禁止令.21



 
 騒がしくて息苦しい襲撃の夜が明け、いつものように朝がやってくる。
 けれど、襲撃の事を知るのは現場にいた人間だけに留まり、その件について校内でも校外でも噂になる事はなかった。でも、それは橘が上手く後始末をしたせいではなく、その気になれば橘を副会長の座から引きずり降ろす事も、退学させる事も出来たのに時任が何もしなかったせいだろう…。
 襲撃の後の事は時任と橘、そして松本しかわからないが、松本の後ろを歩く事をやめ横に並んで歩くようになった橘を見ているとなんとなく…、その理由がわかる気もした。
  しかし…、そうやって時が過ぎ変わっていくものもあれば何も変わらないものもある。
 それは離れてしまった…、別れてしまった時任と久保田だった…。
 でも、それでも当たり前に残酷に時は過ぎていき、たとえ一瞬でも止まる事が無い。
 前に進みたくなくても、立ち止まる事も後戻りする事もできなくて…、
 この世のすべての人々が…、ただ一人の例外も無く…、
 いつの日もどんな時も何を後悔しても何を悔やんだとしても、前へと進む道しか残されていないのかもしれなかった。
 
 


 「そろそろ、雪が降ってもおかしくないかもね」
 
 橘が起こした時任襲撃事件から一ヶ月…。
 冬の冷たい空気の中でそう言うと、久保田は手に持っていた青いマグカップからコーヒーを飲む。けれど、すでにコーヒーは入れてから思ったよりも時間が過ぎてしまっていて、完全に冷えてしまっていた。
 久保田がいるのは学校ではなく、自宅マンションのベランダ…。
 こうやってのんびりとベランダに立ってコーヒーを飲んでいるのは、冬休みで学校に行く必要がないしバイトもないからである。だから、別にベランダでコーヒーを飲みながらぼんやりとしていても何の問題もない…。
 けれど、部屋の中にも見上げた空にも何かが欠けてしまっていた。
 暖房をつけても日差しが雲の隙間からのぞいても…、どこか寒くて冷たい…。そんなのは気のせいだとわかっていても、その寒さを冷たさを消す方法はわからなかった。
 二人でいる事に慣れるのは簡単だったのに、なぜか一人に慣れるのは難しくて…、いつも一人で部屋に帰ってきて、その度に寒さや冷たさを感じて途方に暮れる。この部屋から時任がいなくなってから、もうずいぶんと時が過ぎたはずなのに、今もふと気づくと無意識に時任の姿を探している事が多かった…。
 でも、たぶんこんな寒さや冷たさは時が過ぎていくにしたがって、じきに慣れて麻痺して感じなくなっていくに違いない。けれど、そうなればいいと思っているはずなのに、なぜかずっと…、寒さを冷たさを感じていたい気もして…、
 また途方に暮れながら、久保田は冬の冷たい空気の中で細く長く息を吐いた。

 「さみしい…、か…」

 あかりが良く呟いていた言葉を呟いて、その言葉を噛みしめるようにポケットからタバコを取り出してくわえる。そして、何かを思い出そうとするかのように久保田は空を眺めた。
 時任と一緒に暮らす前は、ここで一人で暮らしていて…、
 その時と今は何も変わらないのに、今まで寂しいなんて言葉を呟いた事はないし、そう感じた事も想った事もない。けれど、寂しいという言葉が一番、時任がいなくなってから感じ続けている…、この寒さと冷たさに似ていた。
 寒くて冷たくて・・・・、寂しい…。
 初めてそう感じた瞬間…、吸っていたタバコの煙が少し目に染みた…。
 ここに…、この部屋に時任がいない…。
 それだけの事だけれど…、それが寂しい…。
 でも、それでも時任に何も言うつもりはないし、何もするつもりもなかった。
 
 『バイバイ…、久保ちゃん』
 
 そう告げた時の時任のぬくもりと涙を、今もはっきりと覚えている。
 橘から過去の事を聞いているはずなのに、子供やあかりの事を知っているはずなのに、ぎゅっと強く抱きしめてきた時任の腕も…、涙も久保田を責めてはいなかった。
 疑いも責めもせずに、抱きしめて泣いてさよならを告げた…。
 時任の告げたさよならは痛くて苦しくて、けれど暖かくて優しくて…、
 その優しいさよならが、今も時任の涙と一緒に久保田の胸に突き刺さっていた。

 「出会わなければ良かった…って言ったら、お前は怒るんだろうけど…」

 久保田はそう言うとベランダに背を向けて、暖房の入っていない部屋の中に戻る。そして、持っていたコーヒーカップをキッチンの流しに置くと、寝室に行ってクローゼットから黒いコートを出して着た。
 すると、そのタイミングを待っていたかのように、コートのポケットに入っているケイタイが鳴る。だが、久保田のケイタイに電話をかけてきたのは執行部のメンバーでも、バイト先の雀荘でもなかった。
 けれど、久保田がくわえていたタバコを手に取って迷わずケイタイに出ると聞きなれた男の声が誠人と呼ぶ。久保田のケイタイに電話をかけてきたのは、生徒会長の松本だった。
 『生きてるか? 誠人』
 「まぁ、ほどほどに…」
 『そうか…』
 「で、今日の場所は?」
 『そこからだと、結構距離があるんだが…』
 そんな感じで淡々と会話が続いて、松本が頼まれていた今日の時任のバイト先を久保田に告げる。すると、久保田はケイタイで通話を続けながら玄関へと向かおうとしたが、ふと何かを思い出したようにキッチンに戻った。
 そして、ケイタイを肩と耳の間に挟むと両手で流しに入れていた青いマグカップを洗い始める。すると、その音が通話している松本にも聞こえたのか、何をしているのかと不審そうな声で聞いてきた。
 『もしかして風呂に入ってるか、顔でも洗ってるのか?』
 「いんや、洗いモノしてるだけ」
 『洗い物?』
 「青いマグカップ…。実は上のヘンに小さく入ってるワンポイントが入ってるんだけど、今、洗ってるのはネコのヤツなんだよねぇ」
 『それで、そのネコのマグカップがどうかしたのか?』
 「うん…。このマグカップは同じ色と形なのがもう一つあって、ワンポイントがイヌなのが俺のでネコのが時任のなんだけど、荷物をアパートに送った時に間違えたから届けようかと思って…」
 『時任のアパートに行くのか?』
 「今なら、バイトに行ってていないし…」

 『やはり…、お前は…』
 
 その先に続く松本の言葉は、ケイタイから聞こえては来ない。けれど、間違えた事に気づきながらも持っていたマグカップを、時任のいない内にアパートに届けると言った久保田の言葉に何か感じているようだった。
 久保田が時任のバイト先に通うようになったのは、例の襲撃事件があってからで…、その事を時任は知らない…。あの襲撃事件もバイト先の揉め事も犯人は橘だから、もう何も心配はいらないとわかってはいるけれど、なんとなく気になって通い続けていた。
 今の時任のバイトは、道路工事の現場などで旗を振っている警備員。
 だから、この間の貸しを使って松本に時任の行き先を調べてもらっていたが、こんな事はもう終わりにしなくてはならない。執行部での公務も後輩への引継ぎが終わって出動が極端に少なくなり、高校を卒業する時期が近づいてくるに従って…、
 本当のさよならが…、別れの日が近づいてくるのを感じていた。
 久保田は青いマグカップを洗い終えると、そこに描かれている小さな黒い猫を軽く指先で撫でる。そして、近くにあったふきんで割れないように包んでから、大事そうに小脇に抱えて玄関に向かった。
 「じゃ、これから行くから…」
 『あぁ』
 「それと、バイト先を調べるのは今日で終了って事でヨロシク」
 『本当に、それでいいのか? バイト先だけじゃなく…、もう会わないつもりなんだろう?』
 「さぁ?」
 『未だに進路調査書も白紙のままだと、お前の担任から聞いた。そして、もうじきマンションも解約して引っ越す予定だと…、管理人からも話を…』
 「その事を、時任には…」

 『お前が言うなというなら、伝えるつもりはない…。だが、ここから離れて、時任からも離れて…。一人でどこへ行くつもりだ…、誠人』

 松本が言うように提出するように言われていた久保田の進路調査書は、未だに白紙のまま…。そのせいで進路指導室に呼び出しも食らったが、結局、目の前に置かれた真っ白な紙に何も書く事はできなかった。
 どこへと聞かれても、どこへ行くのか自分でもわからない。離れないように強く硬く握りしめていた暖かな手を離した瞬間から、居たい場所も行きたい場所もなくなってしまった。
 けれど、それでも時は過ぎていくから、その場に立ち止まる事もできなくて…、
 だから穏やかで暖かで…、残酷な夢と思い出だけが残る部屋を出て行く事に決めた。
 荷物は貸し倉庫に預ける事にして、行く先も決めずにどこへ行くのかもわからずに…。
 マンションの部屋はすでに次の借り手が決まっていて、もう明日には出て行く予定になっている。それは冬休みが終わっても学校に登校するつもりも、卒業式に出席するつもりもないせいだった。
 久保田は玄関のドアを開けて部屋を出ると、ガチャリとドアに鍵をかける。そして、鍵をかけたドアに背中を預けて寄りかかると、そこから見える景色をじっと眺めながら目を細めた。
 「松本…」
 『なんだ?』
 「今回の件で十円の借りも、音楽室の鍵の貸しもチャラにしてくれる?」
 『それはすべて、今回で貸し借りはナシにしろということか?』
 「うん…、今までアリガトね」
 『・・・・・俺にありがとうなどと、何をバカな事を言っている』
 「でも、色々とお世話になったし?」
 『それはお前じゃなくて、俺の方だろう』
 「そうだったっけ?」
 『あぁ、そうだ…。なのに、俺はいつも何もできなかった…』
 マンションの四階の廊下から遠くの景色を…、遠くの空を眺めている久保田に松本はそう言うとすまないと謝る。すると、それを聞いていた久保田は、何もじゃなくて十円貸してくれたでしょと言って小さく笑った…。
 執行部員と生徒会長という立場になってから、二人の間には緊張感が漂っている事が多い。けれど、今は電話越しに穏やかな空気が流れている。 
 でも、その穏やかさは別れの予感を孕んでいて…、それを感じている松本がまた何か言いかけたが、久保田はそれをさえぎるようにケイタイを切った…。
 
 「これから、どこへ行くのか…。それは、俺が聞きたい所なんだけどね」

 そう言った久保田の声は誰の耳にも届かず、ゆっくりと歩き出した靴音に混じる。そうして、マンションを出て小さな黒い猫のついたマグカップだけを抱えて歩きながら、再びくわえたタバコの煙を吸い込むと、何者かがこそこそと後をつけてくる気配がした。
 でも、それが時任ではない事だけは、相手の姿を見なくてもハッキリとわかる。しかも、その気配は今日だけではなく、いつも時任のバイト先に行こうとするとマンションの近くから着いて来た。
 たぶん…、こういうのをストーカーというのかもしれないが、ふと自分も同じような事をしていることに気づいて苦笑する。ストーカーが誰なのかはマンションに一度だけ来たので知っていたが、関わると面倒なのでアパートに着くまでにいつものように隙をついて撒く事にした。

 『だから、追いかけようとしないの? 一人でも大丈夫で強いから?』

 時任のアパートに向かって歩き出すと、そう言ったあかりの声も聞こえたような気もしたが…、それでも振り返らずに久保田は時任のアパートを目指して歩いていく。
 時任に会うためでも、再び手を握りしめるためでもなく…、
 ただ、小さな黒いネコのついたマグカップを届けるためだけに…。
 でも、マグカップを小脇に抱えて歩いていると、あの日の時任の後ろ姿を思い出す。あかりが言うように時任は強い…、それは誰よりもわかっているし知っていた。
 なのに、あかりに向かって首を横に振る事ができなかったのは、一緒に暮らす前から時任が本当は一人でも大丈夫だという事を知っていたせいかもしれない。離れたきっかけは子供の事だったかもしれないけど、いつかこんな日が…、
 時任が振り返らずに行ってしまう日が来ると、心のどこかで想っていた。
 けれど、さよならを告げても繋いだ手を離しても…、忘れられない…。
 あの部屋で暮らした日々が…、その中にある笑顔が少しも色あせないように…。
 今も二人でいた日々を…、時任の事だけを抱きしめていたかった…。
 
 『・・・・・・久保ちゃん』
 
 そう自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、ハッと一瞬だけ足を止めたけれど…、
 でもやっぱりそこには誰もいなくて、噛みしめたタバコの苦さが口の中に広がる。
 実はこんな風に時任が自分を呼ぶ声を、幻聴を聞くのは初めてじゃなかった。
 もうこれで終わりだと…、もうさよならだと自覚しようとするたびに時任の声が聞こえてきて歩き出そうとした久保田を呼び止める。けれど、それは本当は時任じゃなくて、時任と離れたくないずっと一緒にいたい自分自身の声なのかもしれなかった。
 
 『なぁ、久保ちゃん』
 『ん?』
 『俺らは相方だよな』
 『だぁね』
 『だからさ…』
 『うん?』


 『だから…、ずっと一緒だよな』


 時任がそう言ったのは、二人でそんな言葉を交わしたのはいつの事だっただろう…。
 その時は…、そう言って微笑み合った瞬間だけはこれからもずっと一緒だって、確かに信じていた気がしたのに、そう願っていたはずなのに…、
 気づけば自らの罪に塗れ、暖かい優しい涙に濡れながら…、
 どこに続いているのかわからない道を一人で…、さまよい歩いていた…。
 












 「そんじゃ、お先に失礼しまーすっ」
 「おうっ、お疲れさん。最近は物騒だから、気ぃつけて帰れよ」
 「そう言うおっさんもなっ」
 「そんなヤツがいたら、返り打ちにしてやるさ」
 「だったら、俺は十倍返しにしてやるっ」
 「はははは…っ、そいつは頼もしいな」

 あっという間に冬休みも半ばを過ぎ、年の暮れが間近に迫った冬の日…。
 今原という名前の中年の男とそんな風に話して、交通整理のバイトをしている警備会社を出ると外の寒い空気に身体が少し震える。だから、その震えを止めるために両手をこすり合わせると、時任は初冬の冷たく澄んだ夜空を見上げた…。
 すると、口から吐き出す息が白く白く、煙のように上に登っていく。
 それを見ていると白じゃなくて灰色の煙と匂いを思い出したけれど、前は嫌だったのに今はただ懐かしくて…、
 でも灰色の煙は前も今も…、その匂いの染み付いた部屋にいる人物の肺を黒く汚し続けていた。

 「マジでガンになっちまうぞ…って、こんなトコで言っても聞こえねぇもんな…」
 
 そう言いながらポケットに手を入れると、今日バイト先でもらった茶色の封筒と一緒に少し前に買った小さな黒い犬のキーホルダーをぎゅっと握りしめる。でも、どんなに握りしめても寒さが身に染みてきて、時任は小さなくしゃみを一つすると首を少し縮めた。
 マンションを出てから一人暮らしをするようになって色々な事があったけれど、執行部の公務を進入部員に引継ぎしてからは、バイトにもたくさん出られるようになってきて暮らしは楽になってきている。特に今の交通整理のバイトは寒いし夜間の時は眠いけど、頑張ればその分だけバイト代もたくさんもらえた。
 けれど、公務に出る必要がなくなってから、こうして空を眺める事が多くなって会えなくなった分だけ、会えない人の事を考える。今、何してるかな…とか、どうしてるかな…とか、そんな事ばかりを考えて、それだけで胸がいっぱいになって…、
 いつものクセや喋り方や、あの時はどうだったとかこうだったとか、そんな事ばかりを思い出して胸が詰まって苦しかった。
 でも…、どんなに胸が苦しくても戻らない。
 だからあの日、あの部屋でさよならを告げて振り返らずに走り出した。
 そう決めたから…、繋いでいた手を離して一人きりで…。
 
 「あの日の事は何も後悔してない…。けど、なんかすごく…、ずっと遠く離れちまった気がして…」

 小さく呟いた言葉は、誰にも届くことなく冷たい空気に混じって消えて…、
 封筒を握りしめていた手をポケットから出すと、冬休みに入ってから会っていない日を指折り数えてみる。そして、らしくなく深く長くため息をつくと歩調を少し早めて、住んでいるアパートへと向かった。
 けれど、歩いて行く先に見知った人物の後ろ姿を見つけて立ち止まる。だが、その人物は時任が後ろにいる事に気づいていない様子で、何かを探すように辺りをキョロキョロと見回していた。
 その姿は落ち着きがなくて、まるでストーカーでもしてるみたいな感じで変態っぽい。挙動不審なのはいつもの事だが、こんな場所でしかも夜中にというのが気になって時任はストーカーに声をかけた。

 「こんなトコで何やってんだ? 藤原」
 「ぎゃあぁぁぁぁっ!!!!」

 後ろから近づいて声をかけると、藤原はかなり凄まじく驚いた様子でずささーっと物凄い勢いで叫びながら時任から離れる。そして電柱の影に隠れるとジメジメとした空気を背負いながら時任の方を見た。
 「な、な、なっ、なんでアンタがこんな所にっ!!!!」
 「…って、それは俺のセリフだっつーのっ!!!」
 学校の廊下ではなく、ジロリと睨み合う。けれど、どう見ても不審なのは時任ではなく藤原の方で、なぜこんな場所にこんな時間にいるのか謎だった。
 学校からは距離が離れてるし、この辺りに藤原の家があるとは聞いていない。
 しかし、ただ夜の散歩をしているようにも見えなかった。
 別に藤原がどんな理由でここにいても何をしていても関係ないと言えばないけれど、やはり気になるものは気になる。また何かやっかいな事に首を突っ込んだか、巻き込まれているのだとしたら天敵でもやはり放って置く事はできない。
 時任は軽く頭をかいて息を吐くと、少し近づいて電柱と藤原の影を踏んだ。
 「おい、藤原」
 「とか言いながら、近寄らないでくださいっ!」
 「誰が好きでお前なんかに近づくかっ、バーカっ!」
 「む、ムカツクっっっ!!! 俺だって好きでこんな所にいる訳じゃありませんよっ!!」
 「だったら、なんでこんな所にいるのか答えろよっ!」
 「アンタなんかに、理由を答えてやる義務も義理もありませんっ。関係ない人は、さっさとどっか行っちゃってくださいよっ、思いっきり激しくジャマですからっっ!!」
 「な、なにぃぃぃっ! 人がせっかくなんかあったのかって想って心配してやってんのにっ、てめぇっっ!!!」
 「そーいうのを余計な世話って言うんですよっ!!!」
 「がぁぁぁっ、マジですっげぇムカツクっ!!!」
 「それはこっちのセリフですっっ!!!」
 やはり、いつでもどこでも天敵は天敵。
 時任は歩み寄ろうとしたが、再び二人はお互いにムカツクと言いながらジロリと睨み合う。けれど、いつものようにひとしきり言い合うと時任ではなく、今度は藤原の方が息を吐いた。
 何かを想うように考えるように…、重く深く…。
 それを見た時任は本当に何かあったのかと思ったが、藤原は時任が問いかける前に違うと首を横に振った。
 
 「本当に何もないなら別にいい…、ジャマしたな」

 首を横に振った藤原を見た時任は、そう言うとまたアパートへ向かう道を歩き出す。でも、藤原と電柱を追い越してすれ違う瞬間に、藤原が時任を呼び止めた。
 いつもの藤原らしくない、真剣な表情で声で…。
 だから、また思わず足を止めると藤原が隠れていた電柱の影から出てきた。
 「時任先輩…」
 「なんだよ?」
 「一つだけ…、どうしても聞きたい事があるんです」
 「俺に聞きたいコト?」
 「もしかしなくても先輩の住んでるアパートって、この先にあるんですか?」
 「あぁ…、バイト先からアパートまでは、この道が一番近いんだよ」
 「・・・・・・そう、ですか」
 「けど、それがどうかしたのか?」
 「・・・・・・・・・・」
 なぜ、藤原が真剣な顔でそんな事を聞くのかわからない。けれど、質問に素直に答えると、藤原が何かショックを受けた様子でがっくりと肩を落とした。
 だから一体なんなんだ…と思いながら、時任がそんな藤原の様子を眺める。すると藤原はさっきは寄るなと言っていたのに自分から近づいて、鋭い視線で睨みつけながらギリリと歯を食いしばって時任の襟首をぐいっと掴んだ。

 「先輩のそばからいなくなって執行部からもいなくなって…っ、なのに…、なのになんでいつもいつも先輩を追いかけるとアンタが出てくるんですかっっ!!!」

 歯をくいしばって真剣な表情で、そう叫んだ藤原の声が哀しく寂しく時任の耳に響いてくる。いつもと違う泣き叫ぶような藤原の声は時任に向かって叫んでいるのに、ここにはいない別の誰かに向かって叫んでいるようで…、
 聞いているとつらくて苦しくて…、間近で睨みつけてくる瞳に涙が滲んでいるのを見ると胸が痛い。お互いに関係ないとかムカツクとか言いながらも、いつもこうやって向かい合って言い合って…、その真ん中には久保田がいた…。
 そして、それは時任が久保田にさよならを告げた今も変わらない。
 変わるはずだったのに…、何も変わらなかった…。
 時任にはわからない何かを感じているのか、藤原は抵抗しない時任を見て顔を歪める。そして時任の顔に向かって拳を繰り出したが、その拳は顔に到達する前に止められた。
 「なんで…、いつもみたいに殴り返さないんです?」
 「殴り返して欲しいのかよ?」
 「・・・・・・アンタなんか嫌いだっ」
 「俺だって、てめぇなんか嫌いに決まってんだろ」
 「なのに、なんでアンタに心配なんかされたり、こんな風に向かい合ってなきゃならないんですか…」
 「そんなの…、俺が知るかよ」

 「俺の方がずっとかわいいし綺麗だし野蛮じゃないしっ、なのに…っっ!!! なんで俺じゃなくてアンタじゃなきゃ…っ、アンタじゃないとダメなんですかっっ!!!」

 そう叫びながら止められた拳を振り上げて、藤原が殴りかかってくる。
 けれど、何回殴りかかってきたとしても結果は同じ…。
 それを藤原もわかっているはずなのに、繰り出される拳は止まらない。
 同じ人を好きになって…、でもどんなに想っても藤原の想いは届かなくて…、
 その悔しさと嫉妬と憎しみのこもった拳をかわさずに受けていると、力はそんなに強くないはずなのに痛かった。でも、その痛みを感じても時任は拳を避けずに受け続け、体力のない藤原が残った力を込めて殴りかかってきた瞬間に、その拳を手のひらではなく頬で受けて…、次の瞬間に受けた拳を返すように藤原の頬を殴りつけた。 
 「いっっ、いったぁぁぁっっっ!!!!さっきは殴り返さなかったのにっ、なに殴り返してんですかっっ!!」
 「やっぱ、おとなしく殴られてんのは性に合わねぇんだよっ」
 「このっ、野蛮人っ!!!」
 「…って、殴りかかってきたのはそっちだろっ!!!」
 時任の頬にも藤原の頬にも殴られた後が赤く残っていて、けれど二人とも拳を振り上げようとはしない。時任の方は殴られた頬を気にしていなかったが、藤原は赤くなった自分の頬を撫でると同じように赤くなっている時任の頬をじっと見つめた。
 すると、時任はそんな藤原を見てバーカッといつもの調子で言う。すると藤原はムッとした顔をしたけれど、殴った時のまま握りしめていた拳をゆっくりと開いた…。

 「本当にバカなのは…、アンタの方だ…」
 
 近くにいる時任にすら聞えないくらい小さな呟きが、藤原の口から低く漏れる。けれど、視線を時任から自分が向かおうとしていた方向に向けて、再び強く硬く拳を握りしめた。
 この先には時任のアパートと絶対に譲れない…、譲れなかったものがある。
 でも、ここから先に行ってもどうにもならないし何も手に入らない…。
 どんなに手を伸ばしても、どんなに泣き叫んでも藤原が藤原である限り…。
 ・・・・・・・想いは届かない。
 藤原は握りしめた拳をもう一度、時任に向かって振り下ろしたが、その拳は時任の手のひらに受け止められることなく途中で止まった…。
 「アンタさえいなくなれば…、何もかも上手くいくと思ってた…。俺の方を振り向いてくれるって…、俺の方を見てくれるって…」
 「・・・・・・」
 「けど、アンタがいなくなってから、先輩は振り向くどころか話しかけても返事すらしてくれない。せっかく…、せっかくアンタがいなくなったのに前より悪いなんて…、こんなのあんまりじゃないですか…っ」
 「・・・藤原」
 「俺がこんな想いをしなきゃならないのも、こんな所に来なくちゃならなかったのも、全部アンタのせいです…っ、アンタが全部悪いんだっ!!」
 藤原の拳が振り上げられたまま振り下ろされないのは、これが嫉妬で八つ当たりだとわかっているせいかもしれない。そして、時任を殴りつけても痛めつけても何もならない事を…、自分を辛く哀しくさせるだけだと言う事を知ったせいかもしれない…。
 今まで色々と企んだり悪事に加担したりして…、けれどそれにやっと気づいた藤原は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった情けない、けれど思わず肩や背中を叩いてやりたくなるような…、そんな顔をしていた…。
 「本当はこんな事はアンタになんか教えたくないし、言いたくなんかない…っ。けど、アンタにどうしても言わなきゃならない事があるんです…」
 「俺に言わなきゃならない事?」
 「・・・・・久保田先輩の事です」
 「・・・・・・」

 「俺は久保田先輩を追いかけて、ここまで来ました。今日だけじゃなく冬休みに入ってから…、ずっと俺は先輩の後をつけてたんです」

 藤原が冬休みに入ってからずっとここに来ていた理由は、いつもバイト先の雀荘じゃないどこかに出かけて行く久保田を追いかけてきたから…。その始まりは冬休みの初日、冷たくされてショックを受けていた藤原が、意を決して夜中にマンションに押しかけようとした時の事だった。
 久保田と書かれた表札の前に立った藤原は、唾をゴクリと飲み込んでチャイムを鳴らそうとする。だが…、なぜかその前にドアが開いて中から久保田が出てきた。
 『う、うわわっっ、く、く、久保田せんぱいっっ!!』
 いきなり久保田が出てきたので驚いて慌てた藤原は、そう叫んでドアから離れたがすぐに気を取り直して久保田の腕を掴む。けれど、その手は前とは違って指先が触れただけで拒絶されて払われた…。
 『もしかして…、僕がした事を知っていて怒ってるんですか…。でも、僕はあの女の人に時任先輩の居場所を書いたメモをここで渡しただけで、他には何も…っ』
 藤原はそう言って久保田の背中を追いかけたが、久保田は立ち止まらないし振り返らない。それは学校でも同じだったが、その時の久保田は何も聞いていないというより聞こえていない感じで、足元も少しフラついていてなんだか様子がおかしかった…。
 『ちょ、ちょっと待ってくださいっっ、久保田先輩っ!!!』
 そう叫んで藤原は慌てて後を追いかけたが、どこへ行ったのか途中で姿を見失って…、
 その次の日も、また次の日も同じように夜中にマンションから出てきた久保田を追いかけたが同じように途中で見えなくなった。

 「今日はここの近くで見失って…。だから、ここらヘンのどこかに久保田先輩がいるはずです」

 久保田の後を追いかけろとは言わず、藤原はそれだけを時任に伝えて黙り込む。
 それは藤原の久保田を渡したくないという想いで意地だった。
 けれど、渡したくない譲りたくないのに久保田の事を教えた藤原の気持ちをわかっていながら、時任は立ち止まったまま動かない。本当は藤原から久保田の様子を聞いた瞬間に久保田が心配で…、走り出したくてたまらなかったのに…、
 そうしようとした瞬間に、離れてしまった距離を思い出して想いが揺らいだ…。
 あの襲撃事件があった日に見た…、久保田の背中…。
 あれは、ちゃんと時任が一人でも大丈夫だとわかっていたから、だから背中を向けて立ち去ったんだと知ってる。でも、振り返らずに歩いて行く久保田の姿を見た時、ズキズキと胸が痛んだ。
 あんな事があって…、でも離れたくて離れたんじゃない…。
 それだけが…、離れた理由だった訳じゃない…。

 けれど・・・・・・、

 その先に続く言葉を想いを心の中で呟きかけた時、封筒を入れていたのとは反対側のポケットからケイタイの着信音が鳴る。でも、その音を鳴らしたのは意外な人物だった。
 けれど、時任はその人物の声を聞いても驚かない。少しも驚かずにケイタイを切らずに、不審そうな顔をしている藤原に見つめられながら聞こえてくる声に耳を傾けた。
 『こんばんは、時任君』
 「・・・・・橘」
 『至急、貴方に連絡したい事があって電話したんですが、聞いて頂けますか?』
 「連絡したいコトって…、久保ちゃんのコトだな」
 『そうです…。久保田君がマンションから引越ししようとしている事は、前に連絡してました。ですが、その時はまだ日にちまではわからなかったんですが…』
 「もしかして、それがわかったのか?」
 『えぇ、わかりました』
 「じゃあ、久保ちゃんの引越しはいつ?」

 『・・・・・・明日です』

 二人で暮らしていたマンションから、久保田が引っ越そうとしている…。
 それは、少し前にそういう情報を掴んでいた橘からの連絡で知っていた。けれど、それはもう少し先の話だと思っていたのに、明日になれば久保田はあの場所から…、二人で暮らした思い出がいっぱい…、たくさん詰まった部屋からいなくなってしまう。
 それを知った瞬間、心臓がドクンと大きく音を立てて鳴った…。
 『今日、貴方がバイトしていた付近を捜してみましたが、久保田君の姿は見当たりませんでした…。だから、マンションの方に来て見たのですが、まだ戻っていないようです。明日までには、ここに帰って来るかもしれませんが・・・・・』
 「・・・・・・そうだよな」
 『時任君?』
 「それが当たり前なんだよな…」
 『・・・・・・』
 「バイバイって言ってサヨナラして、それで終わりなのがフツーなんだよな…」
 『そうですね…、サヨナラは別れの言葉ですから…』

 「でも…、俺は…」

 サヨナラは別れの言葉…。
 離してしまった手は…、遠く離れて繋げなくなって…。
 けれど、このままでいいはずがない…。
 まだ、こんなにも胸がズキズキと痛いのに、こんなにも会いたいのに…、
 こんなにも好きなのに…、こんなにも大好きなのに…、このまま本当に会えなくなってしまうなんて、それでいいはずなんかない…。あのマンションで一緒に暮らしている時よりも、離れてしまった今の方がもっとずっと恋しくて抱きしめたくて…、抱きしめられてたまらないのに…、ここに立ち止まって久保田の背中を見送るコトなんてできなかった。
 
 「俺は久保ちゃんが好きなんだ…。何が起こっても、どんなコトがあってもそれだけは変わらない…。変わんねぇんだ…、絶対に…」

 そう言った時任の声もケイタイを握る手も少し震えていて、近くにいる藤原もケイタイの向こう側にいる橘もそんな時任の想いを感じて目を伏せる。それは時任が久保田に別れを告げたのは、すぐに忘れられるような想いだったからじゃなく…、
 もっとずっと…、絶対に…、
 忘れられない想いだったから、別れを告げたんだと気づいたせいだった。
 
 「サンキューな…」

 久保田を探すために走り出す瞬間に時任はそう言ったが、それは一人ではなく、久保田の事を教えてくれた二人に向けられた言葉だった。けれど、時任の礼を素直に受け取りたくない藤原はしかめっ面をしてブツブツ文句を言っていたが、切れたケイタイの向こう側にいる橘は穏やかに少し哀しそうに微笑む…。
 すると、その横にいた松本が橘の肩にそっと優しく手を置いた。
 「心配するな。時任なら…、きっと誠人を見つけられる」
 「そうですね…。いなくなった久保田君を見つけられる人がいるとしたら、それは時任君しかいないですから…」
 時任と久保田が暮らしていたマンションの近くで、橘と松本が並んでそう話していた瞬間も、時任はぼんやりと光を放つ街灯の下を通り、夜の暗闇の中を立ち止まらずに走り続ける。橘が言っていたように、明日までには一度マンションに戻ってくるかもしれないが、それを待っている事はできなかった…。
 今、走り出さなかったから、久保田を捕まえられない…。
 もう…、二度と会えない…。
 そんな気がして、走り出さずにはいられなかった…。

 「ずっと一緒だって…、言ったじゃん…」

 いつだったか…、ずっと一緒だって言って笑い合って手を繋いだ。
 でも、今はその時に繋いだ右手が冷たくて寒くて…、
 けれど、それは冬の凍えそうな空気のせいだけじゃない…。
 久保田を探しなから暗い夜道を走っていると、まるでこの世界に一人きりになってしまったみたいで怖かった。でも、走って走り続けてアパートの近くにある川に架けられた橋を通りかかった瞬間に、目の前にヒラヒラと舞う白いモノが見えて思わず立ち止まる…。
 そして、空を見上げると白い雪が…、まるで花びらのようにヒラヒラと静かに舞い落ちてくるのが見えた。

 「・・・・・・・・雪」

 思わずそう呟いて降り注いだ雪を掴んで…、すると渡りかけている橋の右隣に架けられているもう一つの橋の上で同じように空を見上げている人影が目の端に映る。すると、その人影に気づいた時任は哀しそうに瞳を揺らしながら、冷たい雪を掴んだ右手を開いた。
 同じ川に架けられた、二つの橋。
 その橋を走り渡って、このまま…、すれ違ってしまうはずだった。
 けれど、空から今年始めての雪が降り注ぎ、時任が立ち止まり…、
 そして、人影も同じように空を見上げ立ち止まり…、
 そんな二人の間を白い白い雪が会いたいと願った数だけ…、抱きしめた想いの数だけヒラヒラとヒラヒラと舞い落ちて行く…。雪を掴んでいた手は凍えて冷たくて、けれど舞い落ちる雪の向こう側で立ち止まって空を見上げている人影を見ていると胸が熱くて痛くて…、
 冷たい空気にさらされて、少し赤くなった頬をゆっくりと涙が流れ落ちた…。
 
 「久保ちゃん・・・・・・・」
 
 降り始めた雪の向こう側に見える人影を…、久保田を見つめながら時任がそう呟くと聞こえるはずもないのに久保田も時任の方を見る…。けれど、久保田は時任が向かいの橋に立っている事に気づかなかったのか、すぐに視線をそらせてまた空を見上げた。
 もう、さよならを告げたから…、こんな風に違う橋を渡ってすれ違ってしまうだけの関係でしかないと言っているかのように…。
 でも、時任が告げたあの日のさよならは、永遠の別れの言葉じゃなかった。
 この世界に…、同じ時間に時代に生きている限り…、
 会いたいと願う限り…、恋しいと愛しいと想い続ける限り…、
 たとえさよならを告げたとしても、それは永遠じゃない…。
 時任は目の前を行き過ぎていく久保田を見つめながら、流れ落ちた涙も拭わずに開いた拳を強く硬く握りしめた。






 冬の空から…、ヒラヒラとヒラヒラと舞い落ちてくる白い雪…。


 今日もいつものように松本にバイト先を聞いたのに、結局、ぼんやりとアパートの近くでタバコを吸って時間をつぶしただけで戻ってきた久保田は、その雪に気づいて立ち止まってふと空を見上げる。もしかしたら、今日は降るかもしれない気はしていたれど、天気予報では何も言っていなかったから本当に降るとは思わなかった。
 だから、ちょうど橋を渡っている途中で降り出した雪に、ほんの少しだけ驚いて…、
 今年、始めて見た雪の白さに目を奪われる。
 ちょっとずつ…、まるで風に散らされた桜の花びらのように舞う雪はとても綺麗で…、
 静かに静かに音もなく舞い落ちて行くのを見ていると…、なぜかさみしくて空に向かって白い息を吐く…。けれど、やっぱり寒さもさみしさもなくならなくて、少し前に小さな黒いネコのマグカップに触れていた右手をじっと見つめた…。
 
 「もう…、とっくにサヨナラしちゃってるのにね…」

 そう呟いた声は夜の静けさの中に消えて、空から降り注ぐ雪もアスファルトの上で次々に溶けて消えて行く。まるで、夜が明ければ儚く消えてしまう夢のように…。
 そんな降り落ちては消えていく雪を見つめていると、何もかもが夢だったような気がして…、たった一つの想いだけを抱え続けていた胸にぽっかりと穴が開く。その穴は想い続けた日々の数だけ、想いの強さの分だけ大きくて他の何かで穴を埋める事も…、忘れる事もできなかった…。
 こんなにもどうしようもなく…、こんなにも途方もなく…、
 時任の事が好きだった事に気づいたのは、もしかしたら別れを告げてからかもしれない。いつも何もかも気づくのが遅くて手遅れで、手を伸ばしても届かずに何も掴めなくて…、空から舞い落ちたひとひらの雪も手のひらの中で消えて…、
 久保田は何もない何も掴めない自分の手を見て静かに…、穏やかに微笑んだ。

 「お前が嫌いだと言っても、どんなに泣きわめいても…、この手だけは離したくなかった…。ずっと…、この手だけは繋いでいたかったよ…、時任」

 冷たく降り続ける雪の中で、そう言っても心の中で叫んでも時任はいない。けれど、後ろから足音が聞こえたと思った瞬間に背中が急に暖かくなって、胸に開いてしまった穴を埋めようとするかのように…、
 伸びてきた腕が…、ぎゅっと優しく強く久保田を抱きしめた…。

 「俺も離したくなかった…、この手だけは久保ちゃんと繋いでたかった…。ずっと…、ずっと・・・・」

 なぜ…、どうして…。
 そう唇だけで呟いて、けれど背中に感じる暖かさも抱きしめてくる腕も夢ではなく現実で…、背中から回した腕でぎゅっとぎゅっと強く抱きしめてくる力の強さを感じていると…、
 自分を呼ぶ懐かしい声が…、暖かい感触が胸の奥に染み込んでくる。
 もうサヨナラを告げたはずなのに、どうしようもなくその声が暖かさが恋しくて愛しくて…、たまらなくて…、久保田は溢れ出しそうになる想いを封じ込めるように空を見上げて瞳を閉じた…。
 「もうサヨナラしたのに…、どうして?」
 「サヨナラしても会いたかったから、久保ちゃんのコト探してた」
 「・・・・・・」
 「俺は今も…、ずっと久保ちゃんが…っ」
 「これ以上、何も聞きたくないし何も話すコトもないから…、腕離してくれる?」

 「久保ちゃんっ!!!」

 会いたかったと言われて…、好きだと言われて胸が熱くて苦しくて…、
 本当は背中にあるぬくもりを抱きしめたいのに、唇は平気で嘘をついて何よりも大切な人を…、大好きな人を傷つける。今までも気づかずに何度も何度も、そんな事を繰り返してきた気がして嘘をついた唇でゴメンねとあやまって…、
 けれど、時任は久保田の背中をぎゅっと抱きしめたまま離そうとはしなかった。
 「俺らはずっと一緒だって…、言ったじゃんか…。なのに、なんで終わりにしなきゃなんねぇんだよ…っ。まだまだ終わりなんかじゃなくて、道は前にずっと続いてんのに…」
 「でも、もう道は別れて…」
 「だったら、また歩いて歩いて…、その先で一緒になったらいいじゃん…。別れても離れても、俺らの道は絶対に繋がってる」
 「そんな保証はどこにもないよ…。どんなに歩いても歩いても道が繋がってなかったら、苦しくて痛いだけデショ」
 「でも、それでもいい…」
 「・・・・・・」

 「会えなくて哀しくて立ち止まってるよりも、どんなに苦しくても痛くても…、その方がきっと会える気がすっから…」

 そう言った時任の手には小さな黒い猫のついたマグカップではなく、小さな黒い犬のついたキーホルダーが握られていて…、その手を久保田が上から包み込むように握りしめる。すると、時任は握りしめていたキーホルダーを久保田に渡した。
 そして…、久保田の手と一緒に小さな黒い犬を強く握りしめると…、
 時任は目の前にある広い背中に、寒さで少し赤くなった頬を寄せて目を閉じた。
 「あの時、サヨナラしたのは子供のコトもあったけど、実は他にも理由があったんだ」
 「他の理由?」
 「前に久保ちゃんに禁煙して欲しくて、禁止令してた時…。俺は久保ちゃんはそんなコト言わないってわかってるし知ってんのに、ずっと久保ちゃんにあの部屋から出てけって言われるのを怖がってた…」
 「・・・・・」
 「ずっと同居人で相方で俺らはずっと隣に立ってるって想ってたのに…、そうじゃないって気づいたら、そばにいられなくなって…」
 「だから、俺のコトがいらなくなった?」

 「違うっ、そうじゃない…っ。ずっと隣にいたかったから、誰にも久保ちゃんの隣を譲りたくなったからサヨナラして…、コレを買ったんだ…」

 時任の言葉を聞きながら、握りしめたキーホルダーの犬を見る。
 けれど、なぜ時任がこのキーホルダーを買ったのかはわからなかった。
 でも、背中から伝わってくるぬくもりが…、聞こえてきた時任の声がその理由を教えてくれる。今は何もつけられていない黒い犬のキーホルダーは、いずれ久保田に渡す鍵につけるために買ったものだった…。
 そして、時任が夜間も働いて必死でお金を貯めていたのは生活費を稼ぐだめだけではななく、その鍵を手に入れるためで…、
 それを伝えた時任は抱きしめていた腕を離して、らしくなく少し驚いた顔をして振り返った久保田の前に立った…。
 「ホントはちゃんとキーホルダーに鍵を…、部屋の鍵をつけてから言うつもりだった。けど、今言わなきゃ後悔するから…」
 時任はそう言うとヒラヒラと舞い落ちる雪の中で、自分の手を久保田の前に差し出す。それから、冬の空気のように澄んだ綺麗な瞳で真っ直ぐに久保田を見つめた。

 「一緒に暮らそうぜ、久保ちゃん…。高校卒業しても、それから先もずっと一緒に…」

 一緒に暮らそう…。
 前に時任に向かってそう言ったのは、時任ではなく久保田で…、
 けれど、今度は時任が同じセリフを言って久保田に向かって手を伸ばしていた。
 同じ場所に…、手の届く場所に立って…。
 すると久保田は目の前にいる時任が…、伸ばされた手が夢でも幻でもないのを確かめるようにゆっくりと手を伸ばす。そして、小さな黒い犬のついたキーホルダーを握りしめた手で時任の手をぎゅっと…、強く握りしめた…。

 「うん…。これからもずっと…、ずっと一緒にね…」

 久保田がそう返事をすると時任がうれしそうに笑って、そんな時任を見た久保田が優しく微笑む。それから、まだ止まずに降り続いている雪に口付けるように、どちらからともなく唇を寄せて短いキスをした。
 けれど、そのキスは今までしたキスの中で、一番短かったけれど…、
 今までしたキスの中で一番…、暖かくて優しかった…。
 時任と久保田は短い短いキスを終えると、二人並んで橋の上を歩き出す。だが、その方向は久保田のマンションではなく、時任のアパートのある方向だった。
 それはここからは時任のアパートの方が近いせいだったが、明日になれば久保田はマンションを引っ越す予定になっている。だから、二人の帰る場所は明日から久保田の広いマンションではなく、時任の狭いアパートだった…。
 けれど、時任の住んでいる部屋はかなり狭いので久保田の荷物は入らない。だから、久保田が倉庫に預ける荷物をどうしようかと考えていると、時任が何かを思いついたように右手の拳で左の手のひらを打った。
 「あっそうだっ! 今気づいたけど、引越しは久保ちゃんだけで荷物はそのままにしといたらいいだけじゃんっ!」
 「そう言われても次の入居者のヒト、もう決まってるらしいんですけど?」
 「だーかーらっ、置いとけって言ってんだろ」
 「…って、なんで?」
 「それは…」
 「それは?」

 「そこに、俺が引っ越す予定だからに決まってんだろっっ!!!」

 時任がそう叫んだ瞬間、予想もしていなかった出来事に久保田の思考が一瞬止まる。確かに頑張ってバイトして二人で暮らせる広い部屋に、時任が引っ越そうとしているのは聞いたが、それが久保田が借りていたマンションの401号室だとは思っていなかった。
 けれど、すぐに正常に動き始めた頭で考えると、なんとなく色々な事が見えてくる。
 そう言えば…、松本は引越しの事を知ってたが口止めしているので喋った可能性は低い。けれど、松本が知っているとなると、それを橘が知っている可能性は高かった。
 そして…、例の襲撃事件で橘は時任に借りがある…。
 だから、松本からの情報を橘から聞いて、時任が部屋を借りる事は簡単だった。
 おそらく、部屋を借りる時の保証人も橘が用意したに違いない。
 久保田はそこまで色々と推測すると、また自分があの部屋を借りるからと時任に言う。けれど、時任は絶対に首を縦には振らなかった。
 「イヤだっ!!! あの部屋は俺様が借りるっ!!」
 「なんで? 家賃を半分ずつ払うってコトにしたら、どっちでも一緒でしょ?」
 「ぜんっぜんっ、一緒じゃねぇつーのっ!!」
 「そう?」
 「そうだよっ!!」
 なぜかはわからないけれど、時任は部屋の家賃ではなく名義にこだわっている。
 その理由は、やっぱり居候ではなく同居人でいたいからとそういう事なのかもしれないが…、なんとなくそれだけじゃない気もした。だから、何が理由なのかと考えていると、そんな久保田を見て時任がいきなり笑い出す。
 そして、勝ち誇った顔で楽しそうにニッと笑った。
 「俺んちは禁煙だからっ、タバコはぜっったいに吸うなよっ!! タバコ禁止っ!!!」
 「・・・・・・・・ちょっとでも?」
 「ちょっとでもっ、ちょこっとでもダメっ!!!」
 「禁断症状が出たら?」
 「ガマンしろっ!」
 「えー…」
 「えーとか言うなっ!! 禁止っつったら禁止に決まってんだろっ!! 家主の命令は絶対だかんなっ!!!」
 新しく暮らす部屋の家主にそう言われて、久保田はがっくりと肩を落とす。
 けれど時任と一緒に暮らせるなら、ずっと一緒にいられるなら…それもいいかもしれないと思っている自分に気づいて、そんな自分がおかしくてたまらなくて…、
 楽しそうに笑っている時任の横で、久保田も肩を震わせながら笑い出した。

 「うん…、ホントに俺の負け、完敗…。だから、心配しなくてもちゃんと禁煙するよ…、お前が一緒にいてくれるならね?」

 久保田がそう言って軽く両手を上げると、時任がガッツポーズを取る。そしてお互いの顔を見てまた笑うと、二人は一緒に暮らすアパートに向かって勢い良く走り出した。
 その先にある明日に向かって走るように…、同じ道を…。
 すると、二人の走る道は真っ直ぐでどこまでもどこまでも続いてるように見えた。


 
 さあ行こうよ…っ。



 この道が続く限り、どこまでもどこまでも…、
 たとえ途中で道が別れても、この手が離れてしまっても…、
 きっと…、僕の前に続く道は…、
 何よりも大切な…、誰よりも大好きな君へと繋がっているはずだから…。
 


 さあ行こうよ…、君と手を繋いで…。




 
 
 このキリリクは38154hit! 『さあいこーよvv』かおり様のリクエストで、
 「久保ちゃんに完全勝利をおさめる時任v」なのですvvヽ(^◇^*)/
 ううう、もう果てしなく長く長く…、
 完結するまで途方もなく長い時間がかかってしまいましたですが、
 この度、無事に完結することができましたっ!!!!!
 このお話は途中、沢山つまづいたり転んだりしてしまって、その度に色々な方に、
 励まして頂いて、元気付けて頂いて…(T△T)
 そうして、皆様の力を元気を分けて頂いて完結する事のできたお話です(号泣)
 本当に本当に…、心からとてもとても感謝ですっ!!!。・゜゜ '゜(*/□\*) '゜゜゜・。
 そしてそして、最後まで読んでくださってありがとうございますっっvvvv
 もう…、胸がいっぱいで言葉があまり出ません…。
 素敵なリクを書かせて頂けて、とっても幸せでしたvvvv

 皆様にこの胸いっぱいの感謝を……vv<(_ _)>


 
 かおり様v
 この度、やっとやっとお話を完結させる事ができましたっ!!!!
 長く長くお待たせしてしまった上に、完結するまでに果てしなく長く時間が
 かかってしまって本当にごめんなさいですっっっ(ノ◇≦。)
 でもでも、素敵なリクを書かせて頂けてvvvv
 完結することができて、とっっても幸せですっ!!!!!
 実は完全勝利がリク内容だったのですが、さあ行こうよvvという、
 キリリクのゴロがすごく大好きでvvvvそれもリク内容に加えさせて頂いてましたvv
 本当にvvvv素敵なリクをしてくださってとてもとても感謝ですっ!!!!vvv(T0T)
 とってもうれしいです〜〜〜vvvv多謝vv

 ご連絡とお詫びは、改めてメールさせて頂きたいですvv<(_ _)>

 
凪様から『禁止令』のワンシーンの素敵なイラストを頂いてしまいましたv ヽ(*^^*)ノ


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