くぼずきん.10




 「なんだぁ、てめぇは!」
 橘が前に立ちはだかったので、五人の内の一人の男が橘に向かって毒づいた。
 だが、まだ拳銃を構えるような様子はない。
 橘の外見がとても優しそうな感じの美人なので、まさか時任と久保田の関係者だとは思っていないようだった。
 「さっさとどかねぇと怪我するぜ、お譲ちゃん」
 「それとも、俺達と遊んでくか?」
 お譲ちゃんなどと男は言っているが、いくら美人だと言っても橘の外見は完璧な男である。男達が下衆びた笑みを浮かべているのは、つまり男だか性的対象として見られているということだった。
 いやらしそうな口調でそう言う男に、橘は余裕の表情で優雅に微笑んでみせる。
 元が美人なだけに、その微笑みは男達をぼーっとさせるくらいの威力はあった。
 「お相手して差し上げてもよろしいですが…」
 橘がそう言ったので、男達の目が更に欲望に燃える。
 だが、橘は妖艶な笑みを浮かべてそれを見返した。
 「僕は攻めなんです」
 「せ、攻めだとっ!!」
 「その顔でそれは反則じゃねぇのかっ!」
 攻めだと聞いてなぜかショックを受けている男達に向かって、橘は隠し持っていたナイフを投げる。
 ヒュンと音を立てて、ナイフは男達の腕や手に突き刺さった。
 とにかく、拳銃を撃たせないことが重要だったからである。
 「ぐっ!!」
 「うぁっ!!」
 ナイフは通常のものより刃が細く長くなっている。橘が注文してわざわざ作った特別製のナイフだった。
 このナイフは両刃になっているので、骨に到達するくらい深く刺さる。
 おそらくこれで何人かは、拳銃を撃つことはできなくなっただだろう。
 「すいませんが、お持ちになっている荷物は持ち出し禁止なんです。だから返していただきますよ」
 橘は地を蹴って、再びナイフを構える。
 標的は時任を背負っている男だった。
 とにかく、時任を取り戻せばどうにもならない。
 橘のナイフは時任を避けて、男の急所へと鋭い軌跡を描いて飛んだ。
 「ク、クソッ!」
 そう男は声をあげたが、ナイフは男の急所には刺さらなかった。
 男に到達する直前で、何者かに叩き落とされたからである。
 「ずいぶんなことしてくれるじゃないの」
 少しも慌てた様子もなく、関谷は橘と男の間に立っている。
 その手にはナイフが握られているのは、それで橘の攻撃を防いだから違いない。
 橘は関谷と一瞬、鋭い視線を交し合った後、フッと微笑んでかけている眼鏡を指で直した。
 「そう仰いますけど、ずいぶんなことをなさってるのは貴方の方だと思いますが?」
 関谷は微笑んだままでそう言う橘を見て、口の端を吊り上げた。
 「美人だけどアタシの好みじゃないわね」
 「そう言っていただけて、光栄ですよ」
 お互い微笑みを浮かべてるが、目が笑っていない。
 傍目から見ても、なんとなく背筋が寒くなる光景だった。
 そうしている間にも、腕を負傷した男達がよろよろと起き上がり始める。
 (急がなくては…)
 橘はナイフを手に持ち、すうっと目を細めた。
 「…僕も、貴方は好みじゃないんです」
 関谷に向かって、ナイフが二本放たれる。橘はそれと同時に走り始める。
 関谷は二本のナイフをかわしたが、次の瞬間に目の前に来た橘のナイフが前髪を掠めた。
 武道をやっているだけあって、橘の動きには隙がない。
 付け入る隙がなかったからか、関谷は素早く後方へと下がった。
 「観念したらどうです?」
 橘がそう言うと、関谷がクスッと笑い声を立てる。
 その理由を見た橘は、さすがに顔をしかめずにはいられなかった。
 「そろそろ時間切れみたいだから、これでおいとまするわ」
 関谷のナイフの切っ先が、時任の喉に当たっている。
 それに傷つけられた肌から、わずかに血が滲んでいた。
 「惜しかったわね」
 関谷はそう言うと、やってきた二台の車の内の一台に乗り込んだ。
 時任を担いだ男もその車に乗る。
 橘はそれを真っ直ぐ見つめたまま、動くことができない。
 橘のわき腹には、背後から忍び寄ってきた男のナイフが突き刺さっていた。
 「綺麗ごとかもしれませんが、…人殺しだけはしたくないんですよね」
 流れ落ちる血が地面を赤く染める。
 橘は座り込むようにその場に倒れた。
 「橘ー!!!!」
 遠くから、聞きなれた声が橘の耳に届く。
 その声を聞いた瞬間、橘はふわっと花が咲くように笑った。
 「…すいません、やっぱりダメだったみたいです」
 
 ガゥンッ!!ガゥン、ガゥン…!!
 
 銃声があたりに響き渡る。
 まるで疲れることを知らないかのように走り続けていた久保田は、時任が車に乗せられているのを発見して、それを止めるべく車に向かって発砲した。
 行く手には血を流して橘が倒れている。
 久保田は橘の横を走って通過した。
 「…感謝するよ、橘」
 通過する瞬間、久保田がそう言ったが、橘の耳に届いているかどうかは定かではない。
 久保田の後から走ってきた松本が橘に駆け寄った時には、橘はすでに気を失っていた。
 「がんばりすぎだぞ、橘…」
 松本は厳しい顔をしてそう言うと、橘をかついで病院へと向った。
 一人で時任の後を追う久保田のことが気にかかっていたが、早く橘を病院に連れていかなくては死んでしまう。松本は心の中で久保田に詫びながら、病院への道を急いだ。

 ガゥン、ガゥンッ…!!

 そんな二人の様子を見ることもなく、久保田は車に向かって発砲していた。
 すでに一台目には届かないので、二台目に向かってである。
 狙っているのは、タイヤではなく運転手だった。
 久保田が撃った二発目の銃弾が運転手の頭に当たり、車がハンドルを失って道の脇へ暴走する。暴走した車が木にぶつかって止まると、久保田はその車に向かって走っていき、車から出てきた男達を次々と射殺した。
 橘のように、殺したくないとかそんなことは考えたりはしない。
 罪悪感を感じたりもしない。
 神様に祈ってすべてが叶うなら、拳銃なんか握ったりはしなかった。
 今ももし、プライドなんか投げ捨てて泣き叫べば時任が自分の手に戻ってくると言うのなら、久保田は迷うことなくそうしただろう。
 けれど、救いの手などどこにもない。
 久保田は倒れてる男達の懐から銃弾を回収すると、車に乗り込みアクセルを思い切り踏む。
 運良く、まだ車は走行可能だった。
 ここから関谷達がどこに行くかはわからないが、遠くまで行くとしたら鉄道を使うのが一番早い。
 車は小回りが効いていていいが、燃料を補給する場所が限られているため、あまり長距離の走行はできないのである。
 久保田は車を道まで戻すと、時任を乗せた車の後を追った。
 けれど、すでに大分距離を離されてしまっている。
 久保田の顔には、珍しく焦りの色が浮かんでいた。




 「追って来てるわね、久保田誠人」
 関谷は薄笑いを浮かべて後方を眺めながらそう言った。
 その口調はどこか楽しそうである。
 まるで、ネズミをいたぶって遊ぶ猫のように、久保田が苦しんでいるのを見て喜んでいるのだった。
 かなり悪趣味な男である。
 関谷は頬に手を当て、自分の隣に転がっている時任を見ると、フフッと声を立てて笑った。
 「ずいぶん可愛がられてるみたいね、猫ちゃん。けど、君は二度と飼い主の元には戻れないわよ。あは、なんか可哀相ね」
 少しも可哀相などと思っていない口調でそう言いながら、関谷は時任のわき腹を足で踏んだ。
 けれど時任は、少しうめいただけで反応がない。
 薬が良く効いているようだった。
 「やはり駅に向かいますか?」
 運転をしている男がそう尋ねると、関谷はうるさそうに軽く手を振った。
 「矢崎。聞いてる暇があったら、とっとと行ってちょうだい」
 「わかりました、関谷さん」
 スキンヘッドの男、矢崎は、バックミラーで関谷をチラリと見てから、アクセルを更に深く踏み込んだ。




 駅まであと少し。
 関谷と久保田の距離は一向に縮まっていなかった。
 関谷の車が駅の前に止まるのが遠くに見える。
 列車の到着時間が何時かはわからないが、乗せられる前になんとしても抑えなくてはならない。
 久保田はじっと前方を睨みつけていた。
 「…時任」
 時任のことを考えると、胸がキシキシと軋む。
 会ってからまだ少しだったが、すでに時任は久保田の心の中の奥に入り込んでいた。
 絶対に失えない存在。
 久保田は改めて時任を必要としている自分を感じていた。
 恋とか愛とか、そんなセリフを吐くよりも、時任という存在を抱きしめたい。
 すべてが溶け合ってしまうくらいに。
 自分自身に苦笑しながら、久保田はハンドルを切った。
 「タイムリミット…か」
 遠くから列車が走ってくるのが見える。
 どこ行きなのかはわからないが、関谷達があれに乗るのは間違いない。
 列車はゆっくりと駅に入っていき、シューっと音を立てて停車する。
 けれど、まだ久保田は到着していなかった。
 関谷と時任を担いだ矢崎が列車に乗り込み、後の男達もそれに習う。
 列車の中にはその他にも、東条組の手の者が乗っていた。
 ジリリリリリリ…!!!
 やがて、駅の構内に発車のベルが鳴り響きドアが閉められる。
 久保田は激突しそうな勢いで駅に車を止めると、駅の階段を駆け上がった。
 「ちょっと君、切符を!!」
 切符を買わずに通り抜けようとする久保田を駅員が呼び止める。
 それを振り切って構内に入ると、別の駅員が久保田のところに走ってきた。
 久保田は躊躇なくそれを殴り倒すと、走り出した列車の横を走り出す。
 「待てぇっー!!」
 待てと言われて待つバカはいない。
 久保田は開いている窓を確認すると、すでにかなりの早さで走り出している列車の窓に手をかけてその中に飛び込む。
 「きゃー!」
 飛び込んできた久保田に驚いた乗客が悲鳴を上げた。
 久保田はその乗客に、
 「ゴメンね」
と、あやまると車内へと足を踏み入れる。
 口調はのんびりとしていたが、久保田の周囲の空気は冷たく凍りついていた。
 


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