禁止令.11
どこか遠くで…、誰かの泣き声がする…。
それに気づいた時任は、何かを探るように隣に手を伸ばしながらゆっくりと目を開いた。けれど、伸ばした手に感じたのは慣れないザラザラした畳の感触…。
そして開いた瞳には、見慣れないカーテンとその隙間から漏れる外からの光が見えた。
一瞬、見知らぬ部屋にいることに気づいてハッとして起き上がりかけたが、すぐにそのまま眠っていた布団に倒れ込む。それは眩暈がしたとか気分が悪くなったせいではなく、ただ見知らぬ部屋にいる理由を思い出したからだった…。
「そっか・・・。結局、俺もつぶれちまったんだっけ…」
そう呟きながら額に右手の拳を当てると、昨日の出来事が脳裏によみがえる。 時任が見知らぬ部屋で目覚めたのはマンションに帰らずに走り出した次の日、そして久保田が学校に登校する前の日のことだった…。
マンションに帰らずに走り出して、それから橘も振り切って夜の街を走り抜けて…、そうしてたどりついた場所がどこなのかは何も考えずに走って来たからわからない。けれど、走りつかれて立ち止まったコンビニで座り込んで休んでいると、聞き覚えのある人物の声がして目の前に白いビニール袋が差し出された。
『そういう顔してる時は…、とりあえずこういう気分だろ?』
そう言ったのは久保田でも執行部の誰でもなく、なぜか不良の大塚である。しかもビニール袋の中には缶ビールが多量に入っていて、時任は不審そうな顔をして大塚を見た。
けれど、大塚はそれに構わず時任の隣に座りながら、持っていた缶ビールのプルトップを空けて飲み始める。初めはいつものように何か悪事でも働いて来たのかと思ったが、白いビニール袋の中にはちゃんとレシートも入っていた。
『なんのつもりか知らねぇけど、べっつにそんな気分じゃねぇよ。それにっ、なんでてめぇがこんなトコにいんだっ』
『そ、そ、それは…、偶然で…、つまり俺ん家がココに近いからだろっ』
『はぁ? じゃあウチってドコだよ?』
『あそこの青い屋根…』
『へぇ…』
『ほ、ホントだっっ!』
『ふーん、なら納得』
『ふぅ・・・・・、セーフ…』
『セーフって何が?』
『な、なんでもねぇよっっ!!!』
大塚はかなり思いっきり挙動不審だったが、なんとなく時任も缶ビールを開けて飲み始める。それは大塚にはそんな気分じゃないと言ったが、本当は少しそういう気分だったからかもしれない…。
何を考えても想っても現実が変わる訳じゃないのに、今はそんな時間が欲しかった。
ビールをちびちびと飲んでると、出会ってからの事がたくさん頭の中に浮かんできて胸が苦しくなるけれど…、
それでも…、久保田の事を想わずにはいられない…。
今、久保田のそばにいるのは自分じゃない事を、もしかしたらこれからずっとそうかもしれないっていう事を感じれば感じるほど、なぜかもっと一緒にいたい気持ち強くなって…、
それがどうしようもなく…、つらくて哀しくてたまらなかった…。
『ただ、ずっと一緒にいられたら…、それだけでいいのに…』
そうポツリと呟いた言葉は、いつ間にか緊張のあまりハイペースで飲みすぎて自滅して潰れた大塚には聞こえていない。そして、その想いは夜の冷たい空気の中に小さく響いただけでどこにも届かなかった…。
呟いた言葉のようにポツリと一粒だけ落ちた涙は黒いアスファルトをわずかに濡らして…、時任の心を哀しみの色に染めていく…。
久保田と一緒にいたい気持ちの分だけ、好きだと想っている想いの分だけ…。
けれど、その気持ちを想いを止めようとするかのように、目をゴシゴシとこすった時任は潰れた大塚を背負って青い屋根の家に向かった。
それはただ大塚を家に送り届けるためだったが、やっとたどりついて母親に大塚を渡したと同時に時任の意識も切れる。どうやら自分で思っていた以上に、時任もビールを飲みすぎていたようだった…。
『早く帰らなきゃ…、久保ちゃんが待って・・・・・・・』
意識が途切れる瞬間、今聞こえている誰かの鳴き声のように…、そんな声が遠くから聞こえたような気がしたけれど良く覚えていない…。けれど、それを思い出しても哀しさやさみしさが深くなるだけだった…。
時任は二日酔いの重い頭を持ち上げると、改めて部屋の中を見回してみる。すると壁にかけられている時計が目に入ったが、すでに時間は朝ではなく昼の2時を過ぎてしまっている。桂木にはまた明日と伝えていたが、今から急いで学校に登校しても六時間目の終わりくらいになってしまいそうだった。
少しの間、じっと天井を見つめながら考えていたが、時任は学校に行くのをあきらめて小さく息を吐く。そして切ったままになっていた携帯に手を伸ばそうとしかけたが、なぜか今は電源をつける気にはなれなくてそうするのをやめた。
それは誰とも話したくないとかそんなのじゃなくて…、まだ頭の中がごちゃごちゃとしていてうまく話せそうになかったからである…。べつに現実を認めてない訳でも現実から逃げている訳でもないけれど、これからどうするのかと聞かれても今は何も答えられなくて…、
これ以上、一緒にいられない…、
それはわかっているはずなのに、まだ一緒にいたかったから何も言えなかった。
「ヘーキなカオして言えるくらいなら…、初めっから一緒にいたりしねぇに決まってんじゃん…」
そう呟いて眠気と一緒に何かを払うように目をゴシゴシとこすると、時任は立ち上がって寝ていた部屋を出る。すると隣に『入ったら殺す』と汚い文字で書かれたプレートのかかっている部屋があったので、そーっと覗いてみるとその中にあるベッドで大塚がぐっすりと眠っていた。
薄暗い部屋にはエロ雑誌や脱いだ服、食べかけのお菓子や空き缶が散乱していてかなり汚いしタバコ臭い。時任は顔にタテ線を入れながら『げ…っ』と小声で言うと、ゴミ箱に蓋をするように部屋のドアを閉めた。
いつも久保田と一緒に寝る部屋も、脱いだ服を散らかしていたり本が散らかってたりはしているが大塚の部屋よりかなりマシである。時任も久保田も綺麗ずきというほどではないが、それなりに掃除はする方だった。
そしてタバコの匂いもどの部屋にも染み付いてはいるけれど、今思えばそれなりに換気はしてくれていた気がする。リビングで煙がいっはいになっている事はあっても、寝室がそうなった事は今まで一度もなかった。
でもそれに気づいても…、うれしいはずなのに哀しくなるだけで…、
部屋のあった二階から一階に降りて行くと、重さで少し軋む階段の音が自分の心まで軋ませていく感じがした…。
時任が軋む音を聞きながら階段を降り終えると、さっきから聞こえていた泣き声が止んで…、代わりに優しい女の人の声が近くの部屋から聞こえてくる。それは、酔い潰れた時任をあの部屋に寝かせてくれた大塚の母親の声だった。
時任が部屋のドアを開けると、大塚の母親が入ってきた時任を見てニコッと笑う。すると、そんな母親の顔を見ていた腕の中にいた赤ん坊も真似をするようにニコッと笑った。
「昨日はあの子を連れて帰ってくれて、二階まで運んでくれてありがとう。一人じゃとても運べないから、すごく助かったわ」
「えっ…、それってマジで? 俺はぜんぜん覚えてねぇけど…」
「じゃあ、自分が帰るって言いながら階段の前で倒れた事も?」
「う…、うん…」
「ごめんなさいね。本当は帰りたかったのに、あの子を運んで来てくれたせいで帰れなくなって…」
「べつに俺が運びたくて運んだんだし、そんなの気にすんなって…っ。それよか、マジで泊めてくれて助かった…、アリガトな」
「どういたしまして…。それで、昨日は聞けなかったけど君の名前はなんていうの?」
「時任稔・・・・・」
「時任稔君、ね・・・・・、ふふふ…」
「な、なんだよ?」
「私、稔君に会えてちょっとだけホッとしたわ」
「はぁ…?なんで?」
「きっと稔君みたいな子が友達にいたら、あの子は大丈夫…。だからホッとしたのよ、本当に良かった…」
「・・・・・・・・」
確かに昨日は大塚と一緒にいたが、本当は一緒にいる方がめずらしい…。友達ではなく天敵なのに時任はそんな風に言って喜んでいる母親を見ていると、どうしても違うと言う事ができなかった。
大塚の本当の母親は小さな頃に亡くなったらしく、今の母親と父親が結婚したのは中学一年の時…。そして大塚が家にあまり帰らなくなって荒れ始めたのも、それくらいの時から始まったそうである。けれど、そんな話を聞かされても時任には、母親とか継母だとか言われても意味も感覚もあまり良くわからなかった…。
でも…、なんとなく伸ばした手の人差し指を赤ん坊がぎゅっと握りしめてきて…、その握りしめてくるちっちゃな手の意外な強さを感じていると何かがわかってくる気がする。
何かをつかもうとして握りしめてくる手は…、自分以外の誰かを必要としていた…。
その手をじっと見つめていると久保田のコートや制服の袖を握りしめる自分の手と、なぜかダブって見えてくる気がして…、
時任はちっちゃな手と指で握手しながら、目の前の赤ん坊に哀しそうな瞳で優しく微笑みかけた。
「良かったな…、一緒にいてくれるヒトがいて…」
そんな時任の聞いていると胸が痛くなってくるような…、哀しさとさみしさの滲んだ声を聞いていた大塚の母親は、何かを言いかけたがそのまま口を閉じて黙り込む。そして、伸ばされた時任の指を握りしめた赤ん坊が眠りにつくまで、時任も母親もそれぞれの想いを胸に部屋に差し込んでくる昼間の穏やかな日差しを…、
ただ…、静かに見つめていた…。
時任はマンションにも帰らず…、次の日もまた次の日も学校に来ない。
それを心配した桂木が学校を早退して、相浦を引きずりながら捜索に出かけたのは時任が学校を欠席した二日目の午後…。けれど、なぜか予想外に学校からあまり離れていないスーパーの前で時任を発見する事に成功した。
発見したのは藤原の悪事に加担していたという大塚に、時任の事について何か知らないか聞き出しに行く途中だったのだが…、
なぜか時任を発見した桂木は一緒にいた相浦と一緒に、まるで何か恐ろしいモノを見てしまったかのようにその場にビシッと凍り付いて固まってしまっていた。
「・・・・・・ねぇ、相浦?」
「なんだよ、桂木」
「あれは何なの…?」
「あ、あれは何って…、そう俺に聞かれても…」
「もしかして幻覚? 蜃気楼?」
「うう…、白昼夢にしては夢見が悪すぎるよな…」
「ちょっとお願いがあるんだけど、あたしを殴ってくれない?」
「え…っ、ま、マジで?」
「マジでよっ、これで夢なら覚めるわっ」
「じゃ、じゃあ遠慮なく・・・・・」
ガツッ・・・・・・・・
「・・・・・痛い」
「あははは…、フツー殴ったら痛い…、よな?」
「フツーじゃなくて・・・・・、かなり痛いって言ってんのよっ!!!」
「うわぁぁぁっ!!じ、自分で殴れって言ったクセにっ!!!」
「問答無用っ!!」
「ぐふっ・・・・っ!!!」
さっきまで相浦の目はハッキリパッチリ覚めていたが、桂木の拳が顔面に突き刺さって頭の上をお星様とヒヨコが回り始める。けれど、目が覚めていても眠っていても目の前の光景は変わらなかった。
目の前のスーパーから時任が出てきても別に幻だとは思わないが、その横に並んで歩いている人物を見るとやっぱり幻覚としか思えない。それがいつも一緒にいる久保田だったら問題ないし、執行部の誰かだったら多少、別の問題は起こってくるがこれほどの衝撃は無いに違いなかった。
桂木は藤原から今回の悪事に大塚が加担していた事を聞いてはいたが、その理由については何も聞いていない。それは聞くまでもなく執行部に対する復讐のためだと、そう思い込んでいたせいだった。
でも実は今回、大塚が藤原の悪事に加担したのは復讐ではなく…、恋のため…。
それを証明するかのように白いビニール袋を持って、まるで新婚夫婦のように時任の隣をうれしそうに歩いている大塚の顔は気持ち悪いくらいニヤニヤしていた。
「気持ち悪くは笑えても、あくまで爽やかには笑えない…、さすが大塚だわ…」
「か、感心するようなコトなのか、それは?」
「感心なんかしてるんじゃなくて、鳥肌が立っただけよっ」
「うわ、マジで鳥肌…」
「これは非常事態じゃなくて異常事態だわっ」
「そ、それは認めし俺もすっげぇ止めたい気分だけど…、嫌がってる様子もないし、こーいうのは時任の自由じゃないのか?」
「そうね…。確かにそうかもしれないけど、今は普通の状況じゃないし…」
「けど…」
「時任はどんなに帰りたくても、久保田君の所へ帰れない…。だから、あたしはそれを自由だとは言いたくないのよ」
「・・・・・・桂木」
桂木はうれしそうな大塚とは違って、寂しそうな時任の横顔をじっと見つめてる。だが、買い物が終わって家に向かっている時任も大塚も、桂木と相浦に見られている事を知らなかった。
今日は一日、時任はご飯を食べさせてもらったり泊めてもらったりしている礼に、部屋を掃除したり買い物を手伝っている。実はそんな時任と二人きりになるチャンスを掴もうと、大塚もスーパーに来ていたのだった。
コンビニで時任を酔わせるつもりが、自分が先に酔っ払って潰れてしまった大塚は、今まで継母の目もあってか失敗続きでまだ手すら握れていない。夜も昨日は心臓をバクバクさせながら夜這いを決行しかけたが、隣のドアを開けた瞬間に起きていた時任とバッチリ目が合ってしまい失敗に終わった…。
『夜中になんの用だよ?』
『べ、べつに部屋間違えただけだろっ』
『あっそ…。じゃ、とっとと部屋戻って寝やがれ』
『くうぅぅ・・・、覚えてろっっ』
何が覚えていろ…なのかわからないが、ハッキリ言って前屈みで部屋ではなくトイレに向かう後ろ姿はかなりマヌケである。そもそも告白もしていないのに、いきなり夜這いに行く方が間違っているのだが大塚はそう思っていなかった。
実はコンビニの前に立ち止まった時任にビールを差し出したのも、久保田に女がいて隠し子がいる事まで発覚した今なら、一度、寝てしまえばモノに出来ると考えていたからである。それは普通に告白しても無駄だということを大塚なりに感じていたせいもあるが、恋を自覚した現場の状況があんな状況だったために、心よりも身体が先走っていたせいもあるかもしれなかった。
「家だと叫ばれたらマジでマズイ…。けど、そこの角曲がったら確か廃屋が…」
そう呟いた大塚が、口元にニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
やはり、恋はしていても大塚は大塚だった。
昨夜は使えなかったクロロホルムを染みこませたハンカチを、大塚はそっとポケットから取り出して時任に襲いかかろうとする。すると、それを見ていた桂木が大塚の後頭部に向かって、白い物体を勢い良く投げつけた。
ガツン・・・・・ッ!!!
白い物体が見事に直撃して大塚は倒れたが、久保田の事を考えながら歩いていた時任は気づかずにスタスタと歩いていく。そんな様子を見た桂木は満足そうにうなづいていたが、その横にいた相浦は大塚と同じように倒れていた。
けれど、それは白い物体の直撃を受けたからではなく、履いていたスニーカーを桂木に奪われたからである。つまり桂木が大塚に投げつけたのは、いつも持っているハリセンではなく相浦のスニーカーだった。
「うわぁぁぁっ、お、俺のスニーカーっっ!!」
「なかなかの投げ心地だったわよ、重さもちょうど良かったし」
「…って、そうじゃなくてっっ!!!」
「だって、しょうがないじゃない。今も持ってはいるけどハリセン投げたら、すぐにあたしだってバレちゃうでしょうっ」
「だったら、俺だって同じだっ!!」
「どうして? スニーカー見ただけなら、アンタだってわからないわよ」
「それが、俺のは見ればわかるんだ…」
「なんでよ?」
「す、スニーカーに名前書いてるから…」
相浦がそう言った瞬間に、意識を取り戻した大塚がこめかみをピクピクさせながら近くに落ちているスニーカーを拾い上げる。それを見た相浦と桂木は、アハハ、ウフフと笑い合いながらお互いの顔を見合わせた。
どうやら誰がスニーカーを投げたのか、完璧に大塚にバレてしまったようである。二対一なので形成的には不利ではないが、桂木はハリセンを構えずに相浦の肩をポンと叩いた。
「・・・・・ま、後は適当に頑張って」
「…って、マジで!?」
「マジでよ。けど、これは公務じゃないから強制はしない」
「・・・・・だったら、もしも俺が残らないって言ったら?」
「アンタが残らないなら、あたしがここに残るだけ」
「そうか…」
「そうよ」
「なら、俺が残る」
「じゃあ、あたしは行くから後はまかせたわよ、相浦」
「あぁ、桂木も気をつけて行けよ」
その言葉に背中を押されるようにして、桂木は勢い良く走り出そうとする。だが、ただならぬ気配を感じて振り返ると、持っていた白いハリセンを相浦に向かって投げた。
すると、その瞬間に大塚が持っていたスニーカーを相浦に向かって蹴りつける。しかし桂木が投げたハリセンを受け取って握りしめた相浦は、勢い良く飛んできたスニーカーを見事なハリセンさばきで叩き落して履いた。
「時任と久保田ほど強くはねぇけどさ。俺だって執行部員なんだぜ? 大塚」
「へぇ、そりゃあ初耳だ」
「だから、なんで時任が一緒にいるのか知らないけど、私情でジャマさせてもらう」
「私情でって、執行部員がそんなのでいいのかよ?」
「そんなのは考えるまでもなく、いいに決まってるだろ」
「はぁ?」
「これは公務じゃなくて、ちょっとクサいけど友情ってヤツだからなっ!」
そんな相浦のセリフを聞いていた桂木は、それに答えるように「そうよね」と言って笑いながら走り出す。けれど、どんなに一生懸命走っても二人が離れていくのを止める事ができるかどうかわからなかった…。
それでもハリセンを握るのも走り続けるのも、どんなに二人がお互いを大切に想ってるのかを…、いつも目で見て空気で感じて知っているせいかもしれない。
人はどんなに一緒にいたいと願っていても、いつかは別れの日が来てしまうものなのかもしれないけれど…、今はまだその時じゃないと信じながら…、
桂木は久保田のいるマンションへと向かっていた。
前 へ 次 へ
|
|