禁止令.15



 
 『当分…、ウチには戻らねぇから…』

 あの日、あかりが二人の前に現れた日に、時任は久保田に向かってそう言った…。
 ずっと戻らないのではなく、当分は戻らないと…。
 だから、迎えに行かなくても一度は言葉通りに必ず戻ってくる…。そう確信して信じてはいたけれど、久保田が迎えに行かなかったのはもっと他の理由からだった。
 あかりが目の前に現れた瞬間、見えたのは今まで振り返った事もない過去で…、
 その過去が…、走り去っていく時任の背中を追いかけようとした久保田を止める。けれど、久保田の足を止めさせたのはあかりではなく、恋しても愛してもいないのに抱きしめた自分の罪だった…。

 『いいよ…、それで寂しくなくなるなら…』

 そう自分があかりに向かって言ったのがいつの事だったのか、はっきりと覚えてはいない…。けれど、こんな事をしても何にもならないと、こんなのは優しさでもなんでもないと…、あの時も本当は心の奥底では知っていた。
 なのに、あかりがそれでいいならと、それだけの理由で拒まなかった。
 恋する事も愛する事も知らずに寂しがっている心ではなく、ただ身体だけ抱きしめた。だから、どんなに抱き合っても身体だけしか熱くならなくて…、心はいつまでも冷たいままだった。
 抱きしめても抱き合っても…、何も変わらない…。
 恋しても愛してもいないから…、罪と後悔しか生まれない…。
 でも、それを感じたのは…、それを強く感じる事ができるようになったのは大好きな人を抱きしめたからかもしれなかった。

 『好きだよ…』
 
 そう言って…、大好きな人とキスして抱きし合って…、
 身体だけじゃなくて心まで抱きしめたくて…、すべてが欲しくてたまらなくて…、
 そんな気持ちを知っていたら、他の誰かを抱きしめたりしなかった。
 けれど、どんなに後悔しても過去は消えないし時間は戻らない…。
 時任に出会って恋して一緒にいたいと願って…、
 なのに、その想いを後ろから侵食するように過去が追いかけてくる。
 
 消えない自分自身の過去と…、罪が…。
 
 久保田は瞳をそらさずにまるで過去を見つめるように、言葉通りに帰ってきた時任と見つめ合ったまま動かない。そして、時任も久保田と見つめ合ったまま動かない…。
 すると、玄関から出て行った桂木がドアを閉める音が聞こえてきたが、それでも二人は見つめ合ったまま動かなかった…。
 
 「おかえり、時任」

 久保田が帰ってきた時任にそう言いながら優しく微笑みかけると、時任は哀しさの滲んだ瞳で少しだけうつむく…。けれど、すぐにぎゅっと右手の拳を握りしめて視線を上げた。
 二人の見つめ合う視線には冷たさも怒りも欠片もなくて、ただ哀しさだけが瞳と心の中に入り混じる。夕焼けの空の下で感じた別れの予感は、確実な現実となって二人の目の前に存在していた…。

 「・・・・・ただいま、久保ちゃん」

 そう返事した時任の声はとても静かで穏やかで…、そんな時任の様子に少し驚いた久保田の顔から微笑みが消える。どうしてだって…、なんでだってそう聞かれると想っていたのに、時任は穏やかで静かで何も聞かない…。
 それはきっと別れるつもりで、聞く必要がないからなのかもしれなくて…、
 そう想うとこうなる事を望んでいたはずなのに、胸の奥がズキズキと痛んできて…、
 その痛みを止めるために…、腕を伸ばして目の前に立っている時任を抱きしめたくてたまらなくなる…。

 何もかもが自分のせいで、自業自得なのに…。

 そう心の中で言いながら自嘲すると、久保田はじっと時任の口から別れの言葉が出るのを待つ。けれど、時任は久保田をじっと見つめていた視線をソファーで眠る子供の方に向ける。そして、この部屋に入ってきた桂木がしたように時任も久保田ではなく子供に歩み寄って…、そっと優しく頭を撫でた…。
 「すごく良く眠ってんな…」
 「さっきまで、すごく泣いてたんだけどね…。桂木ちゃんが来てくれたから…」
 「そっか…」

 「・・・・・・うん」
 
 静かに穏やかに流れていく二人の時間が愛しくて切なくて…、苦しい…。
 もう一緒にいられないし、そんな資格なんてないとわかっているはずなのに、一緒にいる時間が長くなればなるほど、きっと離れられなくなる。嫌いだって嫌だって泣いてもわめいても、あの日のままになっている寝室に閉じ込めてしまいたくなる…。
 最低でも最悪でも…、時任に触れていたかった…。
 抱きしめていたかった…。

 すぐ目の前で…、子供が眠っているのに…。

 そんなドス黒い感情が沸き起こってくるのを感じた久保田は、自分の口から時任に向かって別れの言葉を告げようとする。けれど、まるでそれを拒絶するかのように、時任は久保田に背を向けるとテレビの前に座った。
 そして、床に放り投げたままになっていたゲーム機に電源を入れると、テレビに映し出された格ゲーをするためにコントローラーを握って…、
 じっと動かずにソファーに座ったまま…、あの夕焼けの日のように目を細めて時任の背中を見つめている久保田に向かって手招きした。

 「久保ちゃん…、ひさびさに対戦やらねぇ?」

 時任がそう言うと久保田は少しだけ考え込んでから、ソファーから立ち上がって時任の隣に座る。それから、時任と同じようにコントローラーを握った。
 すると、ゲームが始まって二人で自分のキャラを選択して戦闘が開始される。けれど、いくらゲーム画面を見つめても、時任が何を考えてるのか久保田にはわからなかった…。
 いつものように話して…、ゲームして…。
 そんな時間が…、こうしている内に長く長くなって…、
 その時間の中に恋しさと愛しさが降り積もって胸が痛くてたまらなくて、別れの時をもっと哀しく切なく苦しくさせる。けれど、そんな痛みさえも抱きしめて離したくなくて何も言い出せないまま・・・、リビングにはカチャカチャと二人のコントローラーのボタンを押す音だけが響いていた…。










 対戦成績は0勝、5敗…。
 いつもやっているので簡単に負けたりはしないけれど、やっぱり久保田には勝てない。また自分のキャラが久保田のキャラに必殺技でやられたのを見ると、時任はすぐに次の対戦をするためにコンテニューを押した…。
 でも、心が別な事で一杯になっているせいか、なかなか指が上手く動いてくれない。本当はこんな風にゲームするためじゃなくて、もっともっと何か話したい事も言いたい事もあって…、
 だから、そのためにこの部屋に帰ってきたはずなのに、口から出たのはただいまとなんでもないありきたりな言葉だった…。たくさん言いたい話したい事があるのに、何も言えなくて静かな時間だけが流れていく・・・。

 一緒にいる時間が長ければ長いほど…、つらく哀しくなってくだけなのに…。

 時任は胸の痛みを和らげようとするかのように、リビングの静かな空気をゲームしながらゆっくりと深呼吸して吸い込む。すると、ちょっとだけタバコの匂いがして、なぜか少しだけ目の奥が熱くなった…。
 久保田に禁煙して欲しくて禁止令なんてして、だからこの部屋からタバコの匂いが消えていくのがうれしいはずなのに…、部屋から消えていくタバコの匂いがまるで自分みたいに想えて哀しくなる。けれど、時任は零れ落ちそうになる涙を袖で拭うと、その涙を隠すように部屋に来て初めて笑った…。
 「あのさ、久保ちゃん」
 「なに?」
 「・・・・・ちょっと、呼んでみたかっただけ」
 「時任・・・」
 「・・・・・・」

 「俺もちょっと、呼んでみたかっただけ…」

 そう言って顔を見合わせて笑って…、でも本当は笑いたい訳じゃない。
 けど、こぼれ落ちそうになる涙を止めるためには笑うしかなかった…。
 ずっとここにいたかったから…、ずっと一緒にいたかったから…、
 そして、そうする事ができないこともわかっていたから…、いつもみたいに笑って話して、それだけしかできなかった。笑えば笑うほど胸が痛く苦しくなっていくのに…、それだけで精一杯だった・・・。

 久保田に何も言わせないためには…、そうするしかなかった…。
 
 タバコの匂いが前よりもしなくなったけれど、この部屋があまりにもあの日のままだったから…、おかえりと言ってくれた声がいつもと同じだったから…、
 そこから久保田の想いが伝わってくる気がして、胸が熱くて痛くて苦しかった…。
 タバコをやめてくれなくて…、でも部屋は久保田の物だから止める権利はないって想って哀しくなった事もあったけれど、きっとそうじゃない。ずっと一緒にいたかったのも、ずっと二人でいたかったのも自分だけじゃない…。
 だから、この部屋に二人でいたのに何かを見失いかけていた。
 ここは久保田の部屋で表札にも久保田の名前しかないけれど、ここには時任の居場所が帰る場所があって…、
 けど、だから帰るのじゃなくて…、久保田のいる場所に帰りたいからポケットの中にあるカギでドアを開ける…。
 そして、それは久保田の意思でも誰の意思でもなく…、自分自身の意思だった。

 久保田を誰よりも好きだと想う…、ずっとそばにいたいと願う自分の想いだった…。

 けれど、今はこのカギでドアを開ける訳にはいかない。
 どんなに大好きで好きで…、恋しくてたまらなくてもここにいる訳にはいかない。
 頬に涙の跡を残して眠る子供の手は、驚くくらいすごく小さくて…、
 そんな手から久保田の手を…、母親を奪う事は出来なかった。
 時任はゲームをしている手を止めて床の上にポケットから取り出したカギを置くと、無言で立ち上がってスタスタとリビングを出ていく。すると、久保田もゲームを止めて廊下に向かった時任を追ってきた…。
 たぶん…、きっと引き止めるためでなく、別れの言葉を告げるために…。
 そんな久保田の気配を背中に感じた時任は、玄関にたどりつくと立ち止まる。そして、静かに口を開いた。、唇を開きかけた久保田の腹に思い切り拳を叩き込んだ。

 「・・・・っ!!!!」

 時任の本気の拳を腹に食らった久保田は、あまりの痛みに顔をしかめて前のめりになる。すると、そんな久保田に向かって腕を伸ばして…、時任は腹を殴った手と同じ手で久保田をぎゅっと強く抱きしめた…。
 その痛みを…、想いを抱きしめるように…。
 けれど、どんなに抱きしめても痛みも想いも止まらなくて、時任はギリリと歯を食いしばる。なのに、そうしても胸の奥にある思いそのままに…、零れ落ちてくる涙すら止まってはくれなかった。
 「時任…」
 「黙れ」
 「・・・・・・・・」
 「なんにも聞きたくないし、聞く気もねぇからなんにも言うな…、久保ちゃん…」
 「そうかもしれないけど、言いワケくらいさせてくれない?」
 「なに言ってんだよ…、言いワケなんかする気もねぇクセに…っ!」
 「そんなコトないよ」
 「ウソつき」
 「ウソじゃない」
 「ウソだっ!」
 「・・・・・・・」
 「言いワケじゃなくて、俺が久保ちゃんのコト嫌いになるように逆のコト言うつもりだろ…っ!!」
 「まだ何も言ってないのに、そんなコトわからないでしょ?」
 「他の誰にも久保ちゃんにもわからなくても…、俺にはちゃんとわかるっ」
 「どうして?」

 「それは久保ちゃんのコトは誰よりも…、久保ちゃんよりも俺の方が良く知ってっからに決まってんだろ…っ、バー…、カ…っ」

 そう言った声は涙でかすれてしまっていて…、後から後から零れ落ちてくる涙が久保田の肩を濡らす…。でも、痛みも哀しみも止める事ができないように、涙も止める事ができなかった…。
 時任はバカと何回も叫びながら、久保田の背中を叩く…。けれど、その声はまるで好きだと叫んでいるみたいに胸の奥に響いてきて哀しかった。
 時任に背中を叩かれながら抱きしめられて…、久保田も祈るように目を閉じると時任の背中を抱きしめる。すると、これから別れなくてはならないのに、伝わってくる体温が暖かくて気持ちよくて・・・、
 時任はその暖かさをずっと抱きしめていたいはずなのに、唇をきつく噛みしめて黙り込むと抱きしめてた腕を離して久保田の腕からも強引に抜け出す。そして、その場に立ち尽くしている久保田の襟をぐいっと引張って顔を近づけると、涙に濡れた瞳で鋭く睨み付けた…。

 「ハンパはするなよ…、久保ちゃん…っ。コドモと母親を引き離すような真似しやがったら、マジで許さねぇしブッ飛ばすかんなっ!!」

 時任に本気で睨みつけられて、久保田が「うん…」とうなづく…。
 すると、それを見た時任は安心したような顔でうなづき返して微笑んだ…。
 伝えたいことも言いたいこともたくさんあったけれど、大塚の家で赤ん坊の手を握った時から…、それを一番、久保田に伝えたかったのかもしれない。子供の手があんなにちっちゃくても…、すごく強く手を握りしめられるんだって事を教えたかったのかもしれない…。
 必要としてる人の手を…、ぎゅっと強く…。
 そして同じように時任も久保田の手を握りしめていたけれど、今はどんなに必要でも握りしめてはいられない…。時任は掴んでいた襟をもっと引き寄せて、近づいた久保田の唇に軽くキスすると…、パッと襟を手から離して久保田に背を向けた。

 「バイバイ…、久保ちゃん」

 もっとずっと先…、いつかまた一緒にいられる日が来るのかもしれない…。
 そして、もう二度とそんな日は来ないのかもしれない・・・。
 けれど、それがわかっていても、今は未来や明日だけではなく足元さえも何も見えなくて、どうすることもできなかった。
 



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