結婚の条件.9
翌朝。
まだ起きるには少々早い時間帯に、久保田は再び橘の家へと赴いていた。
けれど今度はベランダからではなく、堂々と玄関の前に立っている。
久保田はここに来た誰もがそうするのと同じように、ボタンを押して呼び鈴を鳴らした。
『…はい』
早い時間なので、誰かが家にいるとしても何度か鳴らさなくてはならないだろうと思われたが、運良くインターフォンにすぐ人が出た。
しかも、さらに運が良いことにそれは橘本人だったのである。
「オハヨウゴザイマス。朝早くからスイマセンね」
棒読みのセリフを久保田が言うと、インターフォンの向こうからため息が聞こえた。
何をどう思ってのため息かはわからなかったが、
『すぐに開けますから、待っていてください』
と、橘は眠気の少しも感じられない口調でそう言う。
久保田は昨日から一睡もしていないせいか、小さく欠伸をした。
実は、昨日からマンションに戻っていないのである。
「そーいえば、こういうのは久しぶりだなぁ」
そんな風に久保田が呟いたのには、ちゃんとした理由があった。
前はマンションに帰らないなどということはざらにあったが、時任と暮らすようになってからはそんなことはまったく無くなっていたからである。
そのことに今更のように気づいた久保田は、今は誰もいない自分の隣に向かって微笑みかけた。そこにいるばすの、自分の一番大切なヒトに向かって…。
以前は一人でいたはずなのに、今は一人ではいられない。
あの部屋に一人では戻れなかった。
生活感などまるで感じられない、何もない部屋。
久保田が住んでいたのはそんな部屋だったはずなのに、時任一人がいることで随分と変わった。本当にあっという間に…。
カップも皿も茶碗も二つになって、ほとんど空だった冷蔵庫に食糧が二人分入るようになった。
そして、おはよう、ただいまと言って、自分がいることを挨拶して知らせるようにもなった。
『久保ちゃん』
名前を呼んで呼ばれて、抱きしめて抱きしめられて、キスしてキスされて。
気づかないうちに声が匂いがその存在が、身体にココロに染みていく。
いつの間にか、そばにいないことがこんなにも不自然なほどに深く染みついてしまった存在を手放せるはずなどなかった。
「時任…」
そう、久保田が呟くと同時に目の前のドアが開いた。
久保田はドアを開けて出てきた橘に冷ややかな笑み向ける。
すると橘は、余裕を見せ付けるかのように優雅に微笑んでみせた。
「ずいぶんと早いお越しですね」
「待たせちゃ悪いと思ってね」
「そんなお気遣いは無用ですよ」
一見、にこやかに話しているように見えるが、二人の間の張り詰めた空気がそれを否定している。久保田と橘は、朝の冷たい爽やかな空気の中で再び対峙していた。
けれど、どちらの形勢が有利なのかはまだわからない。
そんな中で、
「時任君はまだ寝てます」
と、言って最初に口を開いたのは橘だった。
「ふーんそう?」
時任のことだというのに、なぜか興味無さそうに久保田がそう言うのを聞くと、橘は挑発するようにさらに笑みを深くした。
「昨日、ムリさせてしまいましたからゆっくり寝かせてあげたいんです。ですから、ここに時任君は連れて来れません」
「それ、どういう意味?」
「言った通りの意味ですよ。また信じないつもりですか? 認めたくないのはわかりますが、いいかげん現実を見つめたらどうです?」
橘は久保田に向かって、平然と時任を抱いたと言い放った。
事実を確認することはできないが、そうする時間が十分にあったことは確かである。
だが、久保田は橘の発言を聞いても少しも動じてはいない。
そんな久保田を見た橘は、珍しく表情を曇らせた。
「誰に抱かれようと構わないとでも言うつもりですか、久保田君」
そう責めるように橘が言うと、久保田は俯いてゆっくりと目蓋を閉じる。
けれど、少しして開かれた瞳には憎しみも怒りも浮かんでいない。
その瞳を見た橘は、わずかに息を呑んだようだった。
久保田は自嘲するように笑みを浮かべると、橘の問いに答えるべく口を開いた。
「もし、それが本当だとしても…」
「だとしても、なんです?」
「それをアンタの口からは聞きたくないなぁ」
「・・・・・・」
「ウソでも本当でも、俺が聞きたいのは時任の言葉だけ。だから、時任の口からしか聞きたくないよ、何もね」
「貴方は…」
橘は何かを言いかけたが、その続きを言わないまま黙って久保田を見つめた。
すると久保田は、複雑そうな顔をしている橘の前に一枚の紙とメモ用紙を差し出す。
紙の方は紛れもなく、久保田が松本にサインさせたものだった。
「残念だけどアンタの思い通りにはいかないよ、副会長。ここに来てるのはホントに俺一人だけ、ガッカリした?」
「何をおっしゃってるのか意味がわかりませんが」
「ココに松本連れてきたらたぶん言うだろうなぁ。『時任を帰してやれ、俺がここにいるから』ってさ。まっ、普通に考えれば松本を人質に取るのが手っ取り早いから、俺がそうするの期待しちゃってたんだろうけど?」
「…僕が貴方に会長を連れてこさせるために、時任君を連れてきたとでも?」
「松本にヤキモチ焼かせて結婚を承諾させるのが狙いだったんだよねぇ?」
そこまで久保田が言うと、橘は軽く肩をすくめて見せてから久保田から紙とメモ用紙を受け取った。けれど橘がその紙を見ようとした瞬間、久保田はその紙の上に手を乗せる。
これでは何が書いてあるのか見えない。
橘が久保田の方を見ると、久保田は冷笑を浮かべている。
けれど橘は動じた様子もなく、自分のしたことを素直に認めた。
「僕は松本会長に結婚を断わられたんですが、やはりあきらめ切れませんでした。それで、貴方がたを利用したんです」
時任に結婚を持ちかけて噂を流し、それを松本の耳に入れた。
けれどそれだけでは松本を動かすことができなかったので、久保田を怒らせて、わざわざ自分の身を危険にさらし、その上で時任に婚姻届けにサインさせた。
松本に自分が橘との結婚を断わったせいでこうなったと思わせるために。
責任感の強い松本が事態をどうにかしようと動くのが狙いだったと、橘は言った。
「悪いとは思いますが、後悔はしてません」
橘がそう言い切ると、久保田はなぜかクスッと小さく笑う。
不審に思った橘がわずかに眉を寄せると、その視線の先で久保田の方も目を細めて橘の方を見ていた。
嫌な予感がして橘が一歩後ずさると、久保田が一歩前に出る。
橘の背中に玄関のドアが当たった。
「く、久保田君」
「なーんてね。始めの動機はそうかも知れないけど、それだけじゃないよね?」
「何の話です?」
「松本がダメなら、時任を手に入れようなんて、虫のいいコト考えてたんじゃないの?」
「そんなのは貴方の妄想にすぎません」
「そうかなぁ? サインまでさせて時任追い詰めて、そこまでした理由は? ここまで巻き込む必要があったとは思えないケド?」
「理由は…」
橘が口ごもると、久保田はゆっくりと紙の上に置いた手を避ける。
すると、そこに見えたのは婚姻届ではなく、離婚届だった。
「これはどういうことです?!」
驚いて橘がそう叫ぶと、久保田はそんな橘の反応を楽しんでいるかのように、笑みを浮かべながらポケットからセッタを取り出して火を付ける。
そして深く煙を吸い込んで吐き出すと、
「婚姻届は持ってないんだよねぇ。売っちゃったから」
と、のんびりとした口調で言った。
婚姻届を売ったという久保田に、橘は眉をひそめる。
だが、久保田はそんな橘をあざ笑うかのように、さらにとんでもないことを口にした。
「日本の国籍欲しいってヒト、多いからさ。そういうヒトに売っちゃったんだよねぇ。だから、たぶん今日中には松本のサイン入りの婚姻届が市役所に提出されちゃうと思うケド?」
「貴方はなんてことを!」
「ホント、とばっちり食ってかわいそうだなぁ、松本」
「・・・・・・・・」
「それは一応、松本の結婚相手の連絡先と、念のための離婚届。早く行かないと、間に合わないかもね」
久保田は松本に対して罪悪感など微塵も感じていない。
改めて久保田の恐さを知った橘は、
「こちらには時任君の婚姻届があるんですよ?」
と、最後の切り札を口にする。
けれど、久保田はやはり口元に笑みを浮かべていた。
「じゃあさ、婚姻届見せてくれる? それと時任もココに連れてきてほしいんだけど?」
「時任君は寝てるとさっき言いましたし、婚姻届も昨日見たのではありませんか?」
「ウソはいけないなぁ、副会長。時任はココにはもういないし、婚姻届も時任が持っていったからないでしょ?」
久保田がそう言うと、橘が驚いたように目を見開く。
その表情は、久保田が言ったことが本当だということを物語っていた。
実はすでに時任は、自力でココを脱出していたのである。
おそらくそのせいで、橘はこんな早い時間に起きていたに違いなかった。
「時任は、助けが来るのおとなしく待ってるようなタマじゃないし、なめられていいようにされて黙ってるようなヤツでもないしね」
「…ここにいないと知ってて来たというわけですか?」
「そーいうこと。やったことの報いは受けてもらおうって親切心」
「呑気に復讐なんて余裕ですね。時任君がここからどこに行ったのかわからないというのに」
「あまり見くびらないでもらいたいなぁ。逃がしたりするはずないでしょ?」
「何もかもお見通しだと?」
皮肉を込めて橘がそう言うと、久保田は橘の腹に向かって拳を一発叩き込む。
すると橘は呼吸困難を起こしたらしく、うめくことさえできずに前のめりになった。
「とりあえず、時間ないから今はここまで。後は後日ってことでよろしく、副会長」
久保田はそう言い残すと、橘に背を向けて歩き出した。
…時任を探すために。
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