結婚の条件.10
夜が明けて朝が来て、陽の光が明るく辺りを照らしていたが、未だ暗闇の中にいるかのような陰鬱な影が時任の顔に落ちていた。
行くべき場所、帰るべき場所は一つしかないのに、その道のりを歩く足取りは重くて、時任は時々立ち止まっては自分の足元を見つめる。そうすると、アスファルトの上に落ちているのは一人分の影だけで、隣にあるはずの影は今はなかった。
けれど、こんな風に一人で歩いているのは、逃げてしまった自分のせいで誰のせいでもない。
「自業自得…だよな、やっぱさ」
嫌な感触の残る首筋に手を当てて、時任はぽつりとそう呟く。
そこには、それとわかる鬱血の跡がいくつも散っていた。
時任は思い出したくもないのに昨日のことを思い出してしまい、吐き気を感じて口元を押さえる。
久保田がベランダから暗闇に消えた後、婚姻届を返すように橘に迫ると、当身を喰らわされて不覚にも気を失ってしまったのだった。
『…くぼちゃん』
そう名前を呼んだのは寝ぼけていたからで。
自分にキスしているのは久保田だと時任は信じていた。
だが、勘違いしてキスに応えている内に、いつものキスと感覚が違うのにハッと気づいて目を見開く。
すると目の前で橘が微笑んでいた。
『つい夢中になって…、たくさん付けてしまいました』
そう言いいながら首筋から鎖骨に向かって、その跡をたどるように橘の指が動くのを、時任は信じられない気持ちで見つめる。橘は時任が動かないのを了解と取ったのか、時任が履いているジーパンのチャックに手を伸ばした。
チャリッという金具の音の次に、チャックを開ける音が室内に響く。
その音に我に返った時任は、渾身の力を振り絞って橘の身体を跳ね除けた。
これ以上、久保田じゃない誰かに身体を触られたくなくて、がむしゃらに暴れて、そこら中にある物を橘に投げつける。橘は腕でガードしながらそんな時任をなだめようとしていたが、時任は橘を鋭い瞳で睨みつけた。
前は油断したが、もう二度とあんな真似をさせるわけにはいかない。
時任は、投げた物に当たって割れた窓ガラスの破片を手に握っていた。
『その破片を捨ててください。手から血が…』
ガラスに傷つけられて時任の手に血が滲んでいるのを見て、橘が慌ててそう言う。
握っている部分に破片が食い込んでいたが、痛みなどまったく感じていないかのように平然とした顔で、時任は腕をすうっと上げてそれを橘に突きつけた。
『婚姻届を出せ』
普段からは想像もつかないような、低くく冷たい声が時任の口から漏れる。
声と同じか、それ以上に冷たい瞳が橘を捕らえていた。
『そんな危ないものは捨ててください。僕は貴方を傷つけたいわけでは…』
『黙れ』
『時任君』
『ホンキになった俺のコト止められんのは、この世に立った一人だけしかいねぇ。だから、てめぇなんかじゃ役不足だっつってんだよ』
『…やはり久保田君の所に戻るつもりですか?』
『当たり前だ』
『他の男の痕跡を残した身体で? 未遂ですが、果たして久保田君は貴方の言うことを信じるでしょうか?』
橘にそう言われて、時任は一瞬息を止めた。
久保田は大丈夫だと言ってくれたが、これがばれたら会ったとしても話すら聞いてくれないかもしれない。そう思うと心臓の鼓動が自然に早くなって胸が苦しくなる。
時任はギリッと歯を食いしばると、さらに力を込めてガラスの破片を握りしめた。
『信じてくんなくても、それでも行くしかねぇし、何があってもそれだけは変わらない。だから、もうこれ以上邪魔すんじゃねぇよ、橘』
そう言い切った時任に迷いはなかったが、だからといって胸の苦しさがなくなったりはしない。
この苦しみと痛みも、久保田を想う心が感じていることだから…。
時任が何かに耐えるような瞳で橘を見据えると、橘は張り詰めた緊張の糸を解くように静かに息を吐いてから、持っていた婚姻届を取り出して時任の前にかざした。
『久保田君に拒絶されたら、これを持って僕の所に戻ってきてください。待ってますから』
真顔でそう言った橘に返事することなく婚姻届を受け取ると、時任は顔をしかめて、持っていた破片を床に投げ捨てる。破片には血がこびり付いていて、時任の手からも血が流れていた。
『とにかく、早く手当てをしなくては…』
『俺にさわんなっ!!』
手当てしようと伸ばしてきた橘の手を叩き落すと、時任は素早く身をかがめて拳を繰り出す。
その動きがあまりに早かったので、さすがの橘も完全に避けることができず、時任の拳が軽く頬をかすった。
『ちぃっ、はずしたかっ!』
『お待ちなさい、時任君っ!』
『誰が待つかよ!』
橘が体勢を立て直す前にその横を通過すると、時任はドアを開けて走り出した。
待てと言われて待つバカはいない。
こうして時任は婚姻届を握りしめて、橘の家を脱出したのだった。
それから、真っ直ぐマンションに向かって歩いて来たのだが、その歩みはマンションに近づくにつれて遅くなってきている。
会いたくて会いたくて、ここまで歩いて来て、でも近づくと恐くて足がすくんでしまう。
行く場所も、帰る場所もそこしかないのに、足がいうことをきかない。
「帰らなきゃ…」
時任はさっきから何度もそう呟いていた。
ガラスで傷つけた手は何も手当てをしないままにされていたが、時任はそんなことなど忘れてしまったかのように気になどしていない。
傷は思ったよりも深いようで、血はまだ完全には止まっていなかった。
時任が痛いのは手などではなく、胸のずっと奥。
痛くて泣きたいはずなのに、痛すぎて泣くことすらできない。
一歩、また一歩と歩き続けて、やっとマンションの部屋のドアの前まで来た時には、もう完全に夜は明けてしまっていた。
スズメの声が辺りから聞こえていて、周囲からは車の音や人の声もし始めている。
けれど時任は、ドアの前で立ちすくんだままだった。
実は衝動的に家を飛び出してしまったため、鍵を持ってきていない。
このドアを開けて部屋に入るには、中にいる誰かに開けてもらわなくてはならなかった。
…ピンポーン。
時任はぎゅっと目を閉じて、ドアの横についているチャイムを鳴らす。
ピンポーン。
けれど何度鳴らしても、誰かが出てくるような気配はなかった。
久保田は家にいないのか、それともいても出ないのかはわからない。
閉じたままのドアの前で、時任は哀しそうに俯いた。
「やっぱダメなのかな…」
閉じられたまま開かないドアを見て、部屋に入ることを、久保田のそばにいることを拒まれたような気がした。時任にとって帰る場所はここしかないのに、ドアがそれを拒んでいる。
ゆっくりとドアに寄りかかると、時任は冷たいドアに額をくっ付けた。
「久保ちゃん…」
一番会いたくて、一番好きな人の名前を呼んで軽くドアを叩いたがやはり中からの応えはない。
けれど時任は、久保田の名前を何度も呼びながらドアを叩き続けた。
ふさがりかけていた傷口が開いたのか、ドアには血の跡がついている。
なのに何度も何度も叩いても、叩き続けても…、ドアは開かなかった。
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