禁止令.12
ピンポーン…、ピンポーン・・・・・・。
玄関からチャイムが聞こえてくると、久保田は座っていたソファーから立ち上がろうとする。だが、子供をひざに抱いて立ち上がるのが遅れたために、キッチンにいたあかりが玄関へと向かった…。
ここはマンションの4階の401号室…。
久保田と時任が暮らしているばすの部屋…。
けれど、今はその痕跡が残っているだけで、この部屋のどこにも時任の姿はない。そして、部屋に響いているチャイムも…、いつもみたいにただいまと帰ってきた時任が鳴らしたのではなかった。
玄関に行かなくてもそれがわかるのは、チャイムの鳴らし方だけではなく時任の気配が感じられないからで…、
久保田はチャイムが止んで玄関から話し声がかすかに聞こえてきても、それに耳を傾けずに窓から見える空を眺める。すると、ベランダへと続く窓から見える空は青く晴れ渡っているはずなのに、なぜかその青が少しくすんで見えた…。
「あまりタバコ吸ってないし、いつもよりずっと健康的なはずなんだけど…、ね」
そう言った自分の声が、いつもより沈んでいるのに気づいて自嘲する。けれど、いつもより声が沈んでいる理由も空がくすんで見える訳もわかっているのに、子供をひざに抱いている久保田にはどうする事もできなかった。
いつもタバコを入れているポケットに手を伸ばしかけて…、また戻して…、
そんな事を繰り返すように時任が帰って来なくなった日から、繰り返し繰り返し時任のことばかりを考えてくすんだ空を眺める。すると、部屋の空気は有害なタバコの煙に汚されずに綺麗になっていくのに、空だけではなく何もかもがくすんでいくような気がした。
もしかしたらこんな日々がこれからずっと続くかもしれないのに、たった数日で何もかもがくすんで見えるほど心が乾いて…、その渇きを癒すために久保田の視線が無意識にいないはずの時任の姿を探す。けれど、そこには当たり前に時任の姿はなくて…、出しっぱなしになっているゲーム機があるだけだった。
「まだ少しのはずなのに、もうずっと会ってない気がするよ…、時任」
久保田はそう言うと、まるで時任が目の前にいるかのように優しく柔らかく微笑む。そして離れている時間が長くなればなるほど、時任の事だけしか考えられなくなっていく自分を感じながら…、まるで現実を思い出そうとするかのようにひざの上に抱いている子供の頭を撫でた。
けれど子供は何かを敏感に感じ取ったのか、久保田に頭を撫でられるのを嫌がって暴れ出す。すると、座っているソファーの隅に置かれていたあかりの赤いカバンが、子供の足に蹴られてバラバラと中身をバラ撒きながら床へと落下した。
それに気づいた久保田はとっさに右手を伸ばしたが掴めたのは手帳だけで、手をすり抜けて落ちていった物はバラバラと音を立てて床へと落ちる。だが、すべての物が床へと散らばり終えても、久保田の右手はなぜか手帳を掴んだまま動かなかった…。
右手に掴んだ…、どこにでも売っているような普通の手帳…。
それを久保田がじっと見つめていると、さっきまで暴れていたはずの子供が久保田に向かって小さな手を伸ばしてくる。そして、その手で久保田の腕を何度も叩いた。
「あー、うー…っ」
「どしたの?」
「うー…」
「もしかして怒ってる?」
「・・・・・・」
一歳半になる子供は、まだ簡単な単語を少ししか話せない。けれど、それでも何かを伝えようとしているかのように、唸りながら久保田の腕を何度も何度も叩いてくる…。
手も足も何もかもがまだ小さくて…、一人では満足に歩くことすらできないけれど…、
もしかしたら何もかもすべてを知っているのは…、小さな瞳で見つめてきたのはこの子なのかもしれなかった。
久保田が子供の…、和樹の小さな瞳を見つめと、和樹は叩くのをやめてじっと見つめ返してくる。そして、今度は久保田の腕ではなく手に向かって小さな手を伸ばしてきた。
「パパ・・・」
すぐ近くでそう呟いた和樹の声が…、久保田の耳に届く…。
すると、その呟きを聞いた久保田は和樹に向かって何かを言おうとしたが、その瞬間に玄関から戻ってきたあかりの驚いたような怒ったような声がリビングに響き渡った。
「ど、どうして…っ、久保田君がそれを持ってるのっ!」
そう言ったあかりは慌てて走り寄ると、久保田の右手から手帳を奪い取る。そしてパラパラとページをめくって手帳の中身を確認してから、床に散乱している荷物をカバンの中に入れ始めた。
どうやら、カバンから落ちた手帳はあかりにとって大切なものだったらしい。カバンの中に荷物を入れ終えると、その様子を見ながら子供をあやしていた久保田の方を、あかりは少し落ち着かない様子で見た。
「ねぇ…」
「なに?」
「もしかして、手帳の中身を見た?」
「いんや、落ちたから拾っただけで中は見てないけど」
「・・・そう」
「どうかした?」
「べ、別になんでもないわ…」
手帳の中身を本当に見ていなかったが、不安そうな顔をしているあかりが信じたかどうかはわからない。だが、久保田はそれ以上は何も言わずに黙っていた。
そして、あかりの方も手帳の中身の事や…、さっきの来客は誰だったのかも言わないままでいる。けれど、その代わりにあかりのポケットの中に入っている何かが、カサカサと乾いた音を立てていた。
カサカサと乾いた…、紙の音…。
その音はまるで、この部屋に満ちている空気が立てている音のように聞こえた。
タバコの煙が消えて綺麗になった空気は、なぜか乾きすぎている。けれど、そんな風に感じるのはニコチン中毒の禁断症状だけではないのかもしれなかった…。
この部屋にいる時の久保田の視線はいつも同じ場所を…、誰もいない空間をじっと見つめている。何かを考えるように…、何かを想うように…。
手に持っていたカバンをテーブルの上に置いたあかりは自分の方を見ない久保田の視線の先を見つめて…、それからポケットの中にある紙切れを握りしめる。そして、そばに歩み寄って久保田の隣に座るとひざの上の子供を抱き上げて、床に置いたクッションの上に座らせた。
「ちょっと話があるから…、ここにいてね」
あかりは和樹に向かってそう言うと、隣に座ってる久保田の横顔を見る。
けれど、まだ久保田は同じ場所を見つめ続けていた…。
すると、その視線を自分の方へ向けようとするかのように、あかりは久保田の手の上にそっと自分の手を置く。そして、ここには無い何かを見つめ続けている久保田の顔を横から覗き込んできた…。
「ねぇ、誠人…」
「ん?」
「こっちを向いて、私を見て…」
「・・・・・・」
「私、寂しいの、だから…」
「だから?」
「前みたいに…、私と…」
そう言いながら、あかりの赤い唇が近づいてくる。けれど、久保田はそれを拒むようにポケットから出した火のついていないタバコを口にくわえた…。
それを見たあかりは軽く唇を噛んでから、手を伸ばして久保田の唇からタバコを奪い取る。けれど、あかりが再びキスしようとすると久保田はソファーから立ち上がった。
「もしかして、今は子供が見てるから? だったら、向こうの寝室に…っ」
自分の唇を拒む久保田の中に…、夕日の中を走り去った時任の影を感じたあかりはそう言うとまだ入った事のない寝室に向かう。だが、廊下に出て寝室のドアを開けようとすると、久保田の手がそれを許さなかった。
「一度言ったと思うけど…、ココには入らないでくれる?」
「なぜ? どうして他の部屋は入れるのに、この部屋だけダメなの?」
「・・・・・・ココは散らかってる」
「だったら、私が片付けてあげるわっ」
「しなくていいよ」
「どうして?」
「ぐちゃぐちゃに…、散らかったままの方が好きだから…」
久保田は静かな落ち着いた声でそう言うと、あかりの視界から隠すようにあの日のままになっている部屋のドアの前に立つ。すると、あかりは泣きそうな顔で目の前に立つ久保田の襟をぐいっと掴んだ。
しかし、襟を掴まれても久保田の表情は少しも変わらない…。
そんな久保田の表情を見たあかりは、掴んだ襟を強く揺さぶった。
「私、さみしいの…っ、すごくさみしくてたまらないのっ。なのに…、どうして前みたいにうんって言ってくれないのっ!?どうしてっ、前みたいに私を抱いてくれないのよ…っっ!!」
まるで助けてと叫んでいるようなあかりの叫び声は、廊下だけではなく子供のいるリビングまで切なく哀しく響き渡る…。けれど、久保田はドアの前に立ったまま…、泣きそうな顔をしたあかりに向かって腕を伸ばそうとはしなかった…。
ただ、じっと立って襟を揺さぶってくるあかりを見て…、
それから…、目を閉じて音楽室で見たあかりの顔を思い出す。
するとあの日も今も…、あかりは寂しそうな顔をしていた…。
「ねぇ、あかりさん…、気づいてる?」
「気づいてるって、何を?」
「昔も今もさみしいって…、それだけしか俺に言わないってコト…」
「・・・・・・・・」
「いつも…、二人で会っててもさみしいってそれしか言わない…」
「で、でもそうだしてしも…っ、だから今度は寂しくなくなるように二人で一緒に暮らしてって…っ」
「そしたら、今度はさみしくなくなるの?」
「そうよっ」
「本当に?」
「本当よ…っ」
「けど…、だったらどうしてずっとさみしいままなんだろうね…。あの頃も…、さみしくならないように二人で抱き合ってたはずなのに…」
そう言った久保田の言葉に、襟を掴んだあかりの手がビクッと震える。けれど、あかりはそれでも久保田に一緒に暮らして欲しいと言い続けて…、本当は一緒に暮らしてもさみしくなくならない事を知りながら絶対にそれを認めようとはしない…。そして助けを求めるように久保田にすがりついて、ただ寂しいと繰り返し言うだけで…、
そんな自分自身の言葉が…、もっとあかりの寂しさを深く哀しくさせていた・・・。
けれど、それに気づかないまま・・・、やがてあかりは大きく深くなっていく寂しさに耐え切れなくなって掴んでいた襟から手を離して自分自身を抱きしめる。すると、久保田は固く閉ざしていたドアをあけて寝室の中に入って、情事の後の残る乱れたベッドのそばに落ちていた毛布を拾い上げた。
「もしも寒かったら、毛布に包まればちょっと寒さがまぎれて少しはマシになるのかもしれないけど…、俺はもうあかりさんの毛布にはなれないから・・・」
「だったら、今度は私が久保田君の毛布になるわっ。だからお願いよっ、ここで私と一緒に・・・っ」
「せっかくだけど、俺はどんなに寒くても毛布はいらない」
「久保田君っ!!」
「毛布に包まって寒さを紛らわすぐらいなら、寒いままでいた方がいい…。それで凍死しても…、本望ってヤツだから…」
久保田はそう言うと、時任の匂いの染み付いた毛布を額に押し付けると目を閉じる。まるで、この部屋に残る時任の気配を感じようとしているかのように…。
けれど、感じられるのは時任のいない静けさとさみしさだけだった…。
もしも…、このまま離れてしまったらずっと会いたくて抱きしめたくて苦しくて…、そんな想いを胸に抱え続けていかなくてはならないのかもしれない。けれど、他の誰かを抱きしめて気を紛らわせても…、その想いがなくならない限り苦しみも痛みも続いていく…。
好きで大好きでたまらない気持ちが、愛しく想う気持ちが続いていく限り永遠に…。
でも、だからこそ胸の奥に抱きしめてる恋しさと愛しさの中で…、痛みと苦しみを感じ続けていたかった。もしも一緒にいられないのなら、抱きしめる事ができないのなら…、さみしさと寒さの中で凍死してしまいたかった…。
恋して失恋して別れて…、また恋をして好きになって…、
そんな風に何度も人を好きになる事も…、たぶんあるんだろうけど…、
ぬくもりの消えた毛布を握りしめた久保田の中は時任の事だけでいっばいで…、それだけしかなかった…。
「・・・・ごめんね」
閉じていた瞳を開けた久保田がそう言って入り口に立っているあかりの方を見ると、あかりはぎゅっと拳を握りしめて部屋の中に足を踏み入れる。そして寂しそうだった表情に少し怒りを滲ませて、毛布を握りしめたままでいる久保田の前に立った。
「どうして、ごめんねなんて言うの?」
「どんなにさみしくても…、一緒にいてあげられないから…」
「・・・・・・・」
「ごめんね、あかりさん…」
「そう…、わかったわ…。つまり私と和樹を捨てて、またあの子と二人でココで暮らすって…、そういうことなのね」
「違うよ」
「違わないわっ! 私と暮らせないって事は、あの子を選んだって事でしょうっっ!!」
一緒にいられないと告げられたあかりは、そう怒鳴りながら床に脱ぎ散らかされたままになっていた時任のジーパンを拾い上げて久保田に投げつける。けれど、久保田は首を横に振ってあかりの言葉をはっきりと否定した…。
「あかりさんとは暮らせないけど、時任とも一緒には暮らさない…」
「え・・・?」
「俺はココで和樹と二人で暮らすから…、だから行きたい場所があるなら行って…。あかりさんがさみしくなくなる場所に…」
「な、なにを言ってっ!?」
「和樹にはあやまってもあやまり切れないけど、できる限りの事はするし…、誰か一緒にいられる人ができるまで俺が和樹と一緒にいるから…」
驚いた顔をしたあかりの耳に、久保田の信じられない言葉が聞こえてくる。一緒にいられないと言われた時、てっきり時任という少年と一緒に暮らすことにしたのだと想っていたのに…、久保田の出した答えはあかりが予想していなかった答えだった…。
あかりとの間に出来た子供と…、和樹と一緒に暮らす・・・。
その答えを聞いた瞬間、あかりは驚いた表情をしていたが…、その言葉が嘘ではないことをじっと見つめ返してくる久保田の瞳から感じ取ると…、なぜか苦しみと哀しみ入り混じったような表情に変わった。
「どうして何も聞かないのっ、どうしてアイツみたいに違うって言わないのっっ!! どうして…っ、いつも貴方は・・・っ!!!!」
あかりは胸の奥から何かを吐き出すようにそう呟くと、握りしめていた手を開いて胸を抑える。けれど、あかりの言っている意味がわからないのか、久保田は何も言わずに表情も変えずに乱れたベッドの横に立っていた…。
あかりに寂しくない場所に行くように言いながら、久保田は時任のいなくなった部屋の中に寂しさの中にいる…。それを見たあかりは口を開いて何かを言いかけたが…、すぐに閉じてリビングではなく玄関に向かって走り出した。
「・・・・・さよなら、久保田君」
なぜ…、あんなにも感が良くて鋭い久保田が何も聞こうとしないのか、別れを告げて走り出したあかりにはわからない。そして時任と離れたくないと言いながら…、離れようとする久保田の気持ちもやっぱりわからなかった…。
どうしようもなく零れ落ちてくる涙は何が哀しくて流しているのか、何が苦しくて流しているのかわからなまま…、あかりはマンションから走り去って見えなくなる。すると、リビングに残されていた和樹がまるであかりを呼ぶように泣き始めた…。
けれど、その泣き声は走り去っていなくなってしまったあかりには届かない…。そして、同じように寝室のブラインドの隙間から見える空を眺めながら、時任を呼んだ久保田の声もここにはいない時任には届かなかった…。
「好きだよ…、時任…」
まるでさよならを告げるように…、そう呟いた久保田の声は哀しくて胸の奥が痛くなるほど苦しくて切ない…。でも今の久保田には哀しさを苦しさを…、そして寂しさを無くす方法はなかった・・・・。
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