禁止令.16
逃げられない現実、消えない過去…。
それは、どんなに目を閉じても耳を塞いでもなくなってはくれない。
たとえ忘れ去ろうとしても、絶対になくなる事はない…。
それがどんなに哀しくて辛い事でも、胸が痛くて張り裂けそうな事でも…、身体にも心にも今という時間が記録されていくのを誰も止められないから…、
そうする事が生きていくという事だから、誰も現実からは逃げられない…。
けれど、桂木と向かい合った雪野あかりは、まるで現実から目をそらすように桂木から目をそらして、じっと足元にある黒いアスファルトを見つめた。
「貴方が雪野あかりさんね?」
桂木がそう問いかけても、あかりはうつむいたまま視線をあげようとはしない。だが、視線はあげなくても無視する気はないらしく、素直に桂木の問いかけにうなづいた。
「えぇ、そうよ…。けど、そう言う貴方は誰?」
「私の名前は桂木和美…。久保田君と時任のクラスメイトで同じ執行部員よ」
「そう…、だから私の事も知っているのね。でも、貴方の言いたい事なら想像がつくから言わなくてもいいわ」
「え?」
「友達想いの貴方はもう二人には近づくなって、そう私に言いたいんでしょう?」
そう決め付けるように言いながら、何かを想うように考えるようにあかりが見つめている先に何があるのか桂木にはわからない。けれど、あかりの暗く沈んだ表情と泣きはらした瞳からはさみしさが強く伝わってきた…。
うつむいたあかりを見つめていた視線を再び401号室に向けると、そこには明かりが見えたがその明かりもなぜかさみしそうに見えて…、何もかもがさみしく見えて…、
それがたまらなく辛くて思わず桂木が空を見上げると、いつの間にか空も暗くなってしまっていた…。
「そうね…、そうかもしれない…。あたしは久保田君にこの紙を渡しに来たんだから、確かにそう言いたいのかもしれないわ」
空から視線をあかりに戻して桂木がそう言うと、うつむいていたあかりが顔をあげて桂木の真剣な瞳を少しだけ見つめ返す。そして、ポケットの中に手を入れて何かを握りしめる動作して、また視線を足元の黒いアスファルトへと戻した。
すると、桂木は時任の居場所を書いた紙を閉じたまま、あかりの目の前に差し出す。
結局、久保田は受け取らなかったが二人に離れて欲しくなくて紙を渡そうとした事は事実で…、だからそれを隠すつもりはない。これは久保田とあかり…、そして時任の問題だとわかっていながら、ここまで走ってきた事を桂木は後悔していなかった。
後悔するくらいなら、初めから走り出したりはしなかった。
桂木は真っ直ぐに瞳をそらさずにあかりを見つめ続けて、事実をありのままに告げる。すると、そんな桂木に何かを感じたのか、今度はあかりも瞳をそらさず真っ直ぐに桂木の方を見つめた・・・。
「久保田君に渡そうとしたこの紙には、時任の居場所が書いてある…。これを渡して二人を会わせようとしたけど、久保田君はこの紙を受け取ってくれなかったわ」
「そう…、でも結果は同じでしょう? 誠人君が行かなくても、あの子の方から来たんだから…」
「やっぱり貴方は、時任がマンションに戻って来てるのを知っているのね」
「えぇ、もちろん知ってるわ」
「もしかして、出かけていて偶然?」
「いいえ、違うわ…。私が会いに行ったから、あの子は誠人君のいるマンションに帰ってきたのよ」
あかりが時任に会いに行って…、
だから…、時任はマンションに帰ってきた・・・。
けれど、あかりがマンションに帰れと言うために、時任の所に行ったとは思えない。それに、おそらく久保田は時任ではなく、あかりと子供の方を選ぶはずで…、
だから、本当ならあかりがこんな所でさみしそうにマンションを見上げている必要はないはずだった。なのに、あかりは今もさみしそうな顔をしているのは、もしかしたら桂木の知らない理由が何かあるのかもしれない…。
そう思った桂木がその事について何か聞こうとすると、それを遮ろうとするかのようにあかりが口を開いた。
「せっかく呼び止めてくれたのに悪いけど、私は逃げるんじゃないわ。もう終わりだから…、行くのよ・・・」
あかりは何か言いたそうな顔をした桂木に向かって、そう言うと短く笑う。
けれど、あかりの言った事は間違いで、終わりなのは久保田から別れを告げられる時任の方であかりじゃない。だから、桂木は思わず違うと叫んだが、あかりはそれを聞こうともせずにマンションに背を向けて歩き出した。
401号室にいる子供を残して…、一人で…。
それを見た桂木は勢い良く走り出して前に回り込むと、あかりの行く手を塞いだ。
「何がどう終わりなのかは知らないけど、あたしの話はまだ終わってないわ」
「聞く必要がないから、終わりよ」
「でも…、久保田君は…っ!」
「誠人?誠人は私ともあの子とも一緒に暮らさないって…、あの部屋で子供と二人で暮らすって言ったわ」
「そんな・・・、まさか・・・っ」
「これはウソじゃない本当のことよ、だから私はあの子に会いに行ったんだもの」
久保田が時任だけではなく、あかりとも一緒に暮らさないと言った事を…、子供と二人で暮らすと言った事を今まで桂木は知らなかった。だから、あかりがそう言ったのを聞いて驚いて、わずかに目を見開く…。
確かに久保田はちゃんとケジメをつけると言っていたが、こんなケジメのつけ方は久保田らしくなかった。
母親と引き離して子供だけ引き取って…、時任とも別れて…、そんな事をしたらさみしさや哀しさが増えるだけで何もならない。それがわからない久保田じゃないはずなのに、なぜそんな事を言ったのか桂木にはわからなかった。
子供はきっと・・・、母親を恋しがって今も泣いている。
マンションの401号室で眠る子供の顔を思い出しながら桂木がじっと考え込んでいると、そんな桂木の様子を見ていたあかりは口元を歪めて笑った。
「そんなに悩む必要なんてないわ、どうせウソになるんだから…」
「ウソ?」
「そうよ」
「どうして?」
「口ではなんて言っていてもあの子と会って話せば、元通り二人で一緒に暮らす事になってそれで終わりになる…。だから、あの子と一緒に暮らさないって言ったのは絶対にウソなのよ」
「・・・・・・」
「誠人もあの子も一緒にいたいと想ってる・・・。そして誠人にとっては、私よりも子供よりもあの子が一番大事。だから、何をしたって結果は初めから見えていた」
「・・・・・雪野さん」
「ねぇ、そうでしょう?」
あかりにそう言われて、桂木はどう答えていいのかわからず言葉に詰る。それは久保田が時任の事を一番大事に想っている事も、二人が一緒にいたいと想っている事も本人に聞くまでもなく事実だったからだった…。
時任を見る時、久保田の瞳がとても優しくなる事も…、
久保田が自分から手を伸ばして触れるのは、時任だけだと言う事も…、
桂木だけではなく執行部員なら…、あの藤原でさえもおそらく知っている。
けれど、それと同じように口ではなんと言っていても、久保田が自分の事だけを考えて行動するような人間ではないことを…、時任が泣いている子供を無視して久保田の隣に座ったりしない事を桂木は知っていた。
そんな二人だから…、大好きだった…。
でも…、だからこそ久保田がなぜあんな決断をしたのかがわからない。そして、それと同じように何をしても結果は初めから見えていたと…、二人の想いが深い事を知りながらも子供が生まれて1歳を過ぎた今になって、あかりが久保田の前に現れたのはなぜなのかということもわからなかった…。
別れた久保田を自分に繋ぎとめるために、何も言わずに子供を産んだのなら、時任がマンションに来ているというだけであきらめて終わりにするとはとても思えない。だから、きっと他に何か理由があるかもしれないと考えかけたのに、桂木はその思考を追い払うように頭を横に振った。
それは401号室を見上げていたあかりの瞳が、切なくなるくらいさみしそうで哀しそうだったからかもしれない。それに桂木に向かって全部ウソだと終わりだと言い続けるあかりは、本当ならそうならないで欲しいと思っているはずなのに、逆にそうなって欲しいと二人が元に戻って欲しいと願っているようにも見えた…。
だから久保田は時任だけではなく、あかりと一緒には暮らさないと言われて一度はマンションから出て行ったのに、あかりは時任の後ろを追いかけて戻ってきたのか…、
それをどうしても知りたくて桂木は、逃げられないように両手を伸ばしてあかりの肩を強く掴んだ。
「・・・・・だったら、そう思うのならなぜ戻ってきたの。もう終わりだってダメだってわかっていて、どうしてココにいるのよっ」
「そんなの…、そんなの貴方には関係ないわっ。だから、肩から手を放してっ!!」
「イヤよっ、貴方が答えてくれるまで絶対に放さないわっ!」
「…っ!!」
「関係ないからって、それがなんだって言うのよっ! あたしは関係なくったってなんだって二人の事が心配だしっ、泣いてる人を放って置くことなんてなんてできないわっ!」
「泣いてる人って…、まさか私の事も心配だとでも言うつもり?」
「そうよ、悪い?」
「・・・・・・久保田君だけじゃなく、貴方もウソつきだったのね」
「ウソじゃないわっ」
「・・・・・・・・」
「久保田君や時任の事とは関係なく、さみしそうな哀しそうな目をして泣いてる人を心配して何がいけないのっ。そんなウソをついて…、一体何になっていうのよ…っ」
桂木がそう言うと、あかりは冷たい表情で肩に乗せられた手を強引に外そうとする。けれど、桂木はあかりのポケットからのぞいている小さな瓶を眺めながら、掴んだ肩を離そうとはしなかった…。
あの夕焼けの日からではなく、その前から関係がぎくしゃくし始めていた久保田と時任の事が心配で…、けれど哀しそうなさみしそうな瞳で401号室を見上げていたあかりの事も頭から離れない。
ウソつきと言われても偽善者と言われても、あかりにも誰にも泣いて欲しくなかった。
何かがあると何が悪いとか良いとか、誰が悪いとか良いとか考えて想って・・・、
そうして、その何か解決しようとするけれど、きっとココには悪人とか善人とかそんなのじゃなくて…、きっとそれぞれの想いを胸に抱いてる人がいるだけで…、
ただ、その想いが深すぎて…、どうしようもなく哀しくて切ないだけで…、
だから、執行部で公務を執行している時のようにではなく、深くなっていく哀しさと切なさを止めようとするかのように桂木は、逃げ出そうとするあかりの肩を捕まえたまま離さないでいるのかもしれなかった…。
「確かに貴方の言う通りよ…、その通りだわ…。久保田君は時任の事が好きよ…、大好きよ。そして、時任もそう想って一緒にいたいと願ってる」
「・・・・・・・・・」
「でも、きっと貴方の予想通りにはならないわ…っ、絶対にっ」
「もしかして、誠人は嘘はつかないとでも言うつもり?」
「そうよ…、あたしはそう信じてる。そしてきっと時任は一緒にいたいって久保田君に言うために、マンションに戻って来たんじゃないわ…」
「どうして、そう思うの?」
「このマンションに来た理由が、貴方と一緒だからよ…」
「そんなのあり得ないわっ。それに私がなぜマンションに戻って来たのか、貴方は知らないしわからないはずでしょう?」
「ええ…、さっきまではわからなかった。けど、今ならハッキリわかるわ」
世の中にはわからない事がたくさんあって、けれど何もかもがわからない訳じゃなくて、わかろうとすればわかる事だってちゃんとある。桂木はそう言って肩を掴んでいた片方の手をあかりのポケットに入れて強引に中に入っていた小瓶を取り出した。
すると、その瓶の中にはペースト状にした食べ物が入っていてラベルには離乳食と書かれている。あかりがポケットの中で大切そうに握りしめていたのは、今も401号室にいる子供に必要なものだった…。
桂木は取り出した瓶を再びポケットに収めると、唇を噛みかみしめているあかりの肩から手を離す。そして、誰よりもあかりを待っている人のいる401号室の明かりを見上げた。
「あの子は、今も貴方をあの部屋で待ってるわ」
「そうだしても、こんな酷い母親なんて待つだけ無駄よ。私はあの子を久保田君に押し付けて…、もう二度と会うつもりはないから…」
「あの子が、貴方を恋しがって泣いていても?」
「・・・・そうよっ! 初めからそのつもりで誠人君に会いに来たんだから当たり前でしょう?!」
「だったら、どうして時任に会いに行ったの? 自分の思い通りに久保田君に子供を押し付けて、なのになぜそれを自分で壊すような真似をするのよっ?!」
「それは誠人君がいけないのよっ、誠人君が悪いんだわ…っ!」
「久保田君が悪い?」
「そうよ…、誠人君が悪いのよ…っ。私がなんて言っても証拠がないなら、その子は俺の子なんかじゃないって言えば終わりなのに…っ、簡単な事なのにどうして…っ」
「雪野さん…、まさかあの子は…」
「あの日に違うって言えば…、それで簡単に終わりのはずだった。なのに、違うって言わなかった誠人君が悪いのよ…」
あかりはそう言うと、掴まれた肩を震わせながら低く声を立てて笑う。すべてを否定してしまえばそれで終わりなのに…、そうしない久保田を嘲笑うように…。
でも、その笑い声はどこか哀しくて…、それを感じた桂木は唇を噛みしめる。久保田の事を嘲笑っているあかりの頬を叩いてやりたい気持ちはあるけれど、あかりから感じる哀しさやさみしさが震える肩から伝わってくる気がして…、
嘲笑っているフリをして…、本当は泣いている気がしてできなかった…。
「貴方は一体…、久保田君の何を見ていたの?どんな気持ちで久保田君が違うって言わなかったのか、お願いだから考えて…っ」
「イヤよ…、もう何も考えたくないわ」
「雪野さん…っ」
「もうダメよ、お願いなんてされないわ。誰も私と一緒にいてくれないから、さみしくてさみしくて…、もう疲れたから放っておいて…っ!!」
そう叫ぶあかりを見ているとさみしくて哀しくて…、けれど、同時になぜ久保田があかりと一緒に暮らさないと言ったのかが少しずつわかってくる。あかりは哀しくてさみしがってはいても、誰も一緒にいてくれないと泣いてはいても…、
時任と同じように…、好きだから久保田と一緒にいたいとは言わなかった。
さみしいから誰かと一緒にいたいだけで、久保田を好きな訳じゃない…。けれど、もしかしたら久保田に何か言いたい事があって、何かを叫びたくて来たのかもしれなかった。
子供を押し付けに来たと言いながらも、終わりにするのは簡単だと言ったあかりはたぶん…、あの日、子供を抱きしめながら久保田の口から否定の言葉を待っていて…、
なのに、久保田は時任の背中を追いかける事もせず否定しなかった。
でも、それはあかりの言葉をそのまま信じたからじゃない…。
たぶん…、初めから子供の父親が自分じゃない事を知っていた…。
『今、二人ともウチにいるよ』
桂木があかりと子供の事を聞くと、久保田がそう答えたのを覚えている。
その時、桂木は本当だったから家にいるのかと思ってたけれど、良く考えると久保田は一度も自分の子供だと認める発言はしていなかった。
なのに、あかりと一緒に暮らせないと言いながらも、子供を引き取ろうとしているのはなぜなのかはわからない。けれど、久保田が誰よりも時任の事を想いながらも、あかりの事も子供の事もちゃんと考えているのは確かだった…。
「どこが自分勝手で身勝手で、いつだってエゴの塊なのよ…。さっきはウソつきじゃないって言ったけど、やっぱり前言撤回っ。ホントにあんたって、泣きたくなるくらいウソつきだわ…っ」
桂木はそう言うと哀しくてさみしくて、終わりだと何もかもあきらめてしまっている…、そんなあかりの手を掴んで握りしめる。そしてマンションから離れるのではなく、マンションに向かって歩き始めた。
すると、あかりがマンションに行くのを嫌がって、掴まれた手を引張ってその場に留まろうとする。けれど、桂木は強引にあかりを引きずるようにしてマンションの前まで来ると、中に入るためにドアを開いた。
「何もかも終わりなのかどうか、自分の目で確かめるといいわっ」
「そんなのっ、確かめるまでもないでしょうっ! あの子が帰ってきて、それで終わりだって何回言ったらいいのっ!!」
「終わりじゃないからっ、自分の目で確かめろって言ってるのよっ!! 時任はマンションには戻らないし、久保田君も時任と一緒に暮らしたりしないわっ!」
「・・・・・・っ」
「あたしは…、そういう二人だから大好きなのよ…。だから、お願いだから二人の気持ちを考えないで何も見もしないで…、終わりだなんて簡単に言わないで・・・っ」
桂木がそう言った瞬間に、開けたドアから勢い良く誰かが走り出てくる。
その人物を見て桂木はわずかに目を見開いたが、あかりはそれよりも驚いていて掴んでいた桂木の手がその拍子に外れた事さえ気づいていなかった…。
振り返らずに立ち止まらずにマンションから出て行った人物は、時任は…、スゴク好きだから誰よりも好きだから一緒にいたいとそう言っていたのに…、
伸ばした桂木の手を擦り抜けると、振り返らずに暗闇に沈む街に向かって走り出した。
「そんな…、ウソでしょう?」
走り去っていく時任の背中を見つめてあかりがそう呟くのを聞きながら、ドアからマンションの中を覗くとそんな時任を追いかけて久保田が部屋から出てくる様子もなくて…、桂木は持っていた携帯で相浦を呼び出す。けれど、今は走り去っていく時任の背中を呼び止めることは、誰にもできないのかもしれなかった…。
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