禁止令.1




 チュン、チュンチュン・・・・・・・。

 わずかにブラインドから漏れる光が、薄暗い寝室の床を照らしている。
 けれど、窓からスズメの泣き声が聞こえてきても、ベッドですやすやと幸せそうに眠っている人物、時任稔は目を覚まさなかった。
 時任は一枚のタオルケットを身体に巻きつけていて、なぜかベッドの中央ではなく極端に左側に寄って寝ている。その不自然な寝方と一人分開いた空間を見ていると、今はベッドにいないもう一人の人物を思い起こさせた。
 そうしている内に、枕元にあった目覚まし時計が起きる時間を知らせたが、時任は時計に手を伸ばすよりも先に横に開いた空間に手を伸ばす。けれど、その伸ばした手には何も当たらず、すでに冷たくなった白いシーツをただ撫でただけだった。
 
 「ふぁあぁ〜…、くぼちゃん…?」

 時任は同じベッドに寝ていたはずの人物の名前をあくびをしながら呼ぶと、目覚ましを止めて軽く両目をこすりながら起き上がる。その仕草も声も、まだ目覚めたばかりで寝ぼけているせいか年齢よりも幼かった。
 まだ半分くらいしか開いていない瞳のまま、いつもの習慣で寝室を出て玄関に向かうと、時任は郵便受けに来ていた朝刊の新聞を取る。そしてそれを持って今度はリビングに行くと、ソファーに座ってテレビを見ながらのほほんとセッタを吸っている久保田に渡した。
 「久保ちゃん…、新聞〜」
 「サンキュ」
 「う〜…、まだなんか眠…っ」
 「そう言えば、お前が寝たのって四時過ぎくらいだったもんねぇ」
 「・・・・・・・」
 「時任?」
 せっかく目覚まし時計で目を覚ました時任だったが、まだ三時間しか眠っていなかったため、新聞を渡した後にフラフラとソファーに近づくと久保田の膝を枕にしてゴロリと横になる。そして、あっという間に寝息を立ててすやすやと眠り始めた。
 本当なら新聞を渡した次はパンをトースターで焼かなくてはならないのだが、どうやら今日はそうすることは不可能のようである。だが、久保田はテレビの前に投げっぱなしになってるゲーム機を見てから、次に気持ち良さそうに眠る時任を起こそうとはせずにその寝顔を見て穏やかに微笑んだ。
 早くコーヒーメーカーをセットして、それからパンを焼いて…、二人で私立荒磯高等学校の制服に着替えなくてはならないのに…、
 久保田の微笑みのように穏やかな日差しの差し込むリビングには、朝の騒がしさも忙しさもなくゆっくりとした空気だけが流れている。そして、それと同じようにゆっくりと久保田のくわえているセッタから煙が立ち昇っていた…。
 伸ばされた久保田の手が優しく時任の柔らかい髪を撫でて…、リビングに立ちこめるセッタの煙の向こうの朝日の差し込む窓に向けられた瞳がまぶしそうに細められる。すると、そんな久保田の気配と撫でてくる手の優しさを感じたのか、時任は寝ぼけた声で「くぼちゃん…」と呼んだ。
 その声を聞いた久保田は小さく笑うと吸っていたセッタを手に取って、落ちそうになっている灰を灰皿で落とす。それから、登校時間が近づいても眠ったままでいる時任の手を握って離れないように指をからめた…。

 「このまま二人でガッコも公務もサボって眠ってたら…、桂木ちゃんに怒られるかもね…」

 そう言いながらも、久保田は時任の寝顔を見つめて微笑んだままでいる。そして、穏やかすぎるくらい穏やかに過ぎて行く時間とともに、いつもよりも濃くセッタの匂いが辺りに満ちていっていた。
 けれど、それでも時計がコチコチと音を立て…、着実に時間が過ぎて…、
 針がいつもマンションを出る時間を差した瞬間に、なぜか眠っていた時任がいきなり咳込みながらガバッと起き上がる。そしてソファーに置いてあったクッションを、久保田の顔面に向かって投げつけた。

 「がぁあぁぁぁっ!!! ケムイっ、クサいっ!! 窒息死するっっ!!!」

 時任はそう叫ぶと、勢い良く走ってベランダへと続く窓を開ける。そして窓の外の新鮮な空気を深呼吸して吸い込んで、それから荒い息を吐きながらまた室内の方を向いた。
 けれど、窓を開けてもリビングはまだセッタの煙で満ちていて、部屋の中にいる久保田はまるで霧の中にいるように見える。しかし、そんな状態でも吸っている久保田はそのことに気づいていないらしく、クッションを投げつけられても怒らずにぼんやりとした表情で時任の方を見ていた。
 「ん〜? ケムイって言われても、コンロ使ってないし別に火事にはなってないみたいだけど?」
 「コンロじゃねぇっ!タバコだっ、タバコっ!!」
 「タバコ?」
 「げっ! 灰皿が吸殻で山盛んなってんじゃねぇかっ!!」
 「そう? 別にいつもくらいで山盛りってほどにも見えないし?」
 「だーかーらっ、今だけじゃなくていつも山盛りなんだよっ!!」
 「うーん…、けど、コレって山盛りっていうより大盛り?」
 
 「…って、山盛りでも大盛りでも、どっちでも同じだっつーのっっ!!!」

 いつから吸っていたのかはわからないが、灰皿の中にはリビングに満ちている煙に似合った量の吸殻が入れられている。そして、久保田もそれと同じ量だけセッタの煙を口から肺の中に吸い込んだということだった。
 時任はまだ手に持っていたセッタを吸おうとしている久保田の手から、それを奪い取ると吸殻であふれている灰皿に押し付けて消火する。すると久保田はポケットから新しいセッタを取り出して口にくわえようしたので、時任はムッとしてそれをまた奪い取ってポキッと半分に折った。
 「吸うなっ、くわえんなっ、火をつけんなっ!!!」
 「あ、そういえばもう登校時間だっけ?」
 「そうじゃなくてっ、タバコ吸うの禁止っ!!」
 「リビングで?」
 「っていうかっ、ウチでも外でもどこでも禁止っ!!!」
 「確かにリビングを煙だらけにしたのは悪かったけど、どこでもってのはないんでない?」
 「それでも俺様が禁止っつったら、禁止っ!!」
 「イヤ」
 「タバコ吸ってたら、ケムイばっかじゃなくてガンになんだぞっ!!」
 「ふーん、そう」
 「くーぼーちゃんっ!」

 「別にガンになろうとなるまいと、それは俺の勝手でしょ?」

 そう平然とした顔で言った久保田の言葉を聞いた瞬間、時任の頭の中で何かがブチッと切れる音がする。するとムッとしてしたのがムカムカになって、時任はさっき投げたクッションで久保田の顔面を何度も叩いた。
 それから、ポケットの中に入ってた残りのセッタを奪い取って、グチャグチャに丸めてゴミ箱の中に放り込むと…、最後に一発だけ脇腹に蹴りを入れる。だが、それでも久保田は無抵抗にされるままになっていて、そのことにまたムカっとした時任は寝室に戻って制服に着替えると久保田を置いて学校に行くために玄関に向かった。

 「ぜっったいに禁煙させてやるっ!!! 覚えてやがれっ!!!」

 覚えてやがれと言いたいのは、セッタを捨てられて蹴りを入れられた久保田の方なのだが、時任はそう叫ぶとバーンッと大きな音を立ててドアを閉める。けれど、リビングに取り残された久保田はまだソファーに座ったままだった。
 久保田は蹴られた脇腹を抑えると、目の前の灰皿をぼんやりと眺める。そして小さく息を吐くと、時任に折れられたタバコを真っ直ぐに伸ばしてくわえて火をつけた。

 「禁煙…、ねぇ?」

 今まで禁煙に挑戦したことはないが、それは禁煙できないからではなく、ただ単にするつもりがまったくないせいである。久保田はソファーから立ち上がってリビングを出ると学校に行くために制服に着替えたが、制服のポケットにはやはりライターが入っていた。
 禁煙しろと時任が言い出したのは始めてのことじゃないし、今回も言ってるだけだろうと久保田は思っていたが…、
 実はこれが時任との禁煙をめぐる戦いの始まりだった。











 「くっそぉっ!! なんかまだ喉がイガイガするし、朝メシ食いっぱぐれて腹減ったしマジでムカつくっ!!」

 時任はそう叫びながら購買で買ったパンを持って、ドスドスと廊下を歩いていつもの屋上ではなく生徒会室に向かっている。いつもなら昼は久保田と一緒なのだが、今日は朝からムカムカする出来事があったので、どうしてもそんな気分になれなかった。
 生徒会室のドアをガラガラとドアを開けて勢い良く閉めると、中にいた桂木や相浦達が入ってきた時任の方を見る。だが、時任のかなり不機嫌そうな顔を見た相浦と室田は弁当を食べながら冷汗をかいて視線をそらせた。
 「巻き込まれたくなかったら、時任と目を合わせるなよ、室田」
 「あぁ…」
 ぼそぼそと相浦と室田はそんなことを呟き合っていたが、それは時任が不機嫌になっている場合、それはかなりの確率で久保田がらみだからである。しかも、そのほとんどが犬も食わないという感じのことだった。
 だが、そんな二人の思いもむなしく、近くにいた桂木は平然とした様子で何かあったのかと時任に話しかける。すると、時任はドカッと自分の使っているイスに座って、購買で買ってきた焼きそばパンをバクバクとヤケ食いのような勢いで食べてから口を開いた。
 「なにかあったって…、べっつになにもねぇよっ!!」
 「なら、どうしてそんな顔してんのよ?」
 「うっせぇっ、もともとこーいうカオなだけだろっ!」
 「そうだとしても、ムカムカしてる原因は久保田君なんでしょ?」
 「・・・・・・・・」
 「何か悩みがあるなら相談に乗るわよ。ただし、イチャイチャしてるだけの犬も食わない夫婦ゲンカなら、あたしが聞くまでもないでしょうけど?」
 「だっ、誰と誰が夫婦だっっっ!!!」
 「…で、一体何があったの?」
 
 「違うっつってんのにっ、で…っ、だけでさらっと流すなよっ!!」

 思い切り否定したかった夫婦を流されてしまった時任だったが、今度はコロッケパンをばくばくと食べてから、朝の出来事を久保田の膝を枕してい眠っていたことを飛ばして桂木に話した。
 朝、起きたらリビングが煙でいっぱいだったことと、それが珍しいことではないこと…。
 それから、久保田がガンになっても構わないと思っているということ…。
 そんなことを桂木に話しているとなんとなくムカムカというよりも、少しずつ寂しくなっていく気がして…、時任は途中で口をつむぐとパンと一緒に買っていたコーヒー牛乳を飲んで小さく息を吐いた。
 確かに久保田の言う通り、マンションの部屋で吸うことは一緒に住んでいるのでやめろと言う権利はあるのかもしれない…。けれど、他の場所で吸うのをダメだという権利はないのかもしれなかった。

 「そーいや…、一緒に暮してっけど、マンションだって久保ちゃんのだもんな…」

 そんな寂しそうな呟きが時任の口から漏れると、聞いていた桂木は同じように小さく息を吐くと眉間に皺を寄せる。こういう問題は一緒に暮している当人同士で話し合って解決した方がいいのかもしれないが、いくら話し合ってもかなりのヘビースモーカーである久保田が禁煙するとは思えなかった。
 それに、タバコを吸わないで禁煙した方がいいと思っているのは時任だけではない。実は桂木も久保田がタバコを吸っている所を見るたびに、なんとか禁煙させたいと思っていたのだった。
 「そう…、わかったわっ」
 「はぁ? わかったってなにがだよ?」
 「久保田君を禁煙させれば、すべては丸く収まるってことがよっ」
 「させればって、それができねぇから困ってんだろっ」
 「確かに一人じゃムリかもしれないけど…、全員で協力すればなんとかなるかもしれないわよ?」
 「全員って…、まさかっ」

 「そう、そのまさかよっ! 今日から執行部全員で久保田君がタバコを吸うのを阻止するのよっ!!」

 誰もが思いもしなかったことを桂木がぐっと拳を握りしめて言うと、相浦が食べようとしていたから揚げをポトリ床に落とし、室田が器用に玉子焼きを喉に詰まらせる。だが、その近くにいた松原だけは動じずに、すでに弁当を食べ終えてのんびりとお茶をすすっていた。
 「タバコは百害あって一利無しです」
 「松原の言う通りよっ。だから、全員で断固として久保田君の喫煙を阻止すること!」
 「け、けど、阻止ってどうやるんだよ?」
 「ふふふ…、それは今から考えるわ。だからアンタも一緒に考えるのよっ、相浦っ」
 「き、喫煙室を作ってそこだけにするとか…」

 「却下っ! 中途半端じゃ禁煙にならないでしょっ!」

 相浦はどうにかやめさせようとして言葉を探したが、かなりやる気になっている桂木を止められるような言葉は見つからない。なんとなく嫌な予感ばかりが浮かんできたが、相浦は室田と顔を見合わせてため息をついた。
 その頃、久保田は時任の来ない屋上でぼんやりと流れていく白い雲を眺めながら、いつものようにセッタを吹かしていたが…、

 まだ、そんなことが執行部内で決まった事を知らなかった。




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