君を想うキモチをココロで語ろう.8
身体中が痛むだけじゃなくて、胸の奥もズキズキと痛んで…。
久保田にあんな風に抱かれたことが、苦しくて哀しかった。
だから久保田に、痛い気持ちや哀しい想いを伝えるつもりだった。
好きだからどうしても伝えたいと思っていた。
けれど時任はそれを伝えることができないまま、久保田の背中に背負われて自分達の住むマンションへと向かっている。
あんなことがあったというのに、久保田は何事もなかったかのように平然としていた。
「…久保ちゃん」
「どしたの?」
「・・・・・・なんでもない」
「そう」
久保田の肩に自分の額を押し付けながら、時任は唇を噛みしめて何かに耐えるようにじっとしている。なにかショックを受けている気がしているのに、それが何なのかはっきりわからなくて、胸の奥から込み上げてくる不安を押し殺すことだけで今は精一杯だった。
自分を傷つけて平然としている久保田を、許せないと思っていたが…。
それ以上に大丈夫とも何とも言ってくれないことが…、哀しくてたまらなくて…。
だから殴ってわからせてやりたかったのに…、殴ってしまったら終わりのような気がして…。
どうしても振り上げた腕を振り下ろすことができなかった。
・・・・・・・終わりが恐くて何もできなかった。
こんな風に久保田の背中に背負われるのは好きだったが、今日はなぜか久保田の背中から感じる暖かさが切なくて視界が滲んでくる。時任は久保田の背中に揺られながら、色んなことがあったショックと疲れから、いつの間にかそのまま眠ってしまっていた。
ユラユラとゆりかごに揺られるように久保田の背中に揺られながら…。
「久保ちゃ…」
時任は眠っている時も、夢の中でも久保田を呼んでいたが、やはり久保田は何も答えずに黙々とマンションへの道を歩いている。
こうやって近くに…、誰よりもそばにいるはずなのに、時任は久保田を遠く感じていた。
外からスズメの鳴く声がして、窓にかけられているブラインドから室内に朝日が差し込んでいる。
しばらくゴソゴソと身じろぎしていたが、シーツの感触にハッとして時任は目を覚ました。
「あれ…、ここってウチ?」
ベッドから起き上がって辺りを見回したが、やはり自分の住んでいるマンションに間違いない。
どうやら時任が眠ってしまったので、久保田がベッドまで運んでくれたらしかった。
時任はほっとしたように小さく息を吐くと、ベッドから起き上がろうとしたがやはり昨日の痛みが残っていて思うようには動けない。
身体の痛みと一緒に昨日のことも思い出されたが、それを振り切るように時任はベッドから自分の足で起き上がった。
「起きたの?」
「…うん」
時任がリビングに行くと、久保田が制服を着て立っていた。
それを見た時任がハッとして時計を見ると、もう学校に行かなくては遅刻するくらいの時間になっている。もうすでに朝食を食べている時間はなさそうだった。
時任は慌てて寝室に戻ると、制服に着替えようとする。
だが、急いで服を脱いで着替えようとしている時任の手を、リビングから追ってきた久保田の手が止めた。
「な、なにすんだよっ。早く着替えねぇと遅刻しちまうだろっ」
「そんな身体で行ったら倒れるよ?」
「・・・・・・・」
「今日は休みなね」
今日は学校を休めという久保田の言葉を聞いた瞬間、時任は久保田の胸倉を掴み上げていた。
じっと下から鋭い瞳で久保田を睨みつけたが、やはり久保田の表情は変わらない。
時任は久保田を掴んでいる手に更に力を込めると、反対側の手で思いっきり久保田の頬を殴りつける。するとその衝撃で、久保田のかけていた眼鏡が外れて床に落ちた。
眼鏡が床に当たった音が、やけに大きく時任の耳に響いてくる。
久保田の頬は殴られて赤くなっていた。
「忘れたフリすんなら、全部忘れやがれっ! ハンパなコトすんじゃねぇよっ!!」
「・・・・・・・・」
久保田の顔を下から見上げながら時任がそう言うと、久保田の瞳がすぅっと細くなった。
だが、その表情から感情を読み取ることができない。
時任はギリリと歯を噛みしめると、もう一回久保田の頬を殴った。
「言いたいコトあるなら言えよっ! なんで黙ってんだよっ!!」
「・・・・・・・・」
「こんなのはさ、こんなのってさ…、痛てぇだけじゃん…。痛てぇばっかで何もわかんねぇよ…」
「・・・・・・時任」
睨みつけて大声で怒鳴りつけながら、次第に時任の手と声が震えてくる。
昨日のことを忘れたようなフリをしていたくせに、今日になって思い出したように身体のことを言ってくる久保田が許せなかった。
忘れたフリをするなら、ずっと忘れたフリをして欲しかったのに…。
そうすれば身体の痛みが消えたら忘れていつも通りに戻れるかもしれなかったのに…。
久保田はそうしなかった。
痛くて苦しくて…、哀しかったのに…。
それが少しも久保田に伝わっていないと感じた時任は、胸の中がすうっと乾いていくのを感じた。
「もう行けよ、学校遅れる…」
声がかすれそうになったが、やっとの思いで時任がそれだけ言う。
すると久保田は肩を震わせながら俯いている時任を残したまま、学校へと出かけていった。
「なんで俺ら…、こんなんなってんだよ…」
一人部屋に取り残された時任は、久保田の匂いの染み付いているベッドで眠る気になれず、リビングのソファの上に寝転がった。
けれどそこにもやはり久保田のセッタの匂いが染み付いている。
時任は深いため息をつくと、近くに置いてあったクッションを抱きしめた。
「もう…、わけわかんねぇよ…」
自分も久保田が好きで、久保田もそう思ってくれているはずだった。
一緒にいたくて、どうしてもそばにいたくて…、だから結婚したはずだった。
けれど、今は不安だけが胸の中にあって、哀しみと痛みが心を苦しくさせている。
結婚しても、何も変わらずここで暮らして…。
抱きしめ合って、キスして…。
これからも、そんな日々が続くと思っていた。
あの日、誓った言葉のように…、死が二人を分かつまで…。
なのにもう、心がこんなにもすれ違ってわからなくなってしまっている。
時任は久保田のことがわからなくて、自分を好きでいてくれてるかどうかすらわからなくなって、痛む身体と心で哀しみだけを感じていた。
「好き…、大好き…」
誰もいない部屋でそう呟くと、時任はテレビの横に飾られている写真を見つめる。
それは二人の結婚式の時に松本が撮ったもので、二人で写真立てを買いにいって飾ったものだった。 写真の中の久保田も時任も、とてもいい表情をしている。
この写真の中には、ちゃんとその時のキモチが写っていた。
幸せそうに笑っている自分の顔を見た時任は、テレビの横まで歩いて行って写真立てを見えないように伏せる。
今は、あの時の自分を見たくなかった。
久保田を想っている…、あの時の自分の姿を…。
「なんか…、もうダメ…」
目を閉じると、泣きたくもないのに目じりから涙が零れ落ちる。
昼が来て夕方になっても時任は涙をぬぐう事もせずに、冷たい床の上に座って声も立てずに止まらない涙に頬を濡らしていた。
時任が泣きつかれて眠っていると、ふと、部屋に誰かの足音がしているのに気づいた。
この部屋に自分以外の誰かがいるとすれば、それは久保田以外にあり得ない。
泣きすぎてまぶたが腫れてしまっていたが、時任は目をこすりながらゆっくりと起き上がった。
キッチンからカチャカチャと音が響いていたので、そちらの方を見ると久保田が夕食を作っているのが見える。今日はカレーの匂いがしなかったので、もしかしたらチャーハンでも作っているのかもしれなかった。
「…久保ちゃん?」
時任が少しかすれてしまっている声が久保田を呼ぶ。
すると久保田は、夕食の準備をそのままにして時任のそばまで歩いてきた。
「もうじき晩飯できるから、もうちょっと待っててくれる? それまで今日の分のノートは取ってきてあるから、それでも見てなね」
「・・・・・・」
久保田はそう言って、自分の鞄からノートを取り出すと時任に手渡す。
そのノートは普段あまり使われることがないので、新品みたいに綺麗だった。
キッチンに戻っていく久保田の後ろ姿を見送ってから時任がノートを開くと、そこにはちゃんと今日の授業の内容が書いてある。それは黒板に書かれた内容だけではなく、久保田が書き足したと思われる説明までついていた。
「…明日は学校行く」
ノートと教科書を見比べて勉強しながら、時任は久保田に向かってそう言う。
だが、久保田はそれには返事をしなかった。
「また…、何も答えてくんねぇの?」
そう言いながら、時任が黙ってしまった久保田の方を向くと、久保田も時任の方を向いていた。
けれどその瞳は冷ややかで、少しも暖かさなど感じられない。
時任は冷たい瞳に見つめられて、思わず両腕で自分を抱きしめる。
そんな時任を見ながら、久保田は口の端を吊り上げて形だけの笑みをつくった。
「明日もノート取って来てあげるから、学校なんて行かなくていいっしょ?」
「えっ?」
「もう行かなくていいから、学校」
「な、なに言ってんだよ?」
「ココから出なくていいよ。これからずっと…、ドコにも行かなくていいから…」
これからずっと…、この部屋で…。
そう言われた時任は強く両腕で自分を抱きしめたまま、表情を凍り付かせる。
久保田の瞳の冷たさに凍えながら、そのまましばらく動くことができなかった。
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