禁止令.14



 
 ピンポーン…、ピンポーン・・・

 マンションの401号室の前に到着した桂木が、肩で息しながらチャイムを鳴らす。けれど、部屋に誰もいないのか、いくらチャイムを鳴らしても401号室のドアは開かなかった。
 本当はこの部屋のチャイムが鳴るのは二度目だが、今、ここに来た桂木はそれを知らない。大塚のいた場所からここまで遠くて思ったよりも時間がかかってしまったために、すでに辺りは暗くなり始めていた…。
 そのため桂木は焦りながら部屋を間違えたのかと思ってチラリと401号室の表札を改めて見たが、やはり久保田と書かれていて目的の部屋はここで間違いない。だから、もしかしたら用事があって出かけてしまっているのかもしれなかった。
 たとえば、前に聞いた事がある生活費を稼ぐためにしているバイトとか…。
 でも、こうしている間にもあんなに近かった二人の距離が離れていく気がして、桂木は焦る気持ちを抑えながら辺りを見回す。時任が大塚と一緒にいるという事もあったけれど、時任が何日も帰らないのに探そうともしない久保田の事がやっぱり気にかかっていた。
 いつもの久保田なら、時任がどこにいるのかくらい掴んでいる。
 けれど、今の久保田はおそらく本当に時任がどこにいるのか知らない…。

 迎えにも探しにもいけない…、そう言った言葉のままに…。

 どんな形でもケジメをつけて欲しいと言って…、そう思ったのは本当だけれど、どんな事実や現実が目の前にあっても二人に一緒にいて欲しいと思っているのも事実だった。でも、同じように久保田が時任の事だけではなく、彼女や子供の事を考えている事にほっとしてもいる…。
 時任の事を伝えるために401号室の前に立っているはずなのに、桂木の想いも気持ちも複雑だった。
 執行部の仲間として友達としての想いと、女としての想いは違っていて…、桂木は足元を見つめて小さく息を吐く。けれど、このまま二人が会わないままに離れていく事だけは、絶対に黙って見てはいられない…。
 これは二人の…、三人の問題で自分は立ち入ってはいけないのだと知りながらも、桂木はそんな自分の想いに押されるように開かないドアのノブをひねった。
 すると、誰もいないはずなのにカチリと音を立ててドアが開く…。
 不審に思った桂木が玄関に入って声をかけてみると、奥から聞きなれた声がした。

 「悪いけど、カギ閉めてからこっち来てくれる?」

 桂木が言われた通りにして廊下の突き当たりのドアを開けると、子供を腕に抱いてソファーに座っている久保田と視線が合う。けれど、部屋には久保田と子供だけで子供の母親らしき人物はどこにも見当たらなかった。
 そして…、大塚の所にいる時任の姿も…。
 でも、その事は何も聞かずに桂木が歩み寄って久保田の腕の中にいる子供の頭を撫でると、頬に涙の後を残して眠っている子供の表情が少しだけ穏やかになる。すると、久保田はそんな桂木を見て口元に笑みを浮かべた。
 「やっぱり…、女のヒトにはかなわないなぁ」
 「もしかして、もう子守りはギブアップってこと?」
 「うーん、そうじゃないけど、どうにもならないトコはあるなぁって…」
 「けど、意外に似合ってるわよ、お父さん」
 「そう?」
 「時任の事を想うと…、複雑だけど…」
 「・・・・・・・」
 桂木が時任の名前を出すと、久保田の口元の笑みが濃く深くなる…。けれど、笑みが深くなればなるほど、そこに時任への想いが滲んでいるように見えてとてもさみしく…、とても哀しく見えた。
 ついこの間までは二人が離れてしまう事なんて考えた事もなかったし、そんなのはあり得ない事だと想っていたのに、今この部屋に時任はいない。それが自業自得な結果だったとしても、桂木はじっと何かを想うように床に散らばったゲームを眺める久保田に感じるさみしさや哀しさを見なかった事して忘れる事はできなかった…。
 久保田と付き合っていた女性との間に、何があったのかはわからない…。けれど、時任との間にあった絆は、きっと久保田にとって何よりも大切で…、
 何よりもどんなものよりも、守らなくてはならないはずのものだったはずで・・・、
 だからこそ、その絆を久保田の想いを…、二人の心を繋ぎ止めたかった…。
 
 たとえ…、それが許されない事だったとしても…。

 桂木はぎゅっと拳を握りしめると、何も言わずに大塚の自宅の住所と電話番号の書いた紙を久保田に差し出す。ここに時任がいるから…、お願いだから早く行ってと心の中で告げながら…。
 でも桂木の差し出した紙を見もせずに久保田は、静かに微笑んで軽く首を横に振る。
 そして、差し出された桂木の手を軽く押し返した…。
 「気持ちはありがたいけど、コレは受け取れない…」
 「どうして? ただ、持ってるだけなら何も問題ないでしょう?」
 「・・・・ゴメンね」
 「どうしても…、受け取ってくれないの?」
 「受け取れないのは、見てしまったら行かずにはいられないから…」
 「・・・・・・久保田君」
 「俺はね、桂木ちゃん…。ホントは現実も事実も変わらないって言いながら、そんなコトはどうでもいいって思ってる。けど、なのに行かないのは、もしも行ったら時任に嫌われちゃうからってだけ…」
 「でも、それは…っ」
 「いいよ、無理してフォローしてくれなくても…。俺は自分勝手で身勝手でいつだってエゴの塊で、桂木ちゃんに心配してもらえるようなニンゲンじゃないから…」
 久保田はそう言うと自嘲するように微笑みながら、腕の中にいた子供にそっと毛布をかけてソファーに寝かしつける。桂木はそんな久保田の様子を何も言わずに見てたが、少し穏やかになった子供の寝顔を見るとズキズキと胸が痛んだ…。
 その痛みに思わず手の中の紙切れをくしゃりと握りつぶすと、どうにもできないやり切れなさがそこから滲んでくる気がして眉間に皺を寄せる。でも、じわじわと胸の奥に染みこんで来るその想いをどうする事もできなかった。
 何か言いたいのに…、何かを伝えたいのに言葉が出ない…。
 息苦しくて握りしめた手で胸を抑えると、久保田がその息苦しさを払おうとするかのようにポンと軽く桂木の肩を叩いた。
 「ケジメはちゃんとつけるから、心配しないでいてくれる?」
 「・・・・・」
 「きっと傷つけて泣かせちゃうと思うけど、それでも俺は何も変わってないから…、それだけは信じていて…」
 「えぇ…、それだけは言われなくても信じてるわ」
 「うん…」
 「だから一つだけ…、たった一つだけ聞かせて欲しいことがあるんだけど?」
 「・・・・・・・話せることなら」

 「じゃあ聞くけど、時任の事をどう想ってるの? お願いだから答えて…」

 桂木のした質問は…、聞かなくても普段の久保田を見ていれば自然にわかるのかもしれない。けれど、どうしても久保田の口から聞きたくなって桂木がそう言うと、久保田は何も答えずに柔らかく静かに微笑んで…、まるで祈るように瞳を閉じた…。
 胸の奥に深く深く刻み込まれた想いは…、言葉にも声にもならない…。
 でも…、窓からの穏やかな光に照らされた久保田の横顔を見ていると、どうしようもなく胸が痛くて切なくて苦しくてたまらなかった…。
 桂木は握りしめた紙をポケットに仕舞い込むと、目じりに滲んだ涙を手のひらで拭う。そして、まだ時任の気配と匂いの残る部屋から玄関へと向かおうとした。
 けれど、その瞬間に401号室に三度目のチャイムが鳴り響く…。
 重く苦しく…、切なく哀しく・・・・。
 そんなチャイムの音を聞いた桂木は思わず、久保田に何も聞かずに玄関に走り出す。そして、さっき自分の手で鍵をかけたドアをガチャリと開けると…、そこには信じられない人物が立っていた…。

 「時任…、どうして・・・・・」

 桂木はそう呟いたが、時任はそれを無視して靴を脱いで玄関にあがると廊下を歩いて久保田のリビングへと真っ直ぐに歩いていく。そして迷うことなく廊下とリビングをつなぐドアを開けると、そこにいた久保田と向かい合った…。
 目の前に立つ時任を見つめて穏やかに優しく微笑んでいる…、久保田と…。
 時任の後ろにいる桂木には時任の表情は見えなかったが、背中を見つめているだけでズキズキと胸に痛みが走る。けれど、二人の間にあるピンと張り詰めた空気が、桂木の足を凍りつかせていて動けなかった…。
 でも、そんな桂木の様子に気づいていたのか、久保田が少し時任から視線を後ろに向ける。そして、桂木の方に向かって軽く手を振った。

 「今日はありがとね…、桂木ちゃん」

 それは…、これ以上は立ち入るなという久保田の合図で警告で…、
 これ以上は…、桂木だけではなく他の誰も入れない…。
 乱れたままになっている寝室のように…、誰も入る事は許されない…。
 桂木は目の前に立っていた時任の手で、二人だけの世界の扉が閉じられるのを眺めながら、それを感じてさみしくなったけれど…、
 閉じられた扉をこじ開けて、二人の世界に入る気にはならなかった。
 
 「大好きよ…、二人とも」
 
 桂木は少し涙の滲んだ瞳のままで笑顔を浮かべながら、閉じられたドアに向かってそう言うと、自分の家に帰るために玄関に向かう…。告げた想いは執行部の仲間として、そして友達としての想いだけど…、それは決して弱いものじゃなかった。
 だから…、心配でたまらなくて走り出したくなる。
 でも、今は見守っている事しかできなかった…。
 桂木はマンションを出ると、心配そうな顔で二人のいる部屋のある辺りを見上げる。すると、そこには同じようにマンションを見上げている人物がいた。
 コンビニの近くの電柱から隠れるようにして眺めていたが、視線の先を追うとやっぱり401号室がある。桂木が不審に思って近づくと、その人物も桂木に気づいて走って逃げ出そうとした。
 だが、桂木は逃げ出そうとした人物の腕をぐいっと掴んで止める。そして泣きはらした瞳をしたその人物の顔を、真剣な瞳でじっと覗き込んだ…。

 「逃げても逃げても…、逃げられない…。貴方とあの二人が向かい合ってるのは、そういう事のはずよ…。だから、逃げないで…」
 
 桂木がそう言うと、逃げ出そうとしていた人物はそうするのをやめて立ち止まる…。
 そして、その思いのままにじっと見つめ合いながら向かい合っている久保田と時任のように、二人は黒いアスファルトの上で向かい合った…。




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