禁止令.20



 
 「時任と久保田がマジで別れたって話…、お前ら信じるか?」
 「まさか、それはあり得ないだろ」
 「だよな…、どうせ犬も食わないケンカかなんかだって」
 「うーん、それは俺も思うけど…」
 「…って、もしかして何か知ってるのか? お前」
 「いや、そうじゃないけど…。なんとなく、犬が食うとか食わないって前に、アイツらがケンカした所なんて見た事なかったなぁって思ってさぁ」
 「・・・・・・・・」
 「そー言えば、こんな風に離れてる所も見た事なかったし…」
 「とにかく、アイツらが離れてると不自然っつーか、なんか落ちつかねぇよ」

 「そうだな・・・、アイツらすっげぇ仲良かったもんな…」

 いつも一緒にいた二人が一緒にいなくなってから三年の生徒達だけではなく、他の学年の生徒達や教師達までもがこんな風に話している姿をあちらこちらで見かける事が多い。けれど、それも最初の内だけで…、三ヶ月たった今も二人が一緒にいない事を気にしている人間は少なかった…。
 今は当たり前の事でも時が過ぎて変わっていくのなら、当たり前だった事は当たり前ではなくなって、今ではなく過去になる。けれど、そんな風に二人でいた事実が過去が…、何事もなかったかのように今に書き換えられていくのを止めるために暗い裏路地に立っている人物がいた。
 誰かに頼まれたからでも命令されたからでもなく…、自分自身の意思で…。
 けれど、その人物は当事者である久保田や時任ではなく、二人を心配していた松本や桂木達でもなかった。

 「やはり僕は…、こういう役回りが似合うみたいですね」

 にぎやかな表通りにあるどこにでもある普通のファミレスを眺めながら、橘は裏路地の入り口に立ってそう呟く。だが、橘の視線の先にあるのはファミレスではなく、その中でウェイターのバイトをしている時任の姿だった。
 時任は何も気づいていない様子だったが、実は橘が時任のバイト先に来たのは初めてではない。しかもそれは今のファミレスだけではなく、その前に秘密でバイトしていたパチンコ店でも、そしてその前にバイトしていたコンビニでも同じように橘は時任の様子を見に来ていた。
 その姿はまるで時任のそばに行きたくても…、行く事のできない久保田の代わりに時任を見守っているようで…、
 けれど、実はそんな風に思いながら、橘は時任を見つめている訳ではなかった…。
 ちゃんと目的があって、この場所に立っている。
 でも、その目的を果たすためにここに立っているのか、それとももっと別の何かが…と考えかけて、橘は学校では絶対に吸わないタバコを口にくわえて小さく笑った。
 
 「どんな理由があったとしても、こんな事をしていいはずはないし許されるはずもない。それはちゃんとわかってるつもりですよ、会長」

 ここにはいない松本に向かってそう言いながらも、橘は自分のしようとしている事をやめるつもりはない。そんなに簡単にやめてしまうくらいなら、最初から何もしたりはしなかった。
 けれど、自分の意思で自分の目的を果たすためにしている事なのに、ここに立っていると胸の痛みが止まらなくて、タバコの煙をため息のように吐き出しながら眉をしかめる。学校にいる時はいつも通りの微笑みを浮かべているが、今の橘の顔には微笑みではなく、胸に感じる痛みと一緒に噛みしめたタバコの苦さが滲んでいた。
 今回の久保田と時任の件について知る事なったのは、藤原から禁止令の事を聞いたからで…、けれど、その時は何かをしようと企んでいた訳ではない。ただ、様子を見守りながら成り行きにまかせて、時任が藤原の罠にはまるような事があったら助けて久保田に貸しを作ろうとしただけなのだが…、
 自体は思わぬ方向に進んで二人は別れた…。
 時任に久保田の過去を話した橘自身も、その原因になったのかもしれない。
 
 なぜ…、そんな真似を?

 そんな風に自分に向かって問いかけながらも、久保田を心配する松本を見ていると胸の奥にドス黒い何かが広がって歪んで微笑みが自嘲に変わる。
 松本との関係は生徒会本部の会長と副会長で…、恋人…。
 しかし周囲が思っているほど、松本との間にある絆を決して揺るがないものだと信じている訳ではない。けれど、それは松本のせいではなく、自分自身のせいだという事を橘は知っていた…。
 松本を信じたい…、信じていたと思うけれど信じられない。
 信じたいと思えば想うほど…、なぜか信じられなくなった。
 そんな風に松本の事を想うたびに考えるたびに思い出すのは、高等部よりも少し小さな中等部の校舎と四階の片隅にある音楽室と…、
 そこで初めて向かい合った自分よりもかなり背の低い…、けれど有無を言わさない威圧的な雰囲気を持った人物の姿…。
 今は生徒会本部の会長で、中学の頃に執行部に所属していた松本隆之…。
 執行部に所属していたので名前くらいは知っていたが、同じクラスになったこともなかったので間近で見たのは、その時が始めてだったかもしれない。青い腕章を右腕につけた松本隆久が、どうやって中にいる橘に気配を悟られずにカギのかけられたドアを開けたのかはわからなかったが…、
 松本はいつものように音楽室に下級生を連れ込んでいた橘の前に平然とした顔で立つと予想もしていなかった言葉をハッキリとした口調で言った…。

 『その子の事が好きなのか?』

 初対面なのに名前も何も聞かずに、松本はそれだけ言うとじっと返事を待つように橘を見つめてくる。雰囲気と同じように、有無を言わせない威圧的な瞳で…。
 けれど、その瞳に見つめられるのは不快じゃなかった。
 だからなのか…、それともただ単に威圧的な瞳に逆らえなかっただけなのか…、
 気がついたら、らしくなく何も考えずにバカ正直に本当のことを言っていた。
 こんな場面でも上手くやり過ごす事は簡単に出来たのに、なぜかそうしなかった。
 すると、下級生はショックを受けた顔をして音楽室を走り去って・・・、その後には橘と松本の二人だけが残る。だが、松本は執行部の腕章をつけているのに、校則違反をして校内で不純同性交遊をしていた橘の名前を生徒手帳に書こうとはしなかった。
 『生徒手帳に名前を書かなくてもいいんですか? それが貴方の任務でしょう?』
 『書いて欲しのか?』
 『いいえ…』
 『そうか…。ならば、俺の出す条件を飲めば見逃してやらなくもない』
 『貴方の条件?』
 
 『今後、好きじゃない相手とあんな真似はするな…。俺の条件はただそれだけだ』

 そんな言葉が松本の口から出るのが、またあまりにも意外で予想とは違っていて…、橘はすぐに返事をする事ができない。こんなにもすぐに返事を返す事もできずに、うろたえたのは初めての事だった。
 しかも、こんな風に主導権を握られてしまっても屈辱的な感じはなく…、松本の瞳に見つめられていると、むしろその方が自然なような気すらしてくる。
 ・・・・・・・・この人には逆らえない、逆らいたくない。
 なぜ、そんな風に想うのかも理解できなかったが、橘はじっと見つめてくる瞳を見つめ返しながら目の前に立つ松本の手を取った。

 『だったら、貴方が僕に抱かれてください…』

 松本の出した条件に対して橘はそう答えたが…、松本がこんな条件を飲む必要も理由もどこにもない。だが、また橘の予想を裏切って松本は怒りもせず握られた手を振り解こうともしなかった…。
 強く手を握りしめても逃げないし、動揺した様子もない。だから、そのまま松本の手を引いて床に押し倒して…、それが後に自分の心に暗い影を落とす事になるとも知らずに抱いた。

 犯すのではなく…、その前に跪くように…。

 それが始まりで…、それが一目惚れというものだったと橘が気づいたのは、もう自分でもどうにもできないほど松本に恋してしまってからで…、
 だから、そうなってから初めて…、その時の松本の気持ちが知りたいと想ったが聞いても松本は答えないし、いくら考えてもわからない。特に久保田と一緒にいる時の松本を見ていると、もっと松本の気持ちがわからなかった…。
 
 「好きじゃない相手とはダメだと、そう言ったのは貴方のはずなのに…。そう言った貴方自身が僕に抱かれるなんて…、ダメじゃありませんか…」

 橘はそう呟いたが、松本に向けた言葉のばすなのになぜか自分の胸に響く…。
 今は生徒会本部の会長と副会長で…、恋人同士・・・。
 けれど、その日の事が今もずっと頭から離れなくて…、会長と副会長の関係のような信頼は恋人という関係になると途端に薄くなる。好きだから愛しているから信じたいと想うのに、だからこそどうしても信じられない。
 そしてそれは自分自身が数え切れないほど、不実を重ねてきたせいだった。
 そんな事になったきっかけは、忘れて思い出したくもないが…、
 あの日、恋した事にも気づかずに欲望のままに抱いてしまわなかったら、どうなっていただろうかと考えかけたが、そうするのをやめて思考を止める。どんなに考えても起こってしまった現実は変わらないのに、まるで後悔でもしてるかのようにそんな事ばかりを考えている自分自身ががおかしくてたまらなかった。
 ・・・・・・・あの日がなければ今はない。
 だから、後悔などしているはずなどないのに…、
 今もまるで過去に引きずられるように、橘は裏路地の暗がりに立っていた。

  「結果は限りなく黒に近いようですから、やはり貴方には久保田君の元に戻ってもらわなくてはならないようです。貴方が何を考え・・・、何を想っていても…」
 
 視線をファミレスから近くの街灯に向けると、橘が静かにそう呟く。
 だが、その続きを言おうとした瞬間に街灯の下を黒い影が通り過ぎた…。
 すると、黒い影の存在に気づいた橘の唇がゆっくりと笑みの形をつくって、浮かべていた自嘲が妖艶な微笑みに変わる。今回の計画の事を誰にも気づかれないように細心の注意を払いながらも、まるでこの瞬間を待っていたかのように…。
 橘は裏路地を包み込んでいる闇の中から、真っ直ぐ自分の方に向かって歩いてくる人物を眺める。そして、その人物が自分の方ではなく、目の前にあるファミレスの明かりを眺めているのを確認すると吸っていたタバコの赤い火を…、軽く上に向かって投げた…。
 誰かに…、何かの合図を送るように…。
 タバコが小さな火の粉を散らしながら舞い上がって舞い落ちて…、橘の足元に転がるとファミレスの周囲に潜んでいた影が動き始める。すると、その気配を感じた橘は微笑みを浮かべたまま足元のタバコを踏み潰した。

 「そろそろ来る頃だと思ってましたよ、久保田君」

 橘がそう言うと、裏路地の暗がりから現れた久保田が立ち止まる。
 だが、その視線は相変わらず橘ではなくファミレスに向けられたままだった。
 ファミレスの明かりの中にいる、時任の姿を…。
 しかし時任は同じウェイターをしている男と話している様子だったが、すぐに何かあったのか注文を受けようとしていたテーブルをその男に任せると店の奥へと引っ込んだ。
 ・・・・・まだ、時任はこれから何が起こるのかを知らない。
 けれど遠くで微笑みながら、それを眺めている橘はすべてを知っている。そして同じように絶妙なタイミングで現れた久保田も、すべてを知っているからこの場所に立っていた。
 わざと久保田の視界をふさぐように、時任との間をさえぎるように橘が一歩前に出る。そして、正面から久保田を真っ直ぐに見つめて口元に浮かべていた微笑みを深くした…。
 「さよならを告げられても、別れてしまっても時任君の事が気になりますか?」
 「そーいう副会長サンは誰のコトが気になって、こんなトコにいるんだろうねぇ?」
 「ふふふ…、さすが会長が見込んだ方です。今回の件だけではなく、何もかもお見通しですか…」
 「そう言われても、なんのコトだか俺にはさっぱりわかりませんけど?」
 「貴方は相変わらず、とぼけるのが上手いですね」
 「なーんて言いながら、とぼけてるのは俺じゃなくてそっちデショ? 今日、時任が襲撃されるって情報…、俺を呼び出すためにワザと流したのはどこの誰でしたっけ?」
 「ええ、確かにおっしゃる通りです。時任君についての情報が貴方に渡るように流したのも、今から始まる襲撃の首謀者も僕ですよ」
 「ふーん、簡単に認めちゃうんだ?」
 「認めても僕のしようとしている事を、貴方は止ないはずですですから…」
 「どうして?」
 「このまま僕のしている事を見逃せば、貴方の元に時任君は帰って来る」
 「・・・・」

 「加担する事はあっても、邪魔する必要はどこにもないでしょう?」

 そう言って妖艶に微笑む橘の背後には、時任がバイトしているファミレスがある。
 だが、一週間前までは他の場所で別のバイトをしていた・・・。
 実は時任が誰にも言っていないので執行部員達も知らないのだが、一人で暮らし始めてからすでに何個かバイト先が変わっている。そして、それはバイト先でことごとく問題を起こしたせいだった。
 でも、それは身に覚えのない事でケンカを吹っかけられたり、濡れ衣を着せられたりしたからで本当は時任のせいではない。今、こうして裏路地の暗がりに潜んでいる橘の思惑によって時任を陥れるため、すべては故意に行われていた。
 目的は収入源を潰して、久保田の元に戻らざるを得ない状況を作る事…。
 だが、安くしてもらっている家賃を払う事さえつらく、生活が相当苦しくなっているのに時任はマンションへは戻らなかった。
 しかも桂木や執行部の皆や久保田にも誰にも話す事なく…、誰にも助けを求めずバイトが首になっては次のバイトを探して…
 そんな時任の一生懸命な姿を見ていると、ただ戻らないと言ったからと意地になっているだけとは想えない。けれど、だからこそジワジワと追い詰めるのをやめて、不良達をやとって襲撃させる事に決めた。
 だが、襲撃するだけでは時任をマンションに帰らせる事はできない…。
 橘は背後からする物音と叫び声で襲撃が始まった事を悟ると、ゆっくりとカーテンを開けるように横に移動して久保田に襲撃の様子を見せた。
 「時任君は頑張ってますよ。僕がいくら追い詰めても、貴方の元に帰ろうとしません」
 「・・・そう」
 「でも、本当は帰りたいと…、戻りたいと思っているはずです」
 「・・・・・」

 「そして…、貴方も…」

 橘の言葉を聞いても、久保田の表情は動かない。
 だが、そうしている間にも橘の張った罠の中に、時任が何も知らずに入り込んで行く。
 何者かに呼び出されてファミレス横の路地に現れた時任は、誰かを探すように辺りをキョロキョロ見回す。すると、そんな時任に向かっていきなりニヤニヤと嫌な笑みを口元に浮かべた見知らぬ男が殴りかかってきた。
 しかし、時任はすぐにその男の気配に気づいて反射的に姿勢を低くしてかわすと、その姿勢のままで足に鋭い蹴りを入れる。すると殴りかかってきた男は倒れたが、次の男が時任の上に向かって持っていた鉄パイプを振り下ろした。

 カー・・・・・・ンッ!!!!!

 しかし鉄パイプは大きな音を立てて、時任ではなく硬いアスファルトをを叩く。
 それは時任が振り下ろされる寸前で、背後に飛びずさったせいだった。
 けれど、どう見ても多勢に無勢…、どう見ても相手は見張りを含めて五人はいるが時任は一人。表通りの通行人は立ち止まって路地の方を見たとしても、すぐに目をそらして見ないフリをして通り過ぎて行く…。
 だが、そんな通行人の視線を感じていてもいなくても時任はおそらく…、助けてと叫んだりしないに違いなかった…。

 「今から誰かが警察に通報したとしても、この場は去って再び男達に狙わせるだけです…。もし、それを止めさせたいと思うのなら早く時任君を助けに行くことですね」

 時任を見つめる久保田の横顔を眺めながら、そう言って橘は妖艶に微笑む。
 はめられた形で元に戻るのは気に入らないかもしれないが、この状態では久保田は時任を助けに行かざるを得なかった。
 いくらさよならを告げても、別れてしまっても久保田は時任を絶対に見殺しはしない。久保田が時任を助けるために動き出すのを待ちながら、橘はそう確信していたが…、
 なぜか、時任が三人の男に囲まれても久保田は動かなかった。
 「いつまで、そこでぼーっと突っ立ってるつもりなんです?」
 「そう言われても、ねぇ?」
 「まさか、もう離れてしまったから関係ないとでもおっしゃるつもりですか?」
 「関係ないなら、ここに来てないと思うんだけど?」
 「だったら、なぜ時任君を見殺しに?」
 「俺が時任を見殺し?」

 「・・・・・・このままでは本当にそうなりますよ」

 のほほんとした口調で返事をされると調子が狂ってしまうせいか、いくら久保田と話しても話が噛み合わない。橘はらしくなく少しイライラしながら、路地で襲撃されている時任の方を見た…。
 本当なら時任が襲われている光景を目の前にして、平然としていられるはずはない。
 なのに、久保田からは動揺も焦りも感じられなかった。
 さよならを告げられた今も時任を想っているなのにそれはなぜなのか…、どうしてなのか…、久保田が何を考え何を思っているのかわからない。けれど、橘はそう思いながらも、振り向かない背中に向かって尋ねようとはしなかった。
 そんな質問も思いも…、自分の役柄にはふさわしくない…。
 橘は口元に薄く笑みを浮かべると、視線を時任から久保田へと戻した。

 「貴方は何があっても…、絶対に時任君を見捨てたりしない…。そう信じていたから襲撃計画を実行したんですが、どうやらそれが僕の誤算だったようです」

 橘がそう言った瞬間、時任が横から来た男に蹴りを入れた隙を付いて後ろに回り込んだ男に腕を掴まれて羽交い絞めにされる。そして、最初に倒された男が立ち上がって時任の頬とわき腹に拳を叩き込んだ…。
 すると、時任は痛そうな顔をして一瞬うつむいたが、すぐに顔をあげて自分を殴った男に向かって足を振り上げて蹴りを入れようとする。だが、その蹴りはギリギリでかわされて男の頬を軽くかすめただけだった。
 二人のいる位置からは囲まれているせいであまり良く見えないが、このままだと本当に時任がやられてしまう。橘が金で雇った男達は、時任がいつも相手をしている不良とはレベルが違っていた…。
 最初は見た目で判断していたせいで油断していたようだが、時任の強さが並ではない事を知ると口元に浮かべていた笑みを消して本気で襲いかかってくる。しかも取り囲まれているのために逃げ出すのも困難で、このままでは完全にやられてしまうのは時間の問題だった。
 
「現場に居合わせながら貴方に見捨てられたと知ったら、時任君はどんな顔をするでしょうね?」

 目の前で時任が殴られても動かない久保田を、橘が美しく優雅に微笑みながら言葉であおる。けれど、その言葉にも効果はなく、久保田は眺めているだけで一歩も時任の方に向かって足を踏み出そうとはしなかった。
 ・・・・・・・・まるで、そこに境界線でも引かれているかのように。
 だが、そんな久保田の視線に気づいた時任が、ヒュンと空気を切りながら振り下ろされる鉄パイプを交わしながら裏路地の方を向く。すると、お互いを見つめる二人の視線がぶつかった…。
 
 「久保ちゃん…」

 久保田の方を見た時任がそう呼んだ気がしたが…、空耳かもしれない。久保田は時任を見つめていたが、時任が久保田の方を見たのは一瞬で、次の瞬間には掴まれた腕を強引に振りほどいて殴りかかってくる男の方を睨みつけていた。
 それに表通りを挟んで向かい側にある路地からは叫ばなければ何を言っているのかわからないし、表情も遠くてあまり見えなくてわからない。
 それは、さよならを告げてから離れてしまった二人の距離のようで…、
 届くようで届かない…、見えるようで見えない二人の間にある表通りの黒いアスファルトには横断歩道はなく、車が次々と排気ガスを撒き散らしながら走り去って行ってもそれを止める信号機もなかった。
 でも、横断歩道や信号機が無くても渡れない道じゃない…。
 少しだけ遠回りしても走り出せば、必ず時任のいる路地までたどり着ける。
 けれど、なのに久保田は一歩も前に足を踏み出すこともなく、襲いかかってくる男達を相手に一人で戦っている時任に背を向けた。

 「一応、呼び出されたから来てみたけど、用件がソレだけなら俺はこれで…」
 
 久保田がそう言ったのを聞いた瞬間、橘は心の中でまさか…と叫んだ。
 口ではなんと言っていても、最終的には必ず久保田は時任を助けに行く。
 このまま時任を置いて立ち去ってしまうなんて、絶対にあり得ない…。
 橘はそう思ってじっと久保田が動き出すのを待っていたが、本当に久保田は言った通り裏路地の暗がりの中に溶け込むように戻っていく。その様子を橘は信じられない思いで呆然と見つめていたが、すぐにハッと我に帰って久保田を呼び止めた。

 「時任君を傷つけようとする僕を殴りもしないで、このまま去るつもりですか? 貴方にとって、本当に時任君はその程度の存在なんですか…っ」

 橘が立ち去ろうとしている背中に向かってそう言うと、久保田は立ち止まったが振り返らずにポケットからセッタを取り出して口にくわえる。そして、それにライターで火をつけると、深く煙を吸い込んでふーっと吐き出した。
 「そんなに殴られたいなら殴ってもいいけど、俺が殴ってもアンタは痛くもかゆくもないだろうし、ムダな事はしない主義なんでね」
 「・・・・・・どうして、そんな事がわかるんです?」
 「アンタの目がそう言ってるからじゃない?」
 「僕の…、目が?」
 「ケイベツされるのも殴られるのも覚悟の上、だから絶対に何も後悔はしない。だから、殴られてもこんな痛みはなんでもない…」
 「・・・・・・」
 「そんなヤツは殴るだけムダってもんでしょ?」
 何もかもを見透かすような久保田の言葉を聞いた橘は、浮かべていた微笑みをさらに深くする。そして、久保田の背中に向かって強く握りしめた拳を打ち込んだが、当たる寸前で拳はピタリと止まった。
 「本当に貴方は…、嫌な人ですね」
 「それはお互いサマでしょ?」
 「ふふふ…、わかりましたよ。もう貴方に用はありませんし、絶対に呼びとめたりしませんから、どうぞお帰りください」
 「言われなくても、そのつもりなんでね」
 「でしょうね…。貴方は時任君が倒れても、絶対に振り返らない…」
 「・・・・・・」

 「そのつもりで…、その覚悟で前に足を踏み出すつもりなんでしょうから…」

 本当にもう…、何があっても何が起こっても久保田を呼び止めるつもりはない。
 たとえ、今、二人の後ろで時任が倒れかけていたとしても…。
 久保田が振り返らないと決めたのなら、何も言う言葉はない。
 何を言っても…、立ち止まらせる事はできない。
 けれど久保田は帰ると言いながらも、すぐには歩き出さなかった。
 それでも相変わらず後ろは振り向かなかったが、二人の間にある空気の温度だけが急に下がったのを感じて、橘は無意識にわずかに身を震わせる。すると、久保田はセッタをくわえた唇の端をゆっくりとつり上げて…、周囲を包む空気に似た薄く冷たい笑みを浮かべた。
 「あぁ、一つだけ言い忘れたけど、今回の件の後始末だけはアンタがキッチリつけなね」
 「ふふ…、心配しなくても後で誰かに病院に連れて行かせますよ。僕は貴方の事は嫌いですが、時任君は嫌いではありませんし、恨みがある訳でもありませんから…」
 「あっそう…。じゃ、今から救急車3台くらい呼んだ方がいんでない?」
 「救急車3台?」
 「そろそろ、手加減できなくなる頃だろうから…」
 「救急車とか手加減とか…、貴方が何をおっしゃってるのか僕にはわかりませんが?」
 久保田から流れてくる冷ややかな空気を感じながらも、橘は妖艶な微笑みを浮かべて平静を装ってそう答える。だが、次の瞬間に冷たいながらも流れていた空気が、ピシリと何もかもを打ち壊すように凍りついた。

 「俺が行くまでそこで首洗って待ってやがれっっ!!! 橘ぁぁぁぁっ!!!」

 表通りを挟んで向かい側の細い路地から、橘の鼓膜をビリビリと震わせる声…。
 それは…、男達に襲われて囲まれて絶対絶命のピンチに陥っていた時任の声だった。
 けれど、橘が叫び声を聞いた瞬間にバッと振り返ると、そこには時任ではなく襲わせた男の内の二人が黒いアスファルトの上に倒れているのが見える。しかも、男は倒れたままでピクリとも動かない…。
 何が起こったのかわからず、橘が振り返ったままの状態で顔をこわばらせる。
 すると、鉄パイプを持った男が後ろから時任に襲いかかったが、男は鉄パイプを振り下ろす事もできずにそのまま崩れ落ちるように倒れた…。
 それは急に体の調子が悪くなった訳ではなく、わき腹に時任の回し蹴りが見事に入ったせいである。だが、その回し蹴りは今まで時任が公務をしている時に、橘が現場に居合わせて見た蹴りとは違っていた。
 学校の公務の時とは…、早さも威力も格段に違う。
 それよりも何よりも息を呑むほどに驚いたのは、男の攻撃に素早く反応した時任の身体の動きと見事さと、蹴りの描いた軌跡の美しさ…。学校でも無敵とは言われていたが、今の時任は本当にそう呼ばれるにふさわしかった。
 
 「この程度で、無敵で天才な俺様を倒せると思うなよっっ!!!!」

 天下無敵…。
 今まで時任は確かに強いが久保田には及ばないと思っていたが、今の時任を見た後ではそうは思えない。
 二人は互角か…、それとも…。
 橘はそう考えながら、少し汗ばんだ手を強く握りしめる。以前、松本に殴りかかった時任の拳を止めた事があったが、あれは手加減していた。
 しかも…、橘にも気づかれることなく…。
 時任に底知れぬ何かを感じて、橘が身動きせずに目の前で倒されていく男達を見ていると絶対に振り返ろうとしなかった久保田が振り返って…、目を細めながら凍りつくように冷たく微笑んだ。
 「一度、拳を止めたくらいで、ウチの相方をあまりなめないで欲しいなぁ…」
 「ですが…、あの時はあれが本気だと…」
 「時任はいつだって本気だけど?」
 「だったら、なぜ?」
 「それは相手の強さを感じて、無意識に本気をコントロールしてるからじゃない?」
 「本当にそんな事が…」
 「時任が本当の力も出せない敵にもならない、アンタじゃムリなんだよねぇ」
 「・・・・・・っ!!」
 本気も出せない…、敵にもならないと言われプライドを傷つけられ…、橘の拳に胸の奥に熱い感情が宿る。目的のためには手段を選ばずプライドも捨てて、けれどそれでも敵にすらもならないと言われては黙ってはいられなかった。
 このまま…、敵にもならぬままに時任にやられる訳にはいかない。だが、橘が何か言おうとした瞬間に、その熱い感情に冷たい氷の杭が久保田によって打たれた。

 「ま、アンタが何を思おうとどうしようと勝手だけど…。これ以上、時任に何かしたら…」


 ・・・・・・・・・・・・・・殺すよ?


 最後の言葉は、声ではなく唇の動きだけ…。
 だが、その唇の振動を感じて橘の全身が恐怖を感じて震えだす。鼓膜に響いて来ないからこそ、久保田の言葉が殺意が全身を震わせながら走り抜けた。
 久保田の殺意と怒りと…、時任への想い…。
 今も久保田は時任を想い続けているが、その想いは恐ろしく深く…、恐ろしく重い…。
 それを感じた橘は、もう何をすることも何を言うこともできなかった。
 
 「今回の貸しは…、音楽室の鍵より重いよ」

 そんな言葉を冷たく微笑んだ唇で投げて、久保田は背中を向けて歩き始める。
 けれど、橘にはその言葉の意味がわからなかった。
 橘は音楽室の鍵を、久保田に借りた事などない。だから久保田と話す時にそんなたとえを使われる覚えないし、使われてもわからない。
 だが、橘ではない他の誰かが久保田の言葉に返事をした。

 「すまない…、誠人…」

 そう答えた聞き覚えのある声を聞いて橘がハッとして視線を暗がりに向けると、そこから現れた人物が、暗がりの中に帰ろうとしている久保田とすれ違う。だが、言葉をかわしながらも二人はお互いの顔を見ようとはしなかった…。
 久保田は暗がりの中に消え…、久保田と入れ替わるように現れた人物は暗がりを払うように額にかかった髪を軽く右手で払う。そして、その場に立ち尽くしている橘に歩み寄ると、暗がりを払った右手を橘の頬に向かって振り下ろした。

 パァァァーーーンッ!!!!

 振り下ろされた平手が、派手な音を立てて橘の頬を打つ。
 すると、久保田が言ったように軽蔑されるのも殴られるのも覚悟の上、だから絶対に何も後悔はしない。だから殴られてもこんな痛みはなんでもないと…、そう思っていたはずなのに頬と胸に鋭い痛みが走った。
 「この…、大バカ者め…っ」
 「・・・・・・会長」
 「俺がこんな事をして、喜ぶとでも思っているのかっ!」
 「いいえ…」
 「だったら、それがわかっていながら、なぜこんな真似をしたっ!!」
 「・・・・・・」
 「答えろっ、橘っ!」
 「嫌です、答えたくありません」
 「・・・っ」
 公私問わず…、橘が松本に逆らう事は珍しい。そしていつものように上手くはぐらかす事をせず、ハッキリと答えたくないと言う事も珍しかった。
 そんな橘の様子を見た松本は少し戸惑ったような表情をした後、ゆっくりと手を伸ばして自分が叩いたせいで赤くなった頬を撫でる。だが、橘は何も答えずに目の前にいる松本ではなく、足元の黒いアスファルトを見つめた。
 「お前がここまでしなくてはならなかった理由があるなら、訳があるなら頼むから言ってくれ」
 「お断りします」
 「遥…」
 「ずるいですね…。いつもは頼んでも呼んでくださらないのに、こんな時ばかり…」
 「・・・・・・・」

 「ふふ…、そんな顔をしないでください。僕は別に、貴方を困らせたくて言った訳じゃありませんから…」

 そろそろ…、本気を出した時任が男達を片付ける頃だろう…。
 そんな風に考えながら、橘は目の前で困った顔をしている松本を見て微笑む。
 自分の想いを確認するように…。
 けれど、松本に向かって深く頭を下げながら、橘が言ったのはその想いとは逆の言葉だった。
 「今回の事は貴方とは何も関係がありません…、僕が僕のためにしたことです」
 「違うっ、そうじゃない。お前がこんな事をしたのは俺のせいなんだろう?!」
 「今日限りで、僕は副会長を辞任します。そして…、久保田君達と同じように僕達もこれで終わりにしましょう…」
 「・・・・・それは何の冗談だ」
 「冗談ではなく、本気ですよ」
 「もしかして、俺の事が嫌いになったのか?」
 「僕のせいでこんな所まで来て頂いてご迷惑をおかけして…、久保田君に音楽室の鍵よりも重い借りまで作らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした…」
 「そんな事はなんでもないっ、どうでもいいから俺の質問に答えろっ!! 橘っ!!」
 松本はそう叫んだが、橘は松本ではなく男達を倒した時任と表通りを挟んで向かい合う。今回の件を時任がどこまで知ったのかはわからないが、少なくとも襲撃の首謀者が橘であることだけは理解している様子だった。
 倒れ伏した男達の間に一人で立つ時任は、真っ直ぐ橘の方を見ている。
 だから、久保田がすでに立ち去ってしまっている事も知っているに違いない。
 だが、いなくなった久保田の後を追おうとはしていなかった…。
 「心配なさらなくても、もう何も企んでませんし何もしません…。だから、貴方もお帰りください」
 橘はそう言うと時任が来るのを待たず、自分から表通りに向かって足を踏み出す。自分のした事が過ちだとわかっていても、あやまるつもりも後悔するつもりもないが、だからこそ逃げ出すつもりもなかった。
 罪は過ちは…、贖わなければならない。
 けれど松本の手が肩に伸びてきて、それを止めた。
 「今回の件についての責任を取るつもりなら、何も気づかなかった俺も同罪だ」
 「違いますっ、本当に貴方には何も関係ありません」
 「いいや…」
 「会長っ!」
 「あの日、誠人から借りた鍵を握りしめた時から俺は決めていた…」
 「それは久保田君が言っていた鍵…、のことですか?」
 「そうだ…。あの鍵が必要だったのは公務ではなく私用だったから、職員室では借りなかった」
 「公務ということは鍵は高校ではなく…、中学の…」
 「あぁ、中学の音楽室の鍵だ」
 「・・・・・・」

 「もしも、この鍵でお前を手に入れる事ができたら…、何があっても何が起こっても離さない…。あの日、あの瞬間に俺はそう決めていた」

 中学の音楽室…。
 そこは橘が、松本隆之という存在を始めて認識した場所。
 けれど、松本は鍵を手に入れる前に橘の存在を知っていた…。
 それはどういう意味なのか…、何を意味するのか…と、そう考えかけて橘はさっき殴られた頬を右の手のひらで覆う。すると、さっきよりも殴られた頬がズキズキと痛んできて、いつも浮かべている作り物の微笑みが消えた顔をしかめる…。
 こんな事が事実のはずはない…。
 こんな事があるはずはない…、絶対に…。
 だが、そんな橘の想いを包み込むように、頬を覆った橘の手を松本の手が上からそっと握りしめた。
 「恋愛は先に好きになった方が負けだという…。だから、今まで本当の事をお前に話さなかった…。それは何もかも話して、手の内をさらして負ける訳にはいかなかったからだ…、お前を俺に縛り付けておくために…」
 「だったら、最初からそんな必要はありませんでしたよ…。僕は始めて会った日から、貴方に勝った事などありませんから…」
 「いや、ずっと負けてばかりなのは、お前ではなく俺の方だった」
 「一体、何を根拠にそんな事を?」
 「自分が負けだと思う根拠なら、ちゃんとあるさ…」
 「隆之?」
 「・・・・・俺は音楽室で始めて言葉を交わした日よりも、ずっと前からお前の事だけを見て、お前の事だけを考えていた…。だからお前の噂を耳にした時、誠人に頼んで事実かどうかを調べさせ。それが事実だとわかると、鍵を借りて音楽室に乗り込んだ」
 「・・・・・・・貴方がそんな」
 「嫉妬に狂ったバカな男の話だが、それが事実だ。だから…、頼むから別れるなどと、哀しい事は言わないでくれ…」

 「隆之…」
 
 赤くなった頬を押さえた手に…、その手を握りしめた手に暖かい涙が伝い落ちる。
 でも、それは哀しい涙ではなかった…。
 想いを絆を信じたいと思うほど…、信じられなくなって…、
 けれど、今、感じている暖かさだけは疑いたくない、ずっと信じていたい…。
 橘は涙を拭わずに頬から押さえていた手を離すと、上から握りしめてくる松本の手を手の向きを変えて強く握りしめた。
 「今から、僕は時任君の所へ行って来ます。ですが、貴方は来ないでください…」
 「どうしても、一人で行くつもりか?」
 「ええ…、どんな理由があっても、これは僕が一人でした事です」
 「・・・・・」
 「ですが、どうかこのまま…、ここで目をそらさずに見ていてください…。貴方を信じられずに過ち犯した…、愚かな僕を…」
 「橘」

 「そうしたら、僕はここに貴方のそばに戻ってきますから…」

 橘がそう言うと松本は深く頷いて、握りしめていた手を離す。
 すると、橘の唇にいつもとは違う雰囲気の…、穏やかで優しい本当の微笑みが浮かぶ。その微笑みはいつものように艶やかではなかったけれど、見ると思わず微笑み返したくなる…、そんな微笑みだった。
 橘は表通りに向かって足を踏み出すと、路地に立ったまま動かない時任の方をみる。どうやら、時任は松本と二人でいるのを見て話が終わるまで待ってくれていたようだった。
 だが、二人が話し終わった今も時任は歩き出さない。それはもしかしたら橘が逃げ出さずに自分の足で、表通りを渡って路地まで歩いてくるのを待っているのかもしれなかった。

 「本当に…、貴方には敵いませんね…」

 罠を仕掛けて陥れて追い詰めて、自分が優位に立っている気分になっていたが、本当は初めから優位になど立っていなかったのかもしれない。じっと自分の方を見つめてくる決して揺るがない強い意思を秘めた瞳を見つめ返しながら、橘はそう呟いて穏やかに瞳を閉じた。

 


 
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