結婚の条件.8
久保田が帰った後、時任はしばらくその場から動かずに、ぎゅっと拳を握りしめていた。
そうやって、唇を噛みしめて今までのことを思い返しながら、自分の気持ちと想い、そしてこれからやらなくてはならないことをじっと考える。
久保田はおそらくこれから何か行動を起こすだろう。
だから、じっと自分の殻に閉じこもってじっといているわけにはいかない。
戻るにしても、戻らないにしても、もう一度、久保田の前に立たなくてはならなかった。
自分を真っ直ぐに見つめてきた久保田を見て、時任はそう思ったのである。
(とにかく、ココから出るっ)
そう決めた時任は、余裕の表情を浮かべている橘に向き直る。そんな時任を見た橘は、やはりいつものように微笑を浮かべていた。
「婚姻届こっちに渡せよ。もう用済みだろ?」
「いいえ。いるのはこれからです」
「…渡せ」
「後悔してるんですか? ここに来たのも、サインしたのも貴方の意思です。僕は貴方に何も強要はしてません。貴方は久保田君から逃げたいのでしょう? だったら、まだまだこれからです」
「久保ちゃんの所に行く」
「なぜです?」
「俺は…、俺は久保ちゃんのコト裏切りたかったワケじゃねぇんだっ!!」
時任はそう叫んでから、ハッとしたように目を少し見開いた。
言葉にしてみて始めて自分のしたことが、ここまで来てくれた久保田に対する裏切りだということに気づいからである。
逃げて逃げて、逃げてばかりいて、少しも久保田の方など見ようともしなかった。
橘の隣に名前なんか書いて、それで一体何をしようとしたのだろう?
時任は抱きしめてくれていた久保田の腕の感触を確かめるように、自分の腕を手で撫でる。
優しくて暖かい感触。
大丈夫だから、平気だからと久保田はそう言った。
けれどこの裏切りが許されるとは思わない。
時任は哀しそうに少し目を伏せてから、再び橘の方を見た。
「恐くてここまで逃げてきて、久保ちゃんのこと裏切って…。だから、もう元には戻れないかもしんない。けど、もう一回だけでもいいから、久保ちゃんそばに行きたい」
「許されなくても、ですか?」
「それでも行くしかねぇじゃんか…。俺の居場所も、キモチも久保ちゃんのそばにしかねぇし、そこにしか何もないから…」
時任は久保田を想うあまりに嫉妬にかられる自分のことを嫌いになりながらも、久保田のそばにしか何もないと言い切る。
苦しくても哀しくても、そばにいたいと願ってしまうから。
どうしても離れたくないと心が泣いてしまうから、行かなくてはならなかった。
そんな気持ちに決着をつけるために。
けれど、久保田の所に行きたがっている時任を前にした橘は、首を左右に振った。
「行かせるわけには行きません。僕にも都合というのがありますし、それに貴方のことも手放したくありませんからね」
「ウソばっかつくなっ!俺のこと好きでもなんでもないくせにっ!!」
「疑うなら、証明してみせましょうか? 僕に抱かれてくれるなら、久保田君のことを忘れさせてあげますよ」
橘はそう言いながら手を伸ばして時任の腕を捕らえると、その身体を強引に抱き寄せる。
時任は橘の腕から逃れようともがいていたが、力に差がありすぎるせいか逃れることができなかった。
「は、放せっ!!」
「つれませんね。婚姻届さえだせば僕らは夫婦なのに」
「そんなものっ、破いてやるっ!」
「そんなことはさせませんよ、時任君」
「うっ…!!」
どうにかして逃げ出そうともがく時任のわき腹に、橘が拳を叩き込む。
すると時任の身体が大きく揺れて、橘の腕の中に倒れ込んだ。
昨日から何も食べていないことも影響があるに違いないが、時任が手も足もでないほど、外見に似合わず橘は強かったのである。
「手荒にしてすいません」
そう言って気を失った時任を抱き上げると、橘はゆっくりと部屋を出て行った。
すでに午前一時を過ぎていたが、松本はまだ寝ないで机に向かっていた。
参考書を開いてノートにペンを走らせていたが、それは特に今日やらなくてはならないものではない。だが、なんとなく気になることがあって、寝付けないのでこうして勉強などしているのであった。
「どうしたものか…」
今日の橘と久保田の様子を見ていた松本は、橘があんなことを言った元々の原因は自分にあると思っている。
松本は大きなため息をつくと、ペンでカツカツと机を叩いた。
「何、悩んでるの? 松本」
「うわぁぁっ!!」
この部屋には誰もいないはずなのに、すぐ耳元で声がした。
松本が驚きのあまり叫んでから振り返ると、そこにはなぜかここにいないはずの人物が立っている。松本は胸を軽く押さえて、その人物を怒鳴りつけた。
「な、何をしてるっ!? 誠人!!」
「ちょっとね」
「ちょっとって何だ?!」
「さて、なんだろうねぇ?」
ここに久保田がいることを不審に思った松本が周囲を見回すと、部屋の窓が一つ開いていることに気づいた。だが、あの窓は夕方松本が自分で閉めた窓である。
「…どうやって入った?」
そう問い掛ける松本に、久保田は軽く肩をすくめて見せた。
いつもと態度が少しも変わらないように見える久保田だったが、目だけがそれを見事に裏切っている。松本はペンを机に置くとため息をついて久保田を見た。
「橘の件なら、俺は関係ない」
「本当に?」
「…本当だ」
冷汗をかきつつ松本がそう言うと、久保田はゆっくりと目を細めながら松本を見る。
その視線のあまりの鋭さに、松本は小さく身体を震わせた。
昨日よりももっと久保田が怒っている。
おそらく、それは九十パーセントくらいの確率で橘が原因だった。
「何があったかは、想像くらいついてるでしょ?」
「何の話だ?」
関わりたくなくてそう松本がとぼけると、久保田は薄く笑ってポケットから出したタバコに火をつける。その仕草は高校生とは思えないほど手馴れていた。
「ウチの猫がおたくの副会長に拉致られちゃってるんだけど?」
「橘に時任がか?」
「そう」
橘の作戦にまんまと乗って、時任は婚姻届にサインしてしまった。
時任が逃げた理由を知らない久保田は、なぜ時任がそんなサインをしてしまったのかわからない。もしかしたら本当に橘と結婚する気なのかもしれないと思ったりもしたが、それでも久保田は時任を取り戻したかった。
取り戻しても、また自分の腕の中から逃げてしまうかもしれないというのに…。
そんな自分自身に苦笑しながら、久保田はくわえているタバコの端を噛み締める。
どこに行くのも時任の自由で、自分は止める権利なんてないと思っていたが、そんなのはただの綺麗ごとでしかなかった。
時任が自分のことを好きでも、そうではなくても気持ちは変わらない。
何があっても、何が起こっても、時任のそばにいたかった。
そのしなやかで暖かい身体を抱きしめていたかった。
自分のエゴで時任をあの部屋に閉じ込めてしまうことになっても、決して放したくなどない。
久保田は松本に近づくと、その顎に手をかけた。
「ねぇ、松本」
「は、放せっ」
「俺と橘、どっちと結婚したい?」
そう言って松本の顔を覗き込んでいる久保田は、暗い瞳をして微笑んでいる。
松本は背筋をゾクッと震わせると、ぎこちなく久保田から視線をそらせた。
「なんの話だ?冗談はたいがいにしろっ」
「冗談っぽく聞こえる?」
「…俺は結婚などしない」
「誰とも?」
「・・・・・・」
「ふーん、なるほどね。まっ、結婚が認められたっていっても、世間の風も家族の目も厳しいしねぇ」
何かを納得したようにそう言うと、久保田は松本の前に紙を差し出した。
そして空欄になっているサインの部分を指し示すと、
「ここにサインしてくれる? それと印鑑もね」
と、言う。
けれど、この紙に久保田のサインは書かれていなかった。
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