結婚の条件.11




 横を流れていく街の風景や、朝錬に行くために学校へ登校する生徒達を見る余裕などなく、久保田誠人は自分のマンションに向かって自転車を走らせていた。
 この自転車は久保田の所有物ではなく、道端に置かれていたものだが、そんなことなど気にしている余裕はない。橘の家を出てからまだそれほどたってはいなかったが、事は一刻を争うような状況なのである。ずっと全力疾走といってもいい程の速度で自転車を漕いでいるため呼吸が苦しくなってきていたが、それでも速度を緩めるわけにはいかなかった。
 「あれ、久保田じゃないか?」
 「あ、ホントだ。久保田っ、何やってんだ!?」
 同じ荒磯の生徒から声をかけられたりもしたが、まったく余裕のない久保田は返事どころか、それをチラリと見る余裕すらなくしている。
 橘は時任がどこに行ったのかわからないと言っていたが、久保田は時任がマンションに戻っていることを訳もなく確信していた。
 時任の気持ちとか想いとか、そういうものを感じるよりも先に久保田の中で呼びかける何かがそう告げている。それはもしかしたら、お互いを引き寄せる目に見えない引力のようなものなのかもしれなかった。
 「…時任、俺らの距離ってこんなに遠かった?」
 苦しい息をしながら久保田はそう呟く。
 自転車を走らせながら、過ぎていく一瞬に目眩がした。
 いつも隣にいて、一番近くにいると思っていたのに、今はこんなにも距離が遠い。
 すれ違っている間に、その姿さえ見失っていた。

 誰よりもその存在を感じていたかったのに。

 時任がそうしたいと言うなら、それを止める権利などないと思っていた。
 時任は時任という一人の人間だから、自分のことは自分で決めるぺきで、それに自分は干渉してはならないと…。
 けれどそれは、ただ自分の醜いエゴを隠したかっただけの綺麗事に過ぎなくて、気づかずに時任のことを突き放してしまっていた。
 
 …自分の手で。
 
 やっとの思いでマンションにたどり着くと、久保田は自転車から降りて階段を駆け上がった。
 自分の確信が外れていないことを願いながら、一段、また一段と上る。
 そうして、やっと二人の部屋がある最上階まで上り切った久保田は、ハッとしたように目を見開いた。
 部屋の前にうずくまっている人物を見つけたからである。
 「…久保ちゃん」
 時任は膝を抱えて、うつろな瞳でドアを見上げていた。
 手には怪我をしていて、その手で叩いたらしく、ドアには赤い血の跡がいくつもついている。
 その光景を見た久保田は、痛そうな顔をして唇を噛みしめた。
 時任をこんなに痛めつけたのは、他でもない自分だと感じたからである。
 久保田は驚かせないようにゆっくりと時任に歩み寄ると、そっと時任の頬に手を伸ばした。
 「…時任」
 たが、時任は久保田が来たことにまだ気づいていなかった。
 もうこのドアは一生開かないような気がして、途方に暮れて、哀しくなって、苦しくなって、時任の心が凍りつきかけている。
 けれども、何か暖かいモノが頬に当たったのを感じて、時任はピクッと身体を震わせた。
 「・・・・・・っ!」
 頬に当たっている感触は紛れも無く人の手で、その暖かな感触には覚えがある。
 恐る恐る自分に当たっている暖かな手を見た時任は、一瞬身体を硬直させた後、哀しみに顔を歪めて傍に立っている久保田の顔を見つめた。
  「く、ぼ…ちゃん…」
 まるで何年もその名を呼んでいなかったかのように、時任が久保田の名を呼ぶ。
 迷子の子どものような瞳で見つめてくる時任から哀しみが伝わってくるのに耐えられなくなって、久保田は時任の腕をひっぱって鍵を開けて玄関へと入っていった。
 「あっ…」
 時任、はそんな久保田の唐突な行動についてゆけず転びかける。
 すると久保田は、時任の身体を素早く抱き上げてリビングへと向かった。
 けれどその間久保田は無言だったため、その沈黙を拒絶されていると取った時任は、なぜ黙ってるのかと問いかける気力すらなくしていた。
 久保田はとにかく傷の手当てをしようと思い、表情を無くしている時任をソファーの上に座らせると、戸棚から救急箱を取り出して時任の手の手当てをし始める。
 傷は神経までは到達していないものの、かなり深かった。
 消毒して傷口を綺麗にして、薬をつけて包帯を巻く久保田の手を時任はじっと見つめている。
 久保田は手当てをし終えると、ソファーに座っている時任の正面に立った。
 これから自分がしようとしていることに自嘲しながらも、それをやらずにはいられない。
 耳障りな橘の声が聞こえた気がして、久保田は顔をしかめた。
 「時任」
 久保田が名前を呼ぶと、時任がハッとして俯いていた顔をあげる。
 だが、久保田がどこか怖い、暗い瞳をしていたので、時任は返事をするのを躊躇していた。
 けれど、このままこうしているわけにはいかない。
 時任がぎゅっと胸の辺りを押さえて何か喋ろうとした時、それより早く久保田が口を開いた。
 「服脱いでくれる?」
 「・・・・・・・」
 「脱げるよね? 時任」
 「そ、それは…」
 「脱ぎなさい」
 有無を言わさぬ口調でそう言われて、時任が着ているシャツに手をかける。
 覚悟を決めて時任がシャツを脱ぎ捨てると、橘に付けられた赤い鬱血の跡が久保田の目にさらされた。
 時任はそのことに耐えられなくて、跡を手で隠そうとする。
 だが、久保田は手を伸ばしてそれを防いだ。
 「久保ちゃ…」
 「ずいぶん、つけられちゃったね」
 時任が誰かに触れられた証拠である鮮やかな跡を見た久保田は、冷たい瞳でそれを見つめながら、その跡を一つ一つたどるように指を時任の肌に這わせ始める。
 ある程度予想はしていたが、やはり事実を目の前にすると嫉妬で気が狂いそうだった。
 愛しい大切な身体に肌に、他の男の痕跡が残っているのが許せなくて、久保田は衝動的に時任の首筋に軽く唇を落とした後、その場所に噛み付く。
 すると時任は、小さく悲鳴を上げた。
 「あっ、痛っ!!」
 時任の悲鳴を聞いても久保田はやめようとはせず、血が滲んでくるのではないかと思われるほど噛んでから、やっと首筋から顔を離した。けれども、それだけでは終わらず、久保田は鬱血の跡をたどるように口付けながら、その肌に噛み傷をつける。
 時任は痛さに顔を歪めながらも、やめてくれとは言わない。
 噛み付かれた跡よりも、心の方がジクジクと痛んでいて、その痛みに声が詰まって喋れなかった。
 そうしている内に、時任の頬にポロポロと涙がこぼれ始める。
 橘とはなんでもなくて、自分が好きなのは久保田だけだってそう言いたいのに、こんな跡をつけた身体ではとても言えなかった。
 そんな時任に気づいた久保田は、動きを止めて時任の顔を見上げる。
 時任は何か言いたそうな瞳をして、声をあげることもできずに泣いていた。
 声にもならない哀しみが涙となって、時任の頬を伝っている。
 久保田は時任の痛みを感じて、嫉妬に駆られて時任を傷つけたことを後悔した。
 「…時任」
 久保田は時任の顔を両手で優しく包むと、その目蓋にそっと口付ける。
 すると時任はかすれた声で苦しそうに、
 「ゴメン…久保ちゃん…」
と、言って俯いた。
 久保田から逃げて裏切って、身体にこんな跡までつけられた、そんな自分が許せない。
 そう思うのに、久保田に会いたくて恋しくて、この部屋に戻ってきてしまった。

 許されるはずなんかないのに…。

 唇に口付けようとした久保田の唇を拒むと、時任は小さく頭を振ってきつく瞳を閉じる。
 時任は何かに耐えるように俯いて唇を噛みしめがら、ゆっくりと口を開いた。
 「俺はずっと久保ちゃんが誰かに話かけたりとか、抱きつかれたりとか、そんなコトですっげー嫉妬ばっかしてた。自分がイヤになるくらい嫉妬して、そういう自分が嫌いで。だから、そんな嫌いな自分見られたくなくて…、久保ちゃんから逃げて。でも、自分のキモチにウソつけなくて、苦しかったから婚姻届にサインした」
 そう言って時任がポケットから取り出したのは、橘から取り戻した婚姻届だった。
 そこには時任と橘の名前が書かれている。
 時任は婚姻届をぐちゃぐちゃに丸めて両手で握り込んだ。
 「久保ちゃんのコト裏切ったんだって、ちゃんとわかってる。サインして、こんな跡までつけられて…、もうダメなんだってわかってる。自分のせいだって」
 時任はそこまで言うと、顔をあげて真っ直ぐ久保田を見る。
 そして久保田がその瞳を真っ直ぐ見返すと、時任は震える手を久保田の前に差し出した。
 「俺のコト憎んでよ、久保ちゃん。絶対に忘れないくらい、絶対に記憶から消えないくらい、殺したくなるくらい憎んで…」
 嫌われて、捨てられて、忘れ去られるよりも、忘れられないくらい憎まれていた方がいい。
 なかったことにされるなら、その記憶とともに自分自身も消えてしまいたかった。
 忘れ去られるくらいなら、ここで終わりにしたかった。
 時任は久保田に捨てられることを、拒絶されることを覚悟していたが、涙に濡れた瞳をそらさずにじっと久保田を見つめ続ける。
 そんな時任の震える手を、久保田はゆっくりと自分の手で包んだ。
 「憎むなんてできない」
 「裏切った俺のコトなんか…、忘れたい?」
 「違うから、そんなんじゃないから、泣かないで時任」
 泣かないでと優しく言ってくれる声がなぜかなつかしくて、時任の瞳から新しい涙が零れ落ちてくる。
 久保田はその涙にキスすると、腕を伸ばして時任を抱きしめた。
 「俺は時任が他の誰かと結婚したいって言うするなら、時任がそれを選ぶなら、止める権利ないって思ってた。けど、時任が他のヤツと結婚するなんて、他のヤツに抱かれるなんて、許せるはずなかった。そんなこと黙って見てることなんて、できるはずなんかなかったのに…」
 「・・・・・・」
 「時任のコトこの部屋に閉じ込めて縛り付けても離したくなかった。それがホントのコトなのに、キレイごとだけ並べてた。バカみたいに何もかもわかったフリして…」
 「けど、俺が…」
 「違うよ、時任。憎まれるのは俺の方。選ぶのはお前の自由だとか言って、先に繋いでる手離したのは俺の方だから」
 「…くぼちゃん」
 「だから俺のコト憎んで、殺したいほど…。憎んでも嫌われても、俺はもう絶対に手を離したりしないし、抱きしめた腕を離したりしないから、だから、そんな俺のこと憎んでよ、時任」
 久保田はそう言って時任を抱きしめている腕に力を緩めると、哀しんでいるような、苦しんでいるような色をした瞳で時任を見つめる。すると、時任の手から握っていた婚姻届が床へとすべり落ちた。
 「好きだよ、時任。このキモチが痛みだけしか生まなくっても、哀しみにしかならなくても、それでも好きだから、ずっと好きだから」
 「くぼちゃん」
 「ココに、俺のそばにいてよ」
 「…なんか、すごく苦しい。どうしよう…、苦しいのが止まらない…」
 時任がそう言って胸を押さえて久保田の腕の中に倒れ込むと、次の瞬間、時任から激しい鳴き声が聞こえた。
 「うっ、あぁぁっ…!!」
 時任の泣き叫ぶ声が、部屋中に木霊する。
 その声を聞いていると、痛みと苦しみが部屋に満ちていくみたいだった。
 久保田は時任の身体をきつく抱きしめると、目を閉じて何度も何度も時任の名前を呼ぶ。
 すると時任も、泣きながら久保田の名前を呼んでいた。
 「時任」
 「…くぼちゃん!くぼちゃんっ!!」
 愛しくて恋しくて、抱きしめ合ってもまだ足りなくて、お互いのことを欲しがって泣き叫んで、こんなにも苦しいのにそれでも想うことをやめられない。
 体温も匂いも何もかもを身体に刻み付けても、不安と嫉妬で狂いそうになるのに。
 そんな自分のことを無様で哀れで嫌いだと思うのに、どうしてもダメだった。

 この想いを手放すことができない。

 愛しいその存在を、暖かい肌を、柔らかな唇を感じられるなら、醜いエゴに塗れてもかまわない。
 ただ好きで、大好きで、だからそばにいて抱きしめられたかった。キスしたかった。
 どうしても、そうしていたかった。
 
 まるで好きだと絶叫するように泣き叫ぶ時任の声は、止むことなく部屋中に響き続けていた。




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