禁止令.13



 
 あんなにいつも…、二人で一緒にいたのに今はそうじゃない…。

 その原因は禁煙させるために始めた禁止令ではなかったけれど、なぜかそこから想いがすれ違って、いつの間にか何も見えなくなってしまった気がした。
 何かをどこかに置き忘れて、見上げた空も何かが欠けてて綺麗なのにどこかさみしくて哀しい。そんな空に向かって何かを叫びたい気がするのに、それが何なのかもわからなくて時任はらしくなく深く長いため息をついた…。
 時任の歩いていく方向には見慣れた街があって、けれど向かっている先はマンションじゃない。その場の成り行きで、二日ほど泊めてもらっている大塚の家に向かっていた。
 手に持っている小さな白いビニール袋には、一緒に買い物に行った大塚が持っている袋に入りきらなかったカレールーの箱と離乳食が入っていて…、
 たぶん、このまま大塚の家にいると今日の晩御飯はカレーライス…。
 でも時任はそれを知る前から、買い物を終えたら大塚の母親に泊めてくれた礼を言って…、それからさよならを告げるつもりだった。

 「いつまでも迷惑かけるワケにはいかねぇし、そろそろ帰らなきゃなんねぇし…」

 そう口に出して言ってみても、足は重くなるばかりで前に進めない。それは夕焼け空の下を走り出した時から変わってなくて、時任はポケットの中に入っている401号室のカギを握りしめた。
 このカギさえあれば部屋に入れるけど、たぶんドアの前に立ってもカギは開けられない…。大塚の家にいた赤ん坊が自分の指を握りしめてきた時みたいに、久保田の指を小さな手が握りしめてるんだってそう想ったら、いつも言ってるただいまじゃない言葉が胸を…、
 その中にある想いをぎゅっと強くしめつけてきて苦しかった。
 ぎゅっと握りしめてくる小さな手は、きっと久保田を必要としてる。
 でも、そう感じながらも久保田の手を握りしめて離さないでいた…。

 小さな手と同じくらい…、それよりも強くぎゅっと握りしめて…。

 なんでだって…、どうしてだって何度も何度も繰り返し、ここには居ない久保田に自分自身に問いかけても切なくなるだけで…、
 握りしめすぎたカギの暖かさが、なぜか暖かすぎて哀しかった…。
 そんな想いを振り切るように足元に落ちていた空き缶を蹴ろうして、でもやっぱり蹴ることができなくて…、空き缶を拾い上げて近くのゴミ箱に捨てる。すると、ぼんやりと歩いていたせいで帰り道を間違えたのか、行く時にはなかった工事中のビルの看板が見えた。
 ・・・・・・・・立ち入り禁止。
 ビルの看板の前に立ち止まって見てみると、大きな赤い文字でそう書かれている。それは工事現場に入ると危ないから書いてあるだけだったけれど、なぜか赤い禁止の文字を見ているとカギを握りしめてるのがつらくなってきて…、
 でも…、それでもやっぱり離せなくて…、
 見失った何かを探すように、また空を見上げて深く長く息を吐いた。

 「カギがあっても…、帰れなきゃイミねぇのにな…」

 そう呟いた瞬間、自分をじっと見つめてくる視線にハッと気づいて辺りを見回す。すると、向かっていた方向から誰かが歩いてくるのが見えた。
 けれど、あの日とは違って逆光になっていないので、すぐにそれが誰なのかわかる。時任のいる方へと向かって歩いてくるのは雪野あかりだった…。
 最初はもしかしたら、偶然ここを通りかかったのかと思ったけれど、それにしては様子がおかしい。今のあかりは最初に会った時とは雰囲気も違っていた。
 視線も表情もどこか余裕がなくて、右手には何か紙のような物をぎゅっと握りしめている。時任がその手を見つめると、あかりは握りしめていた紙を時任の目の前で開いてみせた。

 「ずっとここにいるつもりなら、わざわざここまで伝えに来てあげる必要もなかったかもしれないわね」

 そう言ったあかりの声を聞きながら開かれた白い紙を見ると、見慣れない住所が書かれている。なぜ、そんな紙をあかりが持っているのかはわからないが、書かれていた住所はマンションではなく大塚の家の住所だった…。
 それをあかりから聞いた時任は、紙を奪い取ってビリビリに破く。確かにマンションに帰らなかった間は大塚の家に泊めてもらっていたけど、ずっといるつもりなんてなかった。
 もしも帰れなかったとしても…、帰りたい場所は一つしかない…。
 時任はカギを握りしめてる手に力を込めると、目の前に立つあかりの瞳を真っ直ぐ見返した。
 「紙に書いてあったトコにはちょっと泊めてもらってただけで、今日はもう泊まらねぇつもりだし、ずっとなんてそんなつもりはねぇよ。それに、俺がどこにいようとアンタには関係ねぇだろっ」
 「そうね…、確かに私と君は直接的には関係はないわ。でも、誠人君を挟んで間接的には関係あるでしょう?」
 「はぁ? そんなの俺が知るかよ。アンタが久保ちゃんと知り合いでも俺は会ったのは二度目だし、ぜんっぜんっなんも知らねぇっつーのっ」
 「本当に? 本当になんにも知らない?」
 「・・・・・・・」

 「その顔は全然なんにも知らないって顔じゃないわよね?」

 あかりはそう言うと、しかめ面した時任をじっと見つめる。
 けれど、その視線は言葉とは裏腹に挑戦的でも挑発的でもなかった。
 時任は久保田との復縁を邪魔する邪魔者でしかないのに、あかりはなぜか同情的な視線を向けている。なぜ、そんな目で見られなきゃならないのかわからなくて、時任はしかめ面のまま不快そうに眉間に皺を寄せた。
 「さっきから、なにジロジロ見てやがんだよっ」
 「それは相手の目を見て話すのが礼儀だからでしょう?」
 「そーじゃなくてっ、俺はかわいそうとか同情してるみたいな…っ、んな目でてめぇに見られなきゃなんねぇ覚えはねぇっつってんだっ!」
 「そう…。じゃあ私が君にじゃなくて君が私に同情してくれる?」
 「はぁ? なんで俺がっ」
 「だって、君だけじゃなくて私も寂しそうでかわいそうだから…」
 「さみしそうでかわいそう?」
 「誠人は私とも君とも暮らさない…。あのマンションで子供と…、和樹と二人で暮らすって言ったわ…」
 「・・・・・・っ!」

 「だから、私も君も寂しそうでかわいそうでしょう?」

 ・・・・・寂しそうでかわいそう。
 久保田とも子供と別れた自分自身の事をそう言いながら、あかりは寂しそうな顔で口元にかすかな笑みを浮かべる。そして、右手の人差し指で軽く自分の目元をこすった…。
 その仕草も表情も演技にはとても見えなくて、だから言ったのはたぶん本当の事。
 けれど何かがおかしくて…、何かが違ってた…。
 もしも一緒に暮らさないって言ったのが本当で…、これからずっと一緒にいられないなら寂しくて哀しくて…、切なくて泣きたくなるだろうけど…、
 それは一人きりになるのがさみしいからって…、それだけじゃない…。でも、あかりはさみしさだけを埋めようとするかのように、目の前に立つ時任に向かって手を伸ばした。

 「君と私は同じ…、だから誠人に捨てられた者同士で一緒に暮らさない? そうしたら少しは寂しくなくなるし、一人きりにならなくて済むわ…」

 そう言ったあかりの瞳はさみしそうで…、そして真剣だった。
 あかりの瞳はさみしいから一緒にいて欲しいと、そう時任に言っていた…。
 けれど、伸びてきたあかりの手を拒絶して、時任は自分の手をさっと背中の後ろに隠す。すると、あかりは傷ついたような哀しい顔をした…。
 でも隠した手は皮手袋をはめている方で、何度も何度も数え切れないくらい久保田と握りしめ合ってきた右手…。だから、もう一緒に暮らせなくてもあかりと…、他の誰かと手を繋ぐ気にはなれななかった。
 久保田と一緒にいられなくなったら、きっと寂しくて哀しくて…、
 けれど…、それを他の何かで埋めようとは想わないし、他の何かじゃ絶対に埋めようとしても埋められない…。久保田の言葉を聞いても、離れた場所で空を見上げていてもそれだけが確かだった…。
 時任はあかりを見上げた空のように澄んだ瞳で見つめると、ポケットから取り出した401号室のカギを手のひらの上に乗せる。そして、カギについているギザギザの部分の感触を確認するように開いた指をゆっくりと折り曲げた。
 「一人きりがさみしいって…、ちゃんと言葉じゃなくて感覚で知ってる。でも、だからってアンタと一緒にいたいって想わねぇし、そんなコトしたってイミねぇよ」
 「どうして?」
 「アンタは久保ちゃんじゃないし…、俺だって久保ちゃんじゃねぇから…」
 「なら、ずっと寂しいままでも哀しいままでもいいの?」
 「そうじゃねぇけど、久保ちゃんと一緒にいらんねぇならこのままでいい」
 「・・・・・・・私はそんなのはイヤ」
 「だったら…っ、だったらアンタはなんで一人でこんなトコにいんだよっ!」
 「え?」

 「アンタには俺なんかよりもずっと…、アンタの事を好きで一緒にいたいって想ってくれてて…、帰るのを待ってくれてるヤツがいるはずだろっ!」

 時任は手のひらのカギをぎゅっと強く強く握りしめてそう叫んだけれど、あかりは自分の事を想ってくれてる人も…、待ってくれてる人にも心当たりがないらしく首をかしげる。それを見た時任はギリリと歯を噛みしめて、握りしめた拳で立ち入り禁止の看板に叩きつけた。
 するとその音が辺りに響き渡って通りかかった中学生が立ち止まったが、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。でも時任の怒りに似た…、けれど哀しみの入り混じった複雑な表情は拳を看板に叩きつけた時のまま変わらなかった…。
 久保田に子供がいると知った時は、自分と一緒にいる間もあかりとそういう関係だったかもしれないと疑ったりもしなかったし…、そのことを怒ったりもしなかったのに…、
 今は久保田が一緒にいてくれなくてさみしい…、哀しいと言うあかりを殴るかわりに拳を看板に叩きつけている。けれど、ぼんやりと自分を見つめてくる本当に何もわかっていないあかりの顔を見た時任は、小さく息を吐くと看板に叩き付けた拳をゆっくりと下へと降ろした。
 「さみしいって哀しいって…、そればっか言っててさ。ホントに自分をさみしく哀しくしてんのは、久保ちゃんじゃなくてアンタ自身だろ」
 「もしかして、そんなのは気の持ちようだとでも言うつもり?」
 「そんなコトは言わねぇし、思ってねぇよ」
 「だったら、何を根拠にそんな事を言うの?」
 「根拠とかワケとかそんなのじゃなくて、それが事実だから言ってるだけだっ」
 「違うわっ、私が私を寂しく哀しくしてるなんて、そんなのあるはずないじゃないっ。私が寂しいのは誰も一緒にいてくれないから…、だから私はさみしいままなのよ」
 「ホントにホンキでそう思ってんのか?」
 「そうよ」
 「・・・・・・・・・」
 「時任君?」
 あかりの迷いのないハッキリとした返事を聞いて黙り込むと、時任は何かを思い出したように右手の皮手袋を少し見つめて…、それから手に持っていたカギを再びポケットの中に入れる。実はそのカギは新しく作ったスペアキーではなく、久保田がマンションに引っ越してきた時に管理人から受け取ったカギだった。
 久保田は同居することになった時任にカギを渡す時、手に持ってたスペアではなく自分の使ってたカギの方を渡したのである。それを不思議に思った時任がなぜかと聞くと久保田は、ココに入れるホンモノのカギはお前に持ってて欲しいからと言いながら、時任の手のひらの上にカギを載せて微笑んだのだった…。
 禁止令でいつもと呼び名を変えていつもよりちょっとだけ違うだけなのに…、
 あんなにいつも一緒にいても、どんなに一緒にいてもこんなに簡単に距離が開いてしまうんだってそう感じて…、それがショックでさみしくて哀しくて…、
 けれど、今も時任のポケットの中には久保田の渡してくれたカギがある…。
 そしてそのカギはマンションの部屋は久保田のものだから、時任が一緒に暮らそうって言っても久保田が首を横に振ったら一緒には暮らせないように…、
 久保田がカギを渡しても、時任がそれを受け取らなければドアは開かれないということを時任に教えてくれていた…。

 カギを渡した時に触れた指先のあたたかさと…、微笑んでいた久保田の想いと一緒に…。

 深呼吸するように深く長く息を吐いて新しい空気を肺の中に吸い込むと、時任はまるで出口のない迷路をさまよう様に目の前に立つあかりに真っ直ぐな視線を向ける。そして立ち入り禁止と書かれた看板に背を向けて、あかりの手に白いビニール袋に入っていた離乳食を押し付けた。

 「俺はさみしいから久保ちゃんと一緒にいたいんじゃないし、一人ぼっちになりたくないから、そんな風に想ってるんじゃない…。スゴク好きだから…、誰よりも好きだから一緒にいたいんだ…」

 時任はそう言って離乳食をあかりに渡すと、あの夕焼けが綺麗だった日のようにマンションのある方向に向けて走り出す。けれど、そんな時任のポケットには久保田からもらったドアを開けられる本物のカギが入っていた。
 時任がこれからどうするのか…、あの日のように時任の背中を見送ったあかりにはわからないし、誰も一緒にいてくれないというのならそんな事はもうどうでもいい…。でも時任から渡された離乳食を握りしめると、あかりの瞳から自然に涙が溢れてきた…。

 「私だって…、さみしいから一緒にいたかった訳じゃなかったのに…」

 あかりは持っていたカバンから手帳を取り出すと、その中に挟み込まれていた写真を取り出す。すると、そこには眼鏡をかけた男が写っていた…。
 けれどそれは目元が少し似てはいるものの、どう見ても久保田ではない。でも…、さみしくて哀しくて流したあかりの涙は久保田と過ごした日々の思い出ではなく、ぽつりと男の写真の上に落ちた…。




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