禁止令.5




 ・・・・・・・久保ちゃん。

 いつもと呼び方が違っても、名前を呼んでくれていることには変わりはない。
 けれど、久保ちゃんではなく久保田と呼ばれるたびに違和感が大きくなった…。
 それがなぜなのかはわからないけれど、久保田はセッタをふかしながら自分の横を歩いている時任の横顔をじっと眺める。でも、二人はいつもと同じように並んで歩いていて…、呼び方が変わったこと以外は何も変わりなかった。
 だから、久保田はまるでそれを確認するように腕を伸ばして、いつものようにその腕を時任の肩に軽く乗せる。すると時任は少しだけ何かを考えるように足元を見つめたが、すぐにまた前を向いて歩き出した。
 「時任…」
 「なに?」
 「ただ、なんとなく呼んで見たかっただけ」
 「…って、なんだそりゃ」
 「さぁね?」
 「・・・・・あ、あのさ、久保田」
 「どしたの?」
 「なんでもない…、別にただ呼んでみただけ…」
 「そう」

 「・・・・うん」

 いつもと同じつもりで歩いて、いつもと同じつもりで話して…、
 けれど、歩きながらぽつりぽつりと交わす二人の会話は、どことなくぎこちない。
 変わったのは呼び方なのに…、それだけで腕を伸ばして肩を抱きしめても、なぜかいつもよりわずかに距離が遠い気がした。
 大塚と話していたことが名前の呼び方が変わったことに関係があるとは思えなかったが、なぜ、あのタイミングで久保田と呼び始めたのかが少しだけ心に引っかかる。いつもと違う呼び方をした時任に大塚も驚いていた様子だったが、それよりも何よりも天敵で犬猿の仲であるはずの時任と大塚が楽しそうに話していた事の方が不思議だった。
 大塚はいつも悪事を邪魔されて、かなり執行部を恨んでいる。
 だが、時任と話していた今日の大塚はそんな風には見えなかった。

 「ま、べつに改心したってワケでもなさそうだけどね」

 たどり着いた生徒会室の前でそう呟いて、久保田は時任の肩から腕を外してドアを開ける。すると時任がまた何か言いたそうな表情で久保田の顔を見上げたが、久保田は見ていないフリをして生徒会室の中に入った。
 その口元にはセッタがくわえられていて、中にいた桂木はそれを見てわずかに眉をひそめる。桂木に渡された禁煙パイポは捨られてはいないが、使わないままポケットの中に入れっぱなしになっていた。
 ポケットの中に手を入れてシガレットチョコと禁煙パイポに触れると…、いつもと同じつもりで、そしていつもと同じはずなのに何かが微妙にずれていく気がする。そんないつもとは違う何かを感じながら、久保田は吸って短くなったセッタを携帯用灰皿に放り込んで窓際に置かれているイスに座った。
 すると時任の方は少し離れた場所にあるイスに座って、そこに置かれているゲームをし始める。けれど、どことなく二人の間に流れる空気はわずかに緊張していた。

 「いつもと変わらないように見えるけど、何かあったのかしら?」

 いつもとは少し違う二人の様子を横目で見ながら、桂木が軽く肩をすくめながらそう呟く。実はまだ時任と大塚が二人きりで話していたことを、生徒会室にいた桂木は知らなかったのだった。
 だが、その事実を聞かされても現場を見ていないので、すぐには信じられないかもしれない。それくらい時任と大塚が普通に話していること自体があり得なかった。
 天敵で犬猿の仲で…、いつでも出会った瞬間が公務執行。
 そしていつも時任は久保田と大塚は石橋や佐々原と一緒にいるので、おそらく二人きりで会ったことなど今までないかもしれない。けれど、そのあり得ない自体を起こした張本人である時任はそのことをまったく考えたりも想ったりもしていなかった。
 そのため、久保田の様子がいつもと違うのは禁止令のせいだと思っている。だから、また新しいセッタをポケットから出してくわえた久保田を見た時任は、ムッとした表情した後で少し戸惑ったように桂木の方を見た。
 けれど、何も知らない桂木は時任に向って首を横に振る。そして桂木からのメールが執行部員達に送られ、発動された禁止令は止められることなく継続されることになった。

 「せっかく久保田君を禁煙させるチャンスなのに、ここでやめたら元も子もないでしょ」

 桂木はそう呟いたが、その呟きはまた久保田の方に視線を向けていると時任にも、窓から外を眺めながらセッタをふかしている久保田にも聞こえていない。時任が桂木に相談したことで始まったタバコ禁止令だったが、事態はなぜか別の方向へと発展しつつあった…。
 久保田はシガレットチョコと禁煙パイポを持ちながらも、逆にいつもよりタバコを吸うペースが速くなっている。そして、まるで大塚とのことに気づいていない時任のように、久保田自身もそのことにまったく気づいていなかった。

 「なぁ?」
 「ん〜?」
 「・・・・そろそろ下校時間だし帰ろうぜ、久保田」
 「はいはい」
 「じゃあなっ、桂木」
 「またね、桂木ちゃん」

 二人が交わす会話はやはりいつもと変わらない。だが、帰るためにドアへと向って歩き出した時任の肩に久保田が手を伸ばすと、なぜかその手はそのまま下へと落ちた。
 久保田は表情を変えずにドアを開けて出て行く時任の後ろ姿を見たが、時任はさっき見て見ないフリをした久保田のように振り返らない。すると、また何事もなかったように久保田は歩き始めたが…、
 長くなっていたセッタの灰が、携帯用灰皿ではなく床にポトリと落ちた…。










 「一体なんだったんだ…、さっきのは…」
 
 静かな室内にそう呟く声が響いたが、呟いたのは桂木ではなく大塚である。時任と久保田が生徒会室から出る少し前、まだあの教室に残っていた大塚は一人でぐったりとイスに座っていた。
 時任が久保田のことを久保ちゃんと呼ばなかったことは、あまりにも不自然だったので驚いたが、それよりも何よりも自分が時任にドキドキしてしまったことが信じられない。執行部の時任と言えば、いつも大塚の悪事を邪魔する天敵で憎むべき相手でそれ以上でも以下でもなかったはずなのに…、
 今も時任のことを思い出すと不覚にもドキドキが止まらなかった。
 
 「と、と、とにかく落ち着けっ、こんなのは落ち着けば治るに決まってんだろっ!」

 そう叫びながら頭を抱えて大塚が苦悩していると、偶然、教室の前を通りかかった男子生徒が真っ青になってダッシュで逃げ去る。しかし男子生徒が苦悩しながら顔を赤らめている大塚を見て逃げたのか、それとも廊下の窓からそんな大塚を見て不気味に微笑んでいる藤原を見て逃げたのかは謎だった。
 赤い顔をしてブツブツと独り言を言いながら苦悩している大塚と、廊下の窓をわずかに開け、そこから教室の中を覗き込んでフフフと微笑む藤原…。
 はっきり言って、どちらも三百メートル以内に近づきたくないほど不気味である。
 時任のことを考えて悶々としている大塚と久保田のことを考えて妄想に浸っている藤原から流れてくるねっとりとした空気は、教室だけではなく廊下にまで漂い始めていた。
 「くううっ、うううう・・・・っ、時任っっ」
 「ああ〜ん、久保田せんぱぁ〜い〜」
 空気だけではなく響いてくる二人の声もあまりにも不気味なため、いつの間にか教室付近だけではなく廊下にも誰もいなくなってしまっている。だが、そんな不気味な空間をものともせずに、雄たけびをあげながら猛ダッシュで走り込んでくる人物がいた。
 
 「うおぉぉぉぉっ!!!」

 廊下に響き渡る熊のような雄たけびに、背中に花を背負いながら妄想に浸っていた藤原が意識を取り戻す。しかし、藤原が気づいた時にはすぐ目前まで迫ってきていた。
 藤原はとっさに死んだフリをしたが、熊に似ていても熊ではないので助からない。走ってきた人物は死んだフリをしている藤原の存在に気づかず思い切り踏みつけにすると、大塚のいる教室にドアをブチ破って勢い良く飛び込んだ。

 「頼むっ!!俺をここにかくまってくれぇぇぇっ!!!」

 飛び込んできた人物は人間を襲いに来たのではなく、何かから逃げてここまで来たらしい。かけているサングラスの下にある瞳からだーっと涙を流している人物…、室田は、それだけ言い終えると教室にある掃除用具入れの中に隠れようとしたが、身体が大きすぎて半分も入らなかった。
 それでも強引に入ろうとしていたが、今度は身体がはまって出られない。室田は自分が出られなくなったことに気づくと、半分はまった状態のまま低く唸った。
 そんな室田の様子を呆然と見ていた大塚は、思わず「おいっ」と声をかける。すると大塚の方を見て、室田は照れくさそうに頭をかいた。
 「すまんが、身体をそっちから引っ張ってくれないか?」
 「あぁ…って、なんで俺が執行部を助けなきゃならねぇんだっ!!」
 「うむ…、それはだな。たぶんそこにいるからだろう」
 「そ、そんな理屈があるかっ!」

 「気持ちはわからんでもないが頼む…、大塚」

 絶対に意地でも執行部なんか助けたくない…。そう思っていたが、室田に頼むと言われて悪い気はしなかった。
 だが、それでもいつもの大塚なら頼むと言われたくらいで心は動かないし、おそらく鼻で笑いながら室田を見捨てて教室から出て行っただろう。しかしポケットに入れているタバコに手を伸ばしかけた大塚は、窓から見える景色を見つめると軽く息を吐いて室田のそばに近寄った。
 そして、もう一度頼むと言った室田に「バカかてめぇはっ」とかなんとかブツブツ言いながら腕を引っ張り始める。すると、以外にあっさりと室田の身体は用具入れから外れて、二人は引っ張った勢いで床に尻餅を付いた。
 「くそっ、いってぇっ!!」
 「す、すまんっ」
 こんな大塚の姿を、不良仲間である石橋や佐々原が見たら何と言うかわからない。だが、仲間である二人がいないからこそ、こんな風に室田を助けることができたのかもしれなかった。
 室田は大塚と一緒に立ち上がってズボンの埃を払うと、助けてもらった礼を言おうとしたが、口を開いた瞬間に廊下からこちらに向かって走ってくる足音が聞こえてくる。するとその足音に気づいた室田は怯えたように今度は机の下に隠れようとしたが、やはり机から巨体がはみ出してしまっていた。
 そんな様子を見ていると思わず吹き出したくなるが、怪力を誇る室田がこんなに怯えているのはかなり珍しい。時任ほどではないが室田にも公務を執行されたことのある大塚は、廊下の足音を聞きながら不吉な予感を感じて額に汗を浮かべた。
 「おいっ、てめぇは一体何から逃げてきやがったんだ?」
 「・・・・ううっ、そ、それは」
 「唸ってないでさっさ教えろっ!さっき助けてやったのを忘れたとは言わせねぇぜっ!!」
 「い、いや、忘れてはいないが…、あまりに恐ろしくて口には出せんのだ」
 「そんなに怖いモンから逃げてきたのか…」
 「に、逃げてきたのは病院からだがな」

 「病院…? どこか悪いのかよ?」

 大塚がそう聞いたのは、特に意味は無く会話の自然な流れだった。だが、その質問を聞いた途端、もの凄い形相で室田は隠れていた机から這い出してきて大塚に詰め寄ってくる。
 じわじわとじわじわと室田に壁際まで追い詰められた大塚は、逃げ場を失って子ウサギのように情けなく震えていた。

 「ぎゃあぁぁっ!!助けてくれっ!! 石橋っ、佐々原ーーーっ!!!」

 ここにはいない二人に助けを求めたが、どんなに叫んでも自宅にいるので助けに来るはずもない。大塚はぎゅっと目を閉じると、なぜか心の中で南無阿弥陀仏を唱えた。
 脳裏には過去が走馬灯のように走り、そして次々と色んな人の顔が浮かんだが…、なぜか最後に時任の顔が浮かぶ…。その瞬間にハッと我に返って大塚が目を開けると、すぐ目の前にいた室田に肩をガシッと掴まれた。
 「確かに心臓の鼓動が早くなり、息も荒くなって顔も赤いかもしれないが…、お、俺は病気なんかじゃないっ、断じて違うっ!!!」
 「け、けどよ…、鼓動が早くて息が荒いって病気じゃねぇのか?」
 「・・・・これは病気は病気でも、心の病だ」
 「こ、ココロの病?」
 「特定の人物を見ると動機が激しくなり、近づくと体温が上がり顔が赤くなる…。そ、そして…、か、かっ、下半身までもが…」
 「動機と体温と下半身…」

 「なんの病かは言わずとも、そんな症状に覚えくらいあるだろう…」

 室田にそう言われて思わず自分の下半身にじーっと見つめてしまった大塚は、隣から聞こえてきていた喘ぎ声と時任のことを思い出していた。すると室田が言ったように動機が激しくなり体温が上昇して、おまけに顔まで赤くなる。
 そして、そんな自分を意識していると下半身に熱が集中してきた。
 「ち、違うっ!! これは違うんだぁぁぁっ!!」
 大塚は叫びながら首を激しく左右に振ったが、室田は何かを悟ったかのように深刻な顔でうなづく。そして、今度は大塚の肩ではなく手を大きな両手でガシッと握った。
 「男同士だからと、認めたくない気持ちはわかる。だが、胸の鼓動と下半身は嘘をつかん…」
 「うっ・・・・」
 「鼓動が早くなり体温が上昇する…。そ、それは間違いなく恋だ…」
 「けど、俺があんなヤツにっ、まさか…っ」
 「いや、どう考えても間違いなく恋だっ!!」
 「こ、恋・・・・」
 「そう恋だっ!!!」
 「恋・・・・・」

 「ううっ…、お互いに辛いが頑張ろうっ!! そうすれば…、いつか…っっ!!」

 そう言った室田の瞳から涙が一筋こぼれ落ちてキラリと光る。するとその様子を窓から眺めていた藤原の目には、手を握りしめ合った二人の背後に荒れ狂う波が打ち寄せる砂浜と真っ赤な夕日の幻影が見えていた。
 だが、室田は大塚の想っている相手が誰かも知らないし、恋だと言い切る根拠はどこにもない。しかし大塚は室田の言葉に洗脳されたかのように、時任に恋している自分を自覚してしまっていた。
 
 「チャンス到来…」

 夕日をバックに青春している二人の様子を眺めていた藤原は、そう呟くとニヤリと笑う。そして自分の計画を実行するために教室に入ろうとしたが、藤原よりも早くドアから中に走りこんだ人物がいた。
 その人物は大塚と手を握りしめ合っている室田を見ると、持っていた木刀をビシッと構える。すると室田が慌てて大塚から手を離したが、すでに見られた後なので手遅れだった。
 「僕がトイレに行っている間に、病院からいなくなってどこに消えたかのかと思ってましたが…、こういうことですか…」
 「違うっ、俺は大塚とそんな関係になった覚えは…っっ」
 「言っているのは関係のことではなく、病院を脱け出した事ですよ。彼に会いたかったのは見てわかりましたが、それは検査が終わってからにしてください。ついでなので人間ドックの予約もして、学校にも休みの届けを出しましたから…」
 「ち、違うんだっ、松原っ!! この病気は人間ドックに入ってもわからない病気なんだっ!!」
 「それはどういう?」
 「鼓動が早くなるのも顔が赤くなるのも…、びょ、病気は病気でも心の病…、でな」
 「こ、心の病…」

 「つまりだな…、鼓動が早くなるのは・・・・・」

 室田はドキドキする鼓動を感じながら、今度は大塚ではなく松原の手を握りしめる。だが、告白しようとした室田の言葉をさえぎるように、松原は深刻な表情で手を握り返してきた。
 松原の反応に室田は驚いたが、松原は小さくうなづくとじっと室田の顔を覗き込む。そんな松原の様子に室田は更に自分の鼓動が激しくなるのを感じた。
 「もういいです…、言わなくてもわかっていますから…」
 「ま、松原…」
 「でも、もっと早く言って欲しかったですよ…」
 「すまない・・・・。だが、なかなか勇気が出来なくてな…」
 「その気持ちは良くわかります…。ですが、何事も早いに越したことはありません」
 「・・・・何事も早い?」
 「早速、携帯で連絡を…」
 「ま、松原?」
 「あ、もしもし…、先ほど診察の予約を入れた室田ですが…。実は心にも病があることがわかりましたので、精神科への予約もお願いします…」
 「うわっ、ちょっと待てっ!!松原っ!!」
 「問答無用ですっ! 心の病気も早期発見、早期治療が必要ですからっ」

 「ぎゃぁぁあっっ!! 助けてくれぇぇぇっ!!」

 室田が学校に復帰できる日はいつなのか…、それは本人にもわからない。松原に情けない格好でずるずると巨体を引きづられながら、室田は必死で助けてくれと叫んでいたが、大塚は自分のことで手一杯でそれどころではなかった。
 胸がドキドキするのは恋で、自分は時任にドキドキしている。
 その事実を自覚しながら、大塚はまた頭を抱えながら苦悩していた。
 だがそんな大塚の目の前に、執行部で補欠の藤原が不気味な微笑みを浮かべながら立つ。そして時任への恋心を自覚した大塚の耳に、まるで悪魔のように囁きかけた。
 
 「時任先輩が欲しいのなら、久保田先輩から引き離す必要がありますよねぇ? そしてそれには、お互いの利害関係が一致した心強い協力者が必要だと思いませんか? 大塚センパイ」

 恋する気持ちは暖かくも優しくもなるけれど…、好きであればあるほど、好きになればなるほど…、その気持ちの中に暗闇が忍び込んでしまうことも多いのかもしれない…。
 同じように恋する気持ちを持った二人は、お互いの中にある暗闇を見透かしたようにニヤリと笑い合ったが…、
 
 そんな二人の企みを、まだ時任も久保田も知らなかった。





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