禁止令.10
三年五組の教室は、四時間目の授業が終わってざわめいている。
そして、その中に四時間目の途中から登校してきた久保田の姿があった。
だが、教室がざわめているのはいつものことで、昨日と今日と続けて時任が欠席してしまっている事とは関係ない。時任の事を授業をしていた教師に聞かれた久保田は、いつもと変わらない口調で風邪だと答えていた。
それを聞いていた桂木は久保田を睨んだが、すぐにそうするのをやめる。それは、いつも授業中は眠っている久保田が、黒板に書かれていた授業の内容を自分のノートを広げて書き写し始めたからだった。
時任がマンションに戻っていない事は、昨日、桂木が久保田に電話して確認している。けれど、それ以上の事は取り込み中だからとすぐに通話を切られてしまったので、まだ何も聞けないままになっていた。
「取り込み中って事は…、たぶん…」
桂木はそう呟いたが、その後に続く言葉は口から出ない…。だが、事実は確認できていなくても、いつもと違う久保田と時任の様子が藤原の言っていた事が事実だと証明しているように思えてならななかった。
できる事なら、この件について久保田の言い訳を聞きたい。
だが、時任が戻っていないのではそれも望めそうにもなかった…。
相浦は多少知っているようだが、桂木は時任と出会う前の久保田の事は知らない。だから、生徒会本部に出向いて松本にその頃の事を聞いてみたい気もしたが、それよりも先に久保田に話を聞いてみる必要があった。
けれど、桂木が考え事をしている間に、教室からさっきまでいた久保田の姿が消えている。それに気づいた桂木は、久保田の後を追うように廊下に出ると屋上に向かった。
でも、だからといって久保田から屋上に行くと聞いていた訳じゃない。ただ時任と二人きりで屋上にいる事が多かったから、なんとなくそんな気がしただけだった。
桂木は階段を踏みしめるように登ると、ゆっくりと屋上へと続くドアを開ける。すると、そこには予想していた通り、一人で屋上から景色を眺めながらタバコをふかしている久保田がいた。
「やっぱり、ココにいたのね…」
桂木がそう言いながら近づいたが、久保田の視線も表情も動かない。まるで屋上を吹き抜けていく冷たい風に凍らされてしまったかのように、桂木が隣に立っても久保田はじっと目の前に広がる景色を眺め続けていた。
一見、いつもと同じようにのほほんとしているように見えるが、いつも同じ執行部員の仲間として一緒にいる事の多い桂木には…、一人でいる久保田を見ていると何かがどこかが欠けてしまっているように見える。それは、いつも久保田は時任と一緒にいるという感覚があるせいかもしれなかった…。
けれど、その感覚を一番感じているのは桂木ではなく、久保田なのかもしれない。遠くばかりを見つめている久保田の横顔を見た桂木は、小さく息を吐いて同じように手が届かない遥か遠くを見つめた。
「時任はあたしに…、また明日って言ったわ」
「そう…」
「でも、今日も来ないわね」
「・・・・・・」
「久保田君…」
「なに?」
「ホントはあたしが来るってわかってて、ココにいたんでしょ? だったら、あたしの質問に答えてくれる気があるんだって、そう思ってもいいのよね?」
「答えられるコトなら…、ね?」
「じゃあ単刀直入に聞くけど、中学時代に先生と付き合ってて隠し子までいるっていう噂は事実なの?」
桂木が自分で言った通りにストレートに聞くと、タバコをくわえた久保田の口元にわずかに笑みが浮かぶ。けれど、その笑みはさっきまで久保田を包んでいた空気と違って冷たいものではなかった。
何を聞いても関係ないと拒否されてしまうかもしれないと桂木は思っていたが、どうやら質問に答えてくれる気はあるらしい。久保田の笑みを見てそう感じた桂木は少しだけ安心したように息を吐いたが、浮かべた笑みが質問に対する答えのようにも思えた…。
久保田の笑みを見ていると胸の奥から、少しの安心が消えて大きな不安が波のように押し寄せてくる。桂木がその不安を押さえるように右手の拳をぎゅっと握りしめると、なぜか久保田の笑みがまた少しだけ深くなった…。
「うーん、ホントに見事なストレート」
「ウダウダ遠まわしなのは、じれったくてイライラするだけよ。そういうのは、あたしの性には合わないわっ」
「桂木ちゃんらしいやね」
「で、質問の答えは?」
「今、二人ともウチにいるよ」
「そう…、そういうコトね」
短い久保田の答えを聞いた桂木は、ぎゅっと握りしめていた拳を開く。そして、その手を久保田の襟元に伸ばすと自分の方へとグイッと引っ張った。
すると、久保田はそれに抵抗することなく引っ張られて、その拍子にくわえていたタバコが灰色のコンクリートの上にポトリと落ちる。それを見た桂木は久保田の襟元を強くしめ上げながら、落ちたタバコを足でギリリと踏みつけた。
「まさか、ずっと付き合ってたって言うつもりじゃないでしょうね? もしもすべてを知っていて、いつかこうなる事がわかってたっていうなら…」
「もし、そうだとしたら?」
「あたしはアンタを殴るわ」
「じゃ、俺を殴ってくれない?」
「まさか…」
「違うよ。けど、どちらでも同じコトでしょ? 知ってても知らなくても現実も事実も変わらないし、今は時任を探しにも迎えにも行けない…」
「・・・・・・」
「悪いのは俺だから…」
落ち着いた静かな声で久保田がそう言うと、桂木は襟元をしめあげていた手をゆっくりと離す。それは桂木が事実を知りたかっただけで、久保田を責めるためにここに来た訳ではなかったからだった…。
詳しい事情はわからないが、久保田が時任を傷つけるような事をするとは思えないし、同じようにマンションにいる女性を傷つけるような事をしたとは思えない…。桂木は何かを見つけようとするかのようにじっと久保田を見つめて、次に足元でつぶれてしまっている吸殻を右手で拾い上げた。
「あたしは久保田君が一方的に悪いとは思ってないわ…。けど、ケジメだけはきちんとつけなさいよ…、どんな形でも…」
桂木がそう言って右手の吸殻を差し出すと、それを見た久保田は吸殻を受け取って持っていた携帯用灰皿の中に入れる。でも、今も久保田の中で過ぎ去ったはずの過去が消えずに燻り続けていた。
屋上から去っていく桂木の後ろ姿を眺めながら、久保田は手の中の灰皿を握りしめる。そうすると過去の出来事が…、時任と出会う前の日々の事が脳裏によみがえって来た。
『ねぇ、誠人君…』
『なに?』
『私、寂しいの…、だから…』
『だから?』
『・・・・・・』
『いいよ…、それで寂しくなくなるなら…』
その日に音楽室の窓から見た空は…、なんとなく今日の空と似ている。でも、そんな空を一緒に眺めながら笑っていた月野あかりの寂しさは、その時にはわからなかった…。
松本と一緒に執行部に関わってはいたが、公務以外は生徒会室はいかない。それは用事がないからだったけれど、誰とも一緒にいたいと思わなかったせいだった。
そしてそれと同じように、あかりとも自分からは会わない…。呼び出された時だけ音楽室に行って…、いつまでも埋まらない寂しさを埋めようと必死になっているあかりと寝ていた。
お互いに身体だけで…、想いを重ねることもなく…。
何度、こんな事を続けても何も埋まらない事を知りながら…。
「・・・・ゴメンね」
そう呟いた久保田の言葉は時任に向けられたものなのか、あかりに向けられたものなのか…、それとも生まれたきた子供に向けられた言葉なのかわからない。けれど、その言葉はたぶん一人ではなく…、全員に向けられた言葉だった…。
あの日、寂しさの意味を知っていたのなら、何かが違っていたのかもしれない。けれど、それを本当に知ったのは、もしかしたら時任を失いかけている今なのかもしれなかった。
屋上を吹き抜ける風が、冷たく指先だけではなく心まで凍らせていく。
寂しさを知った心は前よりも時任を恋しがっていたけれど…、今、久保田の手を握りしめているのはあかりだった。
教師をやめて自分の住んでいたアパートも解約してきたというあかりは、一歳半くらいになる子供と一緒に久保田の住んでいるマンションにいる。一緒に暮らしてくれないかといってきたあかりは…、昔と同じように寂しそうな顔をしていた…。
『ねぇ、私とこの子と一緒に暮らしてよ…、誠人…。そしたら、今度はきっと本当に寂しくなくなるから…』
そう言ったあかりの顔を思い出して、それから次に走り去った時任の背中を思い出す。けれど、腕を伸ばして抱きしめたいのは…、あかりではなく時任だった…。
なのに、腕を伸ばそうとすると子供の泣き声がそれを打ち消す。あかりに言われて抱き上げてみても父親の自覚は生まれなかったが、しっかりと腕にかかる子供の重さに命の重さを感じた…。
「時任…」
冷たい風に吹かれながら名前を呼んでも、やはり返事はない。
そして…、どんなにかけても携帯も繋がらない…。当分、家には帰らないと時任は言っていたが、もしかしたら戻ってくる気はないのかもしれなかった。
二人で笑い合った日々はもう二度と戻らないけれど…、最後に二人で眠った寝室のベッドはまるで時を止めようとしているかのように…、
・・・・・・昨日、時任が起きた時のままになっていた。
久保田はいつもと時任と一緒に眺めていた景色に背を向けると、握りしめていた灰皿をポケットの中に収めて屋上を後にする。そして生徒会室でも教室でもなく、あかりと子供の待つマンションに向かって歩き始めた…。
「時任の居場所を知ってるなら、さっさと白状してくれない? 早く白状しないと、今日は機嫌がかなり悪いから何をするかわからないわよっ、橘副会長」
昼休けいの生徒会本部…。
そこには久保田と話した後でここに来た桂木と、立派な座り心地の良さそうな会長の椅子の横に立っている橘がいる。だが、その椅子には会長である松本は座っていなかった。
いきなり怒鳴りながら不機嫌そうに本部に乗り込んできた桂木を、橘がめずらしく少し驚いた顔で迎える。どうやら、橘はここで別の人物が来るのを待っていたらしかった。
「誰が来たのかと思ったら桂木さん…、貴方でしたか…」
「なに? あたしじゃ不満なの?」
「いいえ、そういう意味ではありません」
「じゃ、どういう意味よ?」
「てっきり僕は同じ事を聞くために、久保田君が来ると思ってましたから…」
「そう…、そうでしょうね」
「今日、久保田君は学校には?」
「来てるわよ…」
「それでも来ない…、いえ、来れないという訳ですか」
「そのセリフ…。もしも面白がって言ってるのなら、アンタを副会長の座から引きずり降ろしてやるわ、本気で…」
「ふふふ…、相変わらず貴方は久保田君に負けず劣らず怖いヒトですね」
「何度もあたしや執行部の皆を罠にはめた人物のセリフとは、とても思えないわ」
「そうですか?」
「それに、おとなしく引きずり降ろされるタイプじゃないでしょう?」
「さぁ? その時になってみなければわかりませんよ」
そんな風に桂木は橘と二人で話していたが、見てもわかる通り何があってもいつも微笑みを絶やさない橘とは相性が良くない。なかなか考えている事や感情が読めないのは久保田と同じだが、橘にはその薔薇のように美しい容姿に似合った鋭い刺があるのを桂木はいつも感じていた。
昨日、橘が時任と一緒にいた事も、その理由も藤原を問い詰めて白状させたが、なぜ橘ほどの男が藤原の口車に乗ったのかはわからない。けれど、時任の身を心配して一緒にいた訳ではなさそうだった。
桂木はその理由を考えながら、すうっと深呼吸するように息を深く吸い込む。そして、改めて目の前にいる橘を鋭い視線で睨みつけた…。
「まさか…、慰めるフリして時任にいらない事を吹き込んだりしてないでしょうね?」
「いらない事?」
「もちろん、久保田君の中学の頃の噂についてよ」
「それなら、噂は話しませんでしたが事実は話しましたよ。一緒に暮らしている時任君には、事実を知る権利があるはずですから…」
「時任に話したって、どんな事を?」
「二人がいつも使っていたのが音楽室だったとか、そういうことです」
「どうして、それをアンタが知ってんのよっ」
「あそこは防音が効いてて、僕もたまに利用してたので偶然に…」
「・・・サイアクな学校ね」
「だから、松本会長は校則を作って代えようとしたんですよ」
「でしょうね…。それで、そのサイアクな話を聞いた時任は?」
「いいえ、別に何も…。ただ何も言わずに黙って、じっと僕の話を聞いてましたよ…」
「・・・・・・・」
「僕と一緒にいても…、一人で寂しそうに…」
家に待つ人がいても…、一人で寂しさに凍えながら久保田は屋上に立っている…。
そして誰かが隣にいても寂しそうに…、時任も一人ぼっちでいた…。
子供の事を考えると久保田にも時任にも何も言うことはできないけれど、離れ離れになってしまった二人の事を想うとたまらなくなる。でも、他の誰かと暮らす久保田と時任が今まで通りの関係を続けていけるとは想えなかった…。
ただの同居人で相方だったら…、離れないで済んだのかもしれない。
でも、ただの同居人でも相方でもなかったから一緒にいたのに違いなかった。
いつも一緒に同じ場所に帰っていく二人の姿を思い浮かべると、なぜか桂木の胸にも寂しさがゆっくりと満ちてくる。それはたぶん…、夕日に照らされながら帰っていく二人の姿がすごく…、幸せそうに見えたからかもしれなかった…。
桂木は寂しさに胸が締めつけられるのを感じながら、橘にもう一度、時任に居場所を聞く。だが、橘はそんな桂木に向かってゆっくりと首を横に振った。
「しばらくは僕の家にと言いましたが、見事にフラれてしまいましたよ」
「じゃあ時任は…」
「夜の街は一人では危険なので、後を追いましたが見事に振り切られて逃げられました…。僕が代わりに追うと久保田君に宣言したのに、情けない限りですが…」
「・・・・・・」
「桂木さん?」
「帰りたい場所も帰る場所も一つしかないクセに…、一体、どこに行くつもりなのよ…」
桂木はこのことを久保田に伝えるためにポケットから携帯を取り出したが、すぐにそうすることをやめて再び携帯をポケットの中に仕舞い込む。そして三年五組の教室に戻ると荷物を持って、訳がわからずオロオロしている相浦を強引に引っ張りながら荒磯に編入して初めて学校を早退した…。
補欠の藤原を除いたすべての部員が休み、執行部不在となった荒磯高校…。
しかし、いつも悪事を派手に働いている不良の大塚も休んでいたためか、その日の荒磯は何事もなく穏やかで平和そのものだった…。
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