結婚の条件.6




 時任が自分の傍からいなくなること。
 あの肩にも背中にも、髪にも頬にも唇にも触れられなくなることが現実になろうとしていた。
 久保田に別れを告げた時任は、本当に久保田の前から姿を消している。
 一緒にあの部屋で暮らすようになって、始めの内は時任が部屋にいたいならいればいいし、いたくないなら出て行けばいいと久保田は思っていた。
 今まで人にも物にも執着したことがなかったので、時任と一緒に暮らすことにしたのは本当に気まぐれで、成り行きのようなものだったからである。
 しかし、気まぐれを起こした時点ですでに久保田は時任に惹かれていたのかもしれない。
 一緒に暮らすようになって、学校でも家でもいつでもどこでも一緒にいることが当たり前になり、肩を抱きしめ頬に触れ、それだけじゃ足りなくなってキスをした。
 もっともっとそばに、もっともっと近くに…。
 そうして気がつけば、まるで何もかも欲しがる子どもみたいに時任の身体に自分を刻み付けていた。
 時任に愛だとか恋だとか、そんなものを自覚したのとそうしたのとどっちが早かっただろう…。
 まるで落ちていくような、目眩に似た感覚が久保田を捕らえていた。
 「お取り込み中悪いけど、お邪魔するよ」
 なにやら真剣に話していた橘と松本のいる生徒会長室に、久保田はドアを開けて入る。
 昨日、時任が乗った車のナンバーを調べたら、それが橘家所有の車だったため、橘のいるここを訪れたのだった。
 「そろそろ来る頃だと思ってました」
 さっきとは打って変わって優雅に微笑む橘を見て、松本が眉根を寄せる。
 久保田はいつものとぼけた感じとは微妙に違う笑みを橘に向けていた。
 「時任君の居場所、知りたいですか?」
 「聞くまでもないと思うけど?」
 「聞いたところでどうにもならないですしね」
 「言うねぇ、副会長サン」
 久保田と橘の周囲の温度が気のせいが下がってきているような感じがする。
 一見、穏やかそうに見える二人だが、目だけは笑っていない。
 久保田はセッタに火をつけると、それを口にくわえた。
 「時任君は自分の意思で僕の所に来たんです。もう、時任君は貴方のところには戻りませんよ」
 「そうかもね」
 「認めるなら、もう時任君に構わないでほしいんですが?」
 「時任のことで他人に口出しされたくないなぁ」
 「貴方も私も他人です」
 「すくなくとも身体は他人じゃないつもりだけど?」
 「僕も時任君を抱いたとしたら、立場は同じですよ」
 微笑みつつも、挑戦的な橘の視線が久保田に向けられる。
 久保田は薄く笑って目を細めた。
 「仮定なんて無意味だと思わない?」
 「仮定かどうかなんて、貴方にはわからないでしょう?」
 「時任の身体にあるホクロの数、答えられたら事実だって認めてもいいけどね」
 「僕の家に一晩泊まって無傷だとでも?」
 橘がそう言った瞬間、二人の鋭い視線がお互いを射抜く。
 しかし、その視線がお互いを捕らえた瞬間、橘が表情を凍らせた。
 久保田の視線には、今、この瞬間にも橘を殺してしまいそうなくらいの殺意がこもっている。
 いつもは感情の読めない笑みを浮かべている久保田だが、今は自分の感情を隠そうとしていなかった。
 久保田は凍りついた橘の表情を見てニッと笑う。
 その笑みは恐ろしく冷たかった。
 「お宅に不法侵入することになるんで、一応連絡しとこうかと思ってさ」
 「…つまり、邪魔するなと警告しに来たわけですか?」
 「さあ?どうだろうねぇ」
 久保田は橘から視線をはずして、吸っていたタバコの灰を携帯灰皿にポンッと落とす。
 そんな久保田を見た橘は、今まで呼吸できなかったみたいに大きく息を吐いた。
 「それじゃあ、用はすんだんでこれで。どうもお邪魔サマ」
 いつものとぼけた雰囲気を身に纏うと、久保田は生徒会長室を出て行く。
 そんな久保田を、橘も松本も黙って見送ることしかできなかった。
 「僕も帰らせてもらいます」
 入り口のドアが閉じられると、橘が松本にそう言う。
 だが松本は首を横に振った。
 「これ以上はやめておけ。誠人は本気だ」
 「心配してくださってるんですか?」
 「当たり前だ」
 心配していると素直に肯定した松本に、橘は一瞬少し驚いたような顔をしたが、すぐにふっと優雅に微笑みを浮かべると、
 「貴方に僕は止められませんよ」
と言う。
 松本が考え込むように俯いてしまうと、橘は帰ることを告げて生徒会室を出て行った。
 





 「桂木ちゃん。悪いケド、俺帰るわ」
 執行部に顔を出してすぐに、久保田はそう桂木に言った。
 その表情はいつもと変わりないが、微妙に緊張した雰囲気が久保田を取り囲んでいる。
 桂木が何気なく久保田の横の空間を見ながら、
 「迎えに行くの?」
と聞くと、久保田はまぁねと言って小さく笑った。
 昨日までのことを思うとかなりの進歩なのかもしれないが、やはり二人のことが心配になったらしく、桂木はため息を付いて久保田の方を眺める。
 橘のことは別としても、バラバラになっている二人を見ているのはやはり落ち着かなかった。
 久保田と時任は二人でワンセット。
 本人達だけではなく、誰もがそういう感覚を持っていた。
 それはやはりいつも一緒にいるからだけではなく、二人でいることがあまりに自然に見えるからである。
 「決心ついたの?」
 「決心って、何が?」
 「…まあいいけどね。いい加減になさいよ、あんた達」
 「いつも面倒かけて悪いね、桂木ちゃん」
 「今日の分、明日巡回してもらうからね」
 「はいはい」
 今日は久保田と時任の当番だったが、桂木の指示で明日予定の松原と室田に交代になる。
 別に今日やっても明日やっても同じだからと、松原達からは不満の声は出なかった。
 「久保田君」
 「なに?」
 「行く前に一つだけ聞かせてくれる?」
 「俺に答えられることならね」
 「…時任君のことどう思ってるの?」
 おそらく、この学校に通っている人間なら一度は聞いてみたい質問を桂木はした。
 けれどこの質問は、ただの興味本位でされたものではない。
 それがわかっている久保田は口の端を少しあげて、
 「言葉だけじゃとても足りないから、答えてあげられない。ごめんね、桂木ちゃん」
と言って苦笑した。
 単純明快な気持ちなら、好きって言ってキスして抱きしめて、それでいいのかもしれない。
 けれど久保田は、それだけでは納まらない自分の気持ちを持て余していた。
 「それじゃあね」
 久保田はそう言い残すと帰っていく。
 そんな久保田の背中を見送る桂木は、やれやれといった風に両手を組んで伸びをした。




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