結婚の条件．5
いつもは二人でいることが自然で当たり前なのに、昨日から久保田と時任の間にある空気がどこかギスギスとしていた。
なぜ、こんなことになったのか、二人ともはっきりとした理由がわかっていない。
事の発端は、やはり久保田の結婚発言なのかもしれないが、それから事態はあらぬ方向に発展している。
時任は、ゲーム画面をじっと見つめながら、淡々とコントローラーを動かしていた。
「時任」
「なに？」
時任より先に風呂に入った久保田が、頭を拭きながら時任の傍にやってくる。
しかし、時任は久保田の方を見ようとはしなかった。
「風呂開いたよ」
「わぁった、後で入る」
二人の間の会話が必要最小限になりつつある。
普段、こういう場合は時任が怒っていて、久保田をなだめるはずなのだが、今は久保田も黙ったままだった。
二人とも話すきっかけをうしなってしまったような感じである。
久保田は時任の後ろ姿を考え込むようにじっと見つめると、その肩に手を置いた。
「邪魔だから放せっ」
時任はそう言うが、その表情は怒っているというよりも泣き出しそうにゆがんでいる。
そのことを気配で感じた久保田は、ゆっくりと時任の顔をのぞき込んだ。
「時任」
「うるさい」
時任は、自分の表情を見られないように顔を膝に埋める。
せっかく離れようと決心したのに、久保田の優しい手が自分の肩に触れてきた瞬間、それがあっさりと崩れてしまいそうになった。
嫌いだと言われても、なんとも思ってないと切り捨てられても、しがみ付いていたい。
そんな風に思ってしまう自分が嫌で、時任は顔をしかめた。
久保田はそんな時任を見て小さく息を吐く。
まるで全身で自分を拒んでいるような気がしたからだった。
「一緒に暮らすのだけじゃなくて、俺と話すのもイヤになった？」
「・・・・・・・」
「俺のコト、そんなに嫌い？」
口調は柔らかかったが、内心は穏やかじゃない。
時任の肩から手を放して、久保田はその手を反対の手で押さえた。
そうしないと、自分のエゴで縛りつけて、時任に酷いことをしてしまいそうだったからである。
自分の醜い独占欲で、時任を壊したくない。
心の中でそう言いながら、そんな風に思ってないクセに綺麗事ばかりを並べ立ててる自分に久保田は自嘲している。
時任は膝に顔を伏せているため、久保田の表情は見えていなかった。
「・・・・嫌いじゃない。嫌いになんかなれないけど、ダメなんだ」
そう言うと、時任はぎゅっと自分の膝を抱きしめる。
まるで、久保田の視線から自分を隠すみたいにそうしながら、時任は涙がこぼれそうになるのをぐっと耐えていた。
「久保ちゃんのことはキライじゃねぇけど、久保ちゃんといると自分のことキライになる。俺は自分のこと嫌いになりたくない。だから・・・・」
「だから？」
「さよなら、久保ちゃん」
時任は久保田に別れの言葉を言うと、何も持たずに玄関へ向かった。
一瞬躊躇したが久保田も玄関へと走り出す。
時任がドアを開けて外へ出ると、久保田も同じように外へ出た。
すでに夜は辺りを包んでいて、所々についている街灯と家の明かりだけが闇を照らしている。
いつも見慣れた風景なのに、今はまるで見たことも無い風景のように思えた。
二人は自分の中で渦巻いている息苦しい気持ちを抱えながら、そんな夜の街を走り出す。
まるで自分達の心の中を彷徨っているように、時任と久保田は暗闇を迷走していた。
「このままじゃ、久保ちゃんに追いつかれる」
久保田は時任よりも体力があるので、持久戦になると時任に勝ち目は無い。
どうしようかと悩んだ時任は、思いつめたように表情で自分のジーパンの右ポケットを手で探った。
そこに小さな紙切れが入ってることを知っていたからである。
ぐちゃぐちゃになっている紙切れには、携帯の番号が書かれていた。
時任は角を何個か曲がって久保田を撒くことに成功すると、公衆電話からその番号をプッシュする。
すると、聞きなれた嫌な声が受話器から聞こえてきた。
『何かありましたか、時任君』
「なんでもいいから、とにかく今すぐ来い。ただし車で」
『車でですか？』
「場所は今から言う」
命令口調で時任が場所を告げると、命令された橘は文句一つ言わずにそれを了解した。
時任は受話器を置くと、指定した場所に向かって再び走り出す。
案の定、少し離れた場所から何者かの靴音が聞こえてきた。
追いつかれたくない、けれど追いかけてくる靴音を聞くと、逃げたりなんかせずに逆にその靴音の方向へ走り出したくなる。
「久保ちゃん・・・・」
時任は苦しくなってくる胸を押さえた。
近くにいる時とは比べものにならないくらい痛んでくる心が、時任の足を止めさせようとする。
けれど時任は、それに耐えて走り続けた。
そうしてどれくらい走った頃だろうか、時任に横に一台の車がすうっと並ぶ。
時任が不審な顔をすると、車の窓が開いた。
「早く乗ってください」
「・・・・橘」
「久保田君に追いつかれてしまいますから」
そう言った橘を時任は睨みつける。
もしかしたら、橘はこうなることを見越して携帯番号なんいらないという時任に無理やり渡したのかもしれなかった。
時任はとっさに橘を呼んでしまったことを後悔したが、近づいてくる足音に気づいて車の後部座席にに乗り込む。
乗り込んでから恐る恐る窓から外を見ると、少し離れた曲がり角の辺りに久保田の姿が見えた。
「いいんですか、ほんとに？」
「・・・とっとと行けよ」
時任が窓から自分が見えないように身を屈めると、橘の指示でこの車を運転していた運転手は車を発進させる。
この車に時任が乗ってるのを知っているのか、久保田は車の後を追って走っていた。
「ごめん、久保ちゃん」
小さくなっていく久保田にあやまると、時任は一筋だけ涙を零す。
その涙を見た橘は、すうっとそれから視線をそらして小さく息を吐いた。
次の日。
時任は学校に来なかった。
理由は風邪ということになっていたが、そうではないことを橘は知っている。
学校に行く前、ベッドにもぐって出てこない時任に風邪だと電話させたのは橘だった。
「・・・今日、廊下で誠人とすれ違った」
「そうですか」
「何をした？ 誠人があんな顔してるのを、俺は始めて見たぞ」
「どうして私がしたと決めつけるんです？」
「お前以外いないからだ」
生徒会長室で、橘と松本は再び向かい合っていた。
やはりこの前から、この二人の間の空気もどことなくおかしい。
松本はその理由を知ってるような雰囲気だった。
「時任君は今、家にいますよ」
まるで松本が聞きたかったことを知っていたかのように、橘がそう言う。
すると松本は目を細めて橘を睨みつけた。
「時任は誠人のことを想ってるし、誠人も時任のことを想っている。本人達が気づいていようといまいとそれは事実だ」
「他人のことなのに良くご存知ですね」
「・・・お前も知ってるだろう？」
「さあ、どうでしょう？」
「いい加減にしないと殺されるぞ」
「そんなヘマはしません…、と言いたいところですが、僕が時任君を抱いたりしたら殺されるかもしれませんね」
「・・・・」
「まだ抱いてませんよ、今はね」
いつも柔らかい穏やかな笑みを浮かべている橘が、冷笑を浮かべている。
そんな橘に松本は哀しそうな視線を向けた。
「俺のせい、なのか…」
「なにがです？」
「橘、俺は…」
松本が続けて何か言おうとした時、生徒会長室のドアがノックもなしに開く。
ドアを開けて入ってきたのは、何者をも寄せ付けない冷たい凍りつくような空気を漂わせた久保田誠人だった。
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