禁止令.8




 ・・・・・始めまして。

 そう見知らぬ人物に呼び止められて、学校からマンションへと帰る道の途中で時任が立ち止まる。すると隣にいる橘と近くの電柱の影にいる藤原と大塚が、そんな時任の様子をそれぞれの想いを胸にじっと見守っていた。
 けれど、そんな三人の視線を受けながらも時任はまだ何も知らない。
 目の前にいるのが誰なのかも、そして罠のことも…。
 だが、目の前に立つ人物を見た時から、ずっと嫌な胸騒ぎだけはしていた。
 
 「アンタ誰だよ?」
 「雪野あかり」

 時任が短くそう言うと、目の前に立つ人物は同じように短く答える。そしてゆっくりと近づいてきて、今度は時任ではなく時任の後ろにある学校方面へと続く道を眺めた。
 すると、さっきまで逆光で見えなかった顔が良く見えるようになる。だが、やはりどう見ても見覚えのない時任の知らない顔だった。
 雪野と名乗った人物の年齢は、おそらく二十代半ばくらい…。
 そして時任の名前を知ってはいても、同じ荒磯の生徒でも教師でもない。
 しかし、なぜ時任を知っていたのかという謎は雪野の一言ですぐに解けた。

 「今、学校の帰りでしょう? なのに、誠人君は一緒じゃないの?」

 時任は雪野の事を何も知らない…。
 けれど、雪野は時任が久保田と一緒に暮らしているという事を知っているから呼び止めた。だから雪野が久保田の名前を呼んだという事は、そういう事なのかもしれない。
 久保田が知っていて…、時任が知らない誰か…。
 出会って最初の内は生徒会長の松本もそんな誰かの内の一人だったが、荒磯高校に通うようになってから自然に顔見知りになった。
 でも、それは今とは違って学校の中での話である。
 学校外ではマンションで一緒に暮らすようになってから今まで、部屋に尋ねて来るのは新聞の勧誘のおじさんやセールスのお兄さんくらいだったから、そんな人物に会った事はなかった。
 
 ・・・・・誠人。

 中学時代から一緒だった松本は、久保田のことをそう呼ぶ。
 そして、久保田の名前を親しそうに呼ぶ人間が目の前にもいる…。それを始めて知った時任の心臓の鼓動は、橘に寂しいのかと聞かれた時よりも大きく跳ねた。
 別にそんな知り合いがいたっておかしくないと思っているのに、早くなってしまった鼓動は元には戻らない。そんな時任の様子を見た橘が慰めるように右手を肩に伸ばしてきたが、時任はすぐにそれを振り払った。
 すると、橘は振り払われた自分の手を見てフッと口元に笑みを浮かべる。
 そして、時任ではなく目の前に立つ雪野に向かって話しかけた。
 「久保田君なら、まだ学校にいますよ」
 「あら…、君は確か橘君?」
 「そうです」
 「まぁ、久しぶりね」
 
 「えぇ、本当にお久しぶりです…、先生」

 横から聞こえた先生と言葉に、時任が弾かれたように視線を雪野の方から橘に向ける。だが、橘はその視線を感じながらも何も答えずに雪野と話を続けた。
 そんな橘の様子を見た藤原が電柱の影でニヤリと笑ったが、それに気づいたのはそばにいた大塚だけである。本当なら久保田は学校にいると答えてマンションに帰るつもりだったが、先生と聞いた瞬間に時任はそうするのを止めてしまっていた。
 立ち止まっている時間が長ければ長いほど…、罠は深くなっていく…。それを橘が気づいているのかどうかはわからなかったが、すべては珍しく藤原の思惑通りに進んでいた。
 「僕の事を覚えていてくださって光栄です。同じ学校にいたのはもう二年以上前のことですし、僕は貴方のクラスにはいませんでしたから覚えておられないと思いましたが…」
 「ふふふっ、荒磯にいる人間で貴方を知らない人はいないわよ。君は中等部でも、今の高等部でも有名人ですものね」
 「自覚はありますが、あまり喜べることではありませんよ」
 「なぜ?」
 「そのおかげで、動きづらくて仕方ありませんから…」
 「そういえば、今は生徒会本部で副会長してるらしいわね」
 「はい、松本会長の元で…」
 「そう…」
 雪野を先生と呼んだ橘はそれほど親しそうではないが、以前から雪野の事を知っていたらしい。そして…、おそらく同じ頃から久保田も…。
 雪野が中学校の教師なら、久保田と知り合いでもおかしくはなかった。
 でも、なのに雪野を見ているとどうしても嫌な胸騒ぎがしてくる。もしも目の前に立っている人物が教師で男なら、今とは違う感じがしていたのかもしれなかったが雪野はどこからどう見ても女だった…。
 しかも美人で服の上から見てもわかるほど胸が大きくて、じっと見れば見るほど久保田が前に好きだと言っていたタイプに見えてきて…、
 そんな訳ないと思いながらも、いつも真っ直ぐな瞳が寂しさと不安に揺れる。
 これからもずっと相方で同居人で…、ずっと一緒にいて…、
 それは当たり前で疑ったりはしないけれど、雪野が抱いているモノに視線を落とすと嫌な胸騒ぎが強くなった。だから、まだ何もわかっていないし知らないのに胸が痛くて、時任がわずかに顔をしかめる。すると橘が話を終えて、じっと立ち去らずに話を聞いていた時任に雪野を紹介した。
 「時任君」
 「・・・・なんだよ?」
 「この方は、荒磯の中等部で教師をしている雪野先生です」
 「センセイ…ってコトはやっぱ先生だよな…」
 「えぇ、荒磯には高等部の他に中等部もあります。貴方は高等部からですが、僕や松本会長…、そして久保田君は雪野先生のいる中等部にも通ってたんですよ」
 「中等部があんのは、荒磯の生徒なら誰でも知ってんだろ」
 「そうですね…。では、その頃に事について久保田君から何か聞いてますか?」
 「はぁ? 久保ちゃんからはなんも聞いてねぇけど、その頃になんかあったのかよ?」

 「いいえ、別に何も…。ただ、ちょっと聞いてみたかっただけです」
 
 雪野に会ってから、なぜか嫌な感じばかりする…。
 そして気になる言い方をしたクセに、何も言わない橘にイライラした。
 けれど、こんな風に何もわからずに何も知らずにイライラしてる事が、何もわからないで知らないでいる事が一番、嫌でたまらない。話を聞いたら今よりもずっと…、もっと胸が痛くなるのかもしれなくても、久保田の事を知らないよりも知っていたかった…。
 目の前に…、時任の知らない久保田の過去がある。だから時任はきつく唇を噛みしめると、それを聞くために何も言おうとしない橘の襟首を右手を伸ばしてぎゅっと強く掴んだ。
 「・・・・橘」
 「なんです?」
 「久保ちゃんに聞いてるかって、なんの話だよ?」
 「それについては別に何も…、と僕は答えたはずですが?」
 「自分から聞いといて、それはねぇだろっ」
 「・・・・・さあ、どうでしょう?」
 「なにか知ってるコトがあんなら、さっさと言えっ!!」
 「ですが、聞いて後悔するのは…」
 「後悔するってっ、なに勝手に決め付けてんだっ! 聞かないで後悔はしても、聞いて後悔なんて誰がしてやるかよっ!」
 「時任君…」
 「俺は久保ちゃんのコトを、知らないより知ってたいんだっ!!」


 ・・・・・・・好きだから。

 心の中だけで叫んだ言葉は…、橘にもここにはいない久保田にも聞こえない。時任は言葉にできなかった想いを噛みしめるようにギリリと歯を噛みしめると、何も喋ろうとしない橘の襟首を更に締め上げる。けれど、いくら締め上げられても橘の表情は苦しいはずなのに変わらなかった。
 時任がぐぐっと襟首を持った手を引くと、さっきからじっと睨みつけてる橘の瞳が近くなる。急に近づいた二人の距離に、少し離れた場所から見ていた大塚が拳を握りしめて電柱の影から慌てて飛び出しかけたが…、
 それよりも早く橘ではなく雪野が口を開いた。
 「私と久保田君の関係なら君が思っている通りよ、時任君」
 「俺が思ってる通りの関係って…、一体どんな関係だよっ」
 「確かにずいぶん年が違うし中学の頃は生徒と教師だったけど、それでも私は女だし久保田君は男だったってこと…」
 「なにが女で男だよっ、もっとわかりやすく簡単に言いやがれっ!」
 「じゃあ単刀直入に言うわ…。私は自分の教え子だった久保田君と寝てたの」
 「・・・・・・・う、ウソだ」
 「嘘じゃない本当のことよ」
 「・・・・・・・」

 「そして…、その事実と結果がちゃんとここにある。だから、私は久保田君に会いに来たのよ」

 時任の目の前にある…、久保田の過去…。
 そして、雪野の腕の中にある動かせない事実…。それを見た瞬間に思わずウソだと無意識に唇が言葉を紡いだけれど、時任は目の前にある現実から目をそらさなかった。
 ゆっくりと橘の襟首から手を離すと、その手を何かを握りつぶすようにぎゅっと硬く握りしめる…。それから、雪野の腕の中の事実と現実を見つめながら雪野でも橘でもなく、もっと別の人物の名前を呼んだ…。

 「・・・・・・・久保ちゃん」

 こんな事実を知らされた後なのに久保田を呼ぶ時任の声はなぜか穏やかで…、その穏やかさが逆に哀しく橘の耳に響く…。てっきり怒って怒鳴ると思っていたのに、久保田の過去を知った時任は静かだった。
 橘は静かな時任の横顔を見つめながら、また振り払われるのを承知で肩に手を伸ばす。けれど、背後から聞こえてくる足音に気づいた橘が伸ばしかけていた手を下ろして後ろを向くと、久保田がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 「貴方は…、久保田君の事が足音だけでわかるんですね…」

 橘が優しく微笑みながらそう言ったが、時任は何も答えない…。そして雪野にも何も言わないままで振り返ると、久保田の方に向かって歩き出した。
 久保田は行く手に立っている雪野を眺めて、自分の方に向かって歩いてくる時任の方を見る。すると時任も久保田の方を見たが、まだタバコを吸っているのを見て少しだけ瞳が哀しく揺れた…。
 時任も久保田も決して走り出さないで…、ゆっくりとお互いの距離を縮めていく。その様子を橘も雪野も…、そして藤原も大塚も固唾を飲んで見守っているとちょうど向かい合える距離に久保田は立ち止まった…。

 「時任…」

 久保田はいつもと同じように、いつもと同じ優しい声で時任を呼ぶ…。けれど、時任は立ち止まらずに歩き続けて…、久保田の前ではなく横で立ち止まった。
 そして前を向いたままで右手を横に向かって伸ばすと、久保田のポケットからライターとシガレットチョコを取り出す。すると、シガレットチョコには更衣室で見た時と同じ桂木の書いた文字があった。

 「当分…、ウチには戻らねぇから…」

 そう言いながらライターとシガレットチョコを自分のポケットに収めると、時任はマンションとは逆の方向に向かって歩き出す。けれど、そんな時任を久保田は黙ったままで呼び止めようとはしなかった。
 すると時任はすれ違いざまに、久保田に向かって強い口調でタバコ禁止令を叩きつける。でも、それは今までの禁止令とは意味が違っていた…。

 「赤ん坊の前でタバコ吸いやがったら、ただじゃ置かねぇかんな…っ」

 その言葉を聞いた瞬間に、久保田の方を見つめていた雪野がハッとした表情で時任の方を見る。でも、時任はそのまま振り返らずにアスファルトの道を走り出した。
 こんなに近くにそばにいるのに…、二人ではなく一人きりで…。
 一人で走り出した時任の影が黒く長く伸びて、沈んでいく夕日がその背中を照らす。すると、そんな時任の背中をやっと振り返った久保田が、眩しそうに見つめて目を細めた。
 けれど、時任を見つめる久保田の視界をさえぎる様に橘が目の前に立つ。そして、橘は久保田ではなく後ろに立つ雪野を眺めた。

 「今の貴方に、あの背中を追いかける資格はありません…。ですが、僕が代わりに追いかけますから心配はいりませんよ…、久保田君」
 
 いつものように妖艶に微笑みながらそう言うと、橘は言った通りに時任を追って走り出す。すると、影に隠れて様子を見ていた大塚も気づかれないように時任を追いかけ始めたが、久保田は時任の背中が見えなくなっても…、じっと時任の走り去った方向を見つめながら、沈みかけた夕日の中に立ち止まったままだった。





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