結婚の条件.7




 朝になっても、昼になっても、夕方になっても時任はベッドにもぐったままだった。
 橘の車に乗ってここに連れて来られてからずっとこうしてしたが、眠っているわけではなく、うつらうつらしながらも起きている。
 眠ろうとすると脳裏に久保田が浮かんできて、胸を痛く熱くさせた。
 久保田を想うと、とめどなく涙が頬を伝ってくる。
 「…くぼちゃん」
 ここは橘の家で、名前を呼んでも絶対に返事が返って来ないと知っていながらも、時任は無意識に何度も何度も名前を呼ぶ。そんな時任の様子に橘もなすすべが無く、なんとか時任に欠席の電話させると、登校するために橘は学校へと出かけて行った。
 さすがの橘も、時任を泣き止ませることができなかったようである。
 時任はシーツを握りしめながら、自分にとって久保田の存在がどんなに大きかったかを思い知った。
 久保田に自分の方だけを見ていてほしい、自分だけを見つめていてほしいとそんな風に想ってしまう自分を嫌っているはずなのに、そう想うことをやめられない。
 たとえどんなに離れていても…。
 恋する気持ちと愛する気持ち、独占欲と欲望。
 久保田を好きでいたい、そう想う自分を好きでいたいのに、その想いが汚れていく。
 好きという気持ちには、いつだってその中に嫉妬が潜んでいた。
 「なんで…、なんでこんなになっちゃったんだろ…」
 一緒にいて、いつも傍にいて、それだけで十分なはずだったのに…。
 それなのにそれだけでは足りなくなった。

 ・・・・・好きだと、そう気づいた瞬間から。

 嫌いな自分から目をそらしてきたが、結婚の話が出てからそうすることができない。
 久保田が結婚したいとまで思った誰か。
 それは過去のことだとわかってはいたが、そんなものにまで嫉妬して、苦しんで、そんな自分がますます嫌いになる。
 時任が自分の中で渦巻く想いと葛藤していると、部屋のドアが音を立てて開かれた。
 学校を終えた橘が帰ってきたのである。
 橘はまだベッドに潜っている時任を見て、小さくため息をついた。
 「…まだ、何も食べたくありませんか?時任君」
 橘は部屋に入ると、ベッド脇にあるサイドテーブルに置かれた時任の昼食を眺める。
 昼食は朝食同様、少しも手がつけられていなかった。
 「時任君?」
 「・・・・・・・」
 自分の殻に閉じこもってしまっている時任には、とても橘と話す余裕はない。
 時任の頭の中は久保田のことで一杯だった。
 「そんなに恋しいですか? 久保田君のことが…」
 橘がそう言うと、久保田という名前に反応して時任の身体がピクッと揺れる。
 そんな時任を見た橘は、何かを考え込むように顎に手を当てた。
 「おそらく…、もうじき久保田君がここに来ます」
 「・・・・・っ」
 「自分から逃げておきながら、おとなしく久保田君の手を取りますか?」
 自分の言った言葉が、時任にどんな効果を及ぼすか知っていながら橘がそう言う。
 すると橘の予想通り、ベッドに潜っている時任から動揺が伝わってきた。
 「もし、戻りたくないなら、僕にいい考えがあります」
 「…俺は」
 「やっとベッドから出てきてくれましたね」
 「・・・・・・・」
 ベッドの毛布から顔をのぞかせた時任は、悲しそうな顔をして俯いている。
 いつも元気一杯なだけに、その姿は見ていて痛々しかった。
 頬にはさっきまで泣いていた涙の跡が残っている。
 橘はそんな時任に近づくと、その前に一枚の紙を置いた。
 「僕の名前は書いてあります。後は貴方の名前を書くだけです。これを見れば、久保田君もさすがに黙って帰るでしょう」
 「これって…」
 「そう、婚姻届です」
 橘が差し出した婚姻届けには、橘の名前がすでに書かれていた。
 ここに時任が自分で名前を書き、市役所に提出すれば結婚が成立する。
 時任は泣きはらした目で橘を見た。
 「もちろん、これはあくまでそういうフリをするだけです」
 「けど」
 「時間がないので早く決めてください。書くも書かないも、私ではなく貴方が決めることですから」
 時任はもうじきここに久保田が来ると知ってうれしかった。
 けれど、逃げ出したクセしてそんな風に思っている自分に嫌悪感を感じる。
 (…やっぱ、戻れねぇよ)
 嫌いな自分を好きになってくれなんて言えないし、久保田を恋しがって泣いている自分を久保田に見られたくない。
 時任はうつろな瞳で、目の前に置かれた婚姻届けを見つめていた。





 窓はすべて閉められていたはずなのに、なぜか頬を風が撫でる。
 時任はベッドの上で毛布に包まったまま、その風に気づいて薄っすらと目を開けた。
 さっきまで夕方だったはずなのに、辺りは暗くなってしまっている。
 どうやら、さすがに疲れた少しの間眠ってしまったらしかった。
 少し肌寒かったので時任は窓を閉めようと、ベッドから起き上がった。
 昨日から寝てばかりだったのでちょっとだけ足がふらついたが、すぐに元の感覚を取り戻して窓に向かう。開いていたのはベランダに続く窓だった。
 もしかしたら鍵が開いていて、風が強かったので開いてしまったのかもしれない。
 そう思って時任が窓を閉じると、突然背後に人の気配がした。
 「だ、誰だっ!?」
 時任は振り返ってその気配の正体を確かめようとしたが、そうすることができない。
 窓から侵入したらしい誰かから伸びてきた腕に、時任が抱きすくめられてしまったからである。
 「あっ…」
 突然のことにその腕を振り払おうとするが、その腕の暖かさを感じた瞬間、時任にはそれが誰だかわかってしまった。
 「時任」
 「…くぼ…ちゃん」
 離れていたのはたった一日なのに、その腕が声が暖かさが懐かしくてたまらない。
 大切そうに優しくぎゅっと抱きしめてくる久保田に、時任の瞳からは再び涙が溢れてくる。
 抱きしめられた瞬間に、久保田を背中に感じた瞬間に、時任は久保田を想う自分の想いが苦しいくらい胸に広がっていくのを感じた。
 「久保ちゃん…」
 「うん」
 「久保ちゃん」
 「時任」
 何度も何度も名前を呼んで、その存在が夢じゃないことを確かめる。
 久保田はちゃんとここにいて、そして時任の傍に立っていた。
 この腕は偽者なんかじやない。
 それを確認した時任は、いつも抱きしめてくれる大好きな久保田の腕に自分の手を重ねた。
 「久保ちゃん、おれは…」
 そう時任が何か言いかけた時、暗かった部屋にパッと明かりがつく。
 突然、明るくなったので、その眩しさに時任は目を細めた。
 その細めた視界にうつったのは、じっとこちらを眺めている橘だった。
 「不法侵入はそこまでにしておいて頂きますよ、久保田君」
 「心配しなくても、すぐに出てくけど?」
 「すぐに出て行ってくださってもかまいませんが、一人でどうぞ」
 久保田と橘が時任を挟んで睨み合う。
 時任は久保田の腕をぎゅっと握りしめた。
 「今回は貴方の負けですよ。僕の妻になる人を連れていかないでください」
 そう言って橘が二人の前にかざして見せたのは、橘と時任のサインと印鑑の押された婚姻届だった。
 時任はそれから目をそらすように横を向き、目をぎゅっと閉じる。
 久保田は痛いくらいに時任を抱きしめて、その髪に頬を寄せた。
 「サインは本物です。貴方にならわかるでしょう?」
 「そんな卑劣な手使って何が目的?」
 「卑劣な手を使っても、手に入れる価値があるからですよ」
 睨み合いを続けながら、橘の額には汗が滲んでいた。
 久保田は時任を守るように抱きしめながら、殺意に満ちた目を橘に向けている。
 恐怖に捕らわれそうになる自分自身を叱咤するように、橘はゆっくりと口の端を吊り上げて顔に微笑を作った。
 「この婚姻届を出されたくなければ引いてください、久保田君」
 「橘っ!!」
 橘の発言に、時任の怒声が飛んだ。
 けれど、その怒りも空しく、時任を抱きしめていた久保田の腕がゆっくりとその身体から離れていく。
 次第に感じられなくなっていくぬくもりに、時任は悲痛な顔をして唇を噛みしめた。
 「覚悟しときなよ、橘副会長」
 「貴方は私に勝てませんよ」
 やがて窓が開いて再び風が室内に入り込む。
 時任はその風を感じながら、じっとその場に立ち尽くしていた。
 どうしても、久保田の顔を見ることができなかったからである。
 けれど、そのままこの部屋を出て行くと思っていた久保田が、
 「時任。こっちを向いて」
と、時任のことを呼んだ。
 「お願いだから俺の方を見て。恐がらないで」
 「・・・・・・」
 「大丈夫だから…」
 そう言われて時任が久保田の方を向くと、久保田はこれ以上ないと言っていいほど優しい瞳で時任を見つめていた。
 その瞳は時任が逃げたことも、婚姻届にサインしたことも責めてはいない。
 時任は涙にかすれた声で久保田を呼ぶ。
 久保田はゆっくりとその声に頷き返してから、ベランダから闇へと消えた。




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