来たのだからな」
 関谷は謎の男、宗方とともに用意されていた車に乗り込む。
 だが、車が発進しようとした時、出雲会の真田が病院を襲撃し、魔獣の森へと向かったという情報が部下の口から関谷に耳に入ったのだった。






 いくら倒しても数が減らない。
 線路を歩いて魔獣の森へと向かっていたくぼずきんと時任の前に、関谷が差し向けたと思われる男達が立ちはだかっていた。実力の差が大きすぎて、とても敵と呼べるような奴らではなかったが、その数に二人ともさすがに少々疲れの色が見え始めている。
 その数は、魔獣の森に近づけば近づくほど増えていた。
 「なんだよっ、コイツらっ!!」
 「ヒマしてたから、遊びに来てくれたんじゃないの?」
 「俺様と遊ぼうなんて、10億年早いぜっ!」
 「時任、そっちのヤツ倒してくれる? 弾切れちゃったから」
 「まかせとけってのっ!」
 時任の爪が、襲ってきた男達の前で美しい曲線を描く。
 その動きは人間の目では追い切れないないほど早く、そして思わず見惚てしまうほど見事だった。息は上がってきていたが、それでもまだ人間が叶うようなレベルの強さではない。
 時任の前で血しぶきが上がると、くぼずきんが素早く倒れた男の持っていた拳銃を奪い取った。相手は銃器を装備しているので、やはり戦う上で拳銃は必要不可欠である。
 くぼずきんは倒した相手の拳銃を使って、戦いを続けていた。
 「う〜ん、さすがにこれはどうにかしなきゃだねぇ?」
 「どうすんの?くぼちゃん」
 「あまりやりたくないんだけど、しょうがないなぁ」
 くぼずきんは面倒臭そうにそう言うと、拳銃を降ろしてすぐ目の前に広がっている魔獣の森に視線を向けた。
 黒く広がる魔獣の森は、血生臭い空気の中でひっそりと沈黙を守っている。
 だが、くぼずきんが魔獣の森を見た瞬間、森からザワザワとしたざわめきが波のように周囲を包んだ。その異様なざわめきに、その場にいた全員が森の方へ視線を向ける。
 森からのざわめきは確実にこちらへと近づいてきていた。
 「な、なんだこの音はっ!?」
 「いや、待て! これは音じゃないっ!!」
 最初は木々のざわめきのように思えたが、音が近づくにつれてそうではないことがわかる。
 ざわめきが咆哮に変わった瞬間、くぼずきんの唇が、声もなく何かの言葉を刻んだ。
 「みんな逃げろっ!! 魔獣の群だっ!!!」
 森からやってくる何かに最初に気づいた男がそう叫んだが、全員が逃げる体制になる前に、森からあらわれた魔獣たちが男達に襲い掛かる。たった二人にすら叶わなかった者達が、野獣の群相手に敵うはずなどなかった。
 魔獣の森に住まう者達すべてを相手にして勝てる者など、ここには存在しない。
 くぼずきんを敵にまわすということは、魔獣の森を敵に回すのと同じことなのだった。
 「ぎゃぁぁぁあ!!」
 「ぐおぁぁぁっ!!!」
 悲鳴と叫び声が辺りに木霊し、大地は血に濡れ、恐怖と絶望がこの空間を包む。
 生暖かい嫌な感触をした空気が、くぼずきんと時任の頬を撫でた。
 しかし、くぼずきんも時任もこの光景から目をそらしてはいない。
 くぼずきんはいつもと同じ瞳で、時任はあるがままを捕らえるかのような真っ直ぐな瞳で、この血の饗宴を見つめていた。
 「くぼちゃん」
 「なに?」
 「…コイツらさ。自分の意思でやってんの?」
 「呼びかけただけで強要はしてないよ?」
 「ならいい」
 「うん」
 くぼずきんは魔獣達に命令はしなかった。
 ただ森を見つめ、森の大気に向かって、森を、自分達の住まう場所を守りたいと思うなら、自らの手で意思で戦えとそう言っただけである。戦うことを魔獣達の意思にまかせたので、来るかどうかは賭けだった。
 「行くよ、時任」
 「行こうぜ、くぼちゃん」
 くぼずきんと時任は顔を見合わせて頷きあうと、魔獣の森へと歩き始める。
 それは、自分達の家に帰ることが目的だったが、二人はまだ真田が鍵を持って屋敷に向かったことを知らなかった。魔獣の森の秘密も最強の魔獣のことも、二人には関係がないからである。
 だが、あの地下室のドアの向こうにある何かの存在を、くぼずきんは次第に森に満ちていく空気から感じていた。妙に首筋がチクチクする。
 それは時任の方も同じようで、森を見つめる瞳がすうっと細められた。
 「何かが来る…」
 そう時任が言うと、くぼずきんは時任の手を取って握りしめる。
 じわりと滲んだ汗が時任の緊張を伝えてきたが、くぼずきんは何も言わなかった。
 何も言わずに手を握りしめて、想いを伝えようとするかのようにその指に自分の指を絡める。すると時任は、くぼずきんの肩に頭をすり寄せて絡められた手に少しだけ力を込めた。

 何よりも大切な、暖かなぬくもりを確かめるように…。
 


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