禁止令.9




 「ちょっとっ、ちょっと大塚先輩…っ」

 時任が久保田の前から走り去るのを電柱の影から見ていた藤原は、口元にニヤリと笑みを浮かべたが、次の瞬間にはその笑みは消えてしまっている。それは久保田が目の前に立つ赤ん坊を抱いた女性を…、走り去る時任を見ても何も言わなかったせいだった…。
 久保田の事ならスリーサイズから誕生日までなんでも調べている藤原は、もちろん通ったのは高校からでもちゃんと中学の頃の噂も知っている。けれど、実際に見た訳ではないし、その噂を信じたこともない…。
 だが、大塚と二人で張った罠はその噂を利用したものだった。
 しかし、二人の張った罠は大塚の知り合いの女の子に赤ん坊を連れて行かせて、時任に久保田の元彼女だとウソを言わせるというありきたりの罠である。いつも時任にどつかれ桂木にハリセンで殴られてる藤原と、毎回、悪事を働くたびに執行部に成敗されてる大塚が考える罠は所詮、その程度のものだった。
 そして、その罠に中学の頃の噂を知っている橘を助っ人として呼んで元彼女と隠し子のことを時任に信じさせようという藤原の作戦を加えたとしても、それが嘘だとバレるのは時間の問題で…、つまりハッキリ言ってやる前から失敗するのは目に見えている。
 事実、予期せぬ久保田の登場で失敗するはずだった…。
 だが、信じられない事に藤原の目の前で、時任も久保田も失敗したはずの罠にはまってしまっていた。

 まるで嘘だったはずの事が、事実に変わってしまったかのように…。

 藤原は何度も嘘だ嘘だと呟きながら大塚に事実を聞こうとしたが、すでに藤原の隣に大塚の姿はない。辺りをキョロキョロと見回してみたが、時任が走り去ったのと同時に大塚も藤原を残してこの場からいなくなってしまっていた。
 それに気づいた藤原は、まるで自分が罠にでもはまってしまったような不安そうな顔になる。時任がいなくなった隙に取り入る予定だったが、今の状況では久保田に取り入るどころか近づく事すらできなかった。

 「まさか…、僕の久保田先輩に限ってそんな…」

 何を話しているのかは聞こえなかったが、久保田と目の前に立っている女の様子を見ていると不安は消える所か大きくなっていく。このままここにいても事実はわからないが、ただならぬ雰囲気の二人から目が離せなかった。
 さっきから、心臓の鼓動が破裂しそうにドクドクしていて止まらない。けれど、まるでそんな藤原にとどめを刺すように、後ろから伸びてきた手が肩をポンポンと叩いた。
 「ねぇっ、アンタって大塚の・・・・・」
 「ぎゃあぁぁぁ…っっ!!」
 いきなり肩を叩かれて驚いた藤原は、情けない叫び声を上げて電柱にしがみつく。そして情けない格好で情けない顔をして、そーっと後ろを振り返ってみた。
 するとそこには近くの女子高の制服を着た少女が不機嫌そうな顔をして一人立っている。しかし、その少女は藤原の知り合いではなかったし、同じ学校でもないので見覚えもなかった。
 「ちょっとぉっ、ヒトの顔見て何叫んでんのよっ」
 「…って、そういうアンタは誰なんですかっ?!」
 「アタシ? アタシが誰でもアンタには関係ないじゃんっ。 それよりも、早く大塚がどこにいるのか教えなさいよぉっ、アンタ知ってんでしょっ」
 「そ、そんなの僕の方が教えて欲しいですよっ!!」
 「えーっ、知らないのぉ? じゃあ、ケータイもなんか通じないし大塚に会ったらアンタから伝えといてくれる?」
 「伝えるって何を?」
 「赤ちゃんの事、アタシのお姉ちゃんに頼んでみたんだけど、どうしてもダメだって言われちゃったから例の件は中止だってっ」
 「例の件って、ま、まさか久保田先輩の彼女のフリをするって…っ」
 「そう、そのまさかよ。じゃ伝言は頼んだからっ」
 
 「…って、えっ、えぇぇぇーーーっっっ!!!」

 情けない格好で情けない顔をした藤原の情けない叫び声が、夕闇に沈んでいく街並みに木霊する。だが、いくら辺りを見回しても時任や大塚だけではなく、久保田と女の姿も消えてしまっていた。
 一人取り残されてしまった藤原は、叫びながらオロオロし始める。
 久保田に会って事実を確かめたいが、事実を知るのが怖くて聞けない。藤原がうめき声をあげながら激しく頭を掻きむしると、近くを通りかかった主婦が子供の手を引っ張って早足で通り過ぎた。
 「ママ…、あのお兄ちゃんヘンだよ」
 「み、見ちゃいけませんっ!!」
 電柱に向かってブツブツと話しかけている藤原は、3メートル範囲内に近づきたくないくらいかなり不気味である。しかし、藤原の万年花盛りな頭の中では自分に都合のいい妄想が展開されていた。
 『これは誤解なんだ…、藤原』
 「そ、そんなのは言われなくっても、僕にはちゃんとわかってます…っ」
 『ホントに?』
 「当たり前じゃないですかっっ、僕は久保田先輩を信じてますから…っ」
 『信じてくれてうれしいよ…』
 「何があっても久保田先輩への僕の愛はっ、永遠に不滅ですぅぅっ」
 『俺もだよ、藤原…』
 妄想の中で藤原の方に向かって赤い薔薇を背中に山ほど背負った久保田が、優しく微笑みながら両手を広げる。すると、藤原は瞳をキラキラ輝かせながら、久保田の胸の中に飛び込んだ。

 「く、久保田せんぱぁぁいぃぃぃ〜〜っっ!!」

 だが、再び久保田ではなく電柱に抱きつこうとした夢見る藤原の後頭部に、ヒュンと風を切りながら白い物体が飛んでくる。実はそれは鳥でも飛行機でもなく、学校から時任の後を追いかけてきた桂木のハリセンだった。
 バシイィィィンと響き渡ったハリセンの音と後頭部の痛みに、藤原がやっと正気を取り戻す。すると、桂木は右手にハリセンを握ったままで腕組みをして、こめかみをピクピクさせながら藤原を睨みつけた。
 「こんなトコで、なぁに一人でヘンタイやってんのよっ」
 「ぼ、僕はヘンタイなんかじゃありませんっ!! ヘンタイなのはサドっぽくて、ハリセンなんかいつも持ち歩いてる桂木先輩の方じゃないですかっっ!!」
 「誰がサドですってぇぇっ!!」
 「ひぃぃぃっ!!!」
 「お、おいっ、桂木っ! 今はそれどころじゃないだろっ!」
 「そうね…、そう言えばそうだったわ」
 再び桂木のハリセンが藤原の後頭部を狙っていたが、それをそばにいた相浦が慌てて止める。桂木がここに来たのは相浦の言う通り、藤原の後頭部をハリセンで殴るためではなかった。
 携帯の繋がらない時任に禁止令の中止を伝えるためにここまで来たのだが、桂木が見つけたのは時任ではなく藤原…。禁止令の発動中で久保田を追ってきたのだとしてもあまりに藤原の様子と口走っているセリフがおかしかったので、嫌な予感がして思わず桂木はハリセンで突っ込んだのだった。

 「…で、ずいぶん慌ててるみたいだけど何かあったの?」
 
 ハリセンを収めて気を取り直した桂木がそう聞くと、藤原は冷汗をかきながら視線をそらせる。ここに来るまで時任も久保田も見かけなかったが、明らかに藤原の様子はいつもよりももっとおかしかった。
 どうやら、何かあったかもしれないという桂木の直感は当たったらしい。桂木はぐいっと藤原の襟首を掴むと、顔を覗き込みながら真剣な表情でじっと睨み付けた。
 「は、離してくださいよっっ!! 僕はなんにも知らないんですからっ!!」
 「じゃあ、なんでこんなトコで電柱に抱きつこうとしてたのよっ」
 「な、何に抱きつこうと僕の勝手じゃないですかっっ」
 「なら、久保田君を信じてるって何の事?」
 「う…っ」
 「何か知ってるならさっさと話した方が身のためよ、藤原。アンタがマゾでハリセンを食らいたいっていうなら、話は別だけど」
 「ぼ、僕はマゾなんかじゃありませんっっっ!!」
 「だったら、アタシのガマンが限界を超える前に洗いざらいとっととさっさと吐くことねっ。じゃないと、電柱に抱きつくどころかキスするハメになるわよっ!」

 「や…、や、やっぱりサドだぁぁぁっっっ!!」

 執行部の紅一点で姉御と呼ばれる事もある桂木のあまりの迫力に押されて、藤原がガタガタ震えながら大塚と組んで時任と久保田に罠を張った事。そして、なぜか失敗したはずの罠に二人がはまってしまった事を桂木に話した…。
 始めは話す事を嫌がっていた藤原だったが、桂木に話した事で気持ちが落ち着いたのかすべてを話し終わって軽く息を吐く。すると、そばにいた相浦と顔を見合わせた桂木は、ゆっくりと藤原の襟から手を離した。
 「ホントに…、禁止令どころじゃなくなったみたいね」
 「桂木…」
 「まだ、藤原が言った事が事実かどうかわからないし…、とにかくいなくなった時任を探しに行くわよ、相浦」
 「あ、ああ、そうだな…。けど、現れたのが年上の女なら、それは事実かもしれないぜ」
 「…って、どうしてそう思うのよ?」
 「中学の頃に女教師と付き合ってる…、そんな噂が久保田にはあったんだ」
 「でも、噂は噂でしょう?」
 「それはそうだけど、他にもたくさんあった噂の中でその噂だけは知っている人間は限られてる…。俺は執行部に知り合いがいたから知ってるけど…」
 「つまり…、流れてたどの噂よりも事実の可能性が高いってことね…」
 「・・・・・・・・」

 「・・・・・時任が心配だわ」

 桂木はそう言うと軽く唇を噛みしめて、時任と久保田の住むマンションのある方向を眺める。けれど、今そこには時任はいなかった…。
 もしも藤原の言った事が噂が真実だとしたら、もう時任はこのまま戻れなくなってしまうかもしれない。そう桂木が思うのは久保田がそういう判断を下すからというのではなく、いつもワガママなように見えて…、時任がすごく優しい事を知っていたせいだった…。
 桂木は赤く夕焼けの残る空を見上げて細く長く息を吐くと、相浦とまだ唸ってる藤原を連れて時任を探しに行こうとする。だが、三分も走らない内に桂木の携帯が勢い良く鳴り始めた。
 それに気づいた桂木が携帯を取り出すと、そこには時任という名前が表示されている。それを見て慌てて通話ボタンを押してみると、携帯から時任の声が聞こえてきた。
 『桂木?』
 「と、時任なのっ?」
 『そうだけど…。あのさ、ちょっち悪りぃけど禁止令は中止にしてくんねぇ?』
 「それはいいけどっ、アンタ今どこにいんのよっ」
 『はぁ? なんで、んなコト聞くんだよ?』
 「どうでもいいから、とにかく教えなさいよっ。話もあるしそっちに行くから…っ」
 『それって…、久保ちゃんのコトか?』
 「・・・・・そうよ」
 『なら、今は教えらんねぇ』
 「どうして…っ?!」
 『じゃあな、桂木。いろいろ協力してくれて、マジでサンキューな…』
 「ちょ、ちょっと待ちなさいっ!!!」
 『バーカっ、なに慌ててんだよ? 勝手にマジ顔して、いらねぇ心配なんかしてんじゃねぇっつーのっ』
 「だ、誰がアンタの心配なんかっ!!」
 『俺はどこにも行かねぇし、ちゃんと大丈夫だから…』
 「時任っっ!!!」

 『また、明日なっ!』

 そう言って通話が切れた後、桂木は相浦と一緒に心当たりを探してみたがやはり見つからない。そして次の日、電話で桂木にまた明日といつもと同じ元気な声で言っていたはずなのに…、
 時任はマンションに帰らず…、そして学校にも登校して来なかった…。




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